スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

ワガママと発達障害の境界線 〜NHKあさイチを見て考えたこと〜

久しぶりの更新です、定期的に書けないですね、相変わらずですね。

 

NHKあさイチ」の発達障害特集

今朝、何気なく連ドラを観た流れでテレビをつけたままにしてたらあさイチ発達障害の特集だったので見入ってしまいました。

 

ちょうど夏休みで子供たちもいて一緒に見ましたが、取り上げられていた6年生の女の子の宿題をやりたがらない様子は次男によく似ているところもあり、本人も「僕みたいだなぁ」と苦笑いしていました。

 

発達障害のある子のパニックの様子や家庭でのお母さんの尽力、お父さんの複雑な心境など、当事者家族としては色々と共感のできる内容も多く、こうやってまた周知に一役をかってもらえるのかなと心強くも思いました。

 

印象に残った井上先生の言葉

番組の中で特に印象に残ったのが、鳥取大学井上雅彦先生のコメントでした。

当事者の父親も語っていた「ワガママと障害の境界線がわからない」というお話について

「ワガママと発達障害の線引きはどこかということに目を向けるより、どうやって工夫すればこの子供の努力が報われるのか、周りがどういうふうに対応したり工夫するのかという方向に目を向けるほうがいい」

と説明をされていました。

 

親としても「それはワガママだ」と一蹴して叱ってしまいたい気持ちになることもあるけれど、これは障害ゆえだからとグッと飲み込むことも多々。そうやって当事者である次男と接していると、普段きょうだいの中の他の子にいかに手を抜いて接しているかを痛感することもある。

 

そんな経験をしていると、井上先生の言葉は本当に重いのです。

発達障害の専門家ではないただの素人の親が、この子のこれはワガママだ、これは発達障害の特性だ、と線を引いて判断し、対応を変えることは子供にとってのメリットはまるでない、自分が手を抜くための言い訳でしかないのかもしれないとすら。

 

どちらなのかを判断するのではなく、どれもその子の努力をどうやって報われるようにしてやれるかと思って接する、発達障害の診断有る無しに関わらず大事なことだなぁと改めて思うと同時に、そんな余裕を生活の中に持つことの大切さもまた、痛感してしまいました。

 

線引きを意識しないというハックの是と非

井上先生のコメントは、発達障害のある子と日常的に接する大人、多数の子供たちと接する機会のある大人にとっては非常に大事な意味を持つ言葉だと思います。

 

自分で判断するのではなく、ワガママの発露にその子の抱える問題を考える。

大事に大事に寄り添っていく、必要なことは何かを考える。

 

その、接し方のためのハックとしての考え方なのかな、と思う。

 

と敢えて書いたのは、この線引きの話が「好き嫌いと味覚や聴覚など過敏との境界線」についても同じことが言えるなと思ったから。

 

「あなたの好き嫌いはワガママだから頑張って食べなさい、診断の降りている子は障害だから食べなくていいですよ」っていう指導に私はそれ違うんじゃない?と思っていたんですね。

どっちも不快さを本人が感じているんだからそれなりの配慮を必要としていると思っていいんじゃないの?って。

 

でもこの視点を「発達障害という概念」について語るときに持ち出すのは注意が必要だと思うのです。

 

それは、「地続きだと語ってしまうことで辛さがぼやけてしまう」可能性があるから。

 

「程度」と「頻度」の先にある、刺さるような辛さ

以前、発達障害のある成人当事者の友人と好き嫌いと過敏についての話をしているときに私がこの、ワガママとの境は意識しなくていいんじゃないか、という発言をしたことがあります。

彼女は自分の正直な気持ちとして「自分の刺さるような辛さをぼやかされたくない」と語ってくれました。

 

NHKの特集の中でも、発達障害の特徴として「忘れ物をしやすい」など複数の項目を挙げ、さらにそれについて誰にでも多少はあるようなそれらの困難が「程度」や「頻度」が度を越すことで社会生活上の困難をきたすような状況が生じる、というお話があっていました。

 

友人も、聴覚の過敏で人混みなど音の多いところでは実際に痛覚が刺激され刺さるような痛み、辛さを感じていると話してくれました。投薬などで調整して今はなんとか街にも出ることができている、その自分の辛さを「ちょっとしんどい」程度のところと地続きで語ることでぼやかされてしまうのはなかったことにされているようで辛い、と。

 

自分の至らなさを痛感した会話でした。

 

それから今日まで、地続きなのか、そうではないのか、について悶々と考えてきたように思います。そしてその答えが、井上先生のコメントを受けて自分の中で出た、と感じています。

 

ハックと概念の違い

「ワガママと発達障害の特性ゆえの行動について、保護者や支援者がその線引きを意識するのではなくどれも「当人の努力が形になるためにどんな工夫が必要なのか」と寄り添ってあげることが大事」

これは、発達障害当事者(に限らず指導や支援として複数の人)に接する時のノウハウ、ハック、方法論なのだろうと思うのです。

 

