スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

地震雑感 「大丈夫だよ」って言う難しさ

今回の熊本・大分を襲った震災で被災されたみなさまに御見舞い申し上げます。

 

私も揺れる地域に住んでいるので、直後からTwitter上でたくさんの方にご心配いただき、余震が恐くて眠れない夜の不安を和らげてくれました。本当にありがとうございます。

3日ほどは夜も怖くて車中や公民館や頑丈な作りの夫の実家を渡り歩きましたが、幸い我が家やその周辺では被害らしいものはなく週を明けてからは子供たちも登校登園し、日常が再開されています。

 

いつも通りの毎日、時間軸も色々な用事もほぼ通常通り行われています。仕事も多少影響を受けながらもまぁ流れて行っていて、テレビやラジオやネットからの情報で入ってくる熊本や由布の大きな被害に想いを馳せながら、被災者とそうでない人たちの狭間にいるような自分のあり方を時折考えたりしています。

 

今朝はゆっくりの出社だったので久しぶりにNHKあさイチを見ながら溜まった洗濯物を片付けていました。その中で触れられていた、子供への対応のこと。

 

「大丈夫だよ」って言ってあげて安心させてあげて

 

テレビの中でそう語られていました。

 

「大丈夫だよ」

それは、ここ数日私が言いたいけれどなかなか言えない言葉でもありました。

 

最初の2日続いた大きな夜中の揺れ。飛び起きて私のベッドに集まった4人の子供たちを抱えながら「一緒にいるから大丈夫だよ」と何度も言いました。「大丈夫だよ」と言えたのは、その2日だけだったかもしれません。

 

揺れの間隔は開いていく中で、最初はずっと怯えていた子供たちも穏やかに過ごす時間が増えてきたように思います。大きい子たちは緊急地震速報の電子音を口笛で吹いてビックリする私を笑ったり、おちびたちが「じしんだ!」「じしんだ!ひなんだ!」と言いながらテーブルに隠れる遊びを繰り返していたり、地震という現実を受け止めながらもそれを受け流そうとしている様子が見て取れました。軽い揺れだと「今のは震度3くらいかな」と言って慌てずに周囲を確認する長男の姿も見られました。

 

それでも緊急地震速報の音が聴こえると怖がる子供たち。外に遊びに行っても大丈夫なのかな…と不安がる様子が見られたりもしました。

そんな子供たちに私は「大丈夫だよ」と言えなくなりました。本当に大丈夫なのか、私も全く分からないからです。

 

最初の2日間は、子供たちは私の手や目が届く所にずっといました。日中もずっと家や車の中で一緒に。だから「一緒にいるよ、大丈夫だよ」って言えた。でも登校が再開され、私の目や手が届かないところに行く時間が増えていく子供たちには「大丈夫だよ」って言えない。もし私の手を離れたところで怖い思いをしてしまったら、私が言った「大丈夫だよ」が嘘になってしまう。大丈夫だって言ったのに私は子供たちを守れない、だから、言えない。

 

「大丈夫だよ」という言葉の代わりに、子供たちには「大丈夫でいられる方法」を話しました。登下校の途中で大きな揺れがあったときの対処法、緊急の連絡先情報を記憶すること、メモに書いて持ち歩くこと、どんな大人を頼れば良いかということ、子供だけで行き来する範囲内の危険が想定される箇所…ゆっくり丁寧に話しながら、お父さんお母さんがいないところで地震が来ても、こうやって身を守る方法を知っていたら必ずまた会えるからね、誰かが必ず迎えに行くから待っててね、と。そして、怖いよね、と。私も怖い、君らはきっともっと怖いよね。不安だよね。早くおさまって欲しいよね、と。

 

私は今日もやっぱり、大丈夫だよとは言えずに子供たちを送り出しました。

元気に登校していく子供たち。でも上空は今もヘリが昼夜問わず飛び交っているし、スマホには時折感じない程度の揺れがあったことが表示されてる。またいつドンとくるかわからない、その不安は常につきまとっています。長い横揺れや下からドンと突き上げるような縦の揺れ、大人の私でも怖かったその記憶が、今後子供たちにどう影響を与えていくのかも不安です。

当たり前のような日常が戻って来ているようだけれど、子供たちと公園で遊んでいても、園と学校と、離れた場所に送り出している今も、運転中も、「今ここで揺れたらどうしたらいいだろう」って頭の中で絶えずシミュレーションを繰り返していて。

 

これ、阪神大震災東日本大震災を経験したり、南海トラフ地震を想定する地域の方はずっとこんなふうに考えながらくらしていたのかな。そんなことに初めて気づかされた感じです。4月14日を境にガラッと視点が変わってしまったようにも思います。

 

子供たちに不安を感じて欲しくないから、怯えたりしないように、自分が怖がるところを見せないように、夫との諍いに繋げないように、とここ数日とても良いお父さんお母さんを演じている自分もいます。Twitterでもたくさんの方が、無理しないでね、大事にしてね、って私や子供たちを心配してくれていてとても有難いです。

備蓄や心の準備、避難のシミュレーション、それを積み上げて「大丈夫だ」と思う為の備えもする、でも運によるところも大きいだろうから諦めもする。私は大人だから、そうやって整理しながら自分の心を守ろうとしているのかもしれません。

 

子供たちは毎日何度も何度も私に「もう地震こない?」と聞きます。「来ないよ」と本当は言いたい。「もう揺れないから安心していいよ」って言ってあげたいけど、そんな嘘はつけない。だから「来ないといいね」「来ないかわかんなくて怖いよね」としか返せない。小さな娘や末っ子をぎゅうっと抱きしめて「でも今地震が来たら一緒だから大丈夫だよ」と次は言ってみようかな。

 

「大丈夫だよ」って何度も言ってあげたい。もう地震なんか怖がらなくても良いと言ってあげたい。でももしそれが嘘になってしまったときがやっぱり怖いから、私は今日も大丈夫だよって言えないまま、大丈夫だと思うために何ができるかを考えることと、怖いと思う気持ちに寄り添うことしかできずにいます。それが今の私の、精一杯のできることなのだとどこかで思いたくて、こうやって書いているのかもしれません。

 

とりとめのない文章になりましたが、今日は終わり。

発達障害、自閉症、多動…「かもしれない」と不安なときにまずできること

自閉症啓発企画へのいろいろな反応

なないお(id:nanaio)さん発の企画だった「世界自閉症デーコラボ2016」に私も1つ記事を書かせて頂きました。Twitterでのツイートをまとめたものや寄せられたブログ記事のまとめなど、なないおさんのブログ(うちの子流~発達障害と生きるに掲載されています。この企画に対するいろいろな声が、ブコメ欄やTwitter上で見られました。そのなかで私が気になったのが、啓発して広めようとする動きに対するものでした。

