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スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

映画「この世界の片隅に」を観てきました。(ネタバレありません)

いつものPCからでなく、スマホはてなブログアプリ経由で書いてみているので読みづらいところがあるかもしれません。ご了承くださいませ。

 

11月に公開されて以来念願だった「この世界の片隅に」を、やっと観てきました。

たまたまぽこっと時間が空いたので、先伸ばしできるタスクを全部放り投げて映画館へ。

 

道中、まるで遠距離恋愛中の彼に会いに行くような高鳴りを感じながら、どこかで「いやそんな観る前からハードルあげすぎても」と思う自分がいました。

 

映画館に着いて、チケットとパンフレットを買いました。それを抱えてトイレに入ったところで、心拍数が上がるのを感じましたがやはり「観る前からそんなに盛り上がっても」と耳元で小さな私がささやいているようでした。

 

まだ前の作品の上映中だったので入り口付近のソファに座り、パンフレットを後ろからめくりました。

たくさん並んだクラウドファンディング参加者の名前の中から自分を見つけるのはそう難しくはありませんでした。

 

ここにあった、と、指でなぞって涙が込み上げてきましたが「こんなところで一人盛り上がっちゃって」とそんな自分をくすりと笑うもう一人の私が隣に座っているようでした。

 

入場し、着席し、館内が暗くなり。

スクリーンには、小さなすずさんが立っていました。

「やっと会えた」

ホッと、しました。

 

それから終わるまでの時間、何度も何度も読んだ原作の世界が、そこに描かれていました。色と音と動きをごく自然に加えられて。

ただただその、加えられたもののすごさに圧倒された2時間でした。

 

町の人たちの声、車の音、鳥のさえずり……そして、飛行機のエンジン音や砲弾や爆撃の音。

 

あれは、BGMや背景画ではなかったと思うのです。

すずさんが聴いていた音がそこに再現されたいた、見ていた世界がそこに再現されていた、そう、感じました。

 

もっとも印象に残ったのは呉の軍港が爆撃を受けるシーンの音でした。

 

私は本当の爆撃の音は知りません。

これまで知っていたのは、映画やドキュメンタリーで流されてきたもの。

でもそのどれとも違う、とてもクリアで、とても怖い音でした。

 

これが、当時の人が聴いた音なんだと、なんの根拠もないけれどそう思った。それくらい、その他のシーンも含めてとてもリアルに感じられる作りでした。

 

軍港や艦が映るたびに、Twitterで片渕監督にお返事をいただいて驚き恐縮したやり取りのことを思いだしてこっそり恥ずかしくなったりもしました。

 

suminotiger.hatenadiary.jp

 

 

エンドロールが流れ、監督のお名前のあとにクラウドファンディング参加者の名前が。

 

スクリーンのなかに自分の名前を見つけたとき、涙が止まらなくなりました。

ここに来られて本当に良かったと、そう思いました。ハンカチでなくハンドタオルを持ってきていて本当に良かった、とも。

 

 

上映後のふわふわとした気持ちを落ち着けるのには少し時間がかかりました。

運転席に座ってぼうっとしていたら夫からのメッセージが届く着信音がして自分のリアルを思いだし、帰路に着きました。

帰りの道中で思ったのは、これは記録映画なのかもしれないということ。

戦争のリアルを、戦争のころにそこにあった暮らしを知らせるための教材のような位置付けになれる映画なのだと思いました。

 

目を閉じると、印象深かったいくつかのシーンが浮かびます。

すずさんの声も、耳に残っています。

 

彼女のリアルがあの映画のなかにあったように、私リアルが目の前にある。それぞれの人生を同時進行ですずさんといっしょに生きているような、そんな不思議な気持ちです。

 

映画のなかで丁寧に追われていたエピソードとばっさりカットされていたエピソードとを意識しながらもう一度原作を読み返したくなったので、お正月休みの楽しみにしようかと思っています。

 

出会えて良かった原作、知って参加できて良かったクラウドファンディングと、ずっと観たかった映画。

 

こうの先生と片渕監督と、そして関わったたくさんのスタッフさんや、協力してくれた当時を知るみなさん、こんな作品を世に送り出してくれて本当にありがとう。

 

 

この世界の片隅に 劇場アニメ公式ガイドブック

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「コントロールタワー」理論で平和的に夫と家事を分担しようと試みました。

 

以前よりTwitterやこのブログを通して、夫との関係を平和的に維持すべく色々な試みをやってきました。

 

今日はたまたまTLに流れてきたとあるツイートから発想を得た、「コントロールタワー」理論を使った夫婦会議の模様をお届けします。

 

「コントロールタワー」理論

出会ったのはこのツイート。

スズキさんありがとうございます!

