スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

「小1の壁」をコツコツと崩すために

新年度を迎えて、晴れてお子さんが入学の保護者のみなさま、おめでとうございます。

今日は、今朝見かけた玲奈さんのツイートから感じたことを。

 

保育園から入学と、幼稚園から入学の温度差

玲奈さんが書かれているように、保育園は就労を含む様々な事情から家庭での保育に欠ける乳幼児に対する福祉の場。私は保育園に子供を通わせたことがないのでその実情は耳にすることはあっても未知の世界です。

私がうちの子たちを通わせたのはたまたま縁のあった幼稚園。在宅の仕事も多かったので降園後や長期休暇のお預かりがある園です。

 

実は私は、玲奈さんが書かれているような「ありえん!」な感情を入学後に感じたことがあまりありませんでした。Twitterでたくさんの保育園出身ママさんたちが入学後の大変さを書かれているのを「そうでもないよな〜」と思いながらいつも見てました。そこになんでそんな温度差があるのか、ずっと疑問だったんですが今朝玲奈さんのツイートを拝見してなるほどと思ったんですね。

 

保育園は福祉の場。「子が最優先」ではない保護者に寄り添った施設だったんだろうなと。かたや幼稚園は教育の場(入園してから何度か園長先生が実際に語っているのを聴いたこともありました)。(うちの子たちが通う)幼稚園はそもそもが「子が最優先」の場だったんだろうなと。だからそれに慣れきっていたからこその入学後の違和感のなさだったのかもしれません。

 

「小1の壁」

少し前から見かけるようになった言葉、「小1の壁」。

昨年の夏頃にブロガーのkobeni(id:kobeni_08)さんが詳しい記事を書かれていました。

保育園からの入学の大変さを乗り越えるための対策が詰まっていて、WMさん、共働きお父さん必見の記事だと思います。保育園でも幼稚園でも子供たちにとっては同じじゃんと軽く考えていたりしていたこともあったのだけれど、保護者にしてみたらそのギャップは大きくストレスや負担も大きいんだろうなとあたらめて感じています。

 

小学校は大変?

玲奈さんがタグで色々とネタにされているように、入学後に小学校の対応に驚いた経験をされている保護者の方も多くいらっしゃると思います。「児童最優先」「教育の場」というスタンスである小学校では保護者の負担の優先度が下がってしまうことは割とよく見られます。

 

たとえば、保健調査票(名前や内容は学校により様々だと思います)。うちの小学校では新学期に子供の持病や急病時の連絡先などを記入する用紙が全員に配られます。我が家には小学生が3人いるので3枚きます。同じ用紙が3枚。それにそれぞれの子供たちの名前やらなんやら必要事項を書き込んでいきます。当然持病など個人的な項目はひとりひとり違いますが、連絡先は同じです。「コピーしたい…」と書きながら毎年思いますがそうはいきません。こんな用紙が1種類ではなく何種類か手元に届きます。家の地図も3枚(これは昨年度は1枚書いてコピーして切り貼りしました)…こんなに大変なんだから学校内で情報を共有すれば書くのも1回でいいじゃない!と思ってしまう。

 

そんな書類うんぬんや、突然回収の声がかかる工作の材料、年度が始まってしばらく立たないとでてこない年間行事予定(それもよく変わる)、提出期限がおたよりに小さく書いてあるだけのイレギュラーな宿題……学校に振り回されてる…と感じることは正直たびたびあります。

 

こちら側の都合とあちら側の都合

上で紹介した記事の中でkobeniさんがこう書かれています。

「ここに『壁』(と呼ばれているもの)がある」と、周囲にその存在を説明し、理解してもらって、こっち側とあっち側の両方から壁を無くす

(中略)

自分たちが、そこまで頻繁には仕事を休めないことや、「やりたくない」わけじゃなくて、「現実的に仕事と両立しようと思うと、度重なる平日の会合に出席するのは厳しいのだ」ということについて、コツコツ伝えていくしかないのかな、と思います。

入学後にそびえ立つ「小1の壁」、ワーキングマザーはどう立ち向かう? - リクナビNEXTジャーナル

これが、たぶんとても大切なことなのだろうと思うのです。

こちら側とあちら側からからの両方から壁を無くすために自分たちの情報を伝えること、そして向こう側の事情を知ること。

 

というのも、私たちが「大変だ…」と感じていることの多くは学校側にそれなりの理由があったりします。

上記で触れた何回も同じことを書く書類も、そうやっていちいち必要な情報を1回1回かき集めた方が手間がかからないんだろうな、と思います。共有するためには内部で動かないといけない、漏れがないかチェックしないといけない、何回も複写や書き写しをしなくてはいけない、その手間で教職員の時間を割いてしまうことが業務に支障が出てしまう。(Twitterで色々と呟いていたら恐らくは現職の方からそんなお返事も頂きました)

担任や養護教諭などそれぞれの担当者がペーパーで保管して必要な時に確認するためには一枚ずつ手元に必要な情報が集まった書類がないといけない。それを一番確実に手元に集めるための手段が似たような数種類の書類なんだろうなと。

 

学校側の事情は、クラスの役員やPTAの執行部など学校内部に近い所に入っていくと色々と見えて来たり聴こえて来たりしますがそうでない場所にいるとなかなか向こうから情報はやってこない。自分の立場だけから見たら理不尽だったり配慮に欠けるような対応に感じられることも実際には学校側の都合があったり、そもそも働いている保護者それぞれの事情は考慮に入ってなかった、ということもあったりします。

 

こちら側にも、あちら側にも、それぞれに自分たちのやりやすさ、都合があります。双方がそれぞれに情報をやりとりしないとわからないことも多い。だからこそ違和感を覚えたり、困ったりしたら何でもまず伝えてみることが大事なんじゃないかと思います。

 