 

今回のコラボ企画やブルーライトアップのイベントなどによる「周知のための活動」で実際に発達障害自閉症、多動、などの言葉が周知されつつあることは私も肌で感じています。そういう広める活動の「弊害」という形で「うちの子発達障害かも…」と不安に感じてしまう保護者が出てくるのでは、という声が寄せられていました。

 

なないおさんに寄せられたその声のなかには、かもしれないと不安になった保護者が身近な知識を持っていそうな方にその不安を漏らして「〜〜ちゃんは大丈夫だよ」と言われて安心して…というエピソードが添えられているものもありましたが私はそこに不安というか、疑問を感じたんですね。それでいいのかな…と。

 

「大丈夫だよ」をかき集めていた頃

「もしかしたら…」と思っているとき、私もあちこちに「そうかもしれない」という不安を漏らした時期がありました。そのときに発達障害の専門家ではないけどそれなりの対子供経験のある職種の方や健診の保健師さんなどのちょっと頼れそうな方から「違うと思いますよ」「大丈夫だと思いますよ」と言われてホッとしたことがありました。

 

なぜホッとしたんでしょう。

 

それは、私が「この子は発達障害ではない」という安心材料がほしかったからです。大丈夫だと言って欲しかった。違うと否定して欲しかった。それをかき集めて私がただ安心したかった。

今になってみれば、それを求めて、そう言ってくれそうな人にそう言ってくれそうな形で不安を漏らしていたのかもしれない、とすら思います。

「かもしれない」恐怖…偏見や差別や将来に対する不安や悲観に押しつぶされそうで怖い。その怖さを払拭するために、違うと否定するための材料がほしかったんだと思います。

 

誰のせい?

子供の問題行動で悩んだり、保育園や子供たちの輪の中で他の子と違う行動をとる親が周囲からよく言われることがあります。それは「育て方が悪いんじゃないの?」とか「愛情不足なんじゃないの?」という言葉。発達障害の子供たちを育てる親御さんの中にはそんな周囲の言葉に傷ついた経験がある方も多くいらっしゃると思います。私もその1人です。実の親兄弟や親戚、学校関係者から言われたこともありました。

 

自分の何がいけなかったんだろう、と思い悩むなかでこんな言葉を浴びせられるのは本当に辛い。もし言われて辛い思いをしている方がいらっしゃるのなら「そんなことないよ」って言いたい。悩んでる時点で多分、愛情不足でも育て方が悪かったわけでもなかったと思うんですね。

ただ「育て方のせいじゃないか」という言葉、これ真っ向から全力で否定したいところですが冷静に考えるなら切り分ける必要があるんじゃないか、と私は思っています。なぜなら、要因と対策がごっちゃになっているから。

 

発達障害の要因

発達障害は生まれつきの脳の機能障害です。ですから「親の育て方が悪い」から引き起こされるわけではありません。どんな育て方をしていても発達障害の特性を持っていることは変わりません。「親の育て方」のせいで発達障害になるわけではないのです。

 

ただ希なケースとして、後天的に受けた虐待によって脳の一部に萎縮がおこり、その結果発達障害によく似通った言動を見せることがあるようです。これは被虐待児のケースなので混ぜて考えることはできないとは思いますが後天的な要因による問題行動のひとつの事例です。

 

もうひとつおさえておかねばならないこと、発達障害はオンオフの障害ではありません。グラデーションのように人によりその特性の様相は違っています。定型発達(発達障害ではない)人と発達障害で困難を抱えた人、という2種類しかこの世にいないわけではありません。その間には、発達障害の特性を持ちながらも気づくことすらなく自分なりに工夫をしたり失敗をそれなりに乗り越えたりしながら生活をしているたくさんの人たちがいます。(恐らくは私もそのひとりです)

 

発達障害とは「どんな脳みそを持っているか」という傾向のひとつでしかないのかもしれません。その傾向が環境など様々な要因の影響を受けて本人が困ったり、周囲が対応に苦慮したりすることになったときに障害として支援を必要とするのかなと私は考えています。

 

対策としての「育て方」「接し方」

どんな育て方をしても生まれ持った脳の特徴は変わりませんが「親の接し方で子供が変わっていく」のもまた事実なんですね。私が「接し方のせいじゃないのか」という心ない声を全力で否定できない理由はそこにあります。これは発達に問題のあるなしに関わらずどんな子に対しても言えること(当たり前ですよね)なのだけれど、特に発達に困難のある子には親や周囲の大人の接し方による影響を大きく受けやすいのではないかと私は思います。

「接し方のせいでそうなった」は否定したいし、その助言に隠された刃で手のかかる子の育児や心ない周囲の対応ですり減ったメンタルの保護者たちを刺さないで欲しいとも思います。でも「接し方を変えてみることで効果があるかもしれない」という対策という側面での「育て方」「接し方」。それを子供に合った良い方向に向けていくことは状況の改善のためにも子供の心を折れないように丈夫に育てていくためにもとても大事なことなんです。

 

怖くてもいいから、まずできることを

発達障害かもしれない、という不安から色々な情報をかき集めているときにここにいきついた方もいらっしゃるかもしれない。心の中の不安や怖さをどうする?乗り越えていくのかどうなのか。でもいつでも乗り越えられるわけじゃない。逃げたい時期には逃げればいいし、背を向けてもいいと思う。立ち向かえる強さを持ってないときにはそうしないと自分を守れないし、不安が募り過ぎているだけでもしかしたら発達障害ではない可能性だってある。

 

でも、そんな道が見えず困っているときでもできることがある。

今日のエントリの本題にやっと辿り着きました。

 

できるところからやってみよう

私がいままで見たなかで、幼児の段階から一番取り組みやすいのはこれかなと思います。

発達障害の子どもを伸ばす魔法の言葉かけ (健康ライブラリー)

発達障害の子どもを伸ばす魔法の言葉かけ (健康ライブラリー)

 

最初に手に取ったときには息子がかなり大きくなってからだったので「もっと早く出会いたかった!」と思った一冊。読み込んでから似たような子を持つ知人に譲りました。

 

この本を読んでまず思ったのは「これは発達障害の子以外でも使えるぞ!」ということ。発達障害の子に対する声かけや対応の仕方をまとめた本はたくさんありますが、その多くは実は定型発達の子にもかなり有効だったりします。

 

