スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

「死にたい」と言った先になにがあったのか

久々にスマホから書いています。

日曜日の昼下がりにポカンと時間が空いて、子供たちはそれぞれ遊びにいったりゲームしたり。

 

ぼんやりと考えていたのです。

Twitterで「死にたい」と言った先になぜ殺人があったのか。

なぜあの殺人をおかした人は人を集められたんだろうか。

 

それを防ぐため?にTwitterで「死にたい」と言えなくなったらどうなるんだろうか。

 

 その考えるなかで見えてきた、あの殺人事件の背景と困っている人たちに水際で寄り添うピアサポートの関係について、書いてみようと思います。

 

私はいま、ペアレントメンターの養成講習を受けています。

アレントメンターとは、発達障害のある子を持つ親としての立場で、同じように発達障害児の親の話を聞いたり必要な情報を共有したりする形でサポートしていくボランティアです。

 

私が受けている講習の大半は傾聴と呼ばれるスキルの習得に費やされています。

話を聞く練習です。

相槌や必要最低限の言葉を挟みながらただただ相手の話を引き出していく、それだけのために何時間も講習を受け、ロールプレイ(実演)を繰り返します。

 

なぜただ話を聴くという行為にそんなに時間をかけるのかと思われるかもしれませんが、これがやってみると本当に難しい。

実際にやってみると痛感するのですが、自分が通ってきたような道について悩んでいる人が目の前にいるとつい、こうしたらいいよと言いたくなるのです。助言をしたくなる、道を示したくなる。

 

でも、それは傾聴の場では原則NGです。

求められてない自分語りは要らないのです。

 

ロールプレイのなかで逆の立場になってみると要らないというのがよくわかります。

話している最中にそれを遮られると、とたんにその人への信頼感がグッと下がってしまうのです。講習の中なのでお互い演技なのですが、バツッと切られて自分の話をされると「この人にはもう話せない」と思うような諦めや絶望に近い感覚を持つこともありました。

 

このような傾聴のスキルを子育てに応用しているのがこのブログでもよく紹介してきたこの本です。

 

子どもが聴いてくれる話し方と子どもが話してくれる聴き方 大全

子どもが聴いてくれる話し方と子どもが話してくれる聴き方 大全

 

 

この書籍と出会ってすぐに、我が家で実践してみたことをまとめています。

 

 

このような傾聴のスキルは対人援助職の方も会得されていると思いますし、困っている人の話を聞くのプロの仕事だろうと思われる方も多いと思います。

もちろん、プロのカウンセラーさんや相談支援専門員がそこを担ってサポートする体制は必要で、その拡充は私たち障害児の親としても求めて止まないところではあります。

 

ではペアレントメンターがなぜ養成されているのか、というと、プロにはない一番の強みがあるからです。それは、ピア(同じ経験を持つ)な立場であるということ。

 

独身の保育士に「子育てしたことないくせに!」と投げつける保護者がいるという話を聴くことがありますが、同じような葛藤を支援者に向ける方も少なからずおられるそうです。障害児の親になったことがないくせに、と。

 

アレントメンター講習の中で指導してくださっているプロの支援者の方も保護者からそうぶつけられたことは何度もあるそうです。

 

もちろん口に出すのはごく一部の方だとは思いますが、そんな心理的な垣根を感じる方も少なからずいらっしゃる。垣根のないところから寄り添える、それがピアサポーターとしてのペアレントメンターの強みだと講習の中で触れられていました。

 

しかし、ピアな立場だからこその難しさがあります。

同じような保護者の話を聴くと自分の経験に引き寄せてつい助言したくてうずうずしてしまうのです。

 

だからこそ、繰り返しの講習で傾聴のスキルを磨くことを求められているのだろうなと思っています。

 

話をする側からしたら、同じ経験をしてきている人が自分の話を遮らず助言もせずただただ聴いてくれるということがときにとても大きな救いとなり、相談機関に行ってみようと重い腰をあげる気持ちを持ったり、学校と交渉していくための心の支えとなっていくのかもしれません。

 

アレントメンターの制度についてはまだまだ未整備の部分も多く、実際に価値のあるものとして継続することができていくものなのかも不透明ですが、あえてここで触れたのはその活動を紹介したり啓蒙したりするためではなく、9人を殺害した犯人のやったこととリンクしていくための布石としてです。ペアレントメンター自体の是非や現状について語りたかったわけではありませんのであしからず。

 

さて、本題に戻ります。

 

ピアな立場の人が傾聴をしてくれる、ということがなぜ障害児の親支援の場で求められているのか。

そこには、プロだけで救いきれない声が確実にあるからなのかなと思っています。

 

不安やしんどさがあってもいきなり役所の窓口や相談機関に出向いたり電話をしたりするのが難しい、抵抗がある、どうなるのかわからなくて怖い、そんな段階にいる人たちがたくさんいます。

