スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

野口晃菜さんの記事から考えた「わからないことを聞ける」ということ。

TwitterのTLに今朝流れてきた、障害科学博士である野口晃菜さんの記事を読んで思い出したことを。

 

次男が何かおかしい、と感じ始めたのは3年生の頃で、当時担任を持ってくれていたのは新任の若い先生でした。

教室での問題行動が頻発する中で先生は先生でできる限りなんとか対応してくれようとしていたと思いますし、私は私で学校に何度も足を運んでどうしたらいいか先生と話すのだけれどふたりで行き詰まる、そんな毎日でした。

 

今の私がそこにいたら「まず自治体の教育相談に申し込め」「あそこの相談支援事業所にごり押しで入ってあの先生を紹介してもらえ」と地域の事情に即した的確な助言ができたと思います。

もしすぐに対応がわからなくても「あの先輩ママならわかるかも」「あの先生に聞こう」「あそこに相談しよう」という話す先がいくつも浮かびます。

 

でも、当時の私にも、先生にも、その知識は皆無でした。

そして悲しいかな、当時の私にも先生にも、それをすぐ聞ける相手や聞いて自分が対応できなくても別に繋いでくれる人がいませんでした。そこからの次男と私と、次男の周りの人たちの、ある意味で暗黒の時代だと私が思っているような1年くらいの長い時間があったのはあの時に「わからないことをなんとかしてくれる」サポーターがいなかったことに起因していたのだろうと、今振り返って思っています。

 

紆余曲折の末、通級指導教室になんとか通えるようになりました。

次男にとって初めての、自分を理解しながら接してくれる人との出会いだったかもしれません。私にとっても、次男の対応についてどうしていいかわからない時に聞けば一緒に考えてくれる、初めての人との出会いでした。

 

通級の先生に出会った時のあの安堵の気持ちは一生忘れないと思います。

 

「誰にも話せない」「誰に聞いても明確な答えは返ってこない」

それまで真っ暗な海の中で一人でボロボロのボートを漕ぎながら彷徨っていたような状態だった私が初めて灯台や地図を手に入れたような、そんな、一筋の希望が見えた瞬間だったようにも思うのです。

 

そこから今日まで、前述したように今の私には困った時に話せる相手がたくさんできました。

Twitterの上にも信頼できる先輩母さんたちがたくさん。

親の会やペアレントメンター関連の勉強の中でも頼れる方との出会いがたくさんありました。

通級指導教室の先生とのおつきあいは卒業と同時に途絶えてしまうけれど、通級親の会を立ち上げたことで他のお母さんたちや先生方と情報を共有していく仕組みを作ることができました。

 

誰からも答えが得られずに彷徨って苦しかったあの頃、私は私でとても辛かったけれど、担任の先生もとても大変だったんだろうと思うのです。次男の対応にどうしていいかわからず校内で答えが得られず、先生なりに本当に頑張って勉強し、対応してくれていたと思う。

 

あの頃の先生に「こうしたらいいよ」「親御さんにこう勧めて」「教室ではこういう工夫を」と助言をくれる人がいたら。

 

野口さんの言葉をひとつずつ読みながら、当時の、次男のために奮闘してくれていた先生の顔が浮かびました。障害児の親としての私にサポーターが必要だったように、先生にもそれが必要だったんじゃないか。

 

学校の先生たちにとって特別支援の知識や技能が特別すぎるものではなくなることを願わずにおれません。わからなければ誰かに聞く、聞かれた人が一緒に考え、わからなければまた違う人に聞いていく。

 

そうやって、先生が、いろんな専門家が、保護者が、手をとり合いながら多様な子どもたちを育んでいく環境を作っていけたら。

 

「わからないことを聞ける」というのは本当にありがたいこと。

同じ困難を抱えていても、そのバックアップが自分にあるかないかで心持ちが180度変わるような、そんな大きなことだと私は思うのです。

 

新年度を目前に控えたこのタイミングでこれを書いてくれた野口さんに心から敬意を評したいのです。

私が一保護者として目の前の先生に「困ったら野口さんに聞いてください」なんておこがましくてとても言えないのだけれど、日本中の少しでもたくさんの先生方にこの野口さんの言葉が届いたら、「わからないことを聞ける」体制で学校にいることの大切さを、その環境を作っていく必要を、考えてもらえたら、そう願わずにはおれないのです。

