スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

トイレットペーパーが切れたのに補充しなかった自分を救ったホルダーの進化と、さらなる構造化

「トイレットペーパーが切れたのに補充しなかったら半殺し」

昔観たテレビで俳優の哀川翔氏が自分の子育ての流儀を話している中でそう言っていて、そうだそうだ自分が入った時に切れてたままだと前に入ったやつ誰だ!って思うよなぁと思ったことがあって。

 

じゃあかくいう自分はと言われたら、哀川翔の子供だったら何度半殺しにされていたかわからない。

 

なぜ補充しないのか、その理由は簡単、恐ろしくめんどくさかったから。

そんなことと思うかもしれないけれど、本当にただただめんどくさかった。

 

あのカチッとはまっているのを両手を使って外さないといけない。

そして芯を取り出し、さらにどこかに置かれている新しいトイレットペーパーをひとつ取り(場合によっては包みを破いたりする必要もあり)カチッとハマめないといけない、あぁめんどくさい。

 

最近のホルダー、ものすごく簡単に芯を取り出して交換ができるじゃないですか。

いつだったかの記憶はおぼろげだけれど初めてあれに出会った時にものすごい衝撃を受けたのは覚えてます。

すごい発明だ!!!って感動したの、トイレの中で。

 

実はそれ以来、切れているのに補充しなかったことってないんです。

それくらい私にとっては大きな革命でした、あのホルダーの進化。

 

夫との暮らしが始まる時にトイレの内装をどうするかという時にもトイレはあのホルダー!絶対あのホルダー!とこだわったほど。

 

そんな我が家ですが、あんなに交換しやすい(と私が感動した)ホルダーを設置しているにもかかわらず切れたまま放置されていることもしばしば…

 

キーーー!って思っていた頃もあったんだけど、自分をふりかえって思う。

うん、面倒なことはやらないよね。

私の血を引いてる子がやるわけないよね、言っても言っても改善しないなら、現状を見直すしかない。半殺しにするわけにもいかないから。

 

トイレを改めて眺めてみたら、補充用のトイレットペーパーは見た目を意識してトイレの高い位置の棚に隠すようにおいてた、うん、それやめよう。

 

ホルダーのすぐ下の座ったまま手が届く位置にトイレットペーパー置き場を作ったら補充率は飛躍的に上がったし、もし切れてても自分がすぐに手を出せるからイラっともしない。素敵。

 

今度は交換した後の芯をあちこちに放置される事案が発生した。

さてどうしたもんかと思って改めてトイレを見回すとゴミ箱は便座に座った状態から手が届きにくい位置にある、しかもフタがあるので捨てるためには立ち上がり、フタを取り、捨て、フタをするというステップがいくつも必要になる、良くない。

 

座ったまま手が届く位置にフタの無いゴミ箱を置くと、そこに順調に芯が溜まっていくように。

 

 

気長に、何度も何度も、切れたら補充しなさいねと伝え、できていたら褒め、というのもひとつの方法なのだろうと思う。そして、これまでしつけと言えばその方法(特に前半の伝え続ける部分)を指していたんじゃなかろうかと思う。

 

最近の自分の中の流行りでもあるのだけれど、「家族の一員としての役割を意識してほしい」という考えのもとで交換することをひとつのタスクとしてとらえ、自分が交換することで家族も助かる、役に立っている、という意識づけをしていくという方法もひとつだろうなとも思う。

 

でも。

効率よくできるものはそうする、やりやすいようにしておく、そうやって作業そのもののハードルを下げていく作業をおろそかにしない方がお互いに楽よな〜と思うのです。

 

洗濯を長男に教えるとき、割高なので避けていたジェルボールを導入しました。

「洗剤を入れる」という面倒で曖昧なタスクがひとつ簡略化されたことで洗濯機を回すハードルは確実に下がり、今は自分の部活のものは自分で、ときに家族のぶんも一緒に回してくれるようになりました。

 

作業を面倒なままにしてその方法でやるように求めてスムーズにいかないとき、その作業そのものを簡略化できたら。

何度も同じことを言ったり、めんどくさくて避けたことを責めたり、やってないことにイラっときたり、そういうのがだんだん減っていくんじゃないかなぁ、それだとお互いに楽じゃないかなぁ、と思ったりしています。

 