 

スズキさんが書かれたこの、コントロールタワーと下請け役という分担で各業務を考える、という視点、とても面白いと思いました。

 

思えば賃金労働でも船頭が多くてはうまく回らない。

指揮系統をはっきりさせておく方がスムーズなことは多い。

 

実現可能性が高そうだしなんだか面白そう、というわけでこの概念を利用して、夫と話し合ってみることにしました。

 

レジュメの作成

なんだか楽しくなってきたので、夫との夫婦会議用にレジュメを作成してみました。

f:id:suminotiger:20161227134927j:plain

 

実際の項目の部分は抜いてみました。

(うまく表示されてなかったらご指摘くださいませね)

我が家では夫にコントロールタワー役をやってほしいという項目に

・夕飯後の食器洗い

・お風呂の掃除関係

・トイレットペーパーの在庫管理

などを入れて提示、下請け役の部分には

・所定の場所に私が置いたゴミを出す

などを提示しました。

 

話し合いの前に

当然ですが、家の中の業務は洗い出せばここに書ききれないほどあります。

でもいきなり全部を、というのはハードルが高いし、失敗のリスクも大きい。

今回はお試しをして双方が馴染むための最初のステップということでわかりやすいものだけに絞りました。

リストアップしていく過程のなかで気付いたのは、私が「管理する」ということそのものがとても苦手だったんだなぁということ。

注意欠陥傾向のある私にとっては、トイレットペーパーがあと何個あるのかを把握して記憶して買い物の時にそれを忘れずに買ってくる(買ってこないと家族が困る)という一連の業務の負担が結構大きい。

そんな小さな管理業務が家の中の備品一つひとつ、子供のもの、自分のもの…と積み重なって大きな負担になり消耗しているんだなぁと改めて気づきました。

 

いざ、夫婦会議

レジュメを嬉々として披露する私と、ふむふむと読む夫。

 

平和的な夫婦会議が滞りながらも進みました。

やいのやいの言いながら、自分が何がしんどいと思っているのかを説明し、夫にどんな役割を担ってほしいのかをなんとか説明。夫もふむふむと聞いてくれました。

 

たとえば…

トイレットペーパーの在庫管理について夫はこれまで

「最後の一個が今セットされてる、ってわかったらそれを買い物の時に買うだけでしょう?(そんなに大変?)」という認識だったことが判明。

確かにそうなんだけど、その最後の一個かどうかを把握しておくこと、その次の買い物の時に買わないとと意識することが自分には苦手でつい忘れてしまうのだと説明したら、じゃあそれは自分がやろうと。

 

在庫がどのくらいあるかの管理は夫がやって、買い物役の私に必要なタイミングで必要な個数をLINEで送る(口頭で言うと忘れるから)というシステムを共有することとなりました。

 

他にもいくつかの業務について、お互いに管制塔と下請け役としての分担について話し、早速実行可能なものを試して見ることにしました。

 

これまでも私の負担をなんとか減らそうと思ってくれている夫と色々と話してきたのですが、「当事者意識を持つ」とか「私が大変そうな時に察して手伝って」とかとは違って夫にはかなりわかりやすかったようです。

具体的な業務内容を共有して私の負担を減らしていこう、という合意は得られ無事散会となりました。

 

早速やってみた結果

トイレットペーパーについては「早速2パック買って」と散会後すぐに着信がありました。在庫について考えたり意識したりすることから解放されて、たったそれだけなのにすごく楽になった自分がいました。

 

夕飯後の洗い物に関しては、すぐやってほしい私とそのうちやろうと思って先延ばしにする夫との認識の違いが浮き彫りになる結果に。

数日様子を見たり話したりしてみましたが、洗い物が残っていることがどうにもモヤモヤする私の精神状態を考えたらこれは自分がやった方が楽だ、と気づき、夫にもその旨を伝えました。