発達障害」だからこういう対応を必要とする、というわけではないんですね。本当はどんな子にもそういう丁寧な対応が有効なんです。発達障害ではない子たちは大人がちょっと手を抜いても間違った対応をしても子供の方がそれなりに受け流したりして過ごしてくれているだけなのかもしれませんが、発達の仕方に凸凹があったりする発達障害の子供たちはそんなに上手に大人の行動に対処することが難しい。

 

以前、トピシュさんが取り上げて話題になった本がありました。

この中で紹介されている学研のヒューマンケアブックスの中には「自閉症の子どものためのABA基本プログラム」シリーズがあります。

このシリーズも「自閉症の子どものため」と銘打たれていますがトピシュさんも書かれているように自閉症の子に限らずお子さんの育て方で悩んだときに役に立つ接し方がまとめられています。

 

声かけの仕方で以前ネット上で話題になったのは楽々かあさんこと大場美鈴さんの声かけ変換表かなと思います。

このサイトの「支援ツールのシェア」の中に「声かけ変換表」があります。

 

同じように子供への声のかけ方について私が過去に何度もこのブログで取り上げた本があります。

子どもが聴いてくれる話し方と子どもが話してくれる聴き方 大全

子どもが聴いてくれる話し方と子どもが話してくれる聴き方 大全

 

小学校より上くらいの子供への接し方を細かくレクチャーしてるこの本。この本は発達障害に特化した本ではありません。我が家の4人の子供たちは定型から支援の必要な子まで色々ですがどの子にも応用ができる内容になっています。

 

おわりに

お子さんが発達障害かもしれない、違うかもしれない。そのグレーな時期を親としてどう過ごすのかは生い立ちや性格、置かれた環境によっても様々なんだろうなと思います。でも親がどんな気持ちだろうと、前に進めず立ち止まっていようと、子供は子供の置かれた環境のなかで毎日を過ごしているんですね。親の心が揺れてても、立ち止まってても、子供たちはその間も成長を続けてるし、親が「障害かもしれない」と悩むような現状のなかで困難に直面しながら生き続けてる。だから、発達障害だからこうしないといけない、という前の段階でとりあえず、どんな子にも有効で簡単にできる手段をまず試してみることから始めてみたらどうかな、と思うのです。

 

その先でお子さんが成長とともに落ち着いていくかもしれないし、やっぱり発達障害だったということになっていくかもしれない。どうなるかなんて専門家にもそう簡単にはわからないことだから、とりあえずおうちの中からできること、周囲の大人に少しの配慮をお願いすればやってもらえそうなことから始めてみてはどうかな、と思っています。

 

そしてその先で、発達障害としての支援を考えるところへ保護者としての気持ちが向いてきたときにはなないおさんのブログがきっと役に立つことと思います。

どこに相談したらいいか、どんな手順を踏んでいくのかが丁寧に書かれています。地域差もあることなのでなんでも当てはまるわけではないですが、見通しを立てるための役に立つんじゃないかなと思います。

 

もし発達障害じゃなかったとしても、ここに書いて来たような声のかけ方や接し方を子供に合わせて使うことはきっと役に立つ。前に進むのが辛くても、その場で立ちつくさないで足踏みするだけでもちょっとずつ変化があると思うんですよ。


おまけ。

「かもしれない」ときに悩まなくてもいいような、違うと否定しなくてもいいような、そんな社会になっていくこと、それが叶えばきっと「育て方が悪い」とか「親のせいで」とか言われて傷つく人も減っていくんだろうなと思います。

そこを目指して自分ができることはなんだろう、というのが私のテーマでもあります。

でもまだまだ社会がそこまで整ってないから迷ったり戸惑ったり立ち止まったりしてしまうこともあると思う。今回はそんな不安な気持ちに寄り添えたら、と思って書きました。

「小1の壁」をコツコツと崩すために

新年度を迎えて、晴れてお子さんが入学の保護者のみなさま、おめでとうございます。

今日は、今朝見かけた玲奈さんのツイートから感じたことを。

 

保育園から入学と、幼稚園から入学の温度差

玲奈さんが書かれているように、保育園は就労を含む様々な事情から家庭での保育に欠ける乳幼児に対する福祉の場。私は保育園に子供を通わせたことがないのでその実情は耳にすることはあっても未知の世界です。

私がうちの子たちを通わせたのはたまたま縁のあった幼稚園。在宅の仕事も多かったので降園後や長期休暇のお預かりがある園です。

 

実は私は、玲奈さんが書かれているような「ありえん!」な感情を入学後に感じたことがあまりありませんでした。Twitterでたくさんの保育園出身ママさんたちが入学後の大変さを書かれているのを「そうでもないよな〜」と思いながらいつも見てました。そこになんでそんな温度差があるのか、ずっと疑問だったんですが今朝玲奈さんのツイートを拝見してなるほどと思ったんですね。

 

保育園は福祉の場。「子が最優先」ではない保護者に寄り添った施設だったんだろうなと。かたや幼稚園は教育の場(入園してから何度か園長先生が実際に語っているのを聴いたこともありました)。(うちの子たちが通う)幼稚園はそもそもが「子が最優先」の場だったんだろうなと。だからそれに慣れきっていたからこその入学後の違和感のなさだったのかもしれません。

 

「小1の壁」

少し前から見かけるようになった言葉、「小1の壁」。

昨年の夏頃にブロガーのkobeni(id:kobeni_08)さんが詳しい記事を書かれていました。

保育園からの入学の大変さを乗り越えるための対策が詰まっていて、WMさん、共働きお父さん必見の記事だと思います。保育園でも幼稚園でも子供たちにとっては同じじゃんと軽く考えていたりしていたこともあったのだけれど、保護者にしてみたらそのギャップは大きくストレスや負担も大きいんだろうなとあたらめて感じています。

 

小学校は大変?

玲奈さんがタグで色々とネタにされているように、入学後に小学校の対応に驚いた経験をされている保護者の方も多くいらっしゃると思います。「児童最優先」「教育の場」というスタンスである小学校では保護者の負担の優先度が下がってしまうことは割とよく見られます。

 

たとえば、保健調査票(名前や内容は学校により様々だと思います)。うちの小学校では新学期に子供の持病や急病時の連絡先などを記入する用紙が全員に配られます。我が家には小学生が3人いるので3枚きます。同じ用紙が3枚。それにそれぞれの子供たちの名前やらなんやら必要事項を書き込んでいきます。当然持病など個人的な項目はひとりひとり違いますが、連絡先は同じです。「コピーしたい…」と書きながら毎年思いますがそうはいきません。こんな用紙が1種類ではなく何種類か手元に届きます。家の地図も3枚(これは昨年度は1枚書いてコピーして切り貼りしました)…こんなに大変なんだから学校内で情報を共有すれば書くのも1回でいいじゃない!と思ってしまう。