「ワンタッチ」素敵な響き。 

旅をするということ

今年の夏は広島に行って。

向こうの友人たちが集まってくれて一緒にアットホームなレストハウスに宿泊。

そこのご主人やおばあちゃま、お子さんたちとも短い間だったけれど触れ合う時間あって。

 

帰ってきてから、もう広島が懐かしい。

広い畳の部屋いっぱいに真っ白の布団をしきつめて子供達が遊んだり眠ったりしていたあのレストハウスが懐かしい。

友人とおしゃべりした夜が、一緒に歩いた街が、もう懐かしい。

 

毎年どこかしら、家族でちょっとした旅をするのだけれど、その度に帰った後にそこが懐かしくなる。

 

大分県と宮崎県の境にある小さな島に行った時にも、船でこちらに渡ってきた夜にはもう島が懐かしくなっていた不思議な感覚。

 

この間全国区のテレビ番組でその島が取り上げられていて、船着場でおしゃべりをした最年長のおばあちゃんやお世話してくれたお兄さんたちがうつっていて。

次男が「次来る時まで生きててね!」と声をかけたおばあちゃんは今も元気で、当時はいい感じの雰囲気だったお兄さんとお手伝いのお姉さんは結婚して子供まで生まれていて!

あぁまた行きたい、会いに行きたい、と思う。

 

広島も、島も、たった1日か2日そこにいただけなのに。

 

そうかこれが私にとって旅をするということなのかもしれない、と思う。

 

観光地を巡ることも、史跡で学んだり行楽をしたりすることも、もちろん一つの目的。

でも、そこで人に接すること、自分が居た場所が懐かしい場所になること。

それが私にとって、旅の醍醐味なのかもしれないなぁと。

 

これまで行ってきた色々な場所を時々思い返す。

 

蒸し暑かったホーチミンの街にあったあのホテルはまだあるだろうか。

ただの宿泊客だった私がなぜか従業員の退職パーティーに誘われて一緒にカラオケをしたあの不思議な夜。

 

あちこちでの思い出と出会った人たち、あちこちにある、なんとなく故郷っぽい場所。

死ぬまでにそんな場所が、いくつ増えるかしら。

ことりっぷ 広島・宮島 (旅行ガイド)

ことりっぷ 広島・宮島 (旅行ガイド)

 

蝉の鳴く広島を訪れました。

いつも迎える、戦争を考える夏、今年は私にとって少し違うものでした。

 こちらは3年前のエントリ。

毎年こうやって7月の終わり頃から戦争について意識を強めていたような気がします。

 

映画「この世界の片隅に

去年と今年で違うことがあるとしたらその一つは、この映画の公開だったと思います。

原作に衝撃を受けた私が、映画アニメ化のクラウドファンディングという話を聞いて飛びつくのは自然なことでした。

幸運にも支援者として映画のエンドロールに名前を刻んでいただけたこと、それを子供たちと一緒に観に行けたこと。

 

この作品や原作者こうの史代さんが描かれた『夕凪の街 桜の国』の舞台でもあった広島の街、一度足を運んでみたいとずっと思い続けて来ましたが、映画の公開を受けてますますその気持ちは強くなっていました。

 

一路、広島へ

行きたい行きたいと思いながらも慌ただしい毎日の中でなかなか自分で計画しての旅行ができずにいたのだけれど、たまたま現地の友人たちと話している中で「この日ならみんなで集まれるよ!」っていう日があって、近くのゲストハウスの予約が空いてることも確認してくれた友人たち、よしそれなら行っちゃうよ!と勢いで1泊旅行を計画、夫に無謀だ無謀だと言われながら、子供4人を乗せて関門海峡を越えて広島を目指しました。

 

子供たちと観た初めての広島の街並み

友人の家の近くに車を停め、市電に乗って相生橋のたもとへ。

電車を降りた私たちの目に飛び込んで来たのは、何度も何度も映像や印刷物で目にして来た、原爆ドームでした。

 

原爆ドーム

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投下直後の写真では何もない中にポツンと建っている印象の強かった原爆ドームですが、今では周りに高い建物もたくさん建っているので想像より小さな印象ではありました。

それでもそこに集まるたくさんの人と周りの木々、これまで訪れたことのあるどの場所とも違う、不思議な感じのする場所でした。

 

立ち入り禁止の建物内には調査をされているらしい一群。友人曰く、補修工事などが定期的に行われているのでそのためではないかとのこと。保存のためにも相当な手を加え続けられているのが垣間見えます。

 

