スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

お母さんも「一人でできないもん」でいいんじゃないだろうか。

少し前に「りっすん」さんでこんな記事を書かせていただいてまして。

その中で

30代~40代向けの雑誌やネット上の記事には、働き方や家族との過ごし方、掃除や収納の仕方、お料理……いろんなことについての「私はこうしています!」という、たくさんのライフハックが詰まっています。

その中には、ワーキングマザーのタイムスケジュールとして「朝3時に起きて……」とか、もうスーパーウーマンしかできませんよね?っていうスタート地点にすら立てない記事もちらほら。

とこんなことを書いていましたら昨日だったか本当にそのまんま午前3時起きでワンオペでバリバリ育児してますっていうワーキングマザーさんを取り上げた記事が流れてきておりました。

読むと心が折れそうになるかもなのですが一応リンク貼っときます。

仕事と家庭の両立は「親にしかできないこと」を絞り込み、愛情を集中投下 | プレジデントオンライン | PRESIDENT Online

 

「親にしかできないこと」ってなんだろう

小さく紹介したスーパーワーママの記事でも触れられていた「親にしかできないこと」をセレクトしていくこと、これは私も色々と考えてきたことで。

過去にTwitterで何度か呟いたことがあるんですが、子供が小学生になると圧倒的に「親にしかできないことが増えるな」と思っていたんですね。

乳幼児期には身の回りのお世話とか食事の用意とかまぁお金や血縁や友人なんかの人脈を活用すれば外注できることは結構あるなぁと。まぁ自分を振り返ればその辺も「お母さんだから頑張らないと」って抱え込んでは暴発していたわけですが。

 

学校に入るとどんなにコミュ障であってある程度は教員や他の保護者と接触はしなきゃいけない。それはなかなか他の人には変わってもらえなくて、子供のトラブルや問題行動があったり、話し合いの場があったりすれば頻繁に足を運ぶことになる。

家では家で、丁寧に様子を見てれば気づいた、っていうような不安定さに直面することも出てくる。宿題を毎日やってるか、忘れ物は頻発してないか、食事の量は、体調は…

って色々様子を見ては必要に応じてケアしていくことも出てくる。

その丁寧な根回しは他の人には簡単に頼めない、同居してるけど不在の時間が多い夫にすらなかなか肩代わりしてもらえない…

 

うちは特に発達障害のある次男がいることもあって、そちらに忙殺されて丁寧に4人の子供たちと接することができていないんじゃないか、母親としてすべきことができていないんじゃないか、という不安や焦りがいつも自分につきまとっているんですね。

 

上記の記事の中では「親にしかできないこと」としてこう触れられています。

「母親でないとできないこと」としては、子供と一緒にお風呂に入ってあげるなどのスキンシップ、寝る前の絵本の読み聞かせ、ストレッチなどの儀式があります。私の場合、子供と一緒に過ごす時間は普通のお母さんの半分程度しかないので、その時間の質をいかに上げるかを考えます。

私の母も働いていたのですが、思い返すと母は、授業参観や展覧会などの学校行事は、どんなに忙しくとも必ず来てくれていました。私自身、いまだにそのことを覚えていますから、学校行事には必ず参加しています。

 

家庭ごとの「親にしかできないこと」

引用したことを「うちはやってない」「うちは夫がやってる」等々、家庭ごとにいろんなやり方があると思う。スキンシップが必要な時期もあるかもしれないし、子供の特性によってはそれが必要ない子もいたりする。

 

朝の3時に起きて家事育児仕事をかけ持つスーパーワーママには私はなれないけれど、その「うちの子には何が必要か」「自分にしか与えられないものは何か」を絞っていく作業もひとつのライフハックだよなぁ、と記事を読みながら思いました。

 

もう一個、踏み込んで「本当にそれ、親にしかできない?」

今回久しぶりにブログを書こうと思ったのは、もういっこ踏み込みたかったから。

自分が絞っていったそれぞれのことって「本当に親にしかできない?」って再考する価値があるかもしれないと思ったから。

 

NHKの朝の連ドラを毎日観ているのだけれど、「べっぴんさん」の中で主人公のすみれは母親像としてはちょっと心細い感じで描かれていて。仕事に没頭するあまり娘のさくらとうまくいかなくてすれ違って、結局さくらはお母さんでは満たされなかった母親の愛情の部分を伯母であるすみれの姉に求める。

 

こう書くと、すみれの母親としての至らなさがさくらを苦しませたように見えるかもしれないし、ドラマの中ではそう描かれてた。

 

でも。

ふと見ていて思ったんですね。

子供が求める理想的な母親像を与えられなかったら、それで親として詰むんだろうか、って。

 

「一人じゃできないもん」でもいいんじゃないか。

ドラマの中のすみれは、子供がお母さんと一緒にいたい時間に家にいてあげなかった。でも長期的に見ればその間の業績がなければさくらが自ら希望する学校への進学や海外への留学を叶えるだけの経済力を維持することも多分できなかった。

 

伯母である姉の力も借りながら、さくらはそれなりに大人になっていっていると見ることもできるんじゃないかと思ったんですね。

 

もちろん幼少期の愛着が足りない問題で大人になっていろんな影響が出てる人も現実にいるし、家庭の問題から子供が学校で問題行動を起こすこともあるわけで、「親が子供に接しなくていい」っていう話ではないと思うんですね。

 