そして、

「好き嫌いやワガママと、支援や医療のサポートが必要となる困難の間には程度や頻度の大きな差があり、ひとくくりにしたり自分の感覚ではかったりしてはいけない」

これは、発達障害という概念を社会という大きなくくりの中で理解してもらう中で周知が必要なことなのではないかと。

 

この違いが自分の中で明確になって、なんだかスッキリしたのを書き残したかったのです。

 

おわりに

この違いについての視点は、あくまでも今の段階の自分の中で出た答えにすぎません。

これから先もたくさんの人に出会いお話を聞いたりしながら、また自分の考えや物の見方が変わっていくんだろうなとも思っています。

 

 

今日の特集のように、年間を通してあさイチなど視聴率の高そうな番組で発達障害のことを取り上げていってもらうこと、そうやって周知に繋がったり、番組を契機にいろんな人の声がネット上で上がってくること、そうやって少しずつ当事者の必要な支援が受けやすくなっていくことを期待しています。

 

「夢をあきらめさせる」って話に思うこと

「夢をあきらめさせる」というツイートまとめの感想

昨日の夜くらいから「夢をあきらめさせる」という話題のツイートがどんどん流れてきてて、なんだろうと思って検索したらこれが見つかりました。

なるほど〜と思いながら読みまして、そのあといくつかツイートしましたが、私にはこのツイート主さんの恨みみたいなのをなんとなく感じてしまったのが正直な感想です。

 

このツイート群の本旨って多分最後の方に書かれてる、今ネット上なんかで行動を起こしてる絵師の卵さんたちは「行動を起こしてる」人たちだからエリートなんだよ、頑張れ、っていうメッセージなのかなって思うのだけど、そこが完全にボケてしまうほどに強く夢をあきらめさせるためのハックを推してる、すごい残念な流れだな〜と思ってしまいました。

 

なんでそこに力がこもったかって、多分「バカにされながら頑張って続けてきた自分」への自負や「バカにしてきた奴ら」への恨みつらみみたいなのが積み重なってんだろうな〜と。

 

でもそれって、その自分のトラウマみたいなのを今の子供たちにぶつけようとしてるだけにも見えて、なんだか悲しい。

 

ツイート主さんも書かれてるけど、万が一達成してしまうような、やり抜いてしまうような子って「ちょっと違う」子たち、それは私もわかります。でもそれって、バカにされるとかいじめられるとかハブられるとかと紙一重なのだよね。

 

 

 

トラウマをぶつけられた子たちのことは考えてる?

読んでいて悲しかったのは、夢を叩き潰されて辛い思いをする子たちのことは考えてるのかな?ってこと。

いや、考えてないからこうやって書けるんだろうなって思うのだけど。

 

twitterのTLにもいろんな感想があったけどその中にも、過去に大人に夢を潰されてきた記憶のある人たちもいる。

小・中学生の時点で、自分がやろうと思ったことを完膚なきまでに叩き潰されてしまう経験をしたらその子たちの心にどんなものが残るだろう。

それが将来に影響する可能性だって多分にある。それは、誰がフォローしてくれるんだろう。

 

その視点が全く欠落していて、とても虚しい、悲しい。

 

自分をバカにしてた奴らのことなんか思いやる必要はないのかな、うん、そう思う段階って、まだそのトラウマから抜けきれてない状態なんじゃないかなぁって思ったりする。

 

「無謀な夢」って持っちゃダメなのかな。

ここからはツイート主さんの話から離れて、夢についての私の話。

 

私も、小学生の時点でイラストレーターとか漫画家とか女優とかいろんな夢を持った子でした。もちろんそれを親からは鼻で笑われたし、母親からは真っ向から「食えないからダメだ」と言われたし、だからどこかで諦めて「普通に大学に行って普通に就職する」もんだと思って高校から大学へと進んだわけだけれど。

 

でも紆余曲折、なんだかんだあって、今の私、絵を描くということはそれなりに続けてる。

趣味で描いてもいるし、ご縁があって赤すぐさんの連載では自分の拙いイラストを記事に添えさせてもらえて。


twitterを初めて、ブログを書いて、40を前にしてそれが認めてもらえてライターとしてのお仕事をもらえるようになって、そこに自分の描いたイラストを添えて発信できるようになった、という形の成功。

これ、小学生の頃になんとなく思い描いていたイラストレーターさんの姿とは全然違う。思い描くことすらできなかった形、でも、私がやりたかった「絵を描いてお金をもらう」が結果的に叶った。すごいなぁ、私。

 

もちろん、ライター稼業でもイラストを描くことでも「食える」レベルになんて到底達してない。

 

それでもそれなりに楽しくやらせてもらえて、幸せなのです。

 

私が、最初のまとめ記事のようなやり方で小さい頃に夢を叩き潰されて絵から離れていたら、この未来はなかったと思う。なんだかんだと続けられる道を進めてよかったなぁって、改めて思いました。

 