伝えてみた、こんなこと。

入学時に用意する袋もの

説明会のときに渡されたプリントに「道具入れ」という名前の巾着袋の絵がありました。紐の上から袋の底までの長さが「○○㎝」と指定されています。プリントを見たときまず「このサイズきっちりになるように作らないといけないの?」と思いました。なので先生に聞いたんですね。「手持ちのもので近いサイズだったらいいですか?」先生の答えはOK。そのサイズは教室の机の横についているフックにかけたときに床に付かないちょうどいい長さだったようで、長過ぎると床に付いてしまうから少し前後する分には構わないとのことでした。

こういう、どこで使うためにこんな仕様になっている、という細かいことまでは事前にアナウンスされないことも多いです。でも聞けば丁寧に教えてくれたりもする。事情が分かればその範囲内でやればいいんだなってこちらの自由度が増したり、必要な理由が分かって用意する心理的なハードルも下がるかもしれない。

 

牛乳パック

息子が突然「牛乳パックを明後日までに持っていかないといけない」と言うので困りました。当時我が家は宅配のビン牛乳しか無かったのでパックのをわざわざ買ってくるしかないのかな…でも明後日…と思って連絡帳に「用意できないかもしれないけれど大丈夫でしょうか」と書いたところ先生からのお返事は「自分も余分に用意する予定だから心配しなくて大丈夫ですよ」とのこと。結局そのときはなんとか調達できたので持たせましたが息子に聞いたら持ってきてない子もいたけど先生とか余分に持って来てた子があげてたよ、と。

 

言わなければ、無いのと同じ。

保育園からの進学で状況のあまりの変化に驚いてしまっている働くお母さんお父さん方に、「これに従うことが小学校に通うってことなんだ」とは思わないで欲しいな、と思います。保護者側の事情は声に出して伝えないと学校には伝わらない。言わなければそれは無いのと同じ。何も言わずにいたら「できる」「大丈夫」と言っているのと同じです。

でも教育の場である学校は先生方のお城ではありません。保護者と連携して初めて子供たちにとって本当に必要な教育ができるんじゃないか、と私は思います。

そのためにはできることもできないことも保護者の側から丁寧に伝えることがまず必要なんじゃないかな。うちの学校の場合だけれど、1年生の担任にはそれなりのキャリアがある先生がつくことが多いような印象があります。

もちろん何でも言えば通るわけではないと思います。言い方によってはクレーマー的に受け取られてしまうこともあるかもしれないからその辺は難しい。でももし「困ったな」と思ったら担任の先生にやんわり何でも相談してみたらどうかな。特に最初の子の入学だったら、担任の先生はそれも含めて丁寧に対応してくれるんじゃないかなぁと思います。(当たり外れはあるだろうけど…)

 

おわりに

先生の中にはかなりの割合で実際にご自身が働くお父さんお母さんである方もいらっしゃる。先生に色々な事情をお話すると「実は私もそう思ってたんですよね…」とか「その方がやりやすいですよね」って言われたりすることも。

内部からだと変えにくい伝えにくいことも、外から見える形で保護者の声として挙げることで改善につなげやすくなることもあるんじゃないかなと思ったりしているので学校から学校経営についてやイベントについてのアンケートが回ってきたら思ったところは色々と書くようにしています。

もしかしたら冷たいと感じる対応に泣くこともあるかもしれない、しんどいこともたくさんあるかもしれない。でもTwitterには悩みながらいろんなトラブルに直面したり乗り越えたりして来た先輩パパママさんたちがたくさんいます。私もそんなつながりにとても支えられてる。ひとりで抱え込まずに、吐き出したり相談したりしながら小学生保護者さんとしての生活を送ってもらえたらな、とひとりの小学生母ちゃんとして思っています。

次男と私のお洋服 〜世界自閉症啓発デーに寄せて

ユニクロのような安価の既製品のお洋服をするっと着こなせる方がいます。

 

なんとなく違和感は感じるけどまぁ問題なく着られる、という方もいるでしょう。

 

自分で工夫して着こなせば問題ない、という方もいるかもしれません。

 

洋裁の心得があって自分でお直しして着心地を良くしている方もいます。

 

お直しをプロや得意な方に外注して自分に合ったお洋服に直して着ている方も、

 

お直しでは調整が難しいからオーダーメイドのお洋服を着ている方も、

 

既製品では合わずストレスが溜まるけれど直す術を知らずに着続けている方もいるかもしれません。

 

 

お洋服に例えましたがこれは、自閉症を含む発達障害についても同じことが言えると思っています。

 

 

私は、自分で工夫したり洋裁を学んだりして自分なりお直しをしたり、時々身近な方にお直しを頼んだりしています。つまり、恐らくは当事者であろうという自覚がありますが自力でそれをカバーすべく色々な工夫やツールを駆使したり、身近な方に具体的に協力を自分で依頼して問題なく生活を送っています。

 

夫や4人のこどもたちのうち2人は既製品の洋服を気持ちよく着ているように見えます。

1人はなんとなく着心地の悪いこともあるようなので私が時々少しお直しをしたりしつつ、既製品のお洋服で過ごしています。

 

そしてもう1人は、私やプロのお直しを利用したり、ときにオーダーメイドのお洋服を発注したりしています。つまり、教室や家の中で快適に過ごせるように私がツールを工夫したり、周囲に配慮をお願いしたり、通級指導教室を利用したり通院したりして彼に合った環境を整えるための色々な手を必要として過ごしています。

 

でも、私たち6人は見た目はたぶん、どこにでもいる似たような顔をした家族です。並んでもそれぞれがどんな服をどんな風に工夫して着ているかはきっと分かりません。

 

なないおさん発の世界自閉症啓発デーに寄せたコラボ企画。

この、なないおさんの書かれた記事のタイトル「私たちはあなたの身近で生きています」というこのままが、私の気持ちでもあります。

 

昨年の同企画で私が書いたのは、当事者と定型発達者として生きている人たちの間には本当は境界線なんてないんじゃないの、ということでした。

 

 

いろいろな当事者の方や当事者家族のみなさんと関わりを持ったこの1年を経て、改めてこの記事を読み直してみました。

私は今も、発達障害当事者と定型発達者の間には境界線は存在していない、と思っています。でも去年と少し違うこと、それは、境界線は存在していない、でも「困っている」という診断は支援を受けるために必要だと言うこと。当事者と定型さんの間に境界線があるのではなくて、困っている人と困っていない人の間には境界線を必要としているんじゃないか、ということです。