そうじゃなくて、母親として一人で愛情をかけるところもお世話も家計を維持することも全部できなくても仕方ないじゃない、そんときは誰かの力を借りてトータルでなんとかなるように持っていってもいいじゃない、そうなった時に凹まず胸を張ったっていいじゃない、って思ったんです。

 

おわりに

前に、ちょっと学校でしんどくなってる息子のお友達がとある場でパニックを起こしているのに遭遇したことがあって、お母さんが色々と声をかけるけどなかなか動けなかったことがあって。

私がたまたまその子のことを小さい頃から知っているから、お母さんちょっと交代しよう、って声をかけて、ゆっくりお話をしてお母さんと話せるところまで落ち着かせたんです。このエピソードだけだと、お母さんがどうにもできなかったことを私が何とかしてあげたように見えるかもしれないけど本質はそこじゃないと思うんですね。

 

その子にとってお母さんにしかできないこともきっとたくさんあるんです。

でも、お母さんがしんどいとき、手に余ったとき、お母さんが苦手な分野で、お母さんが手を離して違う人が肩代わりしてもいいんじゃないかなって。

 

同じように私の子供たちのことで私が困った時にも、きっと色んな場面で子供たちを助けてくれているはず。

そこにはこれまでに私が気づいていないものも含まれているんだろうなって。

 

私がお母さんとして子供たちの全てを把握して全てを網羅して全てを守るなんて無理だから、誰かの力を借りたい。というか現状、本当にたくさんの人の手を借りてる。

その人たちの力もみんな足してやっとお母さんであれるんだろうなと思うのです。

極端なことを言うと、その人たちみんなうちの子のお父さんお母さんなのかもしれないとすら思うのです。

 

きっとこの先子供たちが私には言えないこと、私には頼めないことを、今よりもっともっと周りに頼っていくんだろうと思う。それを前向きに、ありがたいなぁと思える自分であるためには、と考えたりしています。 

次男との、タイマーの新しい可能性を模索する試み

久しぶりの更新です、長男と末っ子のダブル卒入学を控えた年度末にさしかかり、スケジュールが勝手にどんどん埋まってしまってかなり参っている今日この頃です。

 

さて、今日は以前にも書いた、キッチンタイマーのこと。

 

ちょうど1年前くらいですね。

 

タイムアウト(時間切れ!)を知らせるためのタイマー

これまで我が家で主に使われてきたのは、ゲームや動画を見るための共用のタブレットWiiUの使用時間を制限する機能としてのタイマー。

 

一人の持ち時間は原則30分。

表示を確認しながらゲームを進め、タイマーが鳴ったら終了、というルールです。

ドリテック(dretec) 大画面タイマー 【シャボン6 】 ホワイト T-542 WT

ドリテック(dretec) 大画面タイマー 【シャボン6 】 ホワイト T-542 WT

 

使っているのはこのタイプ。 

次を待っている人もタイマーの画面を見ればあとどのくらいかわかる。

自分の番が回ってくるまでの時間の情報が視覚的に得られ、そこまでの見通しが立てやすくなるのもメリットのひとつです。

 

我が家のゲーム時間ルール

我が家では基本的には「一日のゲーム時間やテレビ視聴時間にトータルの制限はしない」が原則となっています。

しかしそのためには大事な条件があります。

それが、「自分が毎日やるべきことをしっかりこなしていたら」というもの。

 

朝起きて顔を洗う、から始まり、忘れ物をしないよう荷物を揃えること、身だしなみを整えること、夕食の配膳手伝いや風呂掃除などの家事手伝い、宿題、寝る時間を守る、等々。

 

年齢に応じてそれぞれに「自分がすべきこと」を確認しながら、それさえできていれば結果的に何時間ゲームすることになっても特に何も注意はしていません。(といっても特に平日は結局大した時間にはなりませんが)

 

しかしこのルール、長男や娘にはスムーズに導入できているのですが次男にはなかなかに大きな問題が生じてしまうのです。

 

次男の「適当にやっちゃう」問題

我が家で一番ゲームにのめりこみやすいのがADHDの特性のある次男坊。

ゲームのやめどきもなかなかスッパリいけないことも多いながらも、次に使いたい他の兄弟にヤイヤイ言われたりしながらまぁなんとかキリをつける練習を少しずつしていっているところです。

 

問題は始める前にありました。

衝動性の強い次男は「ゲームがしたい」「あの録画した番組が見たい」という自分のやりたいことが見えているともう落ち着かない。

頭では「目の前の作業(宿題や学校の用意や歯みがき等)」が終わればできる、それをやってからじゃないと、とわかっていても、その先の楽しいことに脳が占領されてしまう。そして彼の脳は彼に指示します。

「適当にやっちゃえよ」

 

終わってないままランドセルに突っ込んだ宿題、揃ってない荷物、磨いたふりをして30秒くらいで戻ってくる歯みがきっぽい行動。

そして

次男「終わったからゲーム(テレビ)だ!」

私「ちょっと待て!」

 

どうしたらいいんだろう

楽しいことに脳が占領されてしまうなら、そっちを先にやればいいんだろうか。

でもやり始めたらそっちが楽しくなって、終わった後でやろう、は絶対忘れてしまう。(私もそうだから)

 

やらなくていいんだろうか。

次男にそれを聴くと

「宿題をやってないと先生に叱られたくない」

「忘れ物はしたくない」

「虫歯にはなりたくない」

「できるようになりたい」

 