洗い物は私がやるから、それに代わる何か別の役割を担ってもらえたらと提案し、次の会議で話し合う予定です。

 

また、これまでのような「洗い物は妻(だから自分はやらなくていい役割)」ではなくて「洗い物の主を担うのは妻(で下請けは自分だから要請があれば実働する)」という役割についての意識改革も見込めそうだと感じました。

 

おわりに

レジュメを丁寧に作ったり、プレゼンがしたいの!と言ってみたり、夫婦会議を重ねようとしたり、かなり面白がっているなぁと自分でも思います。夫もそれはわかっている様子。

洗い物のように、実際にやってみたけどなんかしっくりこないってこともある。そんな時はまた次を考えればいい。この「トライ&エラー」の繰り返しは発達に困難のある子どもたちとの暮らしとよく似ています。

 

今回、レジュメの中にあえて我が家の事例を書き込まなかったのは、多分そこに書き込みたい内容は家庭の数だけ答えがあるから。

そしてその答えも、一度考えただけでわかるものでは決してないから。

 

妻と夫、それぞれの得手不得手、仕事の状況、子供の数や性格や健康状態…いろんな要素によって、それぞれが担った方が良い役割は違ってくるし、時間の経過とともに変わっても行くと思う。

 

私のように、頭の中で考えていい!って思ってやってはみたけどしっくりこないってこともあると思う。

 

やってみてダメだったら、すぐ次を考えればいい。

よそんちでうまくいく仕組みが、うちでうまくいかないのは「努力が足りないから」とか「能力が足りないから」とかじゃないし、もっと頑張ればできるとかでもないと思う。

頑張らなくてもうまく回るしくみが、きっとある。

だからそれを探すためにまた次の夫婦会議の迎えたい、と思うのです。

長男と大人の階段

久しぶりにブログを書いています。

暇になったわけではありません、山積みのタスクを前に現実逃避をしています。

 

我が家とお肉

昨日の晩ご飯のおかずのメインは手羽先の塩焼きでした。

買ってきたのは大ぶりのを15本、1人2本で、残りは夫と長男が多めに食べて…となんとなくの目算で。

 

我が家には

大きい長男(40歳目前だけどまだ食べ盛り)

戸籍上の長男(スポーツ少年、育ち盛り食べ盛り)

細身の次男(運動しないけど脳に栄養を必要とする種類の生き物なので糖分と肉を好む)

末っ子三男(その小さな体のどこに!と言われる勢いで食べる)

の4人の男性陣に食べる量は少ないけど肉好き娘と私の6人。

エンゲル係数が恐ろしいほど高いのが最近のもっぱらの悩みです。

 

他のおかずを色々と用意して食卓に戻ったところで…

想像はしていましたが私の手に取れる手羽先はもう残っていませんでした…うう

 

最近会う人会う人から「痩せた?」って聞かれるけど、ダイエットしているわけではありません、肉を…カロリーの高いものを…奴らに食われているからです…

 

少食なお母さん

もともと少食、精神的に不安定になったりゆっくり座って食べる時間がなかったりすると食べることそのものの意欲がなくなってしまう性質でもありで、子供達の前でたくさん食べるということはあまりなかったような気がします。

 

なので子供達はどうも私のことを少食だと思っている様子。

 

でも、美味しいものを食べることは大好きです。

 

長男のお手伝いと母ちゃんの秘密

キッチンでの調理中に次男や三男が何かやらかしたとか、お客さんがきたとか、突発的に離れないといけない事態になることは割とよくあります。

その日も揚げ物をしている途中で何かあったので、暇そうな長男を呼んで交代してもらっていた時のことでした。

 

用事を済ませて戻ってきて、交代した長男にお礼を言いながら揚げたてのトンカツの切れ端を「どうぞ」

 

二人で「美味しいね〜〜〜」って食べながら、長男がハッと気づいた様子で言いました。

「母ちゃん、いつもこうやって揚げたて食べてるん?」

「だってテーブルに出したらすぐになくなるやん」

 

二人で、ニヤリ。

 

長男とパイン缶と大人の階段

その数日後、長男はパインの缶詰を抱えてキッチンに立っていました。

「みんなで分けて」とおばあちゃんからもらった様子。

缶切りとしばらく奮闘した末にやっと開けられたらしく、器を4つ出して律儀に1つずつ分けていきながら、はた、と手を止める長男。

 