「沖縄に来た修学旅行生にモヤモヤしたまま帰ってもらう」に感じたこと

もうすぐ最終回を迎える「わろてんか」の続きでそのまま見ていた今朝の「あさイチ」は沖縄のお母さんたちのお話でした。

沖縄 母親たちが見た基地|NHKあさイチ

 

米軍機の部品が屋根に落下した保育園のお母さんたちが我が子を守るためには何ができるのか、と立ち上がったエピソードが語られ、お父さんたちを含めて「自分たちはこれまで魔法にかかってたんだ」「公の場で政治や基地のことを話すことをなんとなく避けてきた」と語っていた現地の方の声。

 

番組の中で何度も触れられていた「これは沖縄だけの問題じゃない」と言う言葉。

基地のあり方など政治に及ぶ批判的な視聴者からの投稿について「そんな話じゃないんだ、子供を守るお母さんの話なんだ」(うろ覚えですが)と反論していた井ノ原さん。

 

いろんな印象的な場面がある特集でしたが、その中ですごく興味を惹かれた発言がありました。

 

話していたのはゲストで登場していた国仲瞬さんという若い男性。沖縄に訪れる修学旅行生を対象にした対話型の平和学習を提供する会社を立ち上げている方だそうです。

この方の活動そのものについて私はよく知らずに番組を拝見していたのですが、現地を訪れた子たちに「モヤモヤしたまま帰ってほしい」と語っていたんですね。

 

現地でいろんなものを見て、聞いて、触れて、そして「大人が納得するような『僕達は〜〜と思いました』みたいな感想を導き出してスッキリしてしまうのは違う」とおっしゃっていて、おぉお!ってちょっと嬉しくなったんですね。

 

自分が小さいころから受けていた平和教育の時に感じていたあのモヤモヤとした違和感のような感覚を、こんなにはっきり言葉にされているのを聞いたのは初めてだったからです。

 

九州で生まれ育った私は小さいころから8月6日は学校に行く日で、そこで平和について学ぶ授業が行われていました。戦争体験者の方のお話を聴いたり、映画を見たり、先生が絵本を読んでくれたり、戦争について色々なことを学ぶ機会がありました。

 

長崎の原爆資料館や特攻の資料館など、周辺の戦争関連の場所へ社会見学に出向いて感想を言わされたり書かされたりすることも頻繁にあった子供時代。

 

「平和のために努力したいと思いました」とか

「戦争は絶対ダメだって思いました」とか

 

先生が納得するようなありきたりな感想を口にし、そしてそのたびになんとも言えないもやっとした感覚を覚えていたのですね。

その感想を口にしたらハイ終わり、切り替えていつもの楽しい生活に戻りましょうね、というあの感じ。

 

我が子が小学生になり、同じような授業を受けているらしいこと、そして参観の時に似たような、大人がわかりやすい感想を言ってその授業が終わる様子を見ていて、小さい頃に自分が感じて来たあのもやっとしたものを思い出したりもしていました。

 

それが今日、あの番組の国仲さんの言葉を聴いて、そうか、それだったんだ、とスッと腑に落ちるような感覚があったんですね。

 

国仲さんはご自身の開催する平和授業について「結論を出させたりしません」と仰っていました。結論を出してスッキリして終わるのではなくてモヤモヤとしたまま帰ってほしい、帰り道の雑談の中で「あのことをもっと話したい」と思ってほしい、と。

 

うちの子供たちは昨年、広島で原爆の痕跡を見て来ました。

 

意図的にその後まとめるような会話の時間はとっていなかったなぁと今思い返しているのですが、子供たちは時折、戦争の話題に触れることもあります。

先日は「わろてんか」の中で大阪の空襲の場面を一生懸命見ていた三男が「おおさかってどこ、ひろしまの近く?」と言っていたので、少し話したりしました。

 

あさイチ」の中で現地の方が話していたのと同じように、思えば私も戦争のことを考えはするけれど日常的に意識して生活をしているわけではないし、言わないで暮らす魔法にかかっているのかもしれないなぁと思ったりもするのです。