うん、やっぱり「やるべきことをやるべき時にやる」ことは彼にとっても必要。

 

じゃあ、どうしよう。

 

お母さん、ひらめいた。

私「ねえ、(次男)くんよ」

 「タイマーを、使ってみたらどうだろうか」

次男「?????」

 

母さんからの提案は、こうです。

 

歯みがきなら3分、宿題は60分(5年生の標準自宅学習時間らしい)、学校の荷物を揃えるのは5分、と「僕がやる時間」を決めて、その時間が終わるまでは作業に専念する。もし早く終わってしまっても、次の行動に移さず見直しや追加の自主学習などに充てる。

 

使うのはデジタルではなくアナログタイプのタイマーを提案してみました。

終わりの時間が近づいてくるのが視覚的に見やすいかなと。

こんな感じの。しばらく試してみてやっぱりデジタルの方が良さそうだったら変更するかもしれません。

 

おわりに

「やらねばならないことをやる」という、ある種の人たちにはとても簡単にできるそれが、私や次男のような衝動性の強い種類の人にはとても難しかったりします。

やらないといけないということがわかっていても、その先のやりたいことに支配されて見えなくなってしまって、気づいたら忘れてしまっている。

 

でも、次男が私に言ったように、やる気はあったんです。

やりとげないと誰かが困ったり、自分が困ったりすることもわかってるんです。

本当は忘れずにやり遂げたいんです。

 

自分ひとりの力ではそれができない。

だから、タイマーという自分の脳とは別に動くものを使って自分に外から制限をかけるという訓練を今回は思いつきました。

 

さてこれが吉と出るか凶と出るか、うまく続けられずにだんだん廃れてしまうか、私にもまだわかりません。

 

とりあえず、やってみるしかないのです。

「生き物を飼うのは可哀想」と言われて悩む次男と話したこと

怒りながら帰ってきた次男

昨日、帰宅した小5次男が怒っていました。

私の顔を見るなり

「(1学年下の子)くんが!メダカを飼うなっていうんだ!」

とまくしたてる次男をなだめながら話を聞くと…

 

学校にあるメダカの水槽にいたずらをしていた低学年の子に生き物係の次男が注意したら、その子たちが聞いてくれず次男が腹を立てた。

その姿を見てそばにいた子が

「そもそも自然にいる生き物を閉じ込めて飼っているのがおかしい、可哀想だ。メダカが大事なら自然に帰してあげたほうが幸せなのに」

と言ったようです。

 

次男はそれに憤ったけれどうまく反論もできず、苛立ったまま帰ってきたようでした。

 

川に帰ったら幸せなのか

まず最初に考えたのが、これ。

学校で今次男たちが面倒を見ているのは、先生方が観察のために用意してくれたメダカです。(おそらくは人工飼育化で孵化したもの)

その水槽のメダカを今、近所の川に流したら待っているのはどんな環境だろう。

 

うんうんと考える次男。

メダカを食べる生き物は何がいるだろう、と二人で考えます。

 

肉食性のメダカより大きな魚、ヤゴなどの虫、鳥、カメ…

たくさんいるだろうねえ、水質も一定ではないよねえ…

次男は「食べられるかもしれない、餌も見つからないと思う、幸せじゃないと思う」と。

「でも広いよ、仲間もたくさんいるかもしれないよ」と問いかけると「うううううーーん」と頭を抱えていました。

 

水槽の中は幸せではないのか

次はこれ。

「餌も必ずもらえるし水も替えてあげてる」

「でも閉じ込めてる」

また頭を抱える次男。

 

この2つの想定で見えてきたのは「幸せって何だろう」っていう次の問いでした。

 

君は今、幸せ?

親として子に直球で問うのは若干抵抗のある疑問ではありましたが、通らずに進めないと思ったので次男に聞きました。

「うん」と頷く次男に尋ねます。

「うちは6人家族で一人ずつの部屋もない狭い家で、君らはそこでぎゅうぎゅうくらしてる。それをよその人からは『あんな狭い家で可哀想に、もっと広い家ならもっと幸せに暮らせるかもしれない』と言われるかもしれないけどどうだろう」

考え込む次男にもう一つ質問してみます。

 

「去年の君と今の君と、どっちが幸せ?」

「今だよ!」と即答したので理由を尋ねると、彼なりに色々と友人との関係が改善したことや変化したことを挙げてくれました。

 

「お兄ちゃんが今幸せかわかる?」「わかんない」

「君とお兄ちゃんと今どっちが幸せかは?」「どうやって比べていいかわかんない」

「違うおうちだったら幸せかは?」「引っ越してみないとわかんない」

 

「幸せ」は「わかんない」だから

君の、今と前しかわかんないし比べられないねえ。わかんないねえ。

「メダカのことも、わかんないねえ」と次男。

 

そうなんだよね、結局メダカがどうだったら幸せかなんてわかんないんだねえ。というのが私と次男の行き着いた結論でした。

 

「人が飼うのは可哀想なのか」

もう一つの疑問が残ります。

それは「閉じ込めて飼っているのはおかしい」のかということ。

「あのメダカは何で学校にいると思う?」

「勉強のため、観察したり育て方を学んだりするため」

 

メダカは、子供たちの学びのために学校で飼われている。

同じように、家族として可愛がるためだったり、観察や研究や保護、いろんな理由で人間に飼育されている生き物たちがいるよね、と話すと「売るために飼って増やしている人や毛皮をとるために捕まえたりする人もいるよね」と次男。