 

講習の中で挙げられていた事例の中にも、自治体の職員が訪ねて行っても怖がって出てきてくれない方にゆっくり時間をかけてお話を聴いていったら「どこかに勝手に繋げられてしまうんじゃないか」「育て方が悪いと叱られるんじゃないか」と怖かったと話してくれた、と言うケースもありました。

そんなケースをどう埋めていくかという模索のなかのひとつが、ピアな立場の人による寄り添いなんだろうなと思っています。

 

秘密を保持してくれて、勝手にどこかに通報したりせず、自分の話を遮って説教したりダメだししたりせず、ただただ頷いてゆっくりと話を聞いてくれる人がいたら、そしてその人が自分の辛い気持ちについて「わかるよ、自分も同じだよ」と優しく言ってくれたら。

そうやって少しずつ信頼関係を築いていくこと、話をしていくことで自分が一人ではないことを感じ、苦しんでいるのが自分だけではないことを意識していく。

 

これを、支援としてやろうとしてるのがピアサポートなのかなと。

 

そしてこれを、殺人に導く道具として使ったのが、あの犯人だったんじゃないか、と思うのです。

 

長く書いたのでご理解いただけるかもしれませんが、傾聴は簡単なことではありません。ときどきナチュラルにそれができる人もいらっしゃるのですが、素人がいざやろうと思ったらかなりの技術や経験を要します。

 

その自分の経験を照らせば、信頼を寄せてもらい誘い出すまでの会話のスキルが並みではなかっただろうことは想像に難くないのです。

 

テレビで散々言われているようなネットで「死にたい」と言える場があったから起こった事件ではなくて、それを巧みに利用することで犯罪をおこしたと考える方が自然なのではないかと思うのです。

 

再発を防ぐために制限すべきは「死にたいと言うこと」でしょうか。 

「死にたい」と言う場がなくなれば、Twitterで「死にたい」という声を閉ざせば再発は防げるでしょうか。

 

私はそうは思えません。

特定の言葉を狩っても似たような言葉が使われるだけかもしれないし、そんな言葉を見つけてまた、同じようなことが繰り返されるかもしれません。

 

あの事件は、人の心に寄り添っていく技術を悪用した結果起こったこと。

安全に使えば暮らしを便利にしてくれるけれど悪用すれば人を死に至らしめる、刃物や自動車などがよく例に挙げられると思いますがそれと同じなのではないか、と思うのです。

 

同じようなツールとして、Twitterを見ることもできると思います。

 

犯罪とは全く逆の効果として、Twitterは悩める人たちにとってのある種のピアサポートとしての役割を果たしているのも事実です。

 

子育てがしんどいと言えば私もと声をかけてくれる人がいる、恵まれない生い立ちや障害や難病など、リアルではなかなか同じ悩みを抱える人には出会えないけれどネット上で声をあげるとすぐに同志が見つかる…

同じ立場で悩んでいる人がいることがわかって「自分だけじゃない」と救われたケースもたくさん見聞きしてきました。

私も、Twitterを通してたくさんの同じような境遇の親御さんと知り合い、いろいろとお話をしたりして日々の支えになっています。

 

特定の言葉を閉ざしてしまうことに端を発したさまざまな規制が、そうやって救いにも繋がっていたことへの弊害にならないことを願うばかりです。

「明日コンパスがいる」 子どものウッカリから考えた、自立していくということ。

「コンパスが明日いる」

「漢字ノートがもうない」

 

小学生がいる家庭の割と日常茶飯事な情景なのかもしれませんが、これに頭を抱えるお母さんお父さん方の声をTwitterで見かけることもよくあります。

先日も流れてきていて、それに呼応するように対応について悩むツイートも流れてきていました。

 

冒頭の発言を受けて「じゃあお母さんが用意してあげよう」ってやってあげていいのか、悩んだことのある方は多いと思います。私もその一人です。

それなりに無理をすれば慌てて買ってきてあげることはできるんですね、学校に届けてあげることもできることもある。

でも「それをやってあげていいの?」って悶々としてしまう。

 

今日は、そんな疑問について考えたことを書いてみようと思います。

 

行き着いたところから言いますが、やってあげています。

いきなりですが、我が家ではその状況が生まれたら結果としては私ができる限りの行動をとってあげることも多いです。

先日もノートがないという娘のために24時間スーパーに車を走らせましたし、昨日は図書室で借りた本を忘れたという末っ子のために出勤前に学校に寄りました。

どちらのケースも発端はそれぞれの「ノートがない」「本、忘れた」という発言です。

 

でも、それを受けて私が自ら走り回ったわけではない、そこが、私が行き着いた大きなポイントです。

 

「で、どうしようか」と言う問いかけからのステップ

「ない」「忘れた」で止まる子どもたちに尋ねます。

 