 

そんな書類うんぬんや、突然回収の声がかかる工作の材料、年度が始まってしばらく立たないとでてこない年間行事予定(それもよく変わる)、提出期限がおたよりに小さく書いてあるだけのイレギュラーな宿題……学校に振り回されてる…と感じることは正直たびたびあります。

 

こちら側の都合とあちら側の都合

上で紹介した記事の中でkobeniさんがこう書かれています。

「ここに『壁』(と呼ばれているもの)がある」と、周囲にその存在を説明し、理解してもらって、こっち側とあっち側の両方から壁を無くす

(中略)

自分たちが、そこまで頻繁には仕事を休めないことや、「やりたくない」わけじゃなくて、「現実的に仕事と両立しようと思うと、度重なる平日の会合に出席するのは厳しいのだ」ということについて、コツコツ伝えていくしかないのかな、と思います。

入学後にそびえ立つ「小1の壁」、ワーキングマザーはどう立ち向かう? - リクナビNEXTジャーナル

これが、たぶんとても大切なことなのだろうと思うのです。

こちら側とあちら側からからの両方から壁を無くすために自分たちの情報を伝えること、そして向こう側の事情を知ること。

 

というのも、私たちが「大変だ…」と感じていることの多くは学校側にそれなりの理由があったりします。

上記で触れた何回も同じことを書く書類も、そうやっていちいち必要な情報を1回1回かき集めた方が手間がかからないんだろうな、と思います。共有するためには内部で動かないといけない、漏れがないかチェックしないといけない、何回も複写や書き写しをしなくてはいけない、その手間で教職員の時間を割いてしまうことが業務に支障が出てしまう。(Twitterで色々と呟いていたら恐らくは現職の方からそんなお返事も頂きました)

担任や養護教諭などそれぞれの担当者がペーパーで保管して必要な時に確認するためには一枚ずつ手元に必要な情報が集まった書類がないといけない。それを一番確実に手元に集めるための手段が似たような数種類の書類なんだろうなと。

 

学校側の事情は、クラスの役員やPTAの執行部など学校内部に近い所に入っていくと色々と見えて来たり聴こえて来たりしますがそうでない場所にいるとなかなか向こうから情報はやってこない。自分の立場だけから見たら理不尽だったり配慮に欠けるような対応に感じられることも実際には学校側の都合があったり、そもそも働いている保護者それぞれの事情は考慮に入ってなかった、ということもあったりします。

 

こちら側にも、あちら側にも、それぞれに自分たちのやりやすさ、都合があります。双方がそれぞれに情報をやりとりしないとわからないことも多い。だからこそ違和感を覚えたり、困ったりしたら何でもまず伝えてみることが大事なんじゃないかと思います。

 

伝えてみた、こんなこと。

入学時に用意する袋もの

説明会のときに渡されたプリントに「道具入れ」という名前の巾着袋の絵がありました。紐の上から袋の底までの長さが「○○㎝」と指定されています。プリントを見たときまず「このサイズきっちりになるように作らないといけないの?」と思いました。なので先生に聞いたんですね。「手持ちのもので近いサイズだったらいいですか?」先生の答えはOK。そのサイズは教室の机の横についているフックにかけたときに床に付かないちょうどいい長さだったようで、長過ぎると床に付いてしまうから少し前後する分には構わないとのことでした。

こういう、どこで使うためにこんな仕様になっている、という細かいことまでは事前にアナウンスされないことも多いです。でも聞けば丁寧に教えてくれたりもする。事情が分かればその範囲内でやればいいんだなってこちらの自由度が増したり、必要な理由が分かって用意する心理的なハードルも下がるかもしれない。

 

牛乳パック

息子が突然「牛乳パックを明後日までに持っていかないといけない」と言うので困りました。当時我が家は宅配のビン牛乳しか無かったのでパックのをわざわざ買ってくるしかないのかな…でも明後日…と思って連絡帳に「用意できないかもしれないけれど大丈夫でしょうか」と書いたところ先生からのお返事は「自分も余分に用意する予定だから心配しなくて大丈夫ですよ」とのこと。結局そのときはなんとか調達できたので持たせましたが息子に聞いたら持ってきてない子もいたけど先生とか余分に持って来てた子があげてたよ、と。

 

言わなければ、無いのと同じ。

保育園からの進学で状況のあまりの変化に驚いてしまっている働くお母さんお父さん方に、「これに従うことが小学校に通うってことなんだ」とは思わないで欲しいな、と思います。保護者側の事情は声に出して伝えないと学校には伝わらない。言わなければそれは無いのと同じ。何も言わずにいたら「できる」「大丈夫」と言っているのと同じです。

でも教育の場である学校は先生方のお城ではありません。保護者と連携して初めて子供たちにとって本当に必要な教育ができるんじゃないか、と私は思います。

そのためにはできることもできないことも保護者の側から丁寧に伝えることがまず必要なんじゃないかな。うちの学校の場合だけれど、1年生の担任にはそれなりのキャリアがある先生がつくことが多いような印象があります。

もちろん何でも言えば通るわけではないと思います。言い方によってはクレーマー的に受け取られてしまうこともあるかもしれないからその辺は難しい。でももし「困ったな」と思ったら担任の先生にやんわり何でも相談してみたらどうかな。特に最初の子の入学だったら、担任の先生はそれも含めて丁寧に対応してくれるんじゃないかなぁと思います。(当たり外れはあるだろうけど…)

 

おわりに

先生の中にはかなりの割合で実際にご自身が働くお父さんお母さんである方もいらっしゃる。先生に色々な事情をお話すると「実は私もそう思ってたんですよね…」とか「その方がやりやすいですよね」って言われたりすることも。

内部からだと変えにくい伝えにくいことも、外から見える形で保護者の声として挙げることで改善につなげやすくなることもあるんじゃないかなと思ったりしているので学校から学校経営についてやイベントについてのアンケートが回ってきたら思ったところは色々と書くようにしています。

もしかしたら冷たいと感じる対応に泣くこともあるかもしれない、しんどいこともたくさんあるかもしれない。でもTwitterには悩みながらいろんなトラブルに直面したり乗り越えたりして来た先輩パパママさんたちがたくさんいます。私もそんなつながりにとても支えられてる。ひとりで抱え込まずに、吐き出したり相談したりしながら小学生保護者さんとしての生活を送ってもらえたらな、とひとりの小学生母ちゃんとして思っています。

次男と私のお洋服 〜世界自閉症啓発デーに寄せて

ユニクロのような安価の既製品のお洋服をするっと着こなせる方がいます。

 

なんとなく違和感は感じるけどまぁ問題なく着られる、という方もいるでしょう。

 