そのために絶滅してしまった生き物もいるし、ちゃんと育ててもらえずに病気になったりするケースもある、そんなひどいことにならないような法律や取り決めもいろんな国が取り組んでいるよねえと話します。

 

人間の勝手な都合で死なせたらいけないねえと漏らす私に「でも蚊は殺す」と次男。

うん、人間の生きる目的のために害虫や害獣を駆除せざるを得ないことはある。

 

結局、私たちにはその、自分たちの都合や目線でいろんな環境に影響を与えながら生きざるを得ないんだろう、とは思う。それを理解し罪の部分も意識しながら自分たちの利益や目的のために飼育を含む様々な形を取りながら生き物と共存している。でもそれを11歳の次男に説明するのはまだ難しいなぁと話しながら思いました。

 

じゃあ、放す?

どんな状態がメダカにとっての幸せなのかはわからない。

命あるものを人間の都合で飼うことの是非は簡単にはわからない。

じゃあ、どうしたらいいんだろう。

 

大前提として、その生態系にいなかったり人工飼育下で孵化させた生き物を勝手に放流したりすることはやってはいけない行為です。

生態系を崩してしまいます。

だから、どんな理由を思いついたところで学校で飼育されているメダカを川に放すことはできません。

 

じゃあ、どうしよう。

 

次男が出した答え

 

これが、次男の結論でした。

メダカにとって何が最も幸せかは自分ではわからない。自然に返すという選択肢は取れない。でも今の環境の中で一番幸せだろうなと思う状態にしてあげることはできる。それが自分がやることなんだ、と思ったようです。

 

生き物を飼う意義について

ここからは余談ですが、学校で生き物を飼うことの意義、というのを次男と話している中で、昔書いたこんなエントリを思い出しました。

この中では、飼っている虫を死なせてしまう子供たちのことを虫に詳しい先生に相談した時のことを書いています。

一部の個の犠牲を払ったとしても種全体への関心や知識を持ち続けてもらうことで絶滅を免れることができるかもしれない、そちらの方が種全体にとっては利益になるのではないか、というお話です。

 

何匹かの個体を学校で飼育することで、子供たちはメダカという種が存在することやその姿、どんな餌を食べるのか、どんな風に繁殖するのかを学ぶことができます。その学びの中には、本来は川など淡水の場所に生息していることやなぜ数が減少しているのかについての知識を得ることも含まれていると思います。

 

もし学校でメダカを飼っていなかったら、メダカについて知る機会がなかったら、メダカという生き物が存在していたことすら知らないまま大人になる人もいたかもしれません。

 

川にメダカという生き物がいることを誰も知らなかったら、生態系が崩れてしまってもメダカを守ることはできません。人間が認知しないまま人間の起こした環境の変化のために絶滅してしまった生き物もたくさんいるのかもしれない。

飼育には、知るという大きなメリットがある、それは大事なことだよね、と次男にも話しました。

 

「でも飼っているメダカが死んでしまうと悲しいんだ」

うん、そうだよね。個としてのメダカができるだけ幸せでいられるように自分のできることを考えている次男の優しさを誇らしく思った、そんな冬の日でした。

 

追記 2017.01.26

「飼うのが可哀想だというのを否定できてない」というブコメをいただいたので、それについて考えてみました。

 

思えば私は最初から「飼うのが可哀想だ」ということを否定しようという発想はありませんでした。それはあくまでも言った子の感情だからです。

話していくなかで次男が飼う行為そのものを否定されたようで困惑していることが見えてきたので、それについて彼なりの答えを見つけるための会話でした。

 

次男に「可哀想だ」というその子の主張を論破してほしいとは思いません。その子がそう思っているならそれはその子の今の答えです。それは大事にする人であってほしい。

その言葉に引っ掛かりを感じた次男は、自分のなかでその答えを探す必要があったのではないかと思うのです。

 

私のブログには「こうすればいい」という答えがない、というコメントを何度かいただいたことがありますが、この次男の件を考えていてそのコメントと繋がりを感じました。

 

次男は次男のなかで「自分はどうするか」 「自分のなかでどう折り合いをつけるか」という答えを見つける必要があった、私はそのお手伝いをしたに過ぎないのだろうと思います。

かわいいメダカの本―飼い方と素敵な水草レイアウト、ビオトープの作り方

かわいいメダカの本―飼い方と素敵な水草レイアウト、ビオトープの作り方

 

 

「めんどくさい」という困難に立ち向かう中で気づいた大切なこと

とにかくいろんなことが「めんどくさい」

食べ終わった食器を洗うのも、洗濯物を干すのも、とにかくめんどくさい。

締め切りのあるものはギリギリまで先延ばしにしてしまう。

やらなくちゃと思っていてもなかなか動けない。

 

そうやって先延ばしにしては溜め込んで、自分に絶望する。

 

私の毎日です。

 

めんどくさくない人になりたい

子供たちを送り出して、一人でやっと遅い朝食をとります。

出勤時間が近づいて食器をシンクまで運びますが、洗うのがめんどくさい。

たった1人分のお皿でもめんどくさい。枚数を減らしても、洗うという行為そのものがとにかくめんどくさい。

 

こういうのをサッと苦もなくできる人になりたい、なりたかった。

どうやったらなれるだろうかと何年も試行錯誤をしてような気がします。

 