ドームの周りには私たちのような旅行者、海外の方もたくさん。

何かの課題なのかな、ドームの絵を描いている子たち、見学者向けのガイドをされている方、何かしらの署名を募っている方…

 

ドームのそばを流れる川、階段があり、川のそばに近寄れるようになっていました。

川遊びが好きな6歳の末っ子はささっとそこに降りて行って「川で遊びたい!」と無邪気に言います。

戸惑う私に現地の友人が「この川にはまだ遺骨が眠ってるかも」と教えてくれました。ご遺体はひきあげて火葬されたりもしているそうです。

 

小さな息子にわかってもらえるようゆっくり丁寧に、この川のことを話しました。

この街の人がたくさん亡くなった場所だから、ここは祈りの場所なんだよ、と。

 

毎年の平和学習や本などで原爆のことを知っている上の子たちは、ここがあの絵に描かれていた遺体で水面が埋まってしまっていた川だと気づいたようでした。

 

 

平和記念公園では1週間後に控えた6日の式典の準備が行われているところ。

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テレビでよく見るあの白いテントが建てられ、椅子を並べるための目印の紐を張る作業が行われていました。

 

レストハウス

ドームの後に目指したのはレストハウス

目的は『この世界の片隅に』のロケ地マップ。

「この世界の片隅に」を支援する呉・広島の会 - 当会の活動

 

私がレストハウスにいる間にも何人かの方が係りの方にロケ地マップの場所を尋ねていました。

何気なくお土産を見たりお茶を飲んだりして休憩していたら友人が「ここも被曝建物なんよ」と教えてくれました。

 

「被曝建物」この言葉をこの後広島市内を歩きながら、何度も見聞きすることになります。

 

資料館へ

子供達が全部見られるか…と不安になりつつ平和記念資料館へ。

本館は工事で閉鎖中だったため、東館のみ。

ひとまず1階の無料展示の企画展「1945年8月6日―原子爆弾による被害の概要」を見学。

色々な媒体で紹介されているしんちゃんの三輪車や焦げたお弁当箱、禎子さんの折り鶴など子供達も知っているものが並んでいました。

壁面では原爆投下後の街の様子や怪我をした人たちの写真などのパネル展示が。

 

中学生の男の子たちの洋服を着せた人形の横に立つ中1の長男、当時の子供達が今よりかなり体が小さかったことがうかがえます。

 

昨年の修学旅行で長崎の資料館を訪れていた長男やこれまで平和学習を受けている次男や娘にとっては学びにつながるだろうと思いつつ、小1の末っ子にはまだ早いだろうなぁと思っていました。案の定途中でかなり退屈してしまっていたのですが、それでもここで根気強く連れ回っていたことが後日大きく彼の中で意味を持つことになります。それはまた後ほど。

 

三男も退屈しているし有料展示の方はどうしようか、と思っていたところで次男がしんどそうにしているのに気づきました。彼は見たものをそのまま受け取るのではなくそこに乗っかる感情まで想像を膨らませてしまうことがこれまでにもよくありました。展示から大きすぎるものを受け取ってしまったんだろうな、ここから先はまた子供達がそれぞれ大きくなった時に、と思って資料館を後にしました。

 

商店街を歩いて、袋町小学校へ

友人の勧めで、袋町小学校平和資料館を訪ねました。(平和資料館

こちらも被曝建物ですが、開館されたのは平成15年と比較的最近です。

鉄筋コンクリート造だった校舎の一部が残ったこの小学校、原爆の翌年授業が再開されてからは壁が塗り直されて誰にも気づかれないままひっそりと残されていた壁の「伝言板」」が平成11年に発見され、資料館として保存・展示されています。

 

原爆で焼けたススで真っ黒になった壁には家族や知人を探すためにチョークで書かれた名前や伝言がびっしりと書き残されていました。

 

街の中を歩く

広島の街をあちこちを歩きながら、娘が「ここにも」と街中に設置されている被曝建物を紹介するモニュメントに気づきました。

あっちにもあったよ、と教えてくれた娘。

そのあともあちこちで被曝の様子を知らせる展示やモニュメントが街の中に点在しているのを見て、改めてこの街が72年間の長い間ずっと、被曝という現実と一緒に歩んできているんだということを痛感しました。

一緒に歩いてくれた友人は被曝3世、恐らくはこの街を歩くたくさんの人の中にも、被爆者のかたやその血縁の方も多くいらしたんだろうな、と。

 