これからの子供たちへ

うちの4人の子たちはそれぞれに性格が全然違っていて、得意なことも不得意なことも色々。

その中で次男はなんとなくクリエイティブな道に進みそうな気がしています。

絵を描いたり文章を綴ったりするのが好きな次男、決して上手とか天才的とかではないけれど、自分なりに色々と楽しんだり時に褒められたりしているのを応援しているところです。

 

でも、じゃあそのクリエイティブな道で彼が食えるのかは、正直わかりません。

「だから安定した道を」という気持ちも当然あります。

 

ただ、彼が大人になる10年くらい先にどんな未来が転がってるかなんて私にはわからない。

 

どの経験がどんな風に身を結んで稼ぎにつながっていくか、本当に見当がつかないのです。

 

小学生だった私に「ブログからライターになり絵をネットに掲載してもらう」未来が全く見えなかったように、子供たちが長じた時にどんな未来が待ってるかなんて全然わからない。

私だって、10年後にどんな形でお金を稼いでるかも正直わかんない。どこでどう人生が転んでいくかわかんない。

 

私の価値観では測れない未来に進んでいく子供たちの好きなこと続けたいことを、できるだけ潰さないであげたいなぁ、と思うのです。

 

私の小さな小さな夢が、30年経ってこんな形で叶うことだってあるんだから。

『「仲間に入れて」をなんていう?』アンケート結果をまとめました。

 

気づけばもう2ヶ月も放置しておりました、このアンケート。

ゴールデンウィークに集計してから今日まで、その集計用紙が行方不明になっておりましたがやっと見つけました。

 

さて前の記事は3年前。

いや〜途中経過とか言っておいて3年もほったらかしてました、我ながらひどい。 

そこから今回は回答がさらに増えて、面白い結果になってます。

 

回答総数4371、個別にいただいたリプライは149でした。

ご協力ありがとうございます。

 

さて、地方ごとにまとめてみましたので北から。

 

北海道と東北地方

 

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全体的なアンケート結果からもわかりますが、やはり「いれて」が多数派。

印象的なのは「かぜて」「かでて」が多いことと、一部にあるとお答えのあった「はめて」

「はめて」は全国でもここらへんだけでしか回答はありませんでした。

 

「かぜて」「かでて」の元になっている「かぜる」「かだる」は北海道や東北の方言で「仲間にはいる、参加する、賛成する、老後の面倒を見てもらう、加担する」の意味があるそうです。

 

関東甲信越中部あたり

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東京周辺部は圧倒的に「いれて」文化のようです。

少し離れると「まぜて」がじわじわと見えてきます。

東北にあった「かてて」もチラッと姿を見せています。

 

近畿中国四国あたり

関西を中心に圧倒的な「よせて」文化のようです。

「まいて」は「まぜて」の変化したものでしょうか。

山口にチラッと見える「かたらして」が九州に近いことを思わせます。

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九州地方

こちらは圧倒的に「かてて」文化です。

「かたる」と言う方言は九州では「仲間に入る・参加する」などの意味。

これ、気づいた方もいらっしゃると思いますが東北あたりで出てきた「かだる」とそっくり。これは前回の時にも出てきていたこと。

語源が同じなんでしょうか、とても興味深い。

ちなみに古語としての「かたる」を調べると、「語る」の他に「交わる」と言う意味も出てきます。

 

「交わる」というと前回の記事の時に出ていた「まぜて」の感じは「交ぜて」ではないかという指摘が思い出されます。 

 

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全国を見渡して

 

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四択の集計結果と全国の地図を見渡して思うことは「いれて」が全国的に多いということ。

これは、あちこちで「いれて」文化が生まれた、というよりは、東京を中心とした「いれて」人口が日本中に移動して広まっている結果なのでは?と感じています。

 

それを裏付けるかも、と思ったのが、大阪の一番下にある「いれて」の回答。

これ、実は大阪の北摂にお住いの方の回答なのです。

私自身その辺に住んでいたことがあるのですが、大阪の北摂地域(大阪府の北のほう)は土着の方よりも関東や他の地域からの転勤族や移住してきた方が多くお住いです。

方言も関西弁ではあるけど南の方よりもマイルドなイメージ。

 

その北摂の方が「いれて」と言ってるよとお返事をくださっていたこと、また、大人は「〜〜」って言ってるけど子供たちは「いれて」って言ってます、というメンションみあったこと。

その辺りから、鹿児島や四国、東北や北海道でも見られる「いれて」は古い文化というよりは近年広まっていった文化の可能性が高そう。

 

おわりに

さて、前回の記事で話題にしていた「まぜる」の話。

これ、改めて色々調べてみると「交ぜる」の漢字をあてる方が妥当な気がしてきました。

「交ぜる」は一緒にした後にそれぞれが見分けられる状態

「混ぜる」は一緒にした後には元のものの区別がつかなくなる状態

 

たくさんの言葉の違いはあるものの、「一緒になった後でそれぞれの区別がつく状態」を示している意味を持つ言葉であるという共通点はあるんですね。

 

・「交ぜて」という漢字ではないかという考察

・遠く離れた北と南にそれぞれ残っている「かてて」「かぜて」

・「いれて」文化の広がり

 