「で、どうしようか」

 

子どもたちはそれぞれ少し考えて

「今から買いに行ける?」

「仕事に行く前に持ってこれる?」

と私に問います。

 

それを受けて私はそれぞれに

「いいよ、できるよ」

と答えます。

 

その返答を受けて子どもたちが私に

「じゃあお願い」

と頼みます。

 

私は行動をとります。

 

子どもたちがそれを受けて

「ありがとう」

「助かった」

と口にします。

 

そこまでが、我が家のステップ全行程です。

「忘れた」から「お願い」までのステップが整えばやってあげてます。

逆に言えばそこまでの言語化ができなければ何をして欲しいかわかっていてもやりません。

 

同じことをやってるのに、何が違う?

結局やってるわけで、じゃあ何が違うの?と思われるかもしれません。

形式的なステップを踏んでるだけに見えるかもしれませんが、実は大きな違いがあります。

 

それは「判断したのは誰か」という部分です。

 

「忘れた」という言葉に反応して私が考えて私が判断して行動してるわけではないんですね。それだと子供にとっては「現状を口にするだけで誰かが勝手に動いてくれた」という経験になってしまう。

 

「忘れた」と気づいた後で、【どういう過程が必要】でそれを【誰に頼むか】を決めて、【具体的な言葉で依頼】して、【やってもらったことについて感謝】するところまでを自分の意志でやる、という違いです。

もちろん小さい子は全部の判断が難しいと思うので、その辺は程度に合わせてこちらがフォローを入れています。

 

 

「自立する」という言葉の意味

子育ての最終的な目標は子どもたちが【自立する】ことなのかなと思っています。

じゃあ自立するってなんだろうって考えた時

自立=【自分でなんでもできる】

って思いがちだなぁと思うんですが、そうじゃないんじゃない?と最近は思っていて。

 

自立=【自分で解決できる】

ということ、もっと言うと

 

自立=【自分で解決できる】

=【自分で解決法を考えて適切にいろんな人を頼りながら実行できる】

なのかな、と考えたりしています。

 

 

おわりに

小さい頃から忘れ物を日常的にしちゃう、その時点で多分、忘れ物なんか意識してればしないよね?っていう種類の人とは違う人種なんじゃないかと思うんですよ。

がむしゃらに努力したところで多分、同じ人種にはなれない。

 

人それぞれでできることは違ってて当たり前だし、自分の性質を自覚して人を頼れたらそれなりに生きていける。

苦手な部分を言葉たらずでも誰かが先回りしてやってくれちゃってたらいつまでも自分の苦手とは向き合えないままになっちゃって、自立には繋がらない。

 

困ったことや苦手なこと、失敗しちゃうことと、それをカバーしたりリカバリーしたりしながら生きていくことはワンセット。

 

失敗のたびに叱られて誰かになんとかしてもらって終わり、じゃなくて、対処法を自分で考えて選べるようになれば生きていくのはかなり楽になっていくんじゃないかな〜と思っています。

 

 

 今日はサムネイル画像貼るの忘れなかった(私偉い)!

タイトルに合わせてコンパス。

次男のために買った「くるんパス」結局大して使わないまま置き去りになっててイオンに売ってるやっすいコンパスを愛用してる…ぬーーー。

日常の中の「教養」〜投票の日に考えたこと

投票日の昨日は1日中雨降りで、子供たちと家に缶詰。

それぞれにゲームをしたり動画を見たり読書をしたり。

 

小1の末っ子は最近また絵本を読んでもらいたいブームがきているようで、本棚から好きな絵本を持ってきては私に読めと言う。

数日前からよしながこうたくさんの絵本ブームがきているらしく『給食番長』を博多弁バージョンで読むとものすごくウケる。こんなに喜ぶならと雨の中図書館へ続編を探しに行ったけれど残念ながら全部貸し出し中だった。

 

こんな末っ子も数週間〜数ヶ月絵本に全く興味を示さない時期もある。それは他の子も同じで。

我が家は私が言われて嫌だったからと言う理由から「本を読め」と言ったことはほぼない。私や夫が好きで買い揃えた本が所狭しと置いているだけ。

初めは居室の中に1つ大きな本棚を置いていただけだったけれど、だんだん増えて今は寝室から廊下、玄関まで大小様々な本棚に雑多に色々と詰め込んで置いてある。

 

子供たちに読ませたいと実家から持ち帰ったダレンシャンやムーミンのシリーズは未だ見向きもされず時々埃をかぶっているのでヨシヨシを撫でてあげることもある。

 

ちょっと悲しいけど、でもそんなもんだろうな、それでいいんだろうな、と思う。

時期が来たら手に取ってくれたら、ううん、手に取ることがなくても本が身近にある経験だけをしてくれたら、とも思う。

 