おわりに

この世界の片隅に』の中ですずさんたちの暮らしの中に当たり前すぎるほど当たり前に戦争という現実がついてきていたように、この街には当たり前に被曝という現実が今も一緒に生きてるんだということ。

広島の街を歩いて見て一番印象が残ったのは、自分がそれに気づいたことかもしれません。

 

私が1年の間のたった1ヶ月くらいの間に意識している戦争ということや原爆のこと、でもこの街ではそうじゃないんだということを改めて感じました。

たくさんの被曝建物がある街、被曝体験を持つ人たちがいる街、その中にある、当たり前の暮らし。

 

もちろん、個人差も温度差もあると思う。いろんな思いがそこにあるんだろうとも思うけれど、その当たり前の暮らしを少し追体験させてもらえたこと、垣間見させてもらえたこと、何を見た、どこへ行った、というのとはまたちょっと違う経験だったような気がします。

 

おまけの後日談

旅行から帰ってからの今年の平和学習、1年生の末っ子のクラスでは先生が「しんちゃんの三輪車」のお話をしてくれたんだそうです。

広島で現物を見ていたけれどイマイチよくわかっていなかった三男、教室でいろんなピースがピタッとハマって「僕見てきたよ!」と先生に言ったそうです。

先生の促しで広島で見てきた色々なものをみんなに話す場を持たせてもらったらしく、帰ってから「たくさん発表したの」と話してくれました。

 

まだ早いだろう、あまり覚えてないだろう、と思いながらお兄ちゃんたちの付き添いとして資料館を訪れていた三男だったけれど、その後の経験で彼の中であの日の資料館で見たものが意味あるものとして根付いたんだなぁと。

 

先生からのお話で、三輪車のことやお弁当箱、焼けた洋服、街の写真などをたくさん見たのだと話していたそうです。

館内でずっと「まだお外にでないのー」ってグダグダ繰り返してたからちゃんと見てなかったと思い込んでいたのですが、実際にはそこにあったものをかなり見て覚えていたようです。

 

「まだ早い」っていうのも私が決めるようなことじゃなかったんだなぁ、と、三男をお留守番させようかとチラッと思った自分の勘が外れたことがなんかちょっと嬉しかった、そんな後日談でした。

 

 改めて読み返したいなぁ。

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

 
夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)

夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)

 

 

なぜ私が「夏休みの宿題を最初3日で終わらせる子」だったのか

夏休みです。

末っ子が入学して、小学生3人と中学生1人、4人がそれぞれ大量の宿題を抱えて帰ってきました。地獄の始まりです。

 

長男や娘は私が介入しなくても毎回きっちり終わらせるので声かけをする程度ですが、我が家の最大の山はそう、次男です。

 

次男の困難と私のスタイル

ADHD&ASD次男、毎年毎年宿題がコンスタントに終えられず泣いてきました。

1、2年生の頃は担任の方針で1日分がきっちり決まっていたのでそれをこなすだけでよく大した問題にはなりませんでしたが3年生になった頃から「コツコツできない」ことの影響がもろに出るようになりました。

 

目の前に人参をぶら下げられないと走れない超報酬主義の次男にとって、夏休みが終わる頃に宿題が終わっているという遠すぎる目標は視界には入りません。

 

夏休みの宿題は最初の3日で一気に終わらせてしまうスタイルをずっと貫いてきた私にとって、なぜそんなに宿題に困るのか理解不能。

「お母ちゃんには僕の辛さはわかんないよ!」と泣く彼に「うん、困ったことないからわかんない」としか言えない。寄り添いたくても理解し切れない次男の宿題への困難に毎年親子でストレスを溜めてはなんとか乗り切ってきました。

 

次男の今年の計画表

今年の夏休みの初めに彼が自分で立てた計画表は20ページあるドリルを平日の数で日割り計算して1日何ページ、それを毎日やれば終わるよね!というもの。

 

無理がありそうだけれどまぁやってみようとスタート。

 

案の定最初の2日、遊びに引きずられて早速計画が頓挫、頭を抱える次男に再度計画を練り直すことを勧めて、もう一度立てた計画は最初数日でドリルを数ページずつ、と多少の改良は見られたものの、やはりコツコツやる感じの計画。

 

そして今日、全くうまく進んでない宿題の山を前に次男と二人、途方に暮れました。

 