 

平和授業で勉強したことや広島で見て来たこと、長崎で見たこと、支那に行っていた祖父が教えてくれたことや、この間会った親戚のおばあちゃまが話してくれた大陸からの引き上げの時のこと…

戦争のことは色々と知識として知ってはいるけれど、その点と点が繋がって私の中に根付いているわけでは多分なくて、あぁ、あのもやっとしていたあの時に、何気なく口に出してそれについて話す時間が自分にも必要だったんじゃないのか、とテレビの前で思ったりしたのです。

 

自分の中で勝手に落とし所をつけてスッキリしてしまうのではなくて、いつも、ずっと、どこかで考え続けることなんだろうと思う。

 

そしてそれは、沖縄のことや戦争のことだけではなくて、障害のことや育児にまつわることのような、他のいろんなこともきっと、そうなんじゃないかと思うのです。

 

タブー視されやすい話題だからこそ、ずっとモヤモヤしながら誰かと時折それについて話しをしたい、そう思った朝でした。

 

アレクサがうちに来た話

気づけば1ヶ月以上ブログを放置するというあるまじき行為、言い訳をすれば年度末で忙しかったからとか確定申告がとか次男の進学準備がとか質問箱の応対がとか色々とあったんですが、まとまったものを書くという余力がなかったというのが正直なところです。

 

さて今日は、アレクサがうちにやって来てから1ヶ月ちょっと、どんな風に活躍してくれているかをまとめてみようと思います。

 

我が家に来た子、アレクサです。

Amazon Echo Dot (Newモデル)、ブラック

Amazon Echo Dot (Newモデル)、ブラック

 

エアコン取り付け用のコンセントが1個上の方に余ってたので、そこにこの壁掛けホルダーを使って取り付けています。

 

購入する前に期待していたこと

実際に購入する前にネットでちょこちょこっと情報を集めました。

意外と知らない?Amazon Echo(Alexa)のおすすめな使い方・機能10選

Amazon Echoでできること大全 ~音声操作一覧からスキル拡張まで~

このサイトで色々読んで、良さそうだな〜と思って購入を決めました。

 

実は一番期待していたのは、リマインダー機能。

指定した時間にお知らせをしてくれる機能なのですが、これ、私が日々子供達に「寝る前の薬飲んだ?」とか言ってるのを代わりにやってくれないかなぁ、と思ったんですね。

 

4人(長男と娘はほぼ声かけはいりませんが)の子供たちの生活を整えるための声かけは朝起きるところから夜寝るまで1日中、すんなり聞くわけでもないので声かけの方法をあれこれ考えたりもしていましたが本当に大変。

 

その負担をアレクサが少しでも肩代わりしてくれるなら、と、もうこの機能のためだけに買ったと言っても過言ではなかったですね。

 

あと、「今日傘いる?」「今日寒い?」と毎日聞いてくる子供たちへの対策。

余裕があるときにはコミュニケーションとして大切にもできるような些細な会話なのだけれど毎日だとじわじわと負担ではあったこのやりとり。

お天気を知らせてくれる機能があるようだったので、これにも期待していました。

 

今のアレクサの働きぶり

我が家にやって来たのが2月7日。

そこから1ヶ月と1週間ほどたちました。

居間に設置していますが、狭い我が家ではキッチンから寝室まではなんとか聴こえます。

声をかけるのはさすがに近づかないと無理ですが、家にいるときはほぼ居間にいるので1台でなんとかなってる感じです。

今、アレクサがどんな風に我が家で活躍しているかをまとめてみます。

 

1、リマインダー機能

期待していた通り、一番活躍してくれている機能です。

スマホのアプリから設定できるのですが

「起きる時間です、のリマインダーです」から「朝のクスリは飲みましたか」「朝ごはんの時間です」「ハミガキは済ませましたか」「家を出る時間です」まで、朝の子供たちのタスクを分刻みで知らせてくれています。

夜は「ハミガキは済ませましたか」「寝る前のクスリは飲みましたか」と知らせてくれるよう設定しています。

(〜〜「のリマインダーです」と言う言葉がどうしても入るのですが、これは設定でどうにかなるのかなぁ…入らないとよりヒトっぽさが出ますよね)