 

私は、恐らくは当事者ですが困ってはいません。

自分がどんなことが不得手かを知っているし、苦手なことについては誰にどんな支援を頼めばいいか、どこに愚痴を吐けばいいか、その自分の取扱説明書を自分で把握して、自分でなんとかできているからです。

 

でも、次男は教室で困っていました。小手先の工夫ではどうにも対応しきれませんでした。彼は、困っている人という境界線の向こうであると本人も周囲も認識する必要があった。その認識の向こう側に初めて、公的な支援や配慮が得られた。境界線を越えることで彼は初めて、これまで着ていた自分に合わなかった既製品のお洋服から、自分に合わせてお直しをしてもらった着心地のよい洋服を着ることができたのかもしれません。

 

学校の先生や知識を持った周囲の知人…たくさんの方の援助により彼に合っているのはどんなお洋服かを一生懸命模索し続けています。どう直せばよいか、どうしたらストレスを感じないか、私たち夫婦も含めた複数の大人たちが彼のために考え、試行錯誤する日々です。彼が笑顔で過ごせるように、そして周囲がそんな彼と楽しく過ごせるように。

 

彼は「困っている」ことを周囲に気づいてもらえた、だから彼のためのお洋服を直したり作ったりするためのチームができました。

 

でも。

 

何となく既製品のお洋服を着ているようで実は肌触りの悪さや締め付けの苦しさを感じて、でもどうする術も無くストレスだけを募らせている子たちももしかしたら教室にいるのかもしれない。子供だけじゃなく大人の社会のなかにも、みんなが着てる同じ服を着ているけどなんだか違和感がある、でもどうにもできずにイライラを感じてしんどい人がいるのかもしれない。

 

パッと見た目は着心地よく着ているように見えても実はストレスを感じてしまっている、本当はお直しやオーダーを必要としている人は多いのかもしれない、と思っています。

 

境界線を「発達障害者」と「定型発達者」の間にあると考えてしまっていたら、その着心地の悪さを感じながらもそれなりに過ごしている人はいつまでもそこでストレスを感じ続けることになるかもしれません。「ストレスを感じて困っている」からこそ何かの工夫や支援が必要なんじゃないか、お直しをしさえすれば着心地がぐっと良くなるのかもしれない、その、困っているんだよっていう境界線を自分も周囲も意識できたら。

 

昨年も書いたインクルーシブ教育や教育のユニバーサルデザイン化はその既製品そのものの概念を覆すことなのかなと思っています。工業製品として流通しているファストファッションではなくセミオーダーのお洋服が誰にでも手に入る環境。

 

でもそこに行きつくのはきっとまだまだ時間がかかるから、今できることはまずその、困っているという境界線を本人が自覚したり周囲が意識したりして支援に繋げることなんじゃないかな、と思っています。

 

お題の「うれしかった配慮やお礼の気持ち」の具体例からはかなり離れてしまったのだけれど、次男のお洋服お直しチームができたことがこの1年の私のうれしく、そして支えてもらったこと。さてそのチームの大半の方が異動となってしまった来年度、どんな新しい出会いが待っているのか期待と不安が入り交じった複雑な心境の母とは裏腹に、前だけを向いている次男です。

なぜ夫を「チンパンジー」や「大きな子供」とみなそうとするのか。

前回のエントリの続きです。

 

夫を動物や「大きな子供」に例えることに感じるモヤモヤ

ブックマークコメントの中で夫を動物に例えることに抵抗があるという声があったり、「大きな子供とみなせばいいのよ」という年長の方の助言にモヤモヤを感じたというエントリ(「大きな子供がいると思って…」って、わたしは子供と結婚した覚えはないのです - ワーキングマザーは夢をみる)を拝読したりして色々と考えたことを。

 

前回のエントリで私は、相手を何かに見なすことで意識するのが難しかった自他の境界線を明確に意識することができるようになったのではないか、と書きました。夫をチンパンジーだ、と思うことで家事や育児に穴があっても、ゴロゴロしていてもまぁしょうがないか…と諦めがつくという種類のライフハックなのだろう、とは思います。ブクマコメントにもあったような、本来人間であるはずの配偶者を動物として心理的には見下す形になってしまっていることへのモヤッとした感覚は私もなんとなくわかります。だからこそ息子をネコだと思い込んでいたときにもそれをあらわにしてはならないと思っていたわけですが。

 

なぜモヤモヤを感じるのか

動物や「大きな子供」に違和感を覚えるのはなぜか、それは上で紹介したエントリのなかでmemi (id:memi1005)さんが書かれています。

大きな子供とわたしは対等ではありません。大きくても相手は子供ですから、根気よく教えて、導いて、成長を促さなくてはいけません。それも、5年、10年という時間をかけて。大きな子供本人は、ほめられたりごほうびがあればやる気を出しますが、気が向かなければやりません。子供なので仕方ないのです。(「大きな子供がいると思って…」って、わたしは子供と結婚した覚えはないのです - ワーキングマザーは夢をみる

 

本来対等であるはず(と私も恐らくはmemi (id:memi1005)さんや動物に例えることの違和感を書かれていた方も思っている)の配偶者を、子供や動物という対等ではないように感じるものに見なして「だから仕方が無い」と諦める形になっている、その構図にモヤモヤを感じてしまうんですよね。

 

色々なものに例えてみるという実験

前回のエントリで触れていたバターの容器についての思考実験をしてみます。

登場人物は、夫と、妻である自分です。まずは前回のエントリにあった通りのシチュエーションを想定します。

妻である自分がトーストを食べようとパンをトースターに入れ、焼けるころを見計らって冷蔵庫をあけ、バターの容器を取り出してテーブルにつき、さぁ焼きたてのトーストにバターを…と思って容器のふたを開けたら中身は空だった。同居人の夫に問いただしたら「自分が使った時に切らしてしまったけどなんとなく元に戻してた」と言う。空の容器を戻してそのままにしておくとはなにごとか!トーストを食べようと思っていたのに!と思って憤慨。

 

 子供だったら?