私「ねえ次男くん」

次男「うん」

私「君はやっぱり、毎日何ページかずつやるの、無理じゃない?」

次男「そうかな、そうだね…」

次男「1冊一気にやっちゃうほうができそう」

私「うん、どうだろう」

次男「それならできる気がする」

 

そこから小一時間、こもって机に向かっていた次男

あんなにめんどくさがっていたドリルが1冊終わったと嬉々として見せてくれました。

 

気づかなかった、私と次男の共通点

私は、次男と私は違うと思ってました。

宿題に困難を感じたことのない私は次男と違うと思ってた。

 

でも、よくよく考えて見たら根っこは同じような気がするのです。

 

私がなぜ最初3日で宿題を終わらせてしまっていたのか。

それは、私が飛び抜けて優秀だったからではありません。

私が、コツコツやるのは無理だと多分自分でわかってたから

毎日数ページずつやれない、ならさっさとやっちゃおう、と思ってたから。

 

私と次男に違うところがあるとしたら、今と昔の宿題のボリュームかもしれません。

私が小中学生の頃、良くも悪くも宿題に対する記憶がほぼありません。大変だったとか、宿題のせいで遊べなかったとか皆無。困るような量は出ていなかったと思います。

 

私も、多分自分がめんどくささを感じるほどの量が課せられていたらきっと次男と同じようにギリギリまで先延ばしにしてしまっていたと思います。

 

なぜなら今もそうだから。

依頼された原稿を締め切りギリギリまで先延ばしにしてしまうのは日常茶飯事。

本業でもいくつか仕事が舞い込んだらそれを小分けにしてコツコツはできません。納期やハードルの低さで優先順位をつけたらあとは一つずつを一気に仕上げてしまわないと終わらせられない。

 

なんだ、次男と同じじゃないか。

 

さてドリルを一気に終わらせて調子づいていた次男は、次に手に取った漢字と計算のプリント集のめんどくささにまた絶望している様子です。

スイッチが入って一気に終わらせる時をやんわり見守るしかないんだろうなぁ…

 

長男中学に入ると計画を立てて学習していくことが求められるようです。さてそれが次男にどんな風に影響を与えるのかはわかりませんが、コツコツやれなくてもそれなりに大人になれるとは思うからあんまり無理強いしない方向で行きたいな〜と考えたりしています。

 

ワガママと発達障害の境界線 〜NHKあさイチを見て考えたこと〜

久しぶりの更新です、定期的に書けないですね、相変わらずですね。

 

NHKあさイチ」の発達障害特集

今朝、何気なく連ドラを観た流れでテレビをつけたままにしてたらあさイチ発達障害の特集だったので見入ってしまいました。

 

ちょうど夏休みで子供たちもいて一緒に見ましたが、取り上げられていた6年生の女の子の宿題をやりたがらない様子は次男によく似ているところもあり、本人も「僕みたいだなぁ」と苦笑いしていました。

 

発達障害のある子のパニックの様子や家庭でのお母さんの尽力、お父さんの複雑な心境など、当事者家族としては色々と共感のできる内容も多く、こうやってまた周知に一役をかってもらえるのかなと心強くも思いました。

 

印象に残った井上先生の言葉

番組の中で特に印象に残ったのが、鳥取大学井上雅彦先生のコメントでした。

当事者の父親も語っていた「ワガママと障害の境界線がわからない」というお話について

「ワガママと発達障害の線引きはどこかということに目を向けるより、どうやって工夫すればこの子供の努力が報われるのか、周りがどういうふうに対応したり工夫するのかという方向に目を向けるほうがいい」

と説明をされていました。

 

親としても「それはワガママだ」と一蹴して叱ってしまいたい気持ちになることもあるけれど、これは障害ゆえだからとグッと飲み込むことも多々。そうやって当事者である次男と接していると、普段きょうだいの中の他の子にいかに手を抜いて接しているかを痛感することもある。

 

そんな経験をしていると、井上先生の言葉は本当に重いのです。

発達障害の専門家ではないただの素人の親が、この子のこれはワガママだ、これは発達障害の特性だ、と線を引いて判断し、対応を変えることは子供にとってのメリットはまるでない、自分が手を抜くための言い訳でしかないのかもしれないとすら。

 

どちらなのかを判断するのではなく、どれもその子の努力をどうやって報われるようにしてやれるかと思って接する、発達障害の診断有る無しに関わらず大事なことだなぁと改めて思うと同時に、そんな余裕を生活の中に持つことの大切さもまた、痛感してしまいました。

 