本に触れて馴染んで育って欲しいなぁというのはなんとなくずっとぼんやりと感じて来たことで、じゃあどう良いのかはあまりよくわかってない。

でも日常の中でふと、あ、って思うことがたまにある。

 

例えば数日前のこと。

末っ子の登校の時の服について話している時に次男

「私服の学校だから何を着て言っても良いんだよね?」と私に言う。

ピンと来た私が

「そうね、ナイルワニはダメだろうけどね」と返す。

 

この会話はある絵本の中の一節をなぞらえたもの。

ここで我が家ではプッと笑いが起こる。

 

その絵本を知らないとできない会話。

 

それを「教養」と言う言葉で表していたツイートに出会ったことがある。

 

博多で突然道路が陥没した事故が起こった時のこと。

「穴はなんでも飲み込んでくれた」と呟いた人がいた。

 

SF作家である星新一氏の「おーい でてこーい」の一節。

この小説を知ってればあれだ、とわかるし、知らなければなんの話なのかはわからないまま流れていってしまう。

 

この時のいろんな人のツイートの中に「これぞ教養」と呟いているものがあった。

 

なるほどなぁ、と。

私がなんとなく本をそばに並べて育てているのは、そういう些細な教養を少しずつでも身につけて欲しいからかもしれない。

 

落語を聴いていても背景について知っていなければ面白さがわからないことがある。

知っているから理解できること、知っているからわかる面白さ。

 

それは逆に言えば、知らなかったらわからない世界がそこにあるということかもしれない。

知らないままで流れていっていることがあるということ。

 

もちろん自分一人で何から何まで知るわけにはいかないけれど、自分に関わっていることでも知らないままいろんなことが流れていってしまう。

 

昨日の午後、子供たちを連れて投票所を訪れた帰り道「どうして大人は投票をするの?」と口にした末っ子にもわかるように、夫と二人あれこれと話す。

子供たちにとっての曽祖父母の世代ではどうだったのか、もっと前はどうだったのか、そして今どうなっているのか。どうやってそれを手に入れたのか。

 

参政権の歴史を知らなければ、今私たちが当たり前に手に入れていて子供たちが18歳になったら手にするその権利がどんな意味を持つものなのか、どれほど大切に守られるべきものなのかもわからないままかもしれない。

 

テレビや新聞や学校や読書、そして私たちを含む身の回りの大人たちから、子供たちはたくさんの自分では考えつくことのない情報を仕入れながら育っていく。

 

より良い情報に触れて欲しいと願うのと同時に、自分も含め周りの大人たちが間違った情報を与えてしまうのではないかという畏れを感じることもある。

 

自分の頭で自分の道を考えられる大人になってくれるように、自分の力で必要な情報を取りに行ける大人になれるように。そう願いながらタネをまくように子供たちと言葉を交わし本棚の本を増やしていく。

 

昨日投票所で見聞きしたこともまた、子供たちにとって一つの教養のタネになっていると良いのだけれど。

 

 

ぜったいがっこうにはいかないからね (チャーリーとローラ)

ぜったいがっこうにはいかないからね (チャーリーとローラ)

 

 「ナイルワニ」のネタが出てくる絵本。

読み聞かせの時間にもよく持っていく一冊です。

 

 

給食番長 (給食番長シリーズ)

給食番長 (給食番長シリーズ)

 

末っ子さんのお気に入り「給食番長」

内容としてはやや教訓めいてますが、実際に読み聞かせてみると面白さの方が先に立ってそんなの全然子供たちには届いてない感じで、それがまた私が好きなところでもあります。

 

 

おーいでてこーい ショートショート傑作選 (講談社青い鳥文庫)

おーいでてこーい ショートショート傑作選 (講談社青い鳥文庫)

 

 「おーい でてこーい」青い鳥文庫で出ているのだなぁ。

私が持ってるのはショートショートセレクションの中の1冊

ねらわれた星 (星新一ショートショートセレクション 1)

ねらわれた星 (星新一ショートショートセレクション 1)

 

和田誠さんのイラストが良いのです。

SNS上の愚痴に助言をしたくなってもしてはいけない、2つの理由

TwitterのTLを眺めていたら

Twitterで愚痴ってどうなるんだ」「愚痴ってないでこうすればいいのに」

的なことってよく言われるけど、っていう話題が流れてきてました。

 

うん、解決策を知ってるように感じる人にとって、時に人が漏らしている愚痴について「こうすればいいじゃない」って言いたくなったり、愚痴っても何もならないじゃないって思ったりする。

私にも過去に同じように感じたことがあったし、Twitterでついそう言ってしまったこともありました…気持ちはわかるんですよねえ…

 

でも、愚痴をこぼしてる時に「こうすればいいじゃない」が本当に必要なのかって言うと答えは否だと思うのです。

理由は2つ。

 