ではこのケースで、自分の直前にバターを使ったのが子供だったらどうでしょう。カチンとはくるかもしれない、トーストが食べられなくて残念に思うかもしれないけれど、自分より未熟な存在である子供だから仕方ない、と溜飲を下げることができるかもしれません。子供なので「使い終わったバターの容器をそのまま戻すと次の人が困るからお母さんに知らせてね」と伝える、というステップも難なくできるかもしれません。

 

では、その子供に対して以前同じことを注意したことがあったとしたらどうでしょう。一度言っているからできているはず、という気持ちが生じたらもしかしたら「なんで!?」という気持ちが湧いてしまうかもしれません。

 

それが一度ならず何度も言っていたら?年齢に応じてできないこともないだろうと思われるような成長段階だったら?

もしかしたらそのときは、できていないことに怒りを覚えるかもしれません、というっか私なら多分カチンときます。

 

チンパンジーだったら?

チンパンジーだったらしょうがないや…そう思う諦めの気持ちのなかにあるのはコミュニケーションの困難、そして能力的にもう求めるのは無理だろうという限界を感じる気持ちではないかと思います。

器用とはいえ動物だから、そんな丁寧な気遣いを教えることも、能力的にできるようになることも無理だろう、という限界に直面して諦めざるを得ない感じかなぁと。

 

エイリアン・外国人だったら?

この二つに共通しているのはまず言葉が通じないであろうということ。言語的コミュニケーションを諦める必要があります。そして、成人かもしれないけど育つまでの環境が自分とは全然違うということを認識している。文化が違うから仕方ないという諦めがつく相手だと思われます。

 

自分より能力的に高いか同等と分かっている相手だったら?

では、見下せない相手、自分よりよく気のつく人だったり、家事のノウハウを知っていたり経験があると分かっている相手だったら?私なら「できるはず」なのにやらないのは何かしら自分に対するメッセージが込められているんじゃないだろうか…と勘ぐったり不審に思ったり、掘り下げて考えて色々と仮定して傷ついてしまったり…してしまうような気がします。

それでは溜飲を下げる効果はないですよね。できるはずなんだからやってくれたらいいのにという苛立ちや怒りを感じるかもしれないし、できるはずなのにやってないってことは何か意味があるんだろうかと考えてしまうかもしれない。(これは実は私が自分の思うような言動を夫がとってくれないときに苛立ちを感じる心理だったりします)

 

能力を下に見なすことで得られる効果

前回のエントリで私は、異物と見なすことで境界線を意識できる、と書きました。溜飲を下げるためには格付け的に上や下である必要は実はないんですね。自分とは違う他者である、という境界線をお互いの間に認識できるだけでいいんです。私とあなたは違う、だから「できることもできないことも違う」という認識ができるだけでいい。

 

でもこの「できないことも違う」ことを理解するのが実はとても難しいんじゃないか、と思うのです。

 

人はみんな違う、というとうんうんそうだよねって思うと思います。ものの感じ方も考え方も多種多様です、っていうとやっぱりうんうんって思うと思います。「私には簡単なこれこれが、どう頑張ってもできない人もいます」って漠然と言うとまぁそうかなぁって思うかなと思います。じゃあ、「あなたには簡単な○○が目の前のその人にはかなり難易度が高いんですよ」って具体的に言うと「え?」って思うかもしれません。

 

自分にとっては楽にできること、少し頑張ればできることをとても難しいと思っていたり、そのために体力的心理的なハードルが自分よりとても高いという可能性。多様性という言葉で自分と周囲の人間をぐるっと見たときに、自分より能力的に優れている部分や自分が持っていない部分はすぐ目につくと思います。「隣の芝は青い」というやつですね。自分がコンプレックスに感じている部分なんかは特に際立って目につくのではないでしょうか。

でも。

自分の方がより優れている部分、自分は持っているのに相手にはない部分についてはぱっと見ではなかなか目がいきません。意識しないと感じられない。だから、あえて能力的に人間の成人よりも低いと思われる子供や動物に例えることで意識しづらい「個々の能力差があり自分より優れていない部分」に目を向ける効果があるのではないかと思います。

 

異文化で育ったと見なすことで得られる効果

エイリアンや外国人のように異文化で育ったと見なすことで得られる効果として、ベースになる文化が違うから仕方が無い、という諦めがつくことがあると書きました。

これ、別に日本人同士でも違っててもおかしくないんですよね。地方によっても風習が違うことも多いし、家庭ごとに違う習慣があって結婚してビックリする、なんてこともありがちだと思います。でもそれも、見た目が似たような日本人という大きな枠のなかに一緒に存在していると見落としがちになってしまうことなのかもしれないなと思います。

本当なら育った家庭も置かれていた環境も違うんだからベースになる文化が全く違っていてもなんらおかしくないんですね、でもそれをなかなか意識できない。それを助けるのが、異文化で育った存在だと見なすことなのかもしれません。

 

おわりに

今回は「イライラの対象を何かに見なして溜飲を下げる」ことについて掘り下げました。誰しも自分が基準です。自分が簡単にできること、自分が努力してできるようになったことは周りの同じような姿形をした人間だったら当然できるだろう、と思い込みがち、それが引き起こすトラブルを避け、自分の波立った心の中を自分で整理するための一つの方法が「何かに見なす」ということなのかなと思います。そしてその無意識に選んでいた方法が実は意識できていなかった自分と他人との境界線を意識するためのツールであり、また自分より能力的に低い存在だと見なすことで意識しづらかった自分より劣る部分に目を向ける効果があるのではないか、と考える過程を長々とお送り致しました。

 

ちなみに、昨日のエントリで触れたバター容器からはかなり脱線した感があります。おそらくですが、あのバター容器問題の根幹にあるのは自他の境界線うんぬんというよりは「困っているのは誰?」問題ではないかと思っています。