改めてアンケートをとってみたらいろんなことが見えてきて、とても面白かったです。

 

もう数年経ってまたアンケートをとったら、「いれて」はもっともっと増えているのかしら。方言が減っていくのはちょっと寂しいけど。

 

たくさんの皆さんのご協力ありがとうございました〜

また思いつきでアンケートをとった時はぜひおつきあいくださいませね。

小1のトラブル、親のできること、避けたいこと〜NHKラジオ「すっぴん」の育児相談から

NHKラジオはもうかれこれ数年聴き続けておりまして、午前中の「すっぴん」の育児相談「こそだてカフェ」は大日向雅美先生の回を中心に参考になる回も多くあり、仕事の余裕があるときにはよく耳を傾けています。

こそだてカフェ|すっぴん!|NHKラジオ第1

 

以前にも記事にしたことがありました。

 

 

今日は小学校1年生の親御さんから、子供が嫌がらせを受けて困っているというご相談で、どう対処したらよいか、という感じのお話、回答者は尾木ママでした。

 

「いじめ」?「いじめじゃない」?

小1のお子さんが遊ぶときに嫌がらせをされているけど離れたり嫌だと言ったりできていない様子、というお話。「他の子と遊べば」とお母さんは思うけれどまだ他の子と上手に遊べていないようで、つい誘われてその子と遊んではいじめられてしまっている、という感じでした。

 

回答の中で、これはいじめなのかいじめじゃないのか、という話題になっていました。

尾木ママは「これはいじめじゃない」とバッサリおっしゃっていました、ここについては何を根拠に、という部分があまり掘り下げられていなかったのでちょっと物足りなさを感じたのですが、お話の流れからまだそれをはっきりと判断するのが難しい段階なのだろうとは思いました。

 

我が家の小1も身の回りに起こったことをまだ上手にお話するのは難しいのかなと感じることはよくあります。

お友達からされたという嫌なことについて色々と話を聞いていても、少し時間が経つとちょっとニュアンスが変わっていたり、他の子や一緒にいたらしい上の子たちに話を聞くとまたちょっと違う話になっていたり。

 

当人だけから話を聞いていてもまだ色々と判断しづらい年齢なんだろうなと思います。

 

先生にどう話す?

相談者の方は学校の先生には連絡帳で知らせたりしているようでした。

学校の方も本人に働きかけたりしてくれている様子。

学校の先生にとってもスタートしたばかりの小学校生活でまだ子供達それぞれの情報も少ない中、それぞれの家庭からの色々な情報は学級経営やトラブル対処のためにも必要なものなのかもしれません。

尾木ママは回答の中で、嫌がらせなどの行動をただ正すだけではなくて、ここから先クラスの中での席替えや授業、運動会など学校全体での様々な活動の中で子供達の人間関係がどんどん変わっていくことで嫌がらせをしている児童とは別の子との関係も築けるようになっていくのでは、ということもお話していました。

 

「とにかく学校になんでも話して」尾木ママ

それを元に学校が色々と考えてくれるだろうから、どんどん情報をあげてほしいとのことでした。

 

相手の親御さんとどう関わる?

相談者のケースでは相手の子の親御さんには何も話が行っていない様子。

 

「相手と直接のやり取りをしては」と出演者のユージさんが仰っていたのだけれど、尾木ママは「それはやめた方が」とバッサリ。

 

学年が上がって保護者同士の面識があればやり取りが成り立つかもしれないけれど、まだ入学したばかりで面識も薄い状態で突然「お宅の子に嫌なことをされた」と話を持ちかけることをすれば親同士のトラブルに発展する可能性がある。まだ学校に任せておいた方が良い時期ではないか、という感じのことを仰っていました。

 

親としては、もし我が子が何かしでかしていたら知りたい…と思うだろうなぁとは思います。

ただ、子供からの情報だけを元に相手の親御さんとやり取りしてしまってこじれたケースは私も実は経験があります。やり取りの中で細かく情報を集めたら相手のお子さんの話がかなり異なっていたりしたことも。子供はあくまでも自分のフィルターを通した話をしてくるもの、それをふまえて丁寧に接していかないと話がこじれやすいのかもしれません。

 

これまでの上の子たちの経験からは、日常的に担任の先生と話をしやすい関係をあらかじめ作っておくと何かあった時に学校側からも伝えやすいのではないかと思います。

 

学校でのトラブルをどこまでどんな風に親に伝えるか、というのはそれぞれの親御さんの性格や家庭環境なども含めて、先生としても悩ましいところなんだろうな。

そういう意味でも、まだ学校側が児童や各家庭の状況を把握しきれてない小1の今の時期は情報を集めることを優先した方が今後のためによい時期なのかもしれません。

 

じゃあ何ができるの?