線引きを意識しないというハックの是と非

井上先生のコメントは、発達障害のある子と日常的に接する大人、多数の子供たちと接する機会のある大人にとっては非常に大事な意味を持つ言葉だと思います。

 

自分で判断するのではなく、ワガママの発露にその子の抱える問題を考える。

大事に大事に寄り添っていく、必要なことは何かを考える。

 

その、接し方のためのハックとしての考え方なのかな、と思う。

 

と敢えて書いたのは、この線引きの話が「好き嫌いと味覚や聴覚など過敏との境界線」についても同じことが言えるなと思ったから。

 

「あなたの好き嫌いはワガママだから頑張って食べなさい、診断の降りている子は障害だから食べなくていいですよ」っていう指導に私はそれ違うんじゃない?と思っていたんですね。

どっちも不快さを本人が感じているんだからそれなりの配慮を必要としていると思っていいんじゃないの?って。

 

でもこの視点を「発達障害という概念」について語るときに持ち出すのは注意が必要だと思うのです。

 

それは、「地続きだと語ってしまうことで辛さがぼやけてしまう」可能性があるから。

 

「程度」と「頻度」の先にある、刺さるような辛さ

以前、発達障害のある成人当事者の友人と好き嫌いと過敏についての話をしているときに私がこの、ワガママとの境は意識しなくていいんじゃないか、という発言をしたことがあります。

彼女は自分の正直な気持ちとして「自分の刺さるような辛さをぼやかされたくない」と語ってくれました。

 

NHKの特集の中でも、発達障害の特徴として「忘れ物をしやすい」など複数の項目を挙げ、さらにそれについて誰にでも多少はあるようなそれらの困難が「程度」や「頻度」が度を越すことで社会生活上の困難をきたすような状況が生じる、というお話があっていました。

 

友人も、聴覚の過敏で人混みなど音の多いところでは実際に痛覚が刺激され刺さるような痛み、辛さを感じていると話してくれました。投薬などで調整して今はなんとか街にも出ることができている、その自分の辛さを「ちょっとしんどい」程度のところと地続きで語ることでぼやかされてしまうのはなかったことにされているようで辛い、と。

 

自分の至らなさを痛感した会話でした。

 

それから今日まで、地続きなのか、そうではないのか、について悶々と考えてきたように思います。そしてその答えが、井上先生のコメントを受けて自分の中で出た、と感じています。

 

ハックと概念の違い

「ワガママと発達障害の特性ゆえの行動について、保護者や支援者がその線引きを意識するのではなくどれも「当人の努力が形になるためにどんな工夫が必要なのか」と寄り添ってあげることが大事」

これは、発達障害当事者(に限らず指導や支援として複数の人)に接する時のノウハウ、ハック、方法論なのだろうと思うのです。

 

そして、

「好き嫌いやワガママと、支援や医療のサポートが必要となる困難の間には程度や頻度の大きな差があり、ひとくくりにしたり自分の感覚ではかったりしてはいけない」

これは、発達障害という概念を社会という大きなくくりの中で理解してもらう中で周知が必要なことなのではないかと。

 

この違いが自分の中で明確になって、なんだかスッキリしたのを書き残したかったのです。

 

おわりに

この違いについての視点は、あくまでも今の段階の自分の中で出た答えにすぎません。

これから先もたくさんの人に出会いお話を聞いたりしながら、また自分の考えや物の見方が変わっていくんだろうなとも思っています。

 

 

今日の特集のように、年間を通してあさイチなど視聴率の高そうな番組で発達障害のことを取り上げていってもらうこと、そうやって周知に繋がったり、番組を契機にいろんな人の声がネット上で上がってくること、そうやって少しずつ当事者の必要な支援が受けやすくなっていくことを期待しています。

 

「夢をあきらめさせる」って話に思うこと

「夢をあきらめさせる」というツイートまとめの感想

昨日の夜くらいから「夢をあきらめさせる」という話題のツイートがどんどん流れてきてて、なんだろうと思って検索したらこれが見つかりました。

なるほど〜と思いながら読みまして、そのあといくつかツイートしましたが、私にはこのツイート主さんの恨みみたいなのをなんとなく感じてしまったのが正直な感想です。

 

このツイート群の本旨って多分最後の方に書かれてる、今ネット上なんかで行動を起こしてる絵師の卵さんたちは「行動を起こしてる」人たちだからエリートなんだよ、頑張れ、っていうメッセージなのかなって思うのだけど、そこが完全にボケてしまうほどに強く夢をあきらめさせるためのハックを推してる、すごい残念な流れだな〜と思ってしまいました。