長男「どうしよう、1つ余る…」

 

長男「切って分けるかなぁ…お母ちゃん食べる?うーん」

 

私「長男よ、トンカツのことを思い出すがいい…」

 

長男「あぁあ!もしかしてここで食べちゃっていいの?」

私「特権ですよ、用意した人の」

 

また二人で、ニヤリ。

 

 

切り分けるべきか悩む長男の様子におにいちゃんだなぁなんかいいなぁと思うと同時に、時にそうやってうまい汁吸う方法も知ってていいんやで、と思ったりするのです。

 

それ以来長男は私がキッチンに立っているとふら〜〜っとやってきては端の椅子に座って様子を伺っていたり「何か手伝おうか?」と声をかけてくれたり。

食べ物の吸引力、おそるべし。

「親の責任」と「社会で子育て」のはざまで。

2年前に書かれたものでそういえば以前にも観た記憶があったような気がするけど、こんなブログがTwitterのTLに流れて来た。

 

ameblo.jp

 

小学校の教員さんが書かれた、ご自身の周囲で起こった学級崩壊のこと。

私も息子のクラスで学級崩壊を経験しているので、共感できる内容だと思いながら読み進めました。

後半のご自身が意識していた指導法という部分は家庭内での子どもへの接し方にも共通するヒントが詰まっていて、親としても一読の価値があると思います。

 

しかしながら、最後の一文を非常に残念に思いました。

保護者へ
 最終的にあなたのお子さんのに対する責任はあなたが負わなければならないのです。先生が負うものではないのです。誰か他人にしてもらうものではないのです。あなたのお子さんへの教育はあなたが行っているのですよ。
 だからこの子に一番良い教育を行えるように頑張っているのです、と学校へ様々要求する人がいます。あなた自身は具体的に何をしていますか?お子さんに、お子さんの発達段階に合った、お子さんの成長を促すための、何を問いかけていますか?お子さんはその問いかけで、どう育っていますか?心配はないですか?
 教師はたかだか数年しか関わり合えません。保護者はとにかく、死ぬまでつきあうのです。がんばってください。 

 

ここまで立派なことを書かれてきた方が、最後にこれを言うのか、と膝から崩れ落ちる気持ちがしました。とても悲しい。

 

教員という職業をしていたら、一部のモンスター的クレーマーに接する機会は確実にあるだろうと思います。

 

我が子が入学するまではそんなのテレビの中の話だろうくらいに思っていましたが、本当に実在しました。詳しくは書きませんがまさに前述の引用の中にあるような、我が子かわいさに学校へ色々な要求をし続ける保護者、自分の子から聴いた話を鵜呑みにして学校に怒鳴り込んでくる保護者…色んな親がいるんだなぁ…と驚くことは一度や二度ではありませんでした。

 

片田舎の小さな小学校でもこんな感じなら全校児童千人を超えるようなマンモス校だとどんな人たちが…と恐ろしくなったものです。

 

教員を馬鹿にするような発言をする親にも出会いました。

そこのお子さんが教員やほかの保護者が注意するのをまったく聞かずに大人を馬鹿にしているのを見て「あぁ親がそう言えばそうなるよね」と思ったりもしました。

 

このブログで教員の方も恐らくは、そういうモンスター的保護者に直面して来た過去があるのだろうとお察しします。

 

ですが、それはあくまでもそのモンスターペアレントの話です。

それへのクレームと、(すべての)親への話をごっちゃにしてしまっている、とても残念です。

 

 

このブログ記事について「社会で子育てをと言う人はどう考えるのだろう」というコメントをされている方を見ました。

 

「社会で子育て」

とても漠然とした言葉なので定義も人それぞれなのだろうと思いますが、私はこの言葉を親の責任放棄とはとらえていません。親だけに負担が集中して育児が崩壊しないように、たくさんの大人の手、社会福祉の手のなかでその子にとってよりよい環境で成長を見守っていくこと、支えていくこと、ととらえています。

 