相談者さんは家での対処として

①子供の話を聞いて嫌な気持ちを受け止める

②「嫌だからやめて」と言ってみたらと促す

③「違う子と遊んだら?」と促す

の3つをやってみている、と仰っていて、私も似たようなことをやってるなぁと思って聴いていました。

 

が、尾木ママの回答は「②と③はしない方がいいかも」とのこと。

 

やめてほしいということも、違う子と遊んだ方がいいだろうということも、おそらくは子供自身も頭ではわかってる、でもできてない。

わかっているけれどできずにいることを親に言われてしまったら、できない自分に直面することになる。それが高じると、嫌なことがあったことそのものを親に話すことができなくなってしまわないか、とのことでした。

 

我が家では私が結構な頻度でそう言ってきていたけれど子供たちはあれこれ話してくれるので、その辺は他の要素も関わっているのかな〜とは思うのですが、それでも確かにそうだなぁと思ったのは事実。

 

①の「話をしっかり聞いて気持ちを受け止める」という部分だけをしてあげていたらそのうち子供達が自分で②も③もできるようになる、と尾木ママは話していました。

 

結局、できるのは「聴く」ことだけなのかもしれない

気になるところは色々とありつつも、最終的に大事なことは「ただ聴く」ということだけなのかも、と思うに至りました。

 私がここでも何度も何度も引用してきた、これですね。

子供の話をしっかりと聴いてあげること、感情を受け止めてあげること、それだけを続けていたら子供は自分たちの世界で自分の力でいろんなことを切り開いていけるのかもしれない。

 

もちろん、深刻なケースに至るのが周りの大人から見えた時にどう介入するか、というのも大事なこと。でもその時にも、前段階でしっかりと話を聞けていたかどうか、というのはその後の流れに大きく影響が出るようにも思います。

 

おわりに

こうやって書き連ねながら、あぁそういえば昨夜宿題がめんどくさいとごねる次男にネチネチお説教をしてしまったな…と思い出しました。

次男の気持ちをもっと聴いてあげればよかった、反省です。

 

「頭ではわかっていてもその場ではうまくできない」

まんま、昨日の私です。

 

大人になってもそんななんだから、子供たちはもっともっと毎日いろんな渦の中で生きてるのかもしれない。

 

改めて、聴かないとな…と感じています。

「話し方聴き方大全」読み直そうかな。

子どもが聴いてくれる話し方と子どもが話してくれる聴き方 大全

子どもが聴いてくれる話し方と子どもが話してくれる聴き方 大全

 

中学の進学への不安を整理整頓。

長男がこの春中学生になってから、学校のイベントや授業参観、部活の試合など、中学生としての活動を見に行く機会がちらほら出てきました。

 

先生主体の行事と違って、中学はいろんなことが生徒主導。

生徒会の子たちなのかな、中心になる子たちが先導して盛り上げたり、黄色い声が響くその活動の様子は自分が中高生だったころを思い出して何だか甘酸っぱい。

 

先日のとあるイベントを眺めながらそのあまりの眩しさに「青春だねぇ、私らもあんなだったのかなぁ」と思わず同窓の夫にLINEを送ってしまったほど。

 

キラキラ輝く楽しそうな中学生。

それを見ながらいつも同時に感じるのは「来年はここに次男が…」という一抹の不安です。

 

我が家の長男と次男は年子、発達障害の診断はあるもののおそらくは公立中学校の通常級への進学になる可能性が高そうな次男と私にとって、来年度に控えた入学に向けての準備は今年度の大きな課題です。

 

そういう意味では、年子の長男のおかげで1年先の行事が色々と見られるというのは私にとっては次男の1年後を想定する材料をもらえるまたとない機会になっています。

これまでも小学校の様々な行事のときに長男の学年で色々と経験させてもらって次男のときにどんなことに配慮を求めたらよいか、どんなサポートをしたらよいか、何があるとスムーズか、と考えるヒントをもらってきました。

 

私にとってはそんな風にありがたい存在とも言える年子の長男ですが、彼本人にとっては1学年下の次男の存在は時に辛いものだったかもしれません。

学校で落ち着かなかったり、全体集会の時に感想を求められ挙手をしてどんどん喋り続けてしまう様子だったり、そんな奇異な次男の言動に恥ずかしい思いをしたり、時にクラスの中でからかわれてしまうこともあったようです。

 

中学に入り、これまで弟妹がいつも同じ学校に通っていた環境から離れた長男はとても楽しそうで、リア充という言葉がそのまま当てはまるような彼の様子に安堵しつつも、来年次男が入学したらどうなるんだろう、また誰かにからかわれたり不快な思いをしてしまうことがあったら、という懸念がつきまといます。

 

次男に関しても、あの生徒主導の進行がグダグダで騒々しい体育祭や体育館でのイベントにスムーズに参加できるんだろうか、空気を読み合わねばならないような集団行動に馴染めるんだろうか…不安はつきません。

 

 

支援体制が小学校ほど充実していない(小学校も充実しているとはとても言えなかったけどさらに手薄なのは見て取れる)中学校で、どんな環境が次男を待っているんだろう。次男の入学で長男にどんな影響があるだろう。

 

考えても仕方がないことに不安を募らせるのは私の悪い癖で、夫はそんな私を見ていつも苦笑いしています。

 