理由① 今ココ、じゃない

ひとつめは段階と時間の問題。

人により個人差は大きくあると思うのですが、愚痴りたくなるような問題が目の前にあるとして、今すぐそれを解決せねばという実行段階にない場合も多いと思うのです。

 

環境が実行に適してない、自分の心の整理ができてない、いろんな理由、背景。

言語化して意識していないけれどなんだか前に進めないような見えないハードルがそこにある可能性も含めて、今すぐにこの問題を解決するために一念発起しようと思えるような段階にはない状態。

 

今すぐには自力で解決できるわけではないけれど辛さを吐き出したい。

今すぐに自力で解決に挑むまでの余裕はないけれど言葉にして外に出したい。

 

そんな段階での愚痴には「こうすれば」は必要じゃないんですよね。

吐き出すだけでは解決しないこともあるだろうけれど、まだその段階には至れてない状態。そんな時にどんな案を出されても行動には移せない。実行できない自分を責める材料になってしまう可能性すらあります。

 

理由② その人はあなたじゃない

ふたつめは、ポイントのズレの問題。

 

「こうすればいい」っていうその解決策って結局はその発言をしている人にとって見える世界だけからはじき出された案に過ぎないんですよね。

その人はそれでうまくいったかもしれない。

その人から見える世界の中ではうまくいくように感じるかもしれない。

 

でも、言う相手にとっての最適解なのかどうかは誰にもわからないんです。

 

私のブログへの感想として「答えが書いてない」というコメントをたまにいただきます。うん、自分でもあまり意識してませんでしたが書いてませんね。

 

なぜかって、書けないんですよ。

私はあなたじゃないから。

 

夫婦間のことも育児のことも、私はこうした、私はこうだったということや、こういうケースもあるよね、こうかもしれないよね、ということは書けるけれど、こうすればいいですよ、は書けない。

私の答えはあくまでもその時点の私の答えでしかなくて、あなたの答えはあなたが見つけるしかないから。

 

同じように、今目の前で愚痴ってる人がいたとして、その人にとっての答えはその人にしか見つけられないんだと思うんです。

 

こうすればいいのにってどんなにあなたの頭の中で思ったとしても、それはあくまでもあなたの頭の中だけのこと。自分にはわからない相手の事情や自分が気づかない盲点も含めて、それが最適な解答とは限らないし、それが相手にとって最善策とは限らない。

そして、相手にとっての最適な解答が何なのかなんて、その人が本当に実行してやってみるまでわからないのです。

案はあくまでも案でしかなくて、その人がいろんなステップを経て自分なりの道を歩いてそこにたどり着くことが大事なんだろうなと思うのです。もしそれがあなたの想定した案だったとしても、たどり着くまでの過程が大事であって初めてその案が活きてくるんじゃないかなと。

 

助言を相手が飲まずイライラする?

もし、相手の愚痴に対して「こうすればいい」と助言して相手がそれを実行せずイライラしてしまったら。

 

それは、上の2つの理由から相手にとってその助言が必要な状況ではなかった可能性があります。つまり、タイミングや内容が相手に合わなかった。

それだけです、相手に合わなかっただけ。

でももしそれがわかっても苛立ってしまうとしたら、もしかしたらそれは相手だけの問題ではないかもしれない。

 

自分の思うように動いて欲しい、自分の案を実行して欲しい。

そんな、相手をコントロールしたいと思うような自分の欲求が先走ってしまっているのかもしれません。自分の中の問題です。

あなたが向き合う必要があるのは、相手じゃなくて「どうしても相手を変えたい」自分なのかもしれません。

 

おわりに

SNS上で愚痴を見て助言したくなったケースを想定して書いてきましたが、交友のある友達や家族から自分に向けられた愚痴についてはそう簡単にバッサリ考えるわけにいかなかったりもするなぁと思ったりします。

 

もし、家族や友人の愚痴を聞いていて自分がなんだかモヤモヤして苦しくなってきたら、それは吐き出す相手として自分が適してないんだろうというサインかもしれません。

延々と話を聞いてあげているのに一向に解決が見えない、案を出しても本人が実行に移さずイライラする。そんなケースもあると思います。

 

そんなときは聞き役を辞退して、別の場所で吐き出してもらうようにしてもらった方がお互いのためになることもある。もし聞き役を逃がしてもらえなかったら、それはそれで相手との関係が健全に保たれていないという証拠でもあるかなぁと思いますが、長くなりそうなのでそれはまた別の機会に。

お母さんは朝ごはんが作れない。

子供たちが登校するまでの時間、毎朝時計がわりに某情報番組をつけているのだけれど、今朝は「15分でおしゃれな朝ごはん」の特集。

 