自分で工夫して着こなせば問題ない、という方もいるかもしれません。

 

洋裁の心得があって自分でお直しして着心地を良くしている方もいます。

 

お直しをプロや得意な方に外注して自分に合ったお洋服に直して着ている方も、

 

お直しでは調整が難しいからオーダーメイドのお洋服を着ている方も、

 

既製品では合わずストレスが溜まるけれど直す術を知らずに着続けている方もいるかもしれません。

 

 

お洋服に例えましたがこれは、自閉症を含む発達障害についても同じことが言えると思っています。

 

 

私は、自分で工夫したり洋裁を学んだりして自分なりお直しをしたり、時々身近な方にお直しを頼んだりしています。つまり、恐らくは当事者であろうという自覚がありますが自力でそれをカバーすべく色々な工夫やツールを駆使したり、身近な方に具体的に協力を自分で依頼して問題なく生活を送っています。

 

夫や4人のこどもたちのうち2人は既製品の洋服を気持ちよく着ているように見えます。

1人はなんとなく着心地の悪いこともあるようなので私が時々少しお直しをしたりしつつ、既製品のお洋服で過ごしています。

 

そしてもう1人は、私やプロのお直しを利用したり、ときにオーダーメイドのお洋服を発注したりしています。つまり、教室や家の中で快適に過ごせるように私がツールを工夫したり、周囲に配慮をお願いしたり、通級指導教室を利用したり通院したりして彼に合った環境を整えるための色々な手を必要として過ごしています。

 

でも、私たち6人は見た目はたぶん、どこにでもいる似たような顔をした家族です。並んでもそれぞれがどんな服をどんな風に工夫して着ているかはきっと分かりません。

 

なないおさん発の世界自閉症啓発デーに寄せたコラボ企画。

この、なないおさんの書かれた記事のタイトル「私たちはあなたの身近で生きています」というこのままが、私の気持ちでもあります。

 

昨年の同企画で私が書いたのは、当事者と定型発達者として生きている人たちの間には本当は境界線なんてないんじゃないの、ということでした。

 

 

いろいろな当事者の方や当事者家族のみなさんと関わりを持ったこの1年を経て、改めてこの記事を読み直してみました。

私は今も、発達障害当事者と定型発達者の間には境界線は存在していない、と思っています。でも去年と少し違うこと、それは、境界線は存在していない、でも「困っている」という診断は支援を受けるために必要だと言うこと。当事者と定型さんの間に境界線があるのではなくて、困っている人と困っていない人の間には境界線を必要としているんじゃないか、ということです。

 

私は、恐らくは当事者ですが困ってはいません。

自分がどんなことが不得手かを知っているし、苦手なことについては誰にどんな支援を頼めばいいか、どこに愚痴を吐けばいいか、その自分の取扱説明書を自分で把握して、自分でなんとかできているからです。

 

でも、次男は教室で困っていました。小手先の工夫ではどうにも対応しきれませんでした。彼は、困っている人という境界線の向こうであると本人も周囲も認識する必要があった。その認識の向こう側に初めて、公的な支援や配慮が得られた。境界線を越えることで彼は初めて、これまで着ていた自分に合わなかった既製品のお洋服から、自分に合わせてお直しをしてもらった着心地のよい洋服を着ることができたのかもしれません。

 

学校の先生や知識を持った周囲の知人…たくさんの方の援助により彼に合っているのはどんなお洋服かを一生懸命模索し続けています。どう直せばよいか、どうしたらストレスを感じないか、私たち夫婦も含めた複数の大人たちが彼のために考え、試行錯誤する日々です。彼が笑顔で過ごせるように、そして周囲がそんな彼と楽しく過ごせるように。

 

彼は「困っている」ことを周囲に気づいてもらえた、だから彼のためのお洋服を直したり作ったりするためのチームができました。

 

でも。

 

何となく既製品のお洋服を着ているようで実は肌触りの悪さや締め付けの苦しさを感じて、でもどうする術も無くストレスだけを募らせている子たちももしかしたら教室にいるのかもしれない。子供だけじゃなく大人の社会のなかにも、みんなが着てる同じ服を着ているけどなんだか違和感がある、でもどうにもできずにイライラを感じてしんどい人がいるのかもしれない。

 

パッと見た目は着心地よく着ているように見えても実はストレスを感じてしまっている、本当はお直しやオーダーを必要としている人は多いのかもしれない、と思っています。

 

境界線を「発達障害者」と「定型発達者」の間にあると考えてしまっていたら、その着心地の悪さを感じながらもそれなりに過ごしている人はいつまでもそこでストレスを感じ続けることになるかもしれません。「ストレスを感じて困っている」からこそ何かの工夫や支援が必要なんじゃないか、お直しをしさえすれば着心地がぐっと良くなるのかもしれない、その、困っているんだよっていう境界線を自分も周囲も意識できたら。

 

昨年も書いたインクルーシブ教育や教育のユニバーサルデザイン化はその既製品そのものの概念を覆すことなのかなと思っています。工業製品として流通しているファストファッションではなくセミオーダーのお洋服が誰にでも手に入る環境。

 

でもそこに行きつくのはきっとまだまだ時間がかかるから、今できることはまずその、困っているという境界線を本人が自覚したり周囲が意識したりして支援に繋げることなんじゃないかな、と思っています。

 

お題の「うれしかった配慮やお礼の気持ち」の具体例からはかなり離れてしまったのだけれど、次男のお洋服お直しチームができたことがこの1年の私のうれしく、そして支えてもらったこと。さてそのチームの大半の方が異動となってしまった来年度、どんな新しい出会いが待っているのか期待と不安が入り交じった複雑な心境の母とは裏腹に、前だけを向いている次男です。

なぜ夫を「チンパンジー」や「大きな子供」とみなそうとするのか。

前回のエントリの続きです。

 

夫を動物や「大きな子供」に例えることに感じるモヤモヤ

ブックマークコメントの中で夫を動物に例えることに抵抗があるという声があったり、「大きな子供とみなせばいいのよ」という年長の方の助言にモヤモヤを感じたというエントリ(「大きな子供がいると思って…」って、わたしは子供と結婚した覚えはないのです - ワーキングマザーは夢をみる)を拝読したりして色々と考えたことを。

 

前回のエントリで私は、相手を何かに見なすことで意識するのが難しかった自他の境界線を明確に意識することができるようになったのではないか、と書きました。夫をチンパンジーだ、と思うことで家事や育児に穴があっても、ゴロゴロしていてもまぁしょうがないか…と諦めがつくという種類のライフハックなのだろう、とは思います。ブクマコメントにもあったような、本来人間であるはずの配偶者を動物として心理的には見下す形になってしまっていることへのモヤッとした感覚は私もなんとなくわかります。だからこそ息子をネコだと思い込んでいたときにもそれをあらわにしてはならないと思っていたわけですが。