その考えのもと、教員は私にとって学校に通う時期をともに支えてくれる存在だと思い敬意を持って協力をお願いしています。

学校にいる間の我が子を任せているということ。

それは、無責任に委ねるのとも、全責任を自分が負う前提で任せるのとも、私の指示通りに動いて欲しいと考えるのとも違う、一定の責任を持ったプロに我が子を任せていると思っています。

共に子供を育てる仲間だと思っています。

 

その立場にある教員という人に

先生が負うものではないのです。誰か他人にしてもらうものではないのです。あなたのお子さんへの教育はあなたが行っているのですよ。 

と思われていたら、と想像して悲しくなったわけです。

もちろんこの方と我が子の関わる先生方は同じ人ではないのであくまでも一教員の一意見として受け取ってはいるのですが。

 

親は死ぬまで子供のことに責任を背負って生きていかねばならないのか、私はそうは思いません。

背負える人は背負えばいい、でもそうでない人もそうできない人もたくさんいます。

精神的にできない人、金銭的にできない人、体力的にできない人、それぞれの事情で、それぞれの接し方しかできません。そして自立すればそこから先は子供それぞれの人生です。誰をどう頼りどう生きていくかも、彼らが決めます。自分で決める能力が乏しければ社会福祉のお世話になるかもしれませんし、誰かに助けてもらうかもしれません、その中に親である自分が入る可能性ももちろんありますが、絶対ではない。

 

教員も同じだと思うのです。

子供たちの人生に全責任は負えない、負わなくて良いと思う。

そして能力やそのときのメンタルの状態や相性や、色んな理由からどの教員も同じことができるとも思わない。それぞれの限界がある。

でも「先生には子供に関する責任を負う必要は無い、全部親にある」とは思わないで欲しいのです。

たとえ接する年数は親に比べてはるかに短くても、子供たちの人生にときに大きな影響を与える人であることには違いないのだから。

紹介したブログでも詳しく書かれていたように、学級崩壊の要因は色々と考えられます。教員の腕次第な部分も実際にはありますが、じゃあその腕の無い教員はダメだという話ではない。ブログ主さんのように実力のある教員を含め、周りの教職員やスクールカウンセラー、外部の相談機関などが連携して担任をフォローする体制を整えて行く道もあるのではないでしょうか。

 

1人で全部抱え込めない親が崩壊しないようにいろいろな社会福祉が充実していってほしいと思うのと同じように、担任が1人で全部抱え込んで崩壊せずにすむような仕組みが充実していってほしい。

 

子の親でも、教員でも、1人で何でもできる完璧な人間ばかりではありません。

長い人生のなかで、完璧な人間でいられるときばかりでもありません。

 

様々な事情で抱え込むのが難しい人がどんどん周囲を頼り、たくさんの大人の手で子供たちを育てていくこと、その子その子にとってベストな、豊かな環境づくりにいろいろな大人が関わること。

 

親にも、教員にも、親戚や友人や地域の人たちや、色んな人が、それぞれのその場の責任や関係性のもとで子供たちに関わっていく、それが「社会で子育て」することだと私は思うのです。

 

現状として、家庭に問題のあるお子さんが問題行動を起こしやすい、という現状は園や学校現場では確実にあると思います。

そんなご家庭も「親の責任」という言葉で済ませることはできない、ある種支援が必要な家庭、適切な養育ができていない状態とみなす必要があるのかもしれません。

親の意識改革とか、家庭の問題、として解決ができる話ではないと思うのです。

 

そんなケースも含めて、社会で解決していく枠組みづくりに目を向けたい。

親に重きを置いてそれを全体に強いていたら、虐待もネグレクトも機能不全も貧困も、世代間連鎖は止められない。 

 

このブログでも何度も書いていること。

「親がちゃんとしてないと子供がまともに育たない」社会から、一日も早く脱却したいのです。

 

2016.11.17午後一部追記しました。

大事なのは失敗しないことじゃなくて、どうやって取り戻すかだ、という話。

登校の数分前に…

それは昨日の朝、登校のため家を出る時間の数分前、玄関周辺では我が家の3人の小学生が所狭しと登校の準備をしているときのことでした。

 

「おかあちゃん…!コンパス!コンパスがいるんだ!!」

 

と叫んだのは忘れ物大王の次男。

 