それについてはかなり前に書いたことがあったのでご参考までに。

夫をチンパンジーと見なすライフハックと自他境界

「夫をチンパンジーと思ったら」

朝TLに流れて来た2つのツイート。

1つは妻側から「夫が空のバターの容器をそのまま冷蔵庫に戻していたから怒った、相手をチンパンジーとみなしたら仕方が無いと怒りが和らいだ」

もう1つは夫側から「空のバターの容器を何気なく冷蔵庫に戻していたら妻が人に思えない様相で怒った」というもの。

 

本当にご夫婦が同じ案件について語ったのかどうかは本旨ではないので追いかけて確認はしていませんが、この2つ(特に奥さんの側)のツイートから行きついた面白いことについて今日はまとめてみます。

 

「ネコだと思えばいいんだよ」

小さい頃から落ち着きもなく子守りにも躾にも手を焼いて来たうちの次男坊。生来の愛嬌でカバーしたりそれなりの支援を受けたりでなんとか楽しく学校に通っていますが、彼のアホな言動や突拍子もない行動に対応するのは本当に大変、すぐに沸点に到達して大きな声が出てしまう私に、ある時夫が言ったことがありました。「次男のこと、ネコだと思えばいいんだよ。ほら、ネコだと思って対応してごらん、イラッとしにくくなるから」

 

わざわざ狭いところを通って私にぶつかっていく次男…「ネコだからしょうがないか…」

何度言ってもこたつから出て来ない次男…「ネコだしね…」

ケンカしてお兄ちゃんの顔を引っ掻いて…「ネコだし…いやそれはだめだろうよ!」

 

さすがに手をあげるとかそう言う部分についてはきっちりと叱らねばなりませんが、それ以外の日常の些細なイライラは確かに「ネコだし…」と思うと心が波立ちにくかった気がします。

 

もちろん人間の子どもである次男ですから、その尊厳は保たねばなりません。なにからなにまでネコと同様と見なすわけにも、本人に「お前をネコと見なす」と言うわけにもいきません。あくまでも私の心の中でいらだちを抑えるための一つの呪文のような感じで「ネコだ…あの子はネコだ…」と思っていた時期がありました。

 

なぜ、動物と見なすと落ち着くのか

「夫をチンパンジーと見なす」と書かれていた方の日常のツイートは存じませんので掘り下げることはできませんが、当該のツイートを拝見して自分が次男について「ネコだ…」と気持ちを落ち着かせたようにある種の諦めに近い気持ちで相手との距離をおくための方法なのだろうなとは感じました。

 

なんで相手を動物と見なすと落ち着くんだろう…動物に限らないような気はするんですね。言葉がうまく通じない相手を「エイリアン」だと称したツイートを見たこともあるし、自分でそう思って相手との距離を置いたこともある。「外国人」「異星人」「異次元から来た人」「チンパンジー」「ネコ」「カブトムシ」…自分とうまく意志の疎通ができない、指示がうまく通らない、コントロール不能な存在に対してそんな風に、自分以外の属性を当てはめて「だから仕方ないよね」と諦める。これ、一見自分のレベルに理解が達していない相手に対する不満や不快感を自分の中が流して「あげる」、というやや上から目線ぽい臭いのする行動に見えます。が、本当にそうかな、というのが今日思ったこと。

 

これ、実は「自他の境界線が緩い自分に無自覚で、それゆえに起こっている苛立ちを抑えるために相手を自分とは違う属性だと見なすことで境界線を意識できた」という状態なんじゃないか。

 

そもそも「自他の境界線が緩い」自分がそこにいるんじゃないか、と。

 

自他の境界線とは

「自他境界」「自他境界線」「自他の境界線」などの言葉で検索すると発達障害の特性のひとつとして語られるブログやサイトが色々と出てきます。

はてなブログでも著名ななないおさんのブログでも取り上げられています。

こうやって読むと「自他境界が緩い=発達障害」と受け取られてしまいそうですが私はそうは考えていません。傾向が強ければ社会的に困難を起こしやすかったり支援を必要としたりするけれど、そう強くはないけれど傾向として持つ人というのは少なからずいる、その辺は発達障害がオンオフの障害ではなくゆるやかな連続体のなかで環境や特性の強さにより支援を必要とするケースもあるし必要としないケースもある、と考えています。

この辺のことは過去にも書いたことがありました。

 

自他の境界線というのは簡単に言えば「自分と自分以外の人間には境界線がある」と認識をするということ。

「私以外は私ではない(あの歌みたいですが)」「私とあなたは違う人」というように私と自分以外の人間が「違うものである」と理解しているということ。

 

掘り下げていくと「自分の脳みそは他の人の脳みそとは違う」「自分が考えていることを相手が同じように考えるとは限らない」「自分にできることが自分以外の人間にも同じようにできるとは限らない」と認識して生活をするということ。

 

小さい子と接していると自分が知っていることは当然周りの大人も知っていると勘違いしていたりすることはままあります。成長に伴い自分と他人との違いを認識できるようになっていってそういった勘違いが少なくなっていく。発達障害の子のなかにはその成長がなかなか年齢相応に伴わなかったりして周りの子と認識に差が出て生活や学級の中でトラブルに繋がったりしてしまいます。なないおさんのブログで詳しく描かれているような状況です。

 

自他境界トラブルとして見る夫婦喧嘩

発達障害の診断が降りる降りないに関わらず、自他境界の緩さが影響したトラブルというのは社内やママ友関係の中でも割とよく発生してるように思います。

そしてその最たるものが夫婦喧嘩なのかな、と。

 

なぜ家庭内で起こるのか、それは、日頃無意識ながらも保ち続けている自他の境界線が緩むタイミングが安住の空間である家庭内だから。

 

恐らく多くの社会人として生活している人たちは公の場で出会う相手に対して自他の境界線を意識しなければ対人関係のトラブルが起こる、ということを経験則的に学んでいます。だから、外では意識できる。

 

でもその緊張の糸が切れる家庭内に、もっとも身近な他人である配偶者が存在している。そう、他人なんですね。目の前の夫や妻は他人です。自分以外の人間です。自分ではないんです、言葉にしたら当たり前のそのことが、緊張の糸が切れていて、頑張るスイッチをオフにしていて、疲れを顔にも言葉にも出していい家庭という自分のプライベートな空間になると途端に認識するのが難しくなる。