試行錯誤の日々

どうやったらお皿を洗うのが面倒じゃなくなるだろう、と試行錯誤を繰り返します。

こんな感じで。

「りっすん」さんに書かせていただいたこの記事。

失敗してもいいからとりあえずやってみようの精神であーだのこーだの考えます。

 

お皿の枚数を減らそうか、食べる時間を変えようか…

 

やっと見つけた、ライフハック

その中で見つけた一つの方法が、ピタッと来たんです。

それが「今じゃなかったらいつか、の選択肢を自分で用意して選ぶ」こと。

 

例えばお皿を洗うことなら

①今すぐ ②仕事から帰宅後 ③夕食後…

と3つか4つくらいの選択肢をその場で自分で用意します。

その中から、自分がこれだと思うものを選ぼうというもの。

 

う〜ん、他の選択肢だと子供たちがいたり他の用事も重なっていたりして大変そうだから今やっとくか、となんとなく動きやすくなるんです。

 

 

 

見つけたライフハックと、すぐに気づいたカラクリ

すぐに気づいたんですが結局①今すぐを選ぶことがほとんどなんです。

でも毎回、いくつか選択肢を用意しては「あぁやっぱ今やっとかないとあと面倒だわ」ってなって体が動く。 

多分、「今やろうかなぁ、でもめんどくさいなぁ」って思う時が自分でもやれるかもって思ってるタイミングなんですよね。後になればなるほどめんどくさかったり、慌ただしい時は「やろうかなぁ」って思いつきもしなかったりする。

 

結局は思い悩むタイミングが自分にとってのベストだったりするのだけれど、それでもやっぱり毎回選択肢を用意してよし、って思わないと私の体はなかなか動いてくれません。

 

子育ての中で

自分にあった動機付けの仕方は見つかりました。

じゃあこれ、子育てにも応用できるかな、って考えたときにあることに気づいたんです。「繰り返しても慣れていかない」ってことに。

 

これまで、子供が何かできるようになるためにと思って育てている中で簡単な動機づけを与えて、それで子供が動いて、を根気強く繰り返していけば子供もその習慣がつくんじゃないか、そんな流れを意識しながら子供たちに声をかけたり動くよう促したりしてきたような気がします。

 

でも、自分の体を実験台にして気づいたんです。

 

何度このライフハックを駆使しても、システムが脳で理解できても、それでも私は「めんどくさいけどすぐやったほうがいいからやろう」ってなかなかできない。

そこまでわかってても、やっぱり毎回選択肢を用意するこの方法を使うほうが体を動かしやすい。

 

子供たちも必ずしもやり続けたら自然と習慣づくわけじゃないのかもしれない。

何度も何度も失敗してることを成功し続けるためには「できるための工夫をずっと続ける」ことも必要な種類の人間がいるのかもしれない。

 

おわりに

これまで私はどこかで、子育ての中で「子供たちが何かできるようになるまで見守る」ことに重きを置いてきたような気がします。でも子供のタイプによっては「何かできるための工夫を見出してその方法を続けることをフォローする」ことの方が大事なこともあるのかもしれない、と思うに至っています。

 

私に必要なのは「めんどくさがらずにすぐやろう」という意識を持ちつづけることではなく(それは無理だった)「結果的に終わらせることができるような工夫を続けよう」という意識を持つことでした(それならできた)。

 

表面上は同じような行動としてしか現れないことですが、中身は全然違う。

自分にはどの方法が向いてるのか、やりやすいのか、やっぱり試行錯誤の日々が続きます。

 

子供たちがどんな仕組みや工夫の元に行動しているのか、それが持続可能な方法なのか、そこを細かく注目してみたくなってきました。

「子供のいない人にはわからない」がタブーだと思う理由

昨日の記事のブックマークコメントでも言及をいただいたので、補足的な記事を書こうと思います。


昨日のエントリの中で

「子供のいない人にはわからない」という言葉について昨日のエントリの中では

公共の場で授乳せざるを得ない環境になってしまうのも、仕方ない。

でもその仕方なさを理由に、不快に思う方が悪い、「お前が変われ」とは言ってはいけないんです。「子供がいない人にはわからない」は子持ちが絶対に口にしてはいけない伝家の宝刀みたいなもんです。それを言ったら、共存はできない。 

 こう触れていました。

双方それぞれに相手には見えないだろう事情や背景がある中で共存していくためには自分の都合で相手を判断せずに思いを馳せたり歩み寄ったりする姿勢が必要だというのが昨日のエントリの主な内容でした。

 

ツイートでの補足

昨日の公開後、この言葉を掲載したことについて思うところもあったので補足的なツイートをしていました。

 

このツイートを起点とする連続ツイートをリライトしてまとめようと思います。

 

当たり前のことをわざわざ口に出すということ

子供のいない人、産んだことのない人に、それを経験した人の感じたことや苦労がわからないこと、それは当たり前なんです。

 

骨折をしたことのない人にはその痛みをリアルに感じたことがないのと同じように、やったこともないことをわかるわけはないの。

 

でもそれは「子供がいて初めてわかることもある」ことを否定するわけでもないんですね。そっちもそっちで、至極当たり前のことなんです。

 

どっちも当たり前すぎるほど当たり前のこと。

それを「あえて口に出す」「わざわざこの局面で言う」ことの意味とその効力について、子供を持っている私たちは無自覚ではいかんと思うのです。

 

「子供がいたら」わかるのか

もう一つ掘り下げます。

 