 

なぜモヤモヤを感じるのか

動物や「大きな子供」に違和感を覚えるのはなぜか、それは上で紹介したエントリのなかでmemi (id:memi1005)さんが書かれています。

大きな子供とわたしは対等ではありません。大きくても相手は子供ですから、根気よく教えて、導いて、成長を促さなくてはいけません。それも、5年、10年という時間をかけて。大きな子供本人は、ほめられたりごほうびがあればやる気を出しますが、気が向かなければやりません。子供なので仕方ないのです。(「大きな子供がいると思って…」って、わたしは子供と結婚した覚えはないのです - ワーキングマザーは夢をみる

 

本来対等であるはず(と私も恐らくはmemi (id:memi1005)さんや動物に例えることの違和感を書かれていた方も思っている)の配偶者を、子供や動物という対等ではないように感じるものに見なして「だから仕方が無い」と諦める形になっている、その構図にモヤモヤを感じてしまうんですよね。

 

色々なものに例えてみるという実験

前回のエントリで触れていたバターの容器についての思考実験をしてみます。

登場人物は、夫と、妻である自分です。まずは前回のエントリにあった通りのシチュエーションを想定します。

妻である自分がトーストを食べようとパンをトースターに入れ、焼けるころを見計らって冷蔵庫をあけ、バターの容器を取り出してテーブルにつき、さぁ焼きたてのトーストにバターを…と思って容器のふたを開けたら中身は空だった。同居人の夫に問いただしたら「自分が使った時に切らしてしまったけどなんとなく元に戻してた」と言う。空の容器を戻してそのままにしておくとはなにごとか!トーストを食べようと思っていたのに!と思って憤慨。

 

 子供だったら?

ではこのケースで、自分の直前にバターを使ったのが子供だったらどうでしょう。カチンとはくるかもしれない、トーストが食べられなくて残念に思うかもしれないけれど、自分より未熟な存在である子供だから仕方ない、と溜飲を下げることができるかもしれません。子供なので「使い終わったバターの容器をそのまま戻すと次の人が困るからお母さんに知らせてね」と伝える、というステップも難なくできるかもしれません。

 

では、その子供に対して以前同じことを注意したことがあったとしたらどうでしょう。一度言っているからできているはず、という気持ちが生じたらもしかしたら「なんで!?」という気持ちが湧いてしまうかもしれません。

 

それが一度ならず何度も言っていたら?年齢に応じてできないこともないだろうと思われるような成長段階だったら?

もしかしたらそのときは、できていないことに怒りを覚えるかもしれません、というっか私なら多分カチンときます。

 

チンパンジーだったら?

チンパンジーだったらしょうがないや…そう思う諦めの気持ちのなかにあるのはコミュニケーションの困難、そして能力的にもう求めるのは無理だろうという限界を感じる気持ちではないかと思います。

器用とはいえ動物だから、そんな丁寧な気遣いを教えることも、能力的にできるようになることも無理だろう、という限界に直面して諦めざるを得ない感じかなぁと。

 

エイリアン・外国人だったら?

この二つに共通しているのはまず言葉が通じないであろうということ。言語的コミュニケーションを諦める必要があります。そして、成人かもしれないけど育つまでの環境が自分とは全然違うということを認識している。文化が違うから仕方ないという諦めがつく相手だと思われます。

 

自分より能力的に高いか同等と分かっている相手だったら?

では、見下せない相手、自分よりよく気のつく人だったり、家事のノウハウを知っていたり経験があると分かっている相手だったら?私なら「できるはず」なのにやらないのは何かしら自分に対するメッセージが込められているんじゃないだろうか…と勘ぐったり不審に思ったり、掘り下げて考えて色々と仮定して傷ついてしまったり…してしまうような気がします。

それでは溜飲を下げる効果はないですよね。できるはずなんだからやってくれたらいいのにという苛立ちや怒りを感じるかもしれないし、できるはずなのにやってないってことは何か意味があるんだろうかと考えてしまうかもしれない。(これは実は私が自分の思うような言動を夫がとってくれないときに苛立ちを感じる心理だったりします)

 

能力を下に見なすことで得られる効果

前回のエントリで私は、異物と見なすことで境界線を意識できる、と書きました。溜飲を下げるためには格付け的に上や下である必要は実はないんですね。自分とは違う他者である、という境界線をお互いの間に認識できるだけでいいんです。私とあなたは違う、だから「できることもできないことも違う」という認識ができるだけでいい。

 

でもこの「できないことも違う」ことを理解するのが実はとても難しいんじゃないか、と思うのです。

 

人はみんな違う、というとうんうんそうだよねって思うと思います。ものの感じ方も考え方も多種多様です、っていうとやっぱりうんうんって思うと思います。「私には簡単なこれこれが、どう頑張ってもできない人もいます」って漠然と言うとまぁそうかなぁって思うかなと思います。じゃあ、「あなたには簡単な○○が目の前のその人にはかなり難易度が高いんですよ」って具体的に言うと「え?」って思うかもしれません。

 

自分にとっては楽にできること、少し頑張ればできることをとても難しいと思っていたり、そのために体力的心理的なハードルが自分よりとても高いという可能性。多様性という言葉で自分と周囲の人間をぐるっと見たときに、自分より能力的に優れている部分や自分が持っていない部分はすぐ目につくと思います。「隣の芝は青い」というやつですね。自分がコンプレックスに感じている部分なんかは特に際立って目につくのではないでしょうか。

でも。

自分の方がより優れている部分、自分は持っているのに相手にはない部分についてはぱっと見ではなかなか目がいきません。意識しないと感じられない。だから、あえて能力的に人間の成人よりも低いと思われる子供や動物に例えることで意識しづらい「個々の能力差があり自分より優れていない部分」に目を向ける効果があるのではないかと思います。

 

異文化で育ったと見なすことで得られる効果

エイリアンや外国人のように異文化で育ったと見なすことで得られる効果として、ベースになる文化が違うから仕方が無い、という諦めがつくことがあると書きました。

これ、別に日本人同士でも違っててもおかしくないんですよね。地方によっても風習が違うことも多いし、家庭ごとに違う習慣があって結婚してビックリする、なんてこともありがちだと思います。でもそれも、見た目が似たような日本人という大きな枠のなかに一緒に存在していると見落としがちになってしまうことなのかもしれないなと思います。