 

なんでそこに力がこもったかって、多分「バカにされながら頑張って続けてきた自分」への自負や「バカにしてきた奴ら」への恨みつらみみたいなのが積み重なってんだろうな〜と。

 

でもそれって、その自分のトラウマみたいなのを今の子供たちにぶつけようとしてるだけにも見えて、なんだか悲しい。

 

ツイート主さんも書かれてるけど、万が一達成してしまうような、やり抜いてしまうような子って「ちょっと違う」子たち、それは私もわかります。でもそれって、バカにされるとかいじめられるとかハブられるとかと紙一重なのだよね。

 

 

 

トラウマをぶつけられた子たちのことは考えてる?

読んでいて悲しかったのは、夢を叩き潰されて辛い思いをする子たちのことは考えてるのかな?ってこと。

いや、考えてないからこうやって書けるんだろうなって思うのだけど。

 

twitterのTLにもいろんな感想があったけどその中にも、過去に大人に夢を潰されてきた記憶のある人たちもいる。

小・中学生の時点で、自分がやろうと思ったことを完膚なきまでに叩き潰されてしまう経験をしたらその子たちの心にどんなものが残るだろう。

それが将来に影響する可能性だって多分にある。それは、誰がフォローしてくれるんだろう。

 

その視点が全く欠落していて、とても虚しい、悲しい。

 

自分をバカにしてた奴らのことなんか思いやる必要はないのかな、うん、そう思う段階って、まだそのトラウマから抜けきれてない状態なんじゃないかなぁって思ったりする。

 

「無謀な夢」って持っちゃダメなのかな。

ここからはツイート主さんの話から離れて、夢についての私の話。

 

私も、小学生の時点でイラストレーターとか漫画家とか女優とかいろんな夢を持った子でした。もちろんそれを親からは鼻で笑われたし、母親からは真っ向から「食えないからダメだ」と言われたし、だからどこかで諦めて「普通に大学に行って普通に就職する」もんだと思って高校から大学へと進んだわけだけれど。

 

でも紆余曲折、なんだかんだあって、今の私、絵を描くということはそれなりに続けてる。

趣味で描いてもいるし、ご縁があって赤すぐさんの連載では自分の拙いイラストを記事に添えさせてもらえて。


twitterを初めて、ブログを書いて、40を前にしてそれが認めてもらえてライターとしてのお仕事をもらえるようになって、そこに自分の描いたイラストを添えて発信できるようになった、という形の成功。

これ、小学生の頃になんとなく思い描いていたイラストレーターさんの姿とは全然違う。思い描くことすらできなかった形、でも、私がやりたかった「絵を描いてお金をもらう」が結果的に叶った。すごいなぁ、私。

 

もちろん、ライター稼業でもイラストを描くことでも「食える」レベルになんて到底達してない。

 

それでもそれなりに楽しくやらせてもらえて、幸せなのです。

 

私が、最初のまとめ記事のようなやり方で小さい頃に夢を叩き潰されて絵から離れていたら、この未来はなかったと思う。なんだかんだと続けられる道を進めてよかったなぁって、改めて思いました。

 

これからの子供たちへ

うちの4人の子たちはそれぞれに性格が全然違っていて、得意なことも不得意なことも色々。

その中で次男はなんとなくクリエイティブな道に進みそうな気がしています。

絵を描いたり文章を綴ったりするのが好きな次男、決して上手とか天才的とかではないけれど、自分なりに色々と楽しんだり時に褒められたりしているのを応援しているところです。

 

でも、じゃあそのクリエイティブな道で彼が食えるのかは、正直わかりません。

「だから安定した道を」という気持ちも当然あります。

 

ただ、彼が大人になる10年くらい先にどんな未来が転がってるかなんて私にはわからない。

 

どの経験がどんな風に身を結んで稼ぎにつながっていくか、本当に見当がつかないのです。

 

小学生だった私に「ブログからライターになり絵をネットに掲載してもらう」未来が全く見えなかったように、子供たちが長じた時にどんな未来が待ってるかなんて全然わからない。

私だって、10年後にどんな形でお金を稼いでるかも正直わかんない。どこでどう人生が転んでいくかわかんない。

 

私の価値観では測れない未来に進んでいく子供たちの好きなこと続けたいことを、できるだけ潰さないであげたいなぁ、と思うのです。

 