先ほどの例で骨折を挙げましたが、一口に骨折と言っても足の骨をボッキリ折った人と剥離骨折した人では症状の感じ方は違うでしょう。

利き手の指を折った人と利き手でない方だった人とは抱える困難も違う。

 

ひとえに「子供のいる人」と言っても1人と4人では経験する世界は全然違いますよね。もっと言うと人数が同じだからと言って同じ経験が共有できるわけでもない。

 

私がうちの4人の子供たちを産んで育てて感じた苦労やしんどさや、逆に楽しさや嬉しかったことは「私以外の誰にもわからない」が正解なんです。

 

わからないし、わかれない

自分が経験していることを自分以外の人が共有しているわけではないように、自分以外の人の経験していることも私にはわかり得ません。

 

私たちは結局、誰のことも「わかることはできない」んです。

 

その、わかることができない者同士が同じ社会の中で生きているんです。無人島にでもいかない限り、誰かと適度な距離を保ちながら共存していくしかないと思うのです。

 

共存していくために

昨日のエントリを例に挙げれば、その人の出す答えとしてどうしてもそこで授乳した方が良い状況になることはあり得ると思うんですね。

それは、その状況になった人にしかわからないことです。

代替案は色々と後出しはできるかもしれませんが、それはその場のその人ではないから言えることなのかもしれません。

 

そして同時に、目の前で授乳行為を行われることがどうしても不快に感じる人もまた存在するのも事実です。それだって、その感情が湧いたことのある人にしかわからないことです。

理由は様々だろうとは思いますが、その自然に湧いてしまう感情を誰かに否定されたり感じることに制限を受けたりするいわれはありません。

 

その一見相対する両者も、共存できると思っています。

 

自分にはわからないけど何かしらの事情があるのだろう、と思うこと、距離を置くことも一つの方法です。

辛いのだと言う人がいたら「その人にとってはそうなんだろう」と感情は否定せず受け入れる。

 

 

「子供のいない人にはわからない」をタブー視する理由

自分の経験だけを元に「そんなはずはない」「そう感じる方がおかしい」「そうする方がおかしい」と切り捨ててしまったり、経験をしていないからわからないんだと言い放ってしまうこと、そうやって相手を否定する姿勢を見せるのは威嚇と同じだと私は思っています。

不快や不安の感情を自分の範疇で留めずに「だからお前が変われ」と求めてしまったら、それは相手を一つの人格として尊重していないということの証明。

 

自分が微動だにせずに相手に動け変われと要求している状態、そのポーズを見せられたらその相手に歩み寄れるでしょうか。自分を尊重しないその人の背景に思いを馳せたいと思えるでしょうか。

 

それぞれが尊重しあってコミュニケーションがはかれない。

これが「子供のいない人にはわからない」と言う言葉を子持ちの方が発することを危険視する理由です。

この破滅の力を持つ言葉を、無自覚に発してしまうのは怖いと思うのです。

 

おわりに

昨日のエントリで紹介したような自らベビーカーを押して経験してみようとしてくれる方もいますし、子供がいない人でも私たちが日々子育てをしていく上でたくさんの支援をしてくれているはずです。

 

そして、社会の中には子連れの人の行動に不快感を抱きながらも適度に距離を保ってくれている人たちもたくさんいる。

 

これは子連れとか子持ちとかに関わらない、広く言えることなんですね。

社会の中にはたくさんの「自分では理解できない言動をする人」が存在します。その人たちともそれなりに距離を取り、時に協力したり思いやりあったり手を取り合ったりしながら生活していると思うんです。

 

子持ちの苦労を子供のいない人にわかってもらう必要はないんです。そんな無理なことを求めるより、わからなくても構わないから同じ社会の中で生きていくために、お互いが心地よい距離を保つためのコミュニケーションが必要だと思うのです。

公共の場での授乳に関する投稿から考える、授乳室の現状とそれぞれの事情

TLが騒がしいと思ったら朝日新聞の「声」欄に投稿されていた23歳大学院生の文章が炎上している様子でした。

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これが炎上する理由は簡単なんですよね。

「境界線の逸脱」以上です。

 

不快感の表明、そう感じる人を知ってほしい、で止まらずに、自分の不快感を理由に自分と他人との間にある境界線を超えて、他人の行動を強制しようとしているから反発を食らう。

 

 

でもこれでじゃあ子持ちの気持ちがお前にわかるのかとか対立してもしょうがないので、ちょっと掘り下げてみようと思います。

 

授乳室とは

あの投稿読んでまず思ったのは、この方は多分授乳室に入ったことはなさそうだなぁということ。

 

実際の授乳室はこんな感じです。

 

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母乳を与えるスペースはこんな風に椅子が置かれていて、カーテンで仕切られているところが多いです。

画像のようにドアに施錠ができるタイプのところも稀にありますが、私が実際に訪れた多くは個人が施錠して使用できる空間ではなく複数の人が同時に利用できるよう誰でも立入れる構造になっていたり、個人を仕切るのはカーテンのみ、というところも多いです。

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これもフリーで拾ってきた画像ですが、母乳を与えるスペースの手前にミルクを作るためのお湯やオムツ換え用の台、ミルクを与えるソファなど、男性にも立ち入りやすいくうかんが設けられているところが多いです。

余談ですがこの壁紙、絵本作家の谷口智則さんのイラストですね、いいなぁ…

 