画面に映るのは手早くおしゃれな朝ごはんを作れるというお母さんたち。

ご自宅に伺っての取材、朝早くに手際よくカフェで出されるようなワンプレート朝ごはんを用意するお母さん。

そして食卓にゆっくりやってきてそれを喜ぶ夫や高校生くらいの息子の姿。

 

それを観ながら

「15分で!」「何品も!」「毎朝!」と私をチラチラ見ながら呟いていたのは中1の長男。

ええ、羨ましいでしょうよ、こんな豪華な朝ごはんが毎日当たり前のようにならぶご家庭が羨ましいでしょうよ、君にはね。

 

 

Twitterでは何度か触れたことがあったけれど、我が家の朝はほぼセルフです。

理由は毎朝しっかり用意してたら私のキャパを超えたから。

子供4人分(夫が遅出の時はプラス夫の分)をそれぞれの好みやアレルギーやその日の気分に合うようなご飯を用意してあげる、というの、やってた時期もありました、頑張って。

でもしんどかった。

だから、セルフに切り替えました。自分の平穏が家族の平穏に繋がると信じて。

 

ご飯は炊いてます。

パンも買い置いてます。

常備菜やご飯のお供、納豆類、ジャムバターやヨーグルトは冷蔵庫の定位置に。

おかずを自作するのはご自由に、お母さんに余裕があれば味噌汁やおかずを作る日もあります。

 

というスタイルです。

夫は朝が早いので食べない日も多い。

小1末っ子はまだおぼつかないので私や上の子たちが手伝ってますが、上3人はそれぞれに自分の好きなように朝ごはんを用意して食べてます。

 

今朝は一昨日仕込んだおでんがまだあるので、朝イチでお鍋を温めておいたらそれぞれが好きな具を選んでご飯と食べてました。次男は納豆も追加してたかな。

私はその様子を見ながら朝のコーヒーを煎れたり洗濯したり。

 

うちの中だけを見れば割とそれで平和に回ってはいる朝ごはんの風景。

でも長男が中学に入った頃、帰ってきて台所に立つ私のそばに来てボソッと言ったことがありました。

「ねえ、よその家ではお母さんが毎朝、朝ごはんを作って並べてくれてるらしいよ」

 

あぁああそうだよね、うん、そういうお家の方が君の周りには多いよね…

 

その時にはすまぬ母ちゃんにはそれは無理な話だ…と長男と話したのですが、こうやってテレビで観るとまたやっぱり羨ましいよね、うん。

 

あれはもう生まれ持った才覚の違いだと思っておくれ子供たち。

母ちゃんは君らに、学校で一番走るのが早い子と同じものは求めない。

生徒会長になれる子と同じものも、先生から呼び出されることがないお利口な子たちと同じものも求めない。

君らは君らの持つもので頑張って生きてくれたらそれでいい。

 

それと同じだと思ってもらえまいか。

 

そうぽろっとこぼしたら次男が笑いながら

「そうだねえ、僕は●●くん(次男のクラスの女子にモテる男前で優しくて賢くて運動神経も良くて少年野球のエースで4番の絵に描いたような優等生の子)にはなれないしなぁ、しょうがないよねえ」って言ってくれた。

 

我が子たちよ、苦手なことがいろいろあるもの同士、それなりに助け合って生きていこう。きっと、それなりに素敵な未来が待っていると思うから。

 

 

きょうのごはん

きょうのごはん

 

 今からでもサムネイルに画像出るかな、加藤休ミさんの絵本のご飯は本当に美味しそうなの、大好き。

 

 

主婦休みの日とレトルトカレー

昨日、9月25日は「主婦休みの日」だったそうです。

2009年に認定された、企業の企画のようです。

主婦の元気がニッポンの元気になれば!と女性のための生活情報紙を発行するサンケイリビング新聞社では、2009年4月、日本記念日協会に「主婦休みの日」を申請し、認定されました。日本初、主婦が主役の記念日に、企業からの注目が集まり、「主婦休みの日」を切り口にした商品、イベント、サービスもますます広がりを見せています。

主婦休みの日|サンケイリビング新聞社

 それを受けてのプロモーションだったのでしょう、朝イチのぞいたTwitterのTLにセブンイレブンの「今日は「主婦の日」だから「金のカレー(レトルトパウチ商品)」はいかがですか?」というツイートが流れて来ていました。

 

うん、楽だよね、レトルトカレーね、うん。

でも正直なところ、そのツイートを見て私の脳裏をよぎったのは、これ。

 

これを受けての恐らくはエアリプだろうな、「休日でもコンビニ行ったりご飯炊いたりするくらいはするでしょう???」というツイートを見かけました。

 

ええ、そうですよね、そのくらいやりますよね、まぁ大して苦にもならないですよね、休日でもね、

自分だけのためならね!