 

その結果が、自他の境界線を逸脱した苛立ちと、それに起因する夫婦喧嘩なのではないかと思うのです。

 

だから「チンパンジー」

プライベートな空間で自他の境界を意識することが難くないという方も少なからずいらっしゃると思います。私の友人の中にも「夫婦喧嘩なんてしたことない」「夫に苛立ちを感じたこともない」という私からしたら神様みたいな人も複数います。

私とその人の違いがなにかを掘り下げていくのはトラウマにも抵触する危険な行為なので避けるとして、何かが違うから仕方ないんだろうな、という諦めは必要です。

 

苛立ってしまうものは仕方が無い、自他の境界線を意識することが苦手なのはもうしょうがない。それが私の限界なのです。それが、夫の言動に、妻の言動に苛立ってしまう人の限界なのかもしれません。

 

でも子供のためにも、自分の精神的安定のためにも、夫婦喧嘩は減らすに越したことありません。能力的に限界な自分がトラブルを減らすという目的のために何が必要か、それが、相手を異なる種だと見なす種類のライフハックなのかもしれません。

 

おわりに

「イラッとしないように夫をチンパンジーとみなす」

「カチンと来て怒鳴らずに済ませたいから息子をカブトムシやネコとみなす」

 

それだけを見てライフハックとするのも一つのライフハック。でも何かモヤッとしたものを感じたり、琴線に触れるようなことがあったら掘り下げてみた私の経過も一つの参考にして頂けたらなぁと思います。

 

苛立ちが異種と見なせば落ち着くなら、それは相手が悪いからじゃなくて自分の中で相手をきちんと境界線を引いて距離を置けてないからかもしれない。

私と相手は違う人。

「空の容器をそのまま冷蔵庫に戻したら私が困る」こともまた、相手の脳みそに無ければ伝えなければわからない。それくらい察するのが簡単にできる人もいれば、できない人も、家庭のなかではスイッチ切ってるけど言われて意識すればできるって人も、いろいろなんです、多分。

振り向いて泣いてしまう親と、前だけを見ている子どもたち。

卒園シーズンの今日この頃です。

 

卒園式で歌われる歌のなかで私が好きなのが「ドキドキドン!一年生」

 


ドキドキドン!一年生

 

一年生になるドキドキ、不安だけど楽しいこどもたちの心のなかを歌ったこの歌が私は大好きです。卒園式の、誇らしく楽しそうな子どもたちの笑顔、これからやってくるランドセルを背負った未来の自分を思っているのかな、その楽しくてキラキラした笑顔が、この歌を歌うともっと明るくなる。

 

保護者や役員として例年参加している卒園式でこの歌を聴くのを楽しみにしていたのだけれど、ここ数年はあまり聴かなくなりました。

 

代わりに、お友達との思い出や園でのことを歌った歌を卒園の歌として歌っている子どもたち。大人が思い起こし涙するような、園でがんばってきた僕たち私たち、お友達を忘れないよ、お別れだよ、という園生活をふりかえるようなその内容に、なんだかちょっとだけモヤモヤとしたものを感じてしまいます。

 

感動ポルノ…

そんな言葉も一瞬脳裏をよぎるような、大人が作り演出する子どもたちのお別れの場、という印象の卒園式にじわりじわりと違和感を覚えるのです。

 

うちの子どもや周りの子たちを見ていて思って来たことだけれど、卒園式でのお別れということを彼らはあまり強く意識はしていなかったように思います。お別れ、寂しい、悲しい、これまでの色々、という過去や今のことよりも、彼らはランドセルを背負って登校する未来の自分たちのワクワクを感じてる。園が最後という寂しさよりも、ここを巣立って小学生になるんだという未来を楽しみにしている、そこに大人が、お別れの寂しさや巣立つという感動を無理矢理ねじ込んで享受している、というと大げさなのだけれど。

 

これまでの園生活での大変さや離れる寂しさや環境が変わる不安を感じるのは先を見通せる大人だからなんだろうな。だからお世話になった先生とのお別れを心細く思い、これから始まる小学校生活への不安を感じ、凛々しく卒園の証書を受け取る姿に成長を感じ、慌ただしさのなかで過ぎていった手を焼いた日々を思い返し、親は涙するのかもしれない。

 

まだ幼い彼らは卒園式のあとも元気に手を振って「またね〜〜」と笑う。寂しさやお別れの意味を先を見通して感じられるようになるにはあと数年、という子もたくさんいるのが6歳くらいの子どもたちの集団。いつもと同じように楽しそうにお別れ会の時間を一緒に過ごし、本当の本当に最後のお別れだと言われてもやっぱり「ばいば〜〜〜い」って笑って手を触り合ったりする年長児の子どもたち。

 

そんな彼らを見ていると、このお別れを惜しむ雰囲気に彼らを無理に巻き込まなくてもいいんじゃないだろうかと思ったりもするのです。お別れを惜しみ盛大なイベントにしたいのは大人だけなんじゃないのかなぁって。

 

長男が来年度卒業を迎えようとしていて、卒業式やその後の謝恩会というのが自分のなかで近いものとなっているのだけれど、袴で参加するのが流行っているとか謝恩会を盛大にやるために保護者の準備が…とか聴いているとあぁここでも子どもたちの行事を通して感動したい大人たちのあれこれに子どもが巻き込まれてしまう事態が起こるんだろうかとちょっと不安になる。

もちろん園児とは違って、12歳の子どもたちにはお別れの意味も分かっているだろうし大人に近い程度の見通しを立てることもできているだろうと思う。泣く子も多いんだろうな。

 

でもやっぱり、大人の目線からではなくて、大人が満足するためではなくて、彼らの目線、彼らの気持ちに寄り添った式典であってほしいし、そんな会を催していきたい、と思う。

 