私にできることはなんだろう、ひとつずつ考えます。

 

中学の先生と入学後の支援について話をする場を持たせてもらうことは、すでに通級担任や学級担任と少しずつ相談を進めているところ。

入学に向けて学習面での困難が少しでも減らせるような下準備は通級でやってもらってる。

学校との良好な関係づくりについては今年度から少しずつ意識して先生たちとも仲良くなりつつある。

 

こうやって書いてみると、あぁわりとできることはやってるじゃない、とも思える。

 

あとはもう、次男次男なりに、長男が長男なりに、それぞれの持ってるもので頑張っていくんじゃないかな、とも思えてくる。

 

私は私のできる範囲で、私のやれることをやっていけば多分大丈夫。

キャパオーバーを起こさないように適度に手を抜いて、適度に子どもたちに色々任せて、適度に周囲を頼って、まだまだ長い来年度までの道を息切れしないようにぼちぼち行かねば。

 

 

中学から帰った長男が放った一言。

そうか〜申し訳ないなぁという気持ち半分、でもそうやって苦手なところの手を抜かせてもらうことでなんとか色々がんばってるんす、いつもありがとうという気持ち半分。

 

できることを できる人が できるだけ。

自分に何ができるだろうって考えるといつも同時に、いかに自分が人に支えられて生活してるかを痛感する。

これからはもっともっと、子どもたちのお世話になっていくんだろうと思う。

至らぬところの多い母さんとして、これからも一緒にいろいろがんばっていけたらなぁとそれぞれが食べていった後の食器をぼちぼち洗いながら考えた朝でした。

 

生理の話から考えた、辛い気持ちや個々の困難をどう受け止めるかということ。

昨日かな、twitterのTLが生理の話で埋まってました。

発端はアイドルの子が流した動画に映り込んでた生理用品に対する反応?なのかな、よくわからないのだけれどそこから、生理についての正確な知識を持たない男性の反応、そこから昨年の熊本地震の時に避難所に送られてきた生理用品を「不謹慎だ」とシャットアウトした男性職員の話に派生して、生理の正確な知識を男性に、という声がたくさん並んでいたように思います。

 

生理についての正確な知識

自分自身、女性としてその「生理についての正確な知識」をどこで得たんだろう、と記憶を辿ってみましたがあまりよく覚えていません。

生理用ナプキンの使い方は母親から習った記憶があります。

ネットでもよく話題になる「女性だけ放課後集められての」性教育というのも確か小学校5〜6年の頃にあったような気がします。

 

その辺の指導で得たのは

  • 赤ちゃんを迎える準備を子宮がする
  • 妊娠しなかったらそれが排泄される
  • 月に1回、1週間ほど続く
  • 痛みや体調不良を伴うこともある
  • 生理用ナプキンを使用してその排血を受け止める
  • トイレでナプキンを交換して汚物入れに包んで捨てる

という感じのことだったような気がします。

その後、タンポンやピルの使い方、などは自力で情報を得ていったと思います。

 

生理についての基礎知識、子供向けの書籍も色々と出ているしネットで調べるとたくさん出てきますね。

 

女の子のからだ (語ろうよこころ・からだ・いのち)

女の子のからだ (語ろうよこころ・からだ・いのち)

 
マンガ ポップコーン天使(エンジェル)―知ってる?女の子のカラダ

マンガ ポップコーン天使(エンジェル)―知ってる?女の子のカラダ

 

 

正確な知識があればいい?

でも、ちょっと疑問が浮かぶのです、正確な知識を知っていたら女性は困らないのかな、と。

生理の周期、生理痛の重さ、経血の量…一言で「生理」といっても抱える困難は人それぞれです。

私は幸いさほど生理痛がひどくないのですが、知人の中には毎月寝込むほど辛い思いをしている方もいました。

年齢やストレスの状況などによっても症状は変わってきます。

 

生理についての基礎的な知識はコミュニケーションの中での一つの情報でしかありません。

体から出てきている経血が「受精しなかった子宮内膜が剥がれたもの」だと知っていても、女性の生理のサイクルに影響を与えているものがエストロゲンプロゲステロンだと知っていても、平均的な生理周期が5日で出血量の平均は37~43mlの範囲と知っていても、目の前にいる女性がどんな困難を抱えていて何が必要なのかは簡単にはわからなくない?と思うのです。

 

そして、生理に関する無知ゆえの発言や震災の時の生理用品の取り扱いなど勘違いによる不適切な対応の背景にあるのは「無知」だけではないように思えるのです。

 

「しんどい」「辛い」「必要だ」という気持ち、声

そこにあるのがただの「無知」や「勘違い」であるなら、それを外部から指摘され新しく正確な知識を提示されればそれで解決するはずです。

でも、そんなに簡単にことは運ばなかったから大きな事態になってしまっているケースも多い。なぜだろう。

 