私「いついるの?」

次男「今日」

私「明日じゃだめなの」

次男「今日、絶対なの」

私「連絡帳に書いてなかったの?」

次男「書いた。で、先生が赤い字で【絶対】って書いてくれた。」

私「その連絡帳は昨日の準備のときに開いた?」

次男「開いてない」

私「で、前に買ってあげたコンパスは?」

次男「……………………無くした」

 

怒る私とパニクる次男

文字で書くと淡々と冷静に話してるように見えるかもしれませんが、ここまででだいぶムキーーーーー!ってなっている私の様子を察した次男が

「もうだめだ〜〜うわ〜〜〜〜〜〜ん」とパニックに陥る寸前…

 

叱ってもどうにもならないのは分かってる。

じゃあ、どうしよう。

 

がんばっても無理だから。

とりあえず上の子たちには次男を置いていっていいよと先に家を出てもらって、そこから次男とお話をしました。

 

「もう忘れ物しないようにするから!がんばるから!」と言う次男にバッサリ「そんなこと無理だろうよ」と現実を突きつける私。

 

酷かもしれませんが、それが注意欠陥(欠損)という特性を持つ人間の限界だと思うのです。私もそうであるように、彼もきっと、大人になっても「がんばって忘れ物をしないようにする」人にはなれません。

 

がんばらなくても忘れ物をしない人も、がんばれば忘れ物をしない人も、いるよね?

でも君やお母ちゃんは、そうじゃない。

一生懸命がんばっても、どうしても忘れ物はする。失敗する。

だから大事なのは、忘れ物をしないことをがんばるんじゃないんだよ。

君ががんばらないといけないのは、失敗したときにどうするかだよ。

 

次男の考えた、取り戻し方

そう話すと、次男は少し考えてこう言いました。

「お母ちゃん、今日の3時間目までにお店で買って届けてもらえる?」

 

それは、確かに現段階での最善策だと私も思いました。

それを私が提案せずに自分で考えた、合格だと思いました。

 

今日の私のスケジュールからもそれが可能だったので、よしわかった、今日だけだよ、と念を押して次男を送り出しました。

 

取り戻せるのだ、という経験

次男に話したように、特性ゆえの困難はがむしゃらな努力ではそう簡単には解消されません。

私も小さい頃から何度も何度も、物を無くし、壊し、叱られ続けてきました。

 

でも大人になって、失敗しても取り戻せることを知りました。

たいていのことはリカバリー方法を知っていればどうにでもなる。

 

失敗を減らすことはもちろん大事だけれど、それ以上に私たちにとって大事なのはどうやって取り戻すか、それを次男にも知っていて欲しいと思っています。

 

おわりに

今回は忘れていた上に無くしていたので買い直すしかありませんでした。

帰って来て私に「今日はありがとう」と言う次男。

 

朝のことについて話し、こういう取り戻し方もあるけれどお金がかかるのだということも、それが積み重なっていけば君が欲しがっているゲームや本を買える金額になるのだ、それをリカバリーのために使ってしまっているのだ、ということも説明しました。

 

また、急場で買いに行くことで周囲を巻き込むことも理解して欲しいということも。

 

慌てなくていいように前日に準備をする、そのときに連絡帳を開いて確認する、そのためにはまず連絡帳を確実に書いてくる、いくつものステップがあり、めんどくさがり屋の次男にはとてもハードルの高いこと。

 

全部を完璧にこなすのは無理だけれど、私が日頃家の中でやっているひとつひとつの工夫のように、次男にもきっと彼に合った方法がある。

 

それを自分で見つけられるようになるまでは一緒に考えたり相談したりすればいいのかな、と思ったりしています。

 

失敗したときはしたときでこうやって自分で取り戻す方法を考えたり、人に頼んだりできる、振り回した分のお礼も言える、それはそれで、大事なことだと思うのです。

 

おまけ

玄関で家を出る前に「コンパスがいるんだ!」って思い出したことだって、本当は褒めてあげたい要素だったりするんだよなぁと書きながら思いました。

思い出せた、えらい!って、その場で言えるような余裕が自分にも必要だなぁ。

 

 