来年度は長男が卒業、三男が卒園。はやいなぁ。

一地方民として思う、声を上げずに自分たちでなんとかする風習とその弊害

「行政がやってくれて当然、は都会の人の我が儘だ!」

増田の「保育園落ちた、日本死ね」の余波がまだ続いているTL、今朝は「行政がやってくれて当然、というのは都会の我が儘だ」という趣旨のツイートが流れてきました。

 

それを見ての一連の感想がこちら

 

長々とツイートしたのですが、結局、カチンとくる方にはそれはそれなりの理由がきっとあるんだろうなぁと思うし、疲弊した困っている両者が泥を投げ合っている現状がどうやったら打開されていくんだろう、と思ったりもしています。

 

行政の手が届かない地方の抱える問題

私が住んでいるあたりも大概な片田舎だけれどまだ開けている方。

車を少し走せたところには行政の手が届きづらい限界集落といわれる地域がいくつかあります。そんなところでは自治組織が作られていたり、農道の補修を自力でやっていたり、行政の手が届かないところを自分たちでなんとかする、というのが日常的に行われています。

私の住む地域でも街路灯は自治会が設置して住民が出し合ったお金から電気料金を支払っています。これは小さな一例ですが、こんなふうに、都心部だと行政が整備して当たり前に感じられることを地域住民でなんとかしてしまっているというケースは田舎にいけばいくほどゴロゴロと転がっていると思います。

 

行政に求めていることもないわけではないのだろうと思いますが、予算がそもそもないとか、求めても得られないことが多いとか、声を上げて目立つことの弊害が大きい(それを理由に村八分にされるとかあとあと叩かれるとか子の代になって「お前の親が」って面倒に巻き込まれることもあり得る)とか、色んなそこそこの事情があるんじゃないかと思う。とかく田舎に居ると「声を上げるくらいなら黙って自分たちでなんとかする」という風潮が残っているところがあるのかなと。

 

声を上げても、という感覚の麻痺

先日、図書室の司書の先生と話しているときに「図書購入の予算が少なくて」というお話が出ました。児童数から算出して割り振られているので、児童数が減少傾向にあるうちの小学校の図書購入費はかなり少なくなっているようです。

それを聴いて、まず私の脳裏に浮かんだのは「寄付」と「PTAとかからなんとかして捻出できないか」という発想でした。PTAというのが浮かんだのはちょうどその直前に、PTAから読み聞かせボランティアへの活動費が支払われている学校がある、と小耳に挟んだから。うちの学校でもその辺の組織改編を提案してそれが通れば、年に少しでも活動費として読み聞かせボランティアにお金が降りて来る。それで読み聞かせで使って好評だった本を購入したりできるんじゃないか、と思ったのです。

 

そのときには名案だ、と思いました。

 

でも今はちょっと、迷っています。

一つの手段としてはアリだと思う。でも、本来なら改善を求めるのはまず「少ない図書購入費」の方じゃないかと思ったのです。

 

児童数が少ないからと言っても、それを理由に本が買えないという現状はおかしい、そこを行政に働きかけるのがまず筋なんじゃないか、なぜそこが思いつかなかったんだろう、と。

 

そこが、田舎で暮らす自分の感覚の麻痺なのではないか、と。

 

黙ってなんとかし続けてきてしまった弊害

田舎に住む自分たちは声を上げて全体を変えていくリスが大きい。だからそのリスクより、黙って自分たちでなんとかして問題点をちょっとずつ緩和しながら根本的な解決を待たずに過ごして来たんじゃないか。

周囲に声をかけてまわれば地の縁や血縁でなんとかなっていくという田舎特有のメリットを知らず知らず活用しながら、本来カバーすべき行政に頼ることを視野に入れずにきてしまったのかもしれない。その癖が、今回の図書購入費の解決方法を考える時にも出て来てしまったのかもしれない。

 

親たちの世代が黙ってなんとかし続けて来た、その考え方の癖が自分にも受け継がれているような気がしてちょっと背筋が凍ったりもしました。

 

黙ってなんとかし続けて来てしまったがゆえに、いまもそれが脈々と残ってしまってる。自分たちが勝手になんとかしてしまう、行政もそれをよしとしてしまう、または気づかない、これでいいんだろうか。

 

おわりに

行政だって、求められること全てに応えられるわけではないと思います。予算もあるだろうし、法外な要求に応える義務も無いと思う。でも、住民として認められている権利が行使できない状況になっていたり、受ける権利のある支援が受けられない状況になっていたりすることは声を上げて訴えていってもよいと思う、それは、我が儘なんて言葉でくくっていいことじゃない大事なこと。言わないと分からない、言わずに黙ってなんとかしてきてしまったらどんどん言えなくなっちゃう。

 

30代の私よりはるか上の世代ではおかみに訴え出ることは相当のリスクだっただろう、それは容易に想像がつきます。でもその癖みたいなものが脈々と今も残り続けているのはやっぱり、なんとかしていかないかんことのような気がしています。

当事者も困ってるけど、叩きたい人も「困っている」

今日は、この増田記事を読んで思う事を。

 

当事者は「困っている」

昨日のエントリ、

で書きました。程度の差はあれ、周囲にどんな風に写るのであれ、当事者は「困っている」のだということ。そしてそれを肯定しないと先には進めないということ。

 

 

「なんでもいいから叩きたいんじゃないの?」

このことについて考えているときに頂いたリプライの中で「批判の声って『ただなんでもいいから叩きたいだけじゃないの?』という声をいただきました。うん、私もそう感じることもあるなぁと思います。保育園とか女性の就労とかの問題だから、ということでもなくとりあえず叩ける案件だと思って突っ込みどころを探して見つけて叩いてるだけなんじゃないか。

 

それへの分かりやすい対処法は、スルー一択なのかもしれません。

朝の連ドラ「あさが来た」で炭坑事業だの銀行だの女子大学の創設だのをガンガン計画してはそれを妬んだり脚を引っ張ったりする勢力が出てくる。その邪魔者を「暇なんやろなぁ」と一蹴していくスルースキルを毎朝見ながら清々しいなぁと思う反面、全面的にバックアップしてくれる夫がいて家があって成り立つものでもあるんよなぁとも思ったりする。