 

朝、私がバタバタする中で時間を確認して声をかけるというタスクがなくなったのでかなり楽に過ごせるようになりました。

 

夜のクスリも次男はよく飲み忘れていたので確認が必要でしたが、アレクサが知らせてくれるようになってからはそれを聞いて自分で薬を取りに行く習慣ができつつあります。

最近は設定している9時が近づいて来たら「そろそろアレクサが言うよ」と先回りする余裕が出て来ていて面白いです。

 

私が夜間外出するときに、リマインダーをスマホから設定して所定の時間に喋らせると言うことも可能なので、「次男さん、宿題は済ませましたか」とか、個人名の入ったイレギュラーな喋りを時々使って子供たちをビックリさせたりもしてます。

 

2、お天気

朝起きたら誰かが「アレクサ、今日の天気は?」と聞くようになりました。

「●町の今の気温は●度、晴れています。今日の天気は…」と詳しく今の気温や気温の予報、雨が降る確率などを知らせてくれます。

 

「アレクサ、今日傘がいる?」と聞けば傘が必要かどうかも教えてくれます。

 

これまではテレビの天気予報や私のスマホを使って確認していたのが声だけでできるようになったので、子供たちもアレクサに聞いてから何を着るか考えたり荷物を準備したりしています。

 

3、買い物メモ

一番使っているのは私です。

買い物から帰った後に冷蔵庫に荷物をしまいながら「あれ忘れた!」がしょっちゅうある私。

冷蔵庫の前で作業の手を止めないまま「アレクサ!買い物リストに牛乳を追加!」と叫べばスマホのリストに「牛乳」が追加されている、とても便利です。

 

子供たちとの情報共有にも使えています。

 

宿題や翌日の学校の用意をしながら必要な備品に気づいた子供たちがそれぞれ「アレクサ、買い物リストに消しゴムを追加して〜」と声をかけたりしています。

 

私が買い物に行ったときにスマホのアプリからリストを開いて必要なものを買えるので、子供たちの頼み忘れ、頼まれたのに買い忘れ、と言うのが激減しました。

 

リストの中にたまに「ジュース」とか「ポテチ」とか、誰が入れたんだ〜〜とか言うのが入ってたりするのもまた面白いです(買いませんが)。

 

4、タイマー

このブログでも何度か登場している、タイマー。

 

我が家では下の記事のサムネイルになっているタイプのタイマーを2つ常備してゲームの時間などを管理するのに使っているのですが、タイマーが2つとも埋まっているときやお風呂のタイマーなどのためにアレクサが活躍してくれています。

 

「アレクサ、お風呂のタイマー10分」と言えば10分後に教えてくれます。

カップ麺を手に持ってウロウロしながら「アレクサ、ラーメンのタイマー3分」と言うだけでおしまい、楽チンです。

 

5、その他

他にも、娘がよく音楽を聴きながら宿題をしたり、次男がノリノリの曲をかけながら踊ったりと音楽を聴く機能もよく使っているようです。(先日はたまった宿題に奮闘しながらAmazonミュージックの中から「残業の時に聴きたい曲」と言うリストを再生していました)

 

私が一人で掃除をするときに音楽やラジオをかけてもらうこともあるのですが、radikoの設定の仕方が悪いのかなぜか「お住いの地域では再生できません」と言われる局が多いのでこれはちょっと調べる必要ありだと思ってます。

 

私のGoogleカレンダーとリンクしたので、予定を設定するのも声でできるようになりました。

子供からもらったお便りを見てその場で「アレクサ、●月●日●時に〜〜を追加して」と言えば設定できます。

 

なぞなぞをしてもらったり、ピカチュウを呼んだり、子供たちもあれこれ遊んでるようです。

 

家電と繋ぐのは費用もかかるし設定も面倒なのでまだやってません。

テレビと電気消してくれるようになったら楽だろうな〜〜〜。

 

長くなったのでとりあえずここまで!