本当なら育った家庭も置かれていた環境も違うんだからベースになる文化が全く違っていてもなんらおかしくないんですね、でもそれをなかなか意識できない。それを助けるのが、異文化で育った存在だと見なすことなのかもしれません。

 

おわりに

今回は「イライラの対象を何かに見なして溜飲を下げる」ことについて掘り下げました。誰しも自分が基準です。自分が簡単にできること、自分が努力してできるようになったことは周りの同じような姿形をした人間だったら当然できるだろう、と思い込みがち、それが引き起こすトラブルを避け、自分の波立った心の中を自分で整理するための一つの方法が「何かに見なす」ということなのかなと思います。そしてその無意識に選んでいた方法が実は意識できていなかった自分と他人との境界線を意識するためのツールであり、また自分より能力的に低い存在だと見なすことで意識しづらかった自分より劣る部分に目を向ける効果があるのではないか、と考える過程を長々とお送り致しました。

 

ちなみに、昨日のエントリで触れたバター容器からはかなり脱線した感があります。おそらくですが、あのバター容器問題の根幹にあるのは自他の境界線うんぬんというよりは「困っているのは誰?」問題ではないかと思っています。

それについてはかなり前に書いたことがあったのでご参考までに。

夫をチンパンジーと見なすライフハックと自他境界

「夫をチンパンジーと思ったら」

朝TLに流れて来た2つのツイート。

1つは妻側から「夫が空のバターの容器をそのまま冷蔵庫に戻していたから怒った、相手をチンパンジーとみなしたら仕方が無いと怒りが和らいだ」

もう1つは夫側から「空のバターの容器を何気なく冷蔵庫に戻していたら妻が人に思えない様相で怒った」というもの。

 

本当にご夫婦が同じ案件について語ったのかどうかは本旨ではないので追いかけて確認はしていませんが、この2つ(特に奥さんの側)のツイートから行きついた面白いことについて今日はまとめてみます。

 

「ネコだと思えばいいんだよ」

小さい頃から落ち着きもなく子守りにも躾にも手を焼いて来たうちの次男坊。生来の愛嬌でカバーしたりそれなりの支援を受けたりでなんとか楽しく学校に通っていますが、彼のアホな言動や突拍子もない行動に対応するのは本当に大変、すぐに沸点に到達して大きな声が出てしまう私に、ある時夫が言ったことがありました。「次男のこと、ネコだと思えばいいんだよ。ほら、ネコだと思って対応してごらん、イラッとしにくくなるから」

 

わざわざ狭いところを通って私にぶつかっていく次男…「ネコだからしょうがないか…」

何度言ってもこたつから出て来ない次男…「ネコだしね…」

ケンカしてお兄ちゃんの顔を引っ掻いて…「ネコだし…いやそれはだめだろうよ!」

 

さすがに手をあげるとかそう言う部分についてはきっちりと叱らねばなりませんが、それ以外の日常の些細なイライラは確かに「ネコだし…」と思うと心が波立ちにくかった気がします。

 

もちろん人間の子どもである次男ですから、その尊厳は保たねばなりません。なにからなにまでネコと同様と見なすわけにも、本人に「お前をネコと見なす」と言うわけにもいきません。あくまでも私の心の中でいらだちを抑えるための一つの呪文のような感じで「ネコだ…あの子はネコだ…」と思っていた時期がありました。

 

なぜ、動物と見なすと落ち着くのか

「夫をチンパンジーと見なす」と書かれていた方の日常のツイートは存じませんので掘り下げることはできませんが、当該のツイートを拝見して自分が次男について「ネコだ…」と気持ちを落ち着かせたようにある種の諦めに近い気持ちで相手との距離をおくための方法なのだろうなとは感じました。

 

なんで相手を動物と見なすと落ち着くんだろう…動物に限らないような気はするんですね。言葉がうまく通じない相手を「エイリアン」だと称したツイートを見たこともあるし、自分でそう思って相手との距離を置いたこともある。「外国人」「異星人」「異次元から来た人」「チンパンジー」「ネコ」「カブトムシ」…自分とうまく意志の疎通ができない、指示がうまく通らない、コントロール不能な存在に対してそんな風に、自分以外の属性を当てはめて「だから仕方ないよね」と諦める。これ、一見自分のレベルに理解が達していない相手に対する不満や不快感を自分の中が流して「あげる」、というやや上から目線ぽい臭いのする行動に見えます。が、本当にそうかな、というのが今日思ったこと。

 

これ、実は「自他の境界線が緩い自分に無自覚で、それゆえに起こっている苛立ちを抑えるために相手を自分とは違う属性だと見なすことで境界線を意識できた」という状態なんじゃないか。

 

そもそも「自他の境界線が緩い」自分がそこにいるんじゃないか、と。

 

自他の境界線とは

「自他境界」「自他境界線」「自他の境界線」などの言葉で検索すると発達障害の特性のひとつとして語られるブログやサイトが色々と出てきます。

はてなブログでも著名ななないおさんのブログでも取り上げられています。

こうやって読むと「自他境界が緩い=発達障害」と受け取られてしまいそうですが私はそうは考えていません。傾向が強ければ社会的に困難を起こしやすかったり支援を必要としたりするけれど、そう強くはないけれど傾向として持つ人というのは少なからずいる、その辺は発達障害がオンオフの障害ではなくゆるやかな連続体のなかで環境や特性の強さにより支援を必要とするケースもあるし必要としないケースもある、と考えています。

この辺のことは過去にも書いたことがありました。

 

自他の境界線というのは簡単に言えば「自分と自分以外の人間には境界線がある」と認識をするということ。

「私以外は私ではない(あの歌みたいですが)」「私とあなたは違う人」というように私と自分以外の人間が「違うものである」と理解しているということ。

 

掘り下げていくと「自分の脳みそは他の人の脳みそとは違う」「自分が考えていることを相手が同じように考えるとは限らない」「自分にできることが自分以外の人間にも同じようにできるとは限らない」と認識して生活をするということ。

 

小さい子と接していると自分が知っていることは当然周りの大人も知っていると勘違いしていたりすることはままあります。成長に伴い自分と他人との違いを認識できるようになっていってそういった勘違いが少なくなっていく。発達障害の子のなかにはその成長がなかなか年齢相応に伴わなかったりして周りの子と認識に差が出て生活や学級の中でトラブルに繋がったりしてしまいます。なないおさんのブログで詳しく描かれているような状況です。

 

自他境界トラブルとして見る夫婦喧嘩

発達障害の診断が降りる降りないに関わらず、自他境界の緩さが影響したトラブルというのは社内やママ友関係の中でも割とよく発生してるように思います。

そしてその最たるものが夫婦喧嘩なのかな、と。

 