 

さてここで、問題です。

レトルトカレー家族の夕食としてテーブルに出すためには主婦は何をするでしょうか。

 

我が家(大人2人、子供4人)でシミュレーションします。

 

レトルトカレーを買いに行きます。

②家族の好みそれぞれに合わせたレトルトカレーを購入します。

※みんな同じのでいいじゃん、と言われるかもしれませんしそれでいいご家庭も恐らくはあろうと思います。が、辛さの好みや食材の好き嫌い、アレルギー、色々な条件を考慮すると最終的には最低でも2〜3種類以上選ぶ必要が出てしまいます。そうしないとみんなで食べられない。

 

③米を研ぐ→炊飯器に入れる→スイッチを押す

 または、冷凍ご飯をチンする

 または、レンジでチンするご飯を購入する→チンする

 

④レトルトパウチカレーをそれぞれの商品の指示通りに温める

※鍋に全部放り投げて温めてしまいたくなりますが細かい指示があったりするので一応読みます。めんどくさくない限り。

 

⑤お皿、スプーン等食器類を用意します。

 

⑥ご飯をお皿によそい、カレーをかけます。

 

⑥’ ここで、副菜という概念がある場合はサラダなりおかず的なものなり付け合わせ的なものなりを用意して添える、という行動が追加されます。

 

⑦ 家族に提供する

 

⑧ 食べ終わった6人分の皿をシンクに運ぶ

 

⑨ カレーの皿を洗う(油汚れ、ベタベタする、洗剤たくさん使う)

 

⑩ 食卓を片付ける

 

レトルトカレー「のみ」を食べる、という手の抜きようでも、10工程ですね。

これを全部「誰かが」6人分やらないと家族みんなでレトルトカレーは食べられない。

 

この工程を全部自分でやるか、やらないにしろそれぞれの工程を夫や子供たちに委託するためには「やってもらうための指示」を明確に出す必要がある、それもまた、それほど楽なことではないのが正直なところです。

 

もちろん、日々の積み重ねのおかげさまで子供たちも私が作業をしていたら「今日は何?おはし?スプーン?」と自主的に手伝う姿勢を見せてくれることもあります。

でもそれだってうちの子がみんな小学生以上になったから。

もっと小さい頃はそんなお手伝いもろくに頼めず、帰りの遅い夫にも頼めず、わさわさする子供たちの相手をしながら毎日毎日ご飯を作り続けて来たんだなぁと…。

 

それぞれが満足するためのカレーを探し選ぶだけでも一苦労。

これに副菜が追加になるとまたそれぞれの好みやアレルギーを考える必要が出てくる。

自分以外の人5人分の胃袋を預かる、という重荷。

 

自分だけのためにコンビニへ行き、食べたいレトルト食品だけを買い、自分だけが食べ、自分のぶんだけ片付けるんだったらそこまで苦にはならないのです。

 

テーブルの汚れだって気にならない程度にしかならない。

コップもお皿もスプーンも1つずつだけ。これが、6人分だと全部6倍。

 

書き出してみると改めて、あぁあこういういろんなことが積み重なって毎日疲弊していくんだなぁ…と思ったりしています。

 

こんな風に書くと、嫌ならやらなきゃいいじゃないと言われてしまいそうだけれどべつにやめてしまいたいほど嫌なわけじゃない。(だからやってる)

 

ただ、本当に面倒なことを頑張ってやってるんですよってことを、ただ自分の夫にだけ知ってもらってたらそれでいいのかなぁ、ということ。

 

そして、傍目から見て「なんだよそのくらい大したことじゃないだろう」って簡単に主婦の仕事を軽く見られてしまうのはちょっと悲しいよねっていう、そんなことだったりします。

 

レトルトカレーだって、それなりに頑張ってお出ししてるんすよ。

「言っても出来ない子」が悪い?「言い方が悪い大人」が悪い?

さっき書いたエントリとも関わってくることなのかな、フォロワーの支援者さんが靴を揃えるためのフォローとして靴置き場にマーキングをしていたツイートについて、こんなことを書きました。

 

 

ツイートではぼやかして書きましたが、綺麗に並んでない子のうちの一人はうちの次男です。一時期はちゃんと置いてるな〜と思ってましたが先日見た時は盛大に下駄箱から彼のスニーカーが飛び出していました。ちょっとずれてるとかじゃなくて、彼の靴置き場にだけ時限爆弾的な何かが仕掛けられていてその爆風で飛び出してしまったんじゃないかと思うほどに、見事に下駄箱前の床に転がっていました。

 

多分休み時間ギリギリまで外で何かしら楽しいことをしていてチャイムが鳴ると同時にやばいと思ってダッシュで靴を脱いで下駄箱に投げ込んだけどうまいこと入らなかったんだな、と目に浮かぶようです。

 