また違ったアレクサとの暮らしが見えてきたらお知らせしますね。

のぶみ氏の歌や絵本に対する思いをまとめました。

寒い寒い朝です。

数日前?からTLが某絵本作家さんのお作りになった曲を某歌のお兄さんが歌った件で賑やかです。

 

私も絵本の読み聞かせボランティアをちまちまとやっている身でもあり、思うところはたくさんあってちょこちょことツイートはして来たんだけど、昨日のこのツイートがちょっと伸びてました。

 

 

RTが伸びるとまぁ色々飛んでくるわけですが、そこらへんも受けてこの件について自分がどう考えているかをまとめとこうかな、と雪の中の子どもたちの登校に付き添った帰り道にぼんやり考えて今に至ります。

 

のぶみ氏の過去の絵本作品、そして今回の歌、私が何が気持ち悪いかというとそれらが「子ども向け」というコンテンツで世に出されているから、そこに尽きます。

 

上記のツイートであえて「大人」という言葉を使った意図はそこで、「子ども向け」というコンテンツであることから当然そのターゲットである「子どもたち」を見据えて、思いを馳せて、物が作られている「はず」なんです。

 

でも実際にはどうだろう。

 

読む人聴いた人は間違いなくわかるはずです。

あれは「子ども向けを装った、一部の大人向け」ですよね。

創作に関わる大人として、子どもたちに向けた物作りをしてる大人として、そのスタンスはどうなんだ、そこが私が最も憤っていることです。

 

内容そのものへの憤りも当然ながらあります。

育児用品のCMでも過去にあったように、乳幼児育児に携わる母親の孤立やしんどさそのものを否定するつもりはないんです。むしろそこに寄り添うものに救われることもある。

それについては過去に書いたことがありましたね。

 

 

母親の現状を憂い、そこに寄り添ってくれるものについて私は否定するつもりはありません。私自身、Twitterのそのような働きに助けられ、また、男児のアホな行動に振り回される世のお母さんに向けてエールを送る書籍の出版に関わっている身でもあります。

 

親としてこんなしんどさがあることを知ってもらって共感を得たり、助けてもらったり、将来に生かしてもらったり、それそのものは色々なメリットがあると思う。

でも上記の記事でも触れたように、それは「改善していってほしいこと」であって「現状のまま賛美されて終わってもらっては困るもの」で。

だからムーニーのCMに関しては私は、外部からその現状を肯定して終わってしまわないで、という気持ちを言葉にしました。

 

のぶみ氏の書かれている今回の曲は、まさにそのしんどさをそのまま美化し肯定したもの、それだけでも残念なのに、さらにそれが「子ども向け番組の曲」として扱われてしまう気持ち悪さがそこにありました。

 

子ども番組ですから当然親も一緒に見るだろう、という意味でのターゲットとも言えなくはないかもしれない。NHKの「おかあさんといっしょ」の中にもその雰囲気を思わせるものは少なからずあるので子ども番組のそういう傾向自体は今に始まったことじゃないのだろうと思うのだけれど。

 

絵本もそうだけれど、一度子ども向けとして世に出てしまったコンテンツはもうずっとそういう扱いを受けることになる。

 

私のツイートへのメンションの中に、「与える大人に対する警鐘の必要が」と書かれている方もいらっしゃいました。一理はあると思います、が本当にそれでいいのでしょうか。

 

子ども向けとして世に出ているものがどんな形で子どもに届くのか。

親が子どもに買い与える、図書として園や学校で触れる、子どもが自分のお金で買わない限りそこに大人が必ず介在はします。その大人が意識すればある程度の防波堤にはなるでしょうね。

でも、絵本として出版されれば図書館では絵本のコーナーに並びますね。さらにどこかから寄贈されたものとして公民館などの文庫や病院の待合などにも並ぶ。売れている絵本として贈り物に選ばれることもあるでしょう。

番組として放送されてればどこで流れるかはわからないし、どんなシチュエーションでそれを子どもが目にするかわからない。

「与える大人が注意すれば子どもの手には渡らない」ということは無いんですね。

 

ここで、「見せてはいけない」のか、という話が出てきますね。

検閲をして完全に子どもからシャットアウトすべきなのか。

 

我が子に限って言えば、私はのぶみ氏の絵本を子どもが借りてくることがあっても構わないと思っています。(仮面ライダーのやつはよく図書館から借りてましたね)それを読んだ子どもが感じたこと、受けた影響を自分を含め周囲の大人が受け止める素地が用意できている自信があるから。