 次男が無くしたのはこの、ちょっといいお値段のくるんパス。
使いやすかろうと思って買ってたのに〜〜〜〜
どこかから出てこないかなぁ…

「テロなんてなんの意味も無いよね」と言われて考えたこと

「テロなんてなんの意味も無いよね」

今朝のこと。

食卓を囲みながらニュースを見ていたらパリのテロから1年という話題が放送されていました。

熱心に見入る子供たち、それぞれ何を思っているんだろう…と思っていたら次男が言いました。

「ねえお母ちゃん、テロなんてなんの意味も無いよね、やらなければいいのに」

 

返答に困りました。

「うん、そうだね」とは言えなかった。

「違うよ、意味はあるよ」とも言えなかった。

 

「やらなければいいのに」の部分には全面的に同意できるのだけれど、「なんの意味も無い」の部分についての答えが出ない。

 

うーんと考え込んでいたらテレビはまた次の画面に進み、次男もなにごともなかったようにそれを見ながら朝ごはんを食べ続けていました。

 

「なんの意味も無く」はないのかもしれない

とても難しい問題だ、と思いました。

テロ行為は非難に値する、絶対にやってはいけないことだということはわかります。

でも「意味の無いことをやっている」わけでは多分ない、そこになにかしらの目的があり、そこに至るまでの何かしらの要素がある。

 

なにもないところに突然悪事を思い立ってやっているわけでは、けしてないと思う。

でもそれをどうやって子どもと一緒に考えていったらいいんだろうと思いながら、昔読んだ本を思い出しました。

 

まんが パレスチナ問題 (講談社現代新書)

まんが パレスチナ問題 (講談社現代新書)

 

「まんが」とありますがコミックスというよりは絵を多用しながら平易に解説した本という印象でした。本棚にしまってあるはずだからまだ読み返してみようかなと。

 

思考停止せずに思いを馳せる

テロリストの行為を容認することは私にはできません。

 

でも、子供たちが「悪い奴らがアホなことをやっている」という認識で終わってほしくないなとも思う。そいつらを駆逐すれば問題解決、ではけしてない。

 

なぜパリで同時多発テロが起こったのか

なぜテロリストがその手段を講じるに至ったのか

 

情報を自分の力で集めること、それを自分で整理して考えること、ぱっと見でわかりやすいところだけで判断せずに背景に思いを馳せること、その訓練を一緒にして行けたらなぁ、と改めて思いました。

 

もっと身近な問題についても同じことが言えるのかな、と思ったりしています。

 

誰かが誰かをいじめました、それだけ聴いたら、いじめをやった悪い子をたしなめればいい、という発想に至るかもしれない。

 

でも、なぜその二人に諍いがおこったのか、なぜいじめたくなったのか、双方それぞれの抱えているものに思いを馳せ、気持ちに寄り添っていかないと本質的な問題の根っこには辿り着けないのではないか、と思うのです。

 

おわりに

マスメディアの情報から印象だけでものを言ったりするのではなく、自分の力で情報を拾ったり寄せ集めて考えたりできる子になってもらえたらなぁ…と今回の次男の発言を受けて改めて感じています。

 

私はこういう情報からこう判断した、君はどうだろう、って話すような時間を、成長とともにこれから少しずつ増やしていけたらなぁ…

「電車で化粧はみっともない」マナー広告炎上から考える、伝える技術

なんか昨日からTLが騒がしかったので久しぶりの時事ネタです。

 

発端は多分これ。

上京したての若い女性の日記風に描かれた東急電鉄のマナー広告のなかの1つの、車内で化粧をする女性を「みっともない」と表現したポスターや動画に批判が集まっていたもの。

 

さまざまな視点からの批判や擁護

女性性への抑圧だというジェンダー目線からの意見も私のTLには多く並んでいましたし、化粧より足を広げた男性の方が迷惑だとか、他にもみっともない人は多いとか、そういう人を自分の価値観で断罪して罵声を浴びせたりする行為の方がよりみっともないとか、批判の矛先もいろいろ。

 

前から不快に思っていた、という声も上記のねとらぼの記事のなかにも見られます。

 

「粉が飛ぶとか実害がある」「本来人に見せる行為ではないものを見せられる不快感や恥ずかしさ」など不快感について掘り下げた意見も多く見られました。

 

いろんな意見をうんうんと拝見しながら、見えて来たものを整理します。

 

そもそもなんのための広告なのか

一番大事なのは、たぶんここなんですね。

「マナー広告」で検索すると、東急電鉄だけではなく阪急や小田急などいろいろな鉄道会社が取り組んでいる活動だということがわかります。

日常的に電車に乗っていれば車内や駅で目にすることも多いと思います。

 