なぜ家庭内で起こるのか、それは、日頃無意識ながらも保ち続けている自他の境界線が緩むタイミングが安住の空間である家庭内だから。

 

恐らく多くの社会人として生活している人たちは公の場で出会う相手に対して自他の境界線を意識しなければ対人関係のトラブルが起こる、ということを経験則的に学んでいます。だから、外では意識できる。

 

でもその緊張の糸が切れる家庭内に、もっとも身近な他人である配偶者が存在している。そう、他人なんですね。目の前の夫や妻は他人です。自分以外の人間です。自分ではないんです、言葉にしたら当たり前のそのことが、緊張の糸が切れていて、頑張るスイッチをオフにしていて、疲れを顔にも言葉にも出していい家庭という自分のプライベートな空間になると途端に認識するのが難しくなる。

 

その結果が、自他の境界線を逸脱した苛立ちと、それに起因する夫婦喧嘩なのではないかと思うのです。

 

だから「チンパンジー」

プライベートな空間で自他の境界を意識することが難くないという方も少なからずいらっしゃると思います。私の友人の中にも「夫婦喧嘩なんてしたことない」「夫に苛立ちを感じたこともない」という私からしたら神様みたいな人も複数います。

私とその人の違いがなにかを掘り下げていくのはトラウマにも抵触する危険な行為なので避けるとして、何かが違うから仕方ないんだろうな、という諦めは必要です。

 

苛立ってしまうものは仕方が無い、自他の境界線を意識することが苦手なのはもうしょうがない。それが私の限界なのです。それが、夫の言動に、妻の言動に苛立ってしまう人の限界なのかもしれません。

 

でも子供のためにも、自分の精神的安定のためにも、夫婦喧嘩は減らすに越したことありません。能力的に限界な自分がトラブルを減らすという目的のために何が必要か、それが、相手を異なる種だと見なす種類のライフハックなのかもしれません。

 

おわりに

「イラッとしないように夫をチンパンジーとみなす」

「カチンと来て怒鳴らずに済ませたいから息子をカブトムシやネコとみなす」

 

それだけを見てライフハックとするのも一つのライフハック。でも何かモヤッとしたものを感じたり、琴線に触れるようなことがあったら掘り下げてみた私の経過も一つの参考にして頂けたらなぁと思います。

 

苛立ちが異種と見なせば落ち着くなら、それは相手が悪いからじゃなくて自分の中で相手をきちんと境界線を引いて距離を置けてないからかもしれない。

私と相手は違う人。

「空の容器をそのまま冷蔵庫に戻したら私が困る」こともまた、相手の脳みそに無ければ伝えなければわからない。それくらい察するのが簡単にできる人もいれば、できない人も、家庭のなかではスイッチ切ってるけど言われて意識すればできるって人も、いろいろなんです、多分。

振り向いて泣いてしまう親と、前だけを見ている子どもたち。

卒園シーズンの今日この頃です。

 

卒園式で歌われる歌のなかで私が好きなのが「ドキドキドン!一年生」

 


ドキドキドン!一年生

 

一年生になるドキドキ、不安だけど楽しいこどもたちの心のなかを歌ったこの歌が私は大好きです。卒園式の、誇らしく楽しそうな子どもたちの笑顔、これからやってくるランドセルを背負った未来の自分を思っているのかな、その楽しくてキラキラした笑顔が、この歌を歌うともっと明るくなる。

 

保護者や役員として例年参加している卒園式でこの歌を聴くのを楽しみにしていたのだけれど、ここ数年はあまり聴かなくなりました。

 

代わりに、お友達との思い出や園でのことを歌った歌を卒園の歌として歌っている子どもたち。大人が思い起こし涙するような、園でがんばってきた僕たち私たち、お友達を忘れないよ、お別れだよ、という園生活をふりかえるようなその内容に、なんだかちょっとだけモヤモヤとしたものを感じてしまいます。

 

感動ポルノ…

そんな言葉も一瞬脳裏をよぎるような、大人が作り演出する子どもたちのお別れの場、という印象の卒園式にじわりじわりと違和感を覚えるのです。

 

うちの子どもや周りの子たちを見ていて思って来たことだけれど、卒園式でのお別れということを彼らはあまり強く意識はしていなかったように思います。お別れ、寂しい、悲しい、これまでの色々、という過去や今のことよりも、彼らはランドセルを背負って登校する未来の自分たちのワクワクを感じてる。園が最後という寂しさよりも、ここを巣立って小学生になるんだという未来を楽しみにしている、そこに大人が、お別れの寂しさや巣立つという感動を無理矢理ねじ込んで享受している、というと大げさなのだけれど。

 

これまでの園生活での大変さや離れる寂しさや環境が変わる不安を感じるのは先を見通せる大人だからなんだろうな。だからお世話になった先生とのお別れを心細く思い、これから始まる小学校生活への不安を感じ、凛々しく卒園の証書を受け取る姿に成長を感じ、慌ただしさのなかで過ぎていった手を焼いた日々を思い返し、親は涙するのかもしれない。

 

まだ幼い彼らは卒園式のあとも元気に手を振って「またね〜〜」と笑う。寂しさやお別れの意味を先を見通して感じられるようになるにはあと数年、という子もたくさんいるのが6歳くらいの子どもたちの集団。いつもと同じように楽しそうにお別れ会の時間を一緒に過ごし、本当の本当に最後のお別れだと言われてもやっぱり「ばいば〜〜〜い」って笑って手を触り合ったりする年長児の子どもたち。

 

そんな彼らを見ていると、このお別れを惜しむ雰囲気に彼らを無理に巻き込まなくてもいいんじゃないだろうかと思ったりもするのです。お別れを惜しみ盛大なイベントにしたいのは大人だけなんじゃないのかなぁって。

 

長男が来年度卒業を迎えようとしていて、卒業式やその後の謝恩会というのが自分のなかで近いものとなっているのだけれど、袴で参加するのが流行っているとか謝恩会を盛大にやるために保護者の準備が…とか聴いているとあぁここでも子どもたちの行事を通して感動したい大人たちのあれこれに子どもが巻き込まれてしまう事態が起こるんだろうかとちょっと不安になる。

もちろん園児とは違って、12歳の子どもたちにはお別れの意味も分かっているだろうし大人に近い程度の見通しを立てることもできているだろうと思う。泣く子も多いんだろうな。

 

でもやっぱり、大人の目線からではなくて、大人が満足するためではなくて、彼らの目線、彼らの気持ちに寄り添った式典であってほしいし、そんな会を催していきたい、と思う。

 

来年度は長男が卒業、三男が卒園。はやいなぁ。

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