間違いを指摘されてもそれを受け入れられない、本人の精神的な未熟さや自尊心の低さも当然影響があるだろうと思います。自分の間違いを認め謝罪し改めるのには相当の心の強さが必要とされますから、大人になったところでその基礎を持たない人にとってはハードルの高いことだろうと思います。

 

子供たちがそんな風に育ってしまわないように、不適切な対応で人を傷つけてしまわないように、そのために何が必要か、と考えた時、最低限の正確な知識と共に必要なものが見えてきます。

それが「相手の辛い気持ちや声を否定しない」ということ。感情の声に耳を傾けること、気持ちを認めること、個々の声を潰さないこと、個を大事にするということなのではないかな、と。

 

「辛い」と言っているからには「辛い」んだ、という、第一段階を受け止めること。

「しんどい」という声があるからには「しんどい人もいるんだ」と見ること。

「必要だ」と言っている人がいるからには「誰かには必要なものなのだ」ということ。

 

自分の脳みその中だけで決めてしまうのではなくて、誰かがそう言ってるからにはその人にとってはそうなのだ、という容認ができること、それができるような大人になってほしい、と子供たちに対して思っています。

 

おわりに

かなり抽象的な書き方になりましたが、その、「それができる大人」に彼らがなるためには「それをしてもらった経験」が必要不可欠なのだろうと思っています。

転んで痛いものは痛い、病院が怖いものは怖い、辛い、悲しい、しんどい、わからない、子供たちの発する一つ一つの心の声を真っ向から否定したりあしらったりせず、とりあえずその感情そのものは受け止める。これ、「話し方聴き方大全」を読んでやってみたのと同じことなんですよね。

そう考えると、人の感情に対して「そんなことないだろう」と一蹴してしまう人は小さいころに転んで痛いのを泣いていても「痛くない!」と気持ちを押さえつけられて育ってきた人たちなのかもしれない、とも思えてくるのです。

 

この、相手の主張する困難や辛い気持ちを塞がない、というのは障害児の周りや妊産婦の辛さ、子連れの母親への対応 、しんどさやハンディを抱えて生きている人たちの周りに共通して言えることなんじゃないかと思っています。

 

NHKで取り上げられていることで話題になっている発達障害界隈でも、しんどさは本当に千差万別、知的障害を併せ持つ人の辛さや置かれた環境ゆえの辛さ、数値ではあらわしきれないそれぞれのしんどさがある。それは誰にもジャッジされることではないし、誰からも蓋をされてはいけないことなんだろうと思うのです。

 

辛いものは辛い、誰がどう手を差し伸べるか、どう改善していくかはそのあとの問題として、まずその辛いものは辛い、しんどいものはしんどい、という第一段階が受け入れられやすくなるために自分にできることは何か、を考える日々です。

niftyの「車に飛び出し」ニュースから考える、親としての責任

小学生の間で「車の前に飛び出す」遊びが流行 危険すぎる遊びにネット民から驚きの声|ニフティニュース

こんな記事を見かけまして、色々気になったのでスマホからエントリを書いてみている次第です。

 

■「流行ってるから」車に飛び出し

投稿したのは、こっちゃん@YZFさん小学校の周りをバイクで走っていたところ、3年生の女児がわざとバイクの前に飛び出してきたという。

投稿主がその女児に怒った際に、どうしてそのようなことをしたのか理由を聞いたところ、「流行っているから」と答えたという。

また、投稿主は、この遊びが流行っているはこの小学校だけかもしれないと前置きしたうえで、小学校の周りを通るときは気をつけて運転してくださいと注意。この危険な遊びについて、小学校にも知らせるという。

■危険すぎる遊びに驚きの声

この小学生たちの危険で奇妙な遊びに、ネット民からは驚きの声が。

(中略)

・流行るってことは周りの子もやってるんでしょ? 親は止めないのかね。

 (中略 実際の体験談のツイートが紹介されていました)

 

■「子供の問題行動は教育のせい」が5割

車の前に飛び出すという遊びは、まさに問題行動といえるだろう。しらべぇ編集部が全国20~60代の男女1,365名「子供の問題の責任」について調査したところ、およそ5割が「親の責任」と回答。

©sirabee.com

子供たちが内密に楽しんでいる遊びとはいえ、「親は止めないの?」という声が出るのは真っ当といえるか。子供の問題行動には親が責任をもってほしい、という気持ちのあらわれだろう。

 

親としての認知が可能なのかという疑問

「小学校に通報する(した)」という声がツイートでも流れています。我が子の問題行動やそういう流行りが身近にあることを知らされれば親や学校が対応はするでしょう。

 

でもその前の「下校時または外遊びのときに子供がやっていること」について「親は止めないのか?」という疑問については現役の小学生母としての正直な意見を声を大にして答えます。

 

「無理です」

 

外で、友人と集団でいるときの我が子の様子をまるっと把握してる親なんてそうそういません、自信をもって言える親がいるとしたら、子供が相当に言語能力が高く素直なのか、子供が巧妙な嘘をついているのか、親が勘違いをしてるのか、どれかの可能性が高いです。