TOTOエンジニアリング株式会社-納入実績 リモデル現場事例

こちらの現場事例の画像がわかりやすかったのでリンクを貼っておきます。

施設の規模にもよると思いますが、母乳を与えるための個室が2つ程度しかないところも多いですし、入り口はカーテン使用で施錠できない仕組みのところがほとんどです。(←ここ大事)

 

実際に利用した場合の想定

我が家のケースだと次男に授乳をしていた頃は長男は2歳くらい、簡単な指示はわかるけど会話が成り立つほどではなく、自力で歩けるしダッシュすればかなりの速度が出る時期でした。

一緒に来てくれる身内がいればそちらに任せて赤ちゃんとふたりで授乳室に入るのが理想だと思いますし、おそらくそういうケースを想定した作りになっていると思われます。

しかし実際には、私が一人で複数の子を連れて行くなど上の子を連れて入らざるを得ないケースもありました。その時に、どうなるか。

 

赤ちゃんと個室に入ります。

カーテンを閉め、ベビーカーの赤ちゃんを抱えます。

座り、服をめくり、母乳を与えます。

 

その間、当然ですが上の子の手は離れます。

今ならスマホで動画を見せとくくらいの工夫はできたかもしれないし、当時もおもちゃを持って入るとか言い聞かせて座らせるとか迷子紐使うとか、それなりの努力はしていたと思います。

が、仕切りはたった1枚のカーテンのみ、脱走されたら乳を出してる自分には簡単に追いかけられない。

 

そして授乳が短時間で済めばいいんだけど赤ちゃんが寝に入るときだったりすると20分近くかかるのもザラです。

そうなってくるとその長時間を狭いカーテンの向こうで過ごすことになる。

 

個室が空いていればスムーズに入れるけど先客がいればそうもいかない。

 

授乳室そのものが抱える問題

ここまで書いてみたら見えてくるかもしれませんが、授乳室そのものには施設としての不備はかなりあると当時から思っていました。

改善があまりなされないのは人生の中で利用する期間が短いこともあるのかもしれません。利用する頻度も出かけた時くらい、どうにも外で母乳を与えねばならない期間も育児期間の中で長くても2年程度とごくわずかなので、改善を求めて動くほどのモチベーションが生まれにくいのかもしれません。

 

でもそれはあくまでも授乳室を実際に利用している人やその中の一部の人にだけ見える話です。

 

「授乳室」があるということ

「声」欄に投稿していた方のようにお子さんがいない人にとっては、「授乳室」というスペースがあるということの意味は私たちのそれとは違っていると考えた方が自然かもしれません。

 

例えば「喫煙室」という部屋があります。

喫煙する人のためのスペースですが、その存在には公共の場所での喫煙が禁止されているという前提があります。禁止する代わりにここでどうぞ、という場所ですが、もしかしたらこの喫煙室と同じようなイメージで授乳室を捉えている方もいてもおかしくないのではないでしょうか。

「専用のスペースが用意されている」→「授乳はそこですべきこと」

という思考の流れになるのかもしれません。

 

授乳がそもそもどこでもしていいことなのか否か、については個人の感覚差が大きい。

 

高校生以上のお子さんをお持ちの方はまだ商業施設などに十分な授乳室がなく車内で授乳したなどの話はよく聞きますし、私も長男が生まれた12年前にはよく授乳する場所を求めて結局駐車場まで行くこともしばしばありました。

 

人前での授乳を避けてなかなか商業施設に行きづらいママ層を取り込むための施設側のサービスが授乳室の普及につながったのかなぁと思ったりしています。

 

「授乳はどこでもしていいという主張」と「それを不快に思う感情」

これ、掘り下げても掘り下げても答えが出ないことなんですよね。

施設側が「授乳は公共の場ではしてはいけません」と明言することも恐らくはできないし、不快に思う感情ゆえに他人の行動を個人が制限することもできないから。

 

対立しても良い結果は産まない。

ネット上でも「子供のいない人にはわからない」という声が上がっていたり、不快に思う方がおかしいんだろうとか、いろんな不穏な意見が飛び交ってる。そんなの飛び交う中で、でも実際はリアルの世界の中でみんな共存していくしかないわけで。

 

じゃあどうすればいいんだろうっていうと、折り合うしかないんです。

 

公共の場で授乳するのに驚いたり、それを不快に思うのはだれに制限されることもない自然なその人の感情だと私は思います。

嫌なものは嫌だ、それは仕方ない。

でもその感情を理由に「お前が変われ」とは言ってはいけないんです。

 

公共の場で授乳せざるを得ない環境になってしまうのも、仕方ない。

でもその仕方なさを理由に、不快に思う方が悪い、「お前が変われ」とは言ってはいけないんです。「子供がいない人にはわからない」は子持ちが絶対に口にしてはいけない伝家の宝刀みたいなもんです。それを言ったら、共存はできない。

 

「お前が変われ」は自分と相手の間にある境界線を超えた行為、いろんな人間関係のトラブルの根っこにこれが存在することは多いなぁと思います。

 

どちらも仕方がないことだから、それでも共存せざるを得ないならお互いが少しずつ譲るしかない。

 

どうしても不快に感じるなら(授乳するような年齢の母子連れがこないような)違う職場を選ぶ自由も恐らくは投稿者さんにはあります。

授乳室の中を知ったり、母子連れの現状を察したりすることで少し気持ちを寄せることができるかもしれません。

投稿欄やネットなど発言の場で「不快に思う人もいることは知っていてほしい」と声をあげることの意義もあると思います。

 