 

余力があればスルーできるそれが、後ろ盾もなく精神的に未熟な段階や余裕の無い状態だったらそうはいかない、そうやって、声を上げる人とそれを妬んで叩く人とのやりとりは現実にもずっと昔から繰り返されて来たし、今でもネット上に場を移して何度も何度もいろんな案件を種に繰り返されて来ているんだろうなと。

 

なぜ「叩きたい」のか。

ただ叩きたいだけなんじゃない、というのは真理かもしれません。とりあっても仕方が無い、取るに足らない意見、だからスルーで。私もそう思います。

 

でも、です。

問題の解決に向けてのとるに足らないかもしれないその反発、攻撃、足を引っ張る行為がそう簡単にスルーできないこともあるかもしれません。活動に支障を来すほどの攻撃をされて困るかもしれないし、スルーする余力が自分に無く影響を受けてしまうかもしれない。

スルーできないなら、自分のためにも相手のそれを掘り下げる必要があるかもしれません。

 

誰かの言動が目について気になって仕方ない、発言の内容が気に障って仕方ない、見ていてイライラするけど目が離せない、一挙一動が気になる、ひとつひとつに反発したくなる。

 

ただ叩きたくなってしまうときに背景にあるこんな心理に至るのも、きっと理由があると思うのです。それをかいま見せてくれたのが、最初に紹介した増田記事ではないかと。

 

叩きたい人の抱えているもの

あの増田を書かれた方は、恐らくは自分の現状を正確に理解し、自己分析できているのだろうと思います。だからこそあぁやって、妬ましい自分の感情を文章にできた。

でも、そこまでの自己分析が自力でできる方も、実はそう多くないのかもしれません。

私も自分の考えをコツコツと叩き割りながら分析し考えていく癖がありますしそれがこのブログのネタでもあるわけですが、ブコメなどで「そこまでの自己分析はできない」「ここまで細かく考えて把握できない」という声を複数頂いたことがあります。私自身も自分が精神的に疲弊しきっているときに周囲の「自分より恵まれているように見える人」をただただ妬んで毒をお腹の中に溜め込んでいた時期があったので余力が無ければそこに行きつけない怖さも知っています。

 

「自分より恵まれているくせに」「ズルい」

自分の抱えている現状からしんどさが来ていること、そこからその感情がわいて来ていることに気づかずに、目の前の対象が自分を苛立たせているのだと錯覚してしまい怒りの矛先がそちらに向いてしまっているのではないか…

 

これについては以前、子どもたちの話として書いたことがありました。

 

色々な場で子どもたちと接していると、やはり「ズルい!」と言う子たちにはその考えに至るまでのそれなりのしんどさのベースがあるように思います。そこに寄り添ってあげるとすんなり周囲の子たちへの配慮を受け入れてくれることも多い。

 

「ズルい」を受け止めるのは誰か。

子どもたちに対しては、その「ズルい」を受け止めるのは周りの大人の仕事です。

でも大人に関していえばその「ズルい」と思う感情を受け止め寄り添ってあげるのはそれを言われる側の人間が背負うことではないですよね。自分の中で整理をしないといけないことで、周りを無秩序に頼って良いことではない。それは赤ちゃんが親に無条件に甘えようとするのと同じかもしれません。

 

叩かれる側としてはやっぱりスルーしかないんだろうな、と思いますが、その背景に思いを馳せるか馳せないかで自分の中での受け止め方や流し方も違ってくるんじゃないかとは思います。

 

自分の為に、自分で片付けるスキル

そして自分がそこに陥っているのかもと感じたら、その溜まっていく黒い感情をどう整理していくか。排泄物を丁寧にトイレに流して清潔に暮らすように、おなかのなかの黒い感情も周りにまき散らしてしまわないよう自分なりの丁寧な片付け方を知る必要があるのかもしれません。私の場合はそれが夫に話すことであったり、信頼できる友人に愚痴ることであったり、Twitterを使って自己分析していくことであったり、この場を使って整理していくことであったりするのかなと思います。

 

黒い感情を整理せずまき散らしてしまうことは自分にとってのリスクも大きいです。それを見て離れてしまう人もいるだろうし、本当に主張したいことがあっても整理できないままに吐き出していたら「ただ叩きたいだけだろう」とスルーされてしまうかもしれない。それは勿体ない。

 

自力でその整理が難しければ、どんな専門家に繋がる必要があるかを検討するのも良いのではないかと思う。それも簡単なことではないと思うけど、脱出するためには必要なことなんじゃないかと思います。

 

おわりに

余談ですが、声を上げている人が正義、とは私は思いません。

主張には穴もあるかもしれないし、改善の余地は多分にあるかもしれない。「困っている」からと言って無条件にどんな主張も受け入れられてしかるべき、異論は許さない、というのもまた歪んでいると思う。

 

声を上げている人の視点は「困っている人」の視点。問題を解決していくためにはその一点からではなく、そこに関わるたくさんの当事者、国政側、自治体の担当、保育園、保育士、保護者、保育に欠けることになる乳幼児、保育園の周辺の住民、乳幼児を抱えた保護者を雇用する側、同僚…

「困っている」と声を上げている保護者だけではないたくさんの当事者がこの問題には関わっている、そのたくさんの声や事情を汲取り合わせていかないと本当の意味での解決には向かっていかないのかもしれない、とも思っています。

 

批判の声のなかには、自分の心理的な背景から「ただ叩きたい」だけの人もいる。でもその声に混じって、冷静に主張の問題点を指摘する声もあると思う。そこをごちゃごちゃにして批判に批判を返した打ち合いをしても何も解決しないし、疲弊していくだけじゃないかと思うのです。

 

批判や叩きに見えるその意見にカチンと来たとき、主張する側もその飛んで来たボールを全力で打ち返すのではなくて、冷静に見据えて、避けてスルーした方がよいものなのか、キャッチしてから考えをまとめて投げ返す必要があるものなのかは判断する方が建設的なやりとりができるのではないか、と思ったりしています。

 

 

 

 

 

 

 

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