この「マナー広告」というものは何の為に存在しているのか。

 

これを考えるときに大事なのが、公共の場に対するとらえかた、意識の持ち方です。

 

「公共の場」とはなにか

公共の場というと電車もそうですし、公園や競技場などもそうだと思います。

不特定多数の人が様々な目的で利用する、特定の誰か占有ではないスペース。

それをそれぞれがなるべく快適に、なるべく損失をそれぞれに与えず、それぞれが使用目的を果たせるように相互に意識し合う、そのために「マナー=行儀作法」が存在している、と私は考えています。(そのマナーがなんらかの事情により行き届かせられないことを障害と呼ぶことができるのかもしれませんし、それゆえハンディのある方には配慮が必要である、とも思いますがそれはまた別の話)

 

公共の場をよりよくするための、マナー広告

マナー広告とはその公共の場(今回は電車の車内)を、乗客それぞれが意識し合ってよりよい環境にしていきましょう、その環境づくりにご協力ください、という目的のために作成されるものなのではないか、と思われます。

 

今回の東急電鉄の広告も、ねとらぼさんの取材によれば

取り上げているマナー違反の例は、日本民営鉄道協会が実施したアンケートなどを参考に

とあり、今回のシリーズとして取り上げられている「歩きスマホ」「無理な乗車」「背後のリュックサックによる圧迫」も含めた、不快に感じる人が多くいる乗客の行為のなかの1つとして「車内での化粧」があった、という制作時の意図があるようです。

 

なぜ炎上したのか

これまでにも車内での化粧について描いたマナー広告は存在しているし、ブラックマヨネーズEテレで歌い踊る「電車で化粧はやめなはれ」が流れていたりと、別に今更電車で化粧をすることへの批判が目新しいことでもないとは思います。

 

それでいてなぜこの広告が批判の的になったのか。

 

理由のひとつが、「みっともない」という表現をつかったこと。

「見たくもない」を語源としているらしいこの言葉はもともと自分が見たくないという主観的な言葉だったはずが、今では「周りの人が見たくないと思っているような行為を咎める言葉」としての意味を持っているように思います。

その、なんとなく自分の責任は逃れながらも存在しているかも分からない不特定多数の声を代弁したような印象のあるちょっとズルい言葉を使ってしまったことが批判の感情を逆撫でしてしまったのではないか、と。

 

言葉の選び方や、主人公の女性という1人の目線から断罪する形で描かれてしまっていること(これについてはシリーズの先で色々と流れがあるっぽいことがサイトでは触れられていますが、どうだろう)、それが、結果として鉄道会社が意図していなかった「鉄道会社が『女性が車内で化粧するのはみっともない』と断定している」という意志を表明したように一部に受け取られてしまう結果となった。

 

広告の作りとしてもうちょっとうまくやってたらなぁ、デザイナーの腕にかかってる部分も大きいよなぁと思ってしまいました。

 

うまい例もあったらしい

そんなことをTwitterで呟いていたら、フォロワーさんから以前の東京メトロのポスターの「家でやろう。」シリーズはよかったよ、と教えて頂きました。

 

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2008年と結構前の物でしたが、この中にも車内での化粧についての注意喚起がありますが、他の広告とセットでうまく中和されている感じがします。

東京メトロは毎年シリーズでマナーポスターを作成しているようで、サイトで近年のものが見られます。(マナーポスター | 公益財団法人メトロ文化財団

私も見覚えがありますが、若者が割り込もうとするポスターなど批判が出たものも過去にはあるようですね。

 

おわりに

「うな子」のCMもそうだったけど、あのときは「自然の美しさ」、今回はアンケート結果に基づいた注意喚起、というクライアントが本当に伝えたいことというのがあるのはある。それなのに、それが広告という作品として仕上がったときに伝えたいところにうまく伝わる結果になってない、って、デザイナーの端くれとして生活している身としても色々と考えさせられます。

 

このブログでもこれまで色んな形で「伝えることの難しさ」について考えてきているけれど、伝えたいと思うことを自分の望む形で伝えるっていろんな工夫や技術が必要なんだよなぁ、と改めて思います。

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