私の小さな小さな夢が、30年経ってこんな形で叶うことだってあるんだから。

『「仲間に入れて」をなんていう?』アンケート結果をまとめました。

 

気づけばもう2ヶ月も放置しておりました、このアンケート。

ゴールデンウィークに集計してから今日まで、その集計用紙が行方不明になっておりましたがやっと見つけました。

 

さて前の記事は3年前。

いや〜途中経過とか言っておいて3年もほったらかしてました、我ながらひどい。 

そこから今回は回答がさらに増えて、面白い結果になってます。

 

回答総数4371、個別にいただいたリプライは149でした。

ご協力ありがとうございます。

 

さて、地方ごとにまとめてみましたので北から。

 

北海道と東北地方

 

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全体的なアンケート結果からもわかりますが、やはり「いれて」が多数派。

印象的なのは「かぜて」「かでて」が多いことと、一部にあるとお答えのあった「はめて」

「はめて」は全国でもここらへんだけでしか回答はありませんでした。

 

「かぜて」「かでて」の元になっている「かぜる」「かだる」は北海道や東北の方言で「仲間にはいる、参加する、賛成する、老後の面倒を見てもらう、加担する」の意味があるそうです。

 

関東甲信越中部あたり

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東京周辺部は圧倒的に「いれて」文化のようです。

少し離れると「まぜて」がじわじわと見えてきます。

東北にあった「かてて」もチラッと姿を見せています。

 

近畿中国四国あたり

関西を中心に圧倒的な「よせて」文化のようです。

「まいて」は「まぜて」の変化したものでしょうか。

山口にチラッと見える「かたらして」が九州に近いことを思わせます。

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九州地方

こちらは圧倒的に「かてて」文化です。

「かたる」と言う方言は九州では「仲間に入る・参加する」などの意味。

これ、気づいた方もいらっしゃると思いますが東北あたりで出てきた「かだる」とそっくり。これは前回の時にも出てきていたこと。

語源が同じなんでしょうか、とても興味深い。

ちなみに古語としての「かたる」を調べると、「語る」の他に「交わる」と言う意味も出てきます。

 

「交わる」というと前回の記事の時に出ていた「まぜて」の感じは「交ぜて」ではないかという指摘が思い出されます。 

 

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全国を見渡して

 

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四択の集計結果と全国の地図を見渡して思うことは「いれて」が全国的に多いということ。

これは、あちこちで「いれて」文化が生まれた、というよりは、東京を中心とした「いれて」人口が日本中に移動して広まっている結果なのでは?と感じています。

 

それを裏付けるかも、と思ったのが、大阪の一番下にある「いれて」の回答。

これ、実は大阪の北摂にお住いの方の回答なのです。

私自身その辺に住んでいたことがあるのですが、大阪の北摂地域(大阪府の北のほう)は土着の方よりも関東や他の地域からの転勤族や移住してきた方が多くお住いです。

方言も関西弁ではあるけど南の方よりもマイルドなイメージ。

 

その北摂の方が「いれて」と言ってるよとお返事をくださっていたこと、また、大人は「〜〜」って言ってるけど子供たちは「いれて」って言ってます、というメンションみあったこと。

その辺りから、鹿児島や四国、東北や北海道でも見られる「いれて」は古い文化というよりは近年広まっていった文化の可能性が高そう。

 

おわりに

さて、前回の記事で話題にしていた「まぜる」の話。

これ、改めて色々調べてみると「交ぜる」の漢字をあてる方が妥当な気がしてきました。

「交ぜる」は一緒にした後にそれぞれが見分けられる状態

「混ぜる」は一緒にした後には元のものの区別がつかなくなる状態

 

たくさんの言葉の違いはあるものの、「一緒になった後でそれぞれの区別がつく状態」を示している意味を持つ言葉であるという共通点はあるんですね。

 

・「交ぜて」という漢字ではないかという考察

・遠く離れた北と南にそれぞれ残っている「かてて」「かぜて」

・「いれて」文化の広がり

 

改めてアンケートをとってみたらいろんなことが見えてきて、とても面白かったです。

 

もう数年経ってまたアンケートをとったら、「いれて」はもっともっと増えているのかしら。方言が減っていくのはちょっと寂しいけど。

 

たくさんの皆さんのご協力ありがとうございました〜

また思いつきでアンケートをとった時はぜひおつきあいくださいませね。

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