そして同時に情けなくもなるんですね、恐らくは6年間、毎日のように先生や級友に言い続けられてもこれが彼の今なんだな、ということが。

 

特別支援に関わる書籍などでよく、靴を揃えるのが苦手な子のための支援として靴を置くスペースにマーキングをしたり、靴底の形のシールを貼って「ここに置く」ことを意識しやすくする、と言うハックが紹介されています。

 

次男が利用している通級指導教室の下駄箱はカラーボックスのような棚を利用しているのですが、1つの段にちょうど靴が置けるくらいの幅にテープが貼ってあります。

そして毎回次男はそこに綺麗に靴を揃えて置くことができます。

 

次男が学校の下駄箱に靴を揃えておけないのは

・視覚的にわかりづらいから

・余裕を持って靴を置く時間を取れていないから

・次の作業に気を取られやすいから

 

などが考えられます。

この条件が発動しないよう環境が整えられた通級指導教室の入り口では必ず揃えることができるのです。

 

さて、これについてあれこれ呟いていたら、フォロワーのはなびら葵さんからこんな引用RTをいただきました。

 

はなびらさんは医療現場のヒヤリハット事案について書かれているので学校の話とはすこしズレるとは思うんですが、これらツイートを読んで目から鱗が落ちたんですね。

先生たちにとって本当の目的はなんだろう、という。

 

一人一人の子供たちが自分の力で靴をきれいに揃えられるようになるのが到達点なのか

学校の靴がきれいに揃っている状態になっているのが到達点なのか

 

(ちょっと意地悪な言い方をすれば)

靴がきれいに揃っている指導の行き届いた学校、というアピールが外部に向けていつもできることが到達点なのか

 

など色々と考えてしまいますがたぶん答えはありません。

そこまで明確なゴール設定がなされているような案件ではないんだろうなと。

 

「くつをきれいにそろえましょう」

という標語が学校に貼られているのを見たことがあります。

 

「スリッパのみだれはこころのみだれ」

とトイレに書かれているのも見たことがあります。

 

でも、たぶん学校の多くの子供たちにこう聞いても明確な答えは返ってこないのです。

「なんで靴やスリッパをきれいにそろえないといけないの?」

 

たぶんだけれど先生に聞いてもスパッとは返ってこない、そこまで深く考えられていることではないんだろうと思うのです。

 

下駄箱の靴はきれいに揃っている方が良い、というある種当たり前・常識がベースにあって、それを子供たちにさせるために「下駄箱の靴はそろえて入れましょう」と「言う」と大半の子はそれでできる。

 

でも一部の子はできない(もしくはやらない)。

本当なら「言う」の段階で全児童の足並みが揃ってそこで指導が終わるはずだったのに。

 

これが、最初のツイートで娘が言っていたと言う「靴チェック係」の導入による監視体制やそれを受けての口頭の指導が続く、という現状につながっているんじゃないかなぁ、と思ったりしました。

 

残念ながらそれを6年間続けられても次男は「学校の下駄箱の靴を揃える」が定着していないことは先日わかりました。

 

先生方がそれをどう考えているのかわかりません。

全校児童に対してゴールがどこに設定されているのか、そのゴールのためにどんな取り組みがなされているのか、と言うことを掘り下げるべきなのか悩ましいのですが、忙しい先生方にとって下駄箱の靴くらい口頭で言うだけでなんとかしてほしい、と思うのもまた正直なところなんじゃないか、とか、次男も環境が整えばできるからあまり深く悩むことでもないんじゃないか、思ったりして様子を見ているところです。

 

下駄箱の靴は一つの例に過ぎませんが、学校で叱られやすい子供を持っていると(そして家でつい次男ばかり叱ってしまう自分の存在も含めて)叱られるような事例が発生した時に「誰が悪いのか」という話にお互いになりやすかったりします。

 

下駄箱にきれいに靴を揃えられない次男が悪いのか、次男に適切な指導ができない大人が悪いのか、と。

 

でも、誰も悪くないんですね、きっと。

次男の現状と指示の仕方がマッチングしてないだけ。

あぁこうやって考えると、インクルーシブ教育の定着のためには教員1人あたりの児童数を減らすのが先決、というのが本当によくわかります。30人以上相手にしていて個別にマッチングした指導なんて無理だもの。

 

教育現場の現状を嘆いてしまいたくなるけれど、私だって家で余裕がなくなったらこんな風に考えながら子どもに接することからつい手を抜いてしまう。

 

この事例から私がやっぱり大事だなと思ったのは

目指したいゴールはどこなのか

をまず明確にすること。

叱りたくなる事案が発生した時にそれをまず意識すること。

そして、それを共有してそのために双方にどんな工夫ができるのかを考え、子供たちそれぞれが取り組みやすい環境を整えること。

 

とりあえず、目の前のお家の中でできることから少しずつ。

 

 

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