どうしても授乳せざるを得ないなら、店員さんに一言声をかけたりするような、気を使う態度を見せるだけでも相手の心象は変わってくるかもしれません。

相手がそれを不快に思う人かもしれない、という想定を持って動くことでコミュニケーションはもっとうまくいくかもしれない。

 

おわりに

ちょうど良いタイミングでこんな記事が出ているのを見かけました。

【初詣ベビーカー論争】ベビーカーについて良く知らないから、押しながら都内を歩いてみた | SPOT

 

この記事では10キロのお米袋を赤ちゃんに見立ててベビーカー体験をしています。

本当に子育てをしたことのある人ならお米では本当の苦労はわからないと思うと思います。本物はこんなもんじゃない、動くし泣くしオムツ替えのタイミングもこちらの都合どおりにはいかない。

でも、そのリアルとの距離はあまり問題ではないと思うのです。

 

経験してみよう、どんなものか覗いてみよう、自分からこちら側に近寄ってみようという意識を持ってくれていること、その姿勢がとてもいいなと思いました。

 

不快に感じる人にもその人のなりの背景がきっとあると思うし、それをそうでない人が理解するのは簡単なことではありません。でも、何かあるのかもしれないとこちらから少し歩み寄ることはできる。

 

自分の頭の中の結論で「相手が悪い、おかしい」で止まらずに、向こう側にはそれなりの背景や都合があるのかもしれないと近寄ること、それをお互いが意識することで適度な距離を保ちながらいろんな人が共存していけるのかもしれません。

「この世界の片隅に」を子供たちと観てきました。(ネタバレありません)

前回、自分一人で観てきた映画「この世界の片隅に」を、満を辞して子供たちと観てきた記録です。

 

前回の感想文はこちら。

 

誰を連れて行こう

まず、悩んだのはここです。

映画を観た時に、どこまで子供たちが理解できるのか、どう受け止めるのか、がとても気になりました。

これまで子供たちが触れてきた子供向けの娯楽映画とは全く違っている作品、単純に「面白かった」で終わる内容ではないだけに、とても悩ましい問題でした。

 

小6と小5の息子たちは第二次世界大戦や原爆についての知識も多少ある。

小3の娘は学校で触れた程度、まだ園児の末っ子はちょっと難しそう。

 

観せようかやめようか、観せるなら誰に観せようか。

 

一人で悩んでも答えが出なかったので、家族会議。

その結果、上3人を連れていくことに決めました。

  • アニメだけれど子供向けの面白い作品ではないということ
  • 戦争についてのものだということ
  • 私がどうしても映画にしてほしくて協力した作品を君たちにも観て欲しいから連れていきたいということ

を事前に告げて。

 

それぞれの視点とそれぞれの感想

3人とも、終始じっと画面に食い入っていました。

長く映画館にいるのが初めてだった娘も「2時間あっという間だった」との感想。

 

長男は爆撃の様子や爆弾の種類に興味を持ったようでした。

次男は広島市や呉の地形に興味を持っていたようなので、後日ネットで解説されていた古い地図や埋め立ての様子について一緒に見ながら映画の中を一緒に思い返しました。

娘はすずちゃんや晴美さんの洋服や生活ぶりなど身の回りのことをよく見ていたようです。

 

子供に観せるかを躊躇した理由

「あー面白かったね!」って終わる映画では決してなかったのです。

それが、子供たちに今観せるべきかどうかを躊躇した一番の理由でした。

 

これまでうちの子供たちにとっての映画は、子供向けの楽しい内容のものがほとんど。

なので彼らのイメージの中で「映画=わかりやすく面白いもの」というのが形作られているのではないかな、と思っていたこと。

 

そして、戦争というものへの知識の乏しさが躊躇のもう一つの理由。

 

私が「この世界の片隅に」の漫画を初めて読んだ時の衝撃の最たるものは「これまでに知っていた戦争ものとはぜんぜん違う」ということ。

戦争の中でも当たり前に笑ったり泣いたりしていた人たちがいたのだという、当たり前すぎて見えていなかったことを突きつけられた、そんな衝撃でした。

 

それについてはこちらで。

 

私がこれまで知っている知識、人から聞いたこと、見て(観て)きたこと、読んできたこと、それがあっての、その衝撃だったし、理解できた細部もある。

じゃあそれがない子供たちはどう受け止めるんだろう、どう理解するんだろうという不安がありました。

 

話し合った結果で、最初の理由については「娯楽映画とはちょっと違う」という説明でカバー、次の理由についてはまだうまく消化できないまま「でも観にいきたい」という3人の意志を汲んでの決定でした。

 

観てから、これから

同じ映画を観てそれぞれの感想を抱いたように、これから先も子供たちそれぞれが色々な知識や経験からまたあのすずさんのいた世界を振り返ることがあるのだろうなと思います。

 

我が家には他にも戦争についての漫画や書籍はあるけれど今は子供たちのいるスペースには置いていないので、共有の本棚にそれを置いてみようかなと計画中です。

 

子供たちと地図を見ながら一緒に広島の地形を確認して楽しい時間を過ごしたように、これからも子供たちがそれぞれに感じたり考えたりすることに少しお付き合いできたらいいなぁと思っています。

 

おまけ

子供たちに触発されて実家の母もお友達を誘って観に行くそうです。

じわりじわりと周囲にも広がっていて、一人ニヤニヤしています。

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