見ようと思ってもそうそう全体は見えない、把握しようのないことについても「親の責任だと世間は言ってますよ」とまとめられてしまう、虚しいですね。

 

把握のために必要なこと

小学生の親として今回の話に思うのは、通報がなければ親や学校が把握するのはなかなか難しい案件だろうなということ。

 

国道でやろうとしているケースもあるようで、体が小さくかつ真面目さが残る低学年よりある程度巧妙に遊べる中〜高学年の子達に流行りそうな遊びに感じられます。

 

悪いこと、バレればキツく叱られることだとはわかってやってる可能性も高いのではないかと思います。

 

隠れてやったり、バレても特定されずに逃げたりしていたら発覚はしづらいですし、子供の間の圧力で秘密を共有したり日頃大人の前ではお利口にできるタイプのお子さんのストレスの捌け口としての遊びだったりするとさらに巧妙にすり抜けながらやってるかもしれない、そうなれば誰かがやってると噂が出ても個人の特定は簡単ではないかもしれません。(分かりやすい問題児ではなくまさかあの子が!ってケースもあり得ますから)

 

親でも、子供の何もかもが把握できるわけではありません。

年齢が上がるとどんどん難しくなっていくし、子供の異変もどんどんわかりづらくなっていきます。

 

それに、本人にどんなに先回りの指導をしても周りに流されればうっかりやらかすのが子供です。

 

流行ってる、みんなやってる、という現実に断固として立ち向かうことができる子はそう多くありません。(空気読まない族のうちの次男みたいなのはたまにそういう同調圧力に爆弾投げ込みますけれどもね)

 

だから、教えてください

親として、切なる願いです。

「アホなことをやらかしてる子がいたらすみませんが学校にお知らせをお願いします」

そこから先は学校やPTAや保護者がなんとかしていくことになりますから。

 

「親の責任」という微妙なニュアンス

結果的には、起こった問題に対応するのは親を含む保護者なわけで、そういう意味では問題行動の責任をとるのは親、というのはたしかにそうではあるんですね。そのための保護者な訳で。

 

でも、親として「問題行動が起こらないようにする責任」を全面的に負うのは現実には無理です。

年齢が上がるごとにそれは難しくなっていきます。

 

園や学校でも度々交通ルールについての指導は行われているし、入学に際して学校までの道の危ないところについて丁寧に指導する家庭も多いと思います。我が家でも度々子供たちに指導や注意を繰り返していますし、地域の見守りパトロールをやってくださっている方もいる。それでも予想のつかない危険な行動を見聞きすることはあります。

普段教室で比較的優等生の子達が集団で遊んでいるときにわーーっと車の前に飛び出してきて驚いたこともありますし、道路の飛び出しではありませんが高学年の頃集団で驚くような意地悪を仕掛けていた話が浮上したこともあります。

 

行動の制御は親の責任だろ、と簡単に言うかたにたまに出会います。そのときに問いかけることがあります。

あなたが小学生の頃、生活のすべてを親が把握していましたか?中学では?高校では?

 

自分が親に見せていなかった顔、秘密にしていたこと、隠れてやっていた悪事、親に知られずに来た過去が必ずあると思います、そんなもんです。

 

「親だけ」での解決はたぶん難しいから

やってはいけないとわかっててもその場の雰囲気や楽しさに飲まれてやらかします。

やるなと一度言っておけばやらなくなるわけではありません。

キツく叱ればやめるというわけでもないかもしれない。

 

そんなもん、だからこそ個々の親だけではなく問題行動を起こした子供たちやその周りの子を含めて、周囲の複数の大人が、ただ叱るだけでなく流行りになった経緯や飲み込まれた子達が抱えている問題に目を向け、解決に向けての大枠の取り組みをする必要がある、今回の飛び出しはそういう案件なのではないかと思います。

 

そのためにも、発端となる情報を外部からいれていただくのはありがたいことだと思います。

 

おわりに

紹介した記事を見て、まず悲しかった。

あぁまたこうやって、子供の問題ある行動が親のせいですよと記事にされてしまうんだなと。

それに対して反発の気持ちから「なんでも親のせいにするな!」と言いたくもなります。

 

でも、親に責任がないわけではけしてない。

実際にやらかしているならそこから子供のしたことの穴埋めや再発の防止に取り組まなくてはならなくなるわけで。そこから逃げることはできないわけで。

 

その、問題行動がわかったあとの取り組みは親として背負うことなのかな、とは思っています。(もちろん様々な理由でその部分で周りの力をかりる必要が出ることもあり得ますが)

 

でも、問題行動の前、親なのに防げなかったのか、と責められても誰も救われません。

 

責めて親の足を止めてしまったら解決は遠退きます。

親が問題行動のあとの解決に向けてのりだしやすくなることが結果的にはその子にとっても周りの大人や子供にとっても大きな意味を持ちます。

 

子供の問題行動を是正していくことが親として、周りの大人として子供にしてあげられること、そのために責めるのではなく、解決のための協力をしていただけたら幸いです。

 

2017.05.30 13:54一部追記しました。

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