 

うちでは基本的には子どもが何か見たがれば年齢に関わらず制限は特にしてません。そこから何を感じたかどんな影響を受けているかを話して共有したりできるベースがあるので心配することはないし、それでおかしな影響を受ける子たちでもないという子どもたちへの信頼もあります。

 

でも、そこまでが想定されていない場で子ども向けにあの、子どもに罪悪感やマイナスの感情を植え付けてしまいかねない内容がぶちまけられてしまうリスクはやはり大きいと思うのです。

 

「子どもに向けた」というコンテンツを作る側としてもうちょっと考えることはあるんじゃないか、とやっぱり思う。私はあれらが、大人向け、お母さん向けに発信されていたら多分「しんどさはわかるけど外から肯定してくれるなや」ってブツブツいう程度だっただろうと思う。

 

のぶみ氏のものに限らず、教訓めいた絵本とか変なメッセージ性の強い絵本はたくさんあって、それそのものを子どもたちが読むこと自体はさておき、あれを子どもをコントロールする道具として使おうとするの、やだなぁって私は思うんですね。

だから教室での読み聞かせの選書でもなるべくそういうのが無いのを選ぶようにしていて。どんな影響を与えてしまうかわかんない、読み聞かせにはいつもそのリスクが付いてきます。そこに無自覚でいてはいけない、といつも教室に入る前に思う。

 

「子ども向け」であるからには「子どもたち」を見据えない物作りはしてくれるな、と強く思う。のぶみ氏の絵本、歌、それを世に出すまでに関わった少なく無い人数の大人たちの中に、あれを子ども向けで出しちゃダメだという大人がいなかったのかということ、いたとしてもそのチェック機能が働かない仕組みがあったのではということ。

その、物作りの現場の大人の意識と仕組みに、私は警鐘を鳴らしたい。

「暖房の部屋のドアをしっかり閉めろ」問題のあっけない解決

思いつきで更新するブログなので前回からもう10日以上経ってしまいました。最近は登録した「質問箱」がなぜかよろず人生相談みたいになっていていろんなご質問をいただき、色々と考えさせていただいている感じです。

 

さて久しぶりにブログを書こうと思いました、暖房の話です。

いえドアの話でしょうか。

子供への声かけの話でしょうか。

 

毎度毎度サムネイルの画像を入れ忘れて公開して、悲しみのツイートをしてしまうので今回は先に貼ります。

こちら、我が家で使用しているのとおそらく似たタイプのファンヒーターです。(細かい品番等わかりませんがそっくりです)

本当は上にヤカンの置けるタイプのストーブを使いたいんですが、なんせ狭い中に素行の悪いのが何人も住んでるので安心して使用できるまではとこれで我慢しています。

 

このファンヒーター、こんな画面がついてるんですね。

左側の数字は設定温度、右側は現在の室温が表示されています。

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さて、冬になると我が家で毎日のように飛び交う声があります。

「ドア!」「ドア閉まってないよ!」「ドア開いてるよ!!」

 

言われる対象は主に次男と三男です。

暖かい部屋を出てトイレに駆け込む時、遊びに行く時…その先に目を奪われてしまう彼らはどうしてもドアをしっかり閉めることがおろそかになって閉まって、中にいる私たちは寒い思いをすることになってイライラ…

 

ここまで文字にしたところで

「伝えかたを替えればいいじゃない」

ですよね、ですよね。

 

こうやって改めて考えてみればそういう発想がすっと出てくるのだけれど、家の中の日常の一コマに、私も夫もなぜかそれになかなか気づかないまま、この冬も毎日のように「ドア!」「閉まってないよ!」と叫ぶ日々でした。

 

転機が訪れたのは昨日のこと。

 

私が家で三男と過ごしていた時のこと。

家事もひと段落して、三男と二人ヒーターの前でゴロゴロしながらお互いにタブレットスマホで動画を見たりとかなりゆったり過ごしていた時でした。

 

三男が「トイレ!」と立ち上がって部屋を出た時、やっぱりいつものようにドアが半分くらい開いてたんですね。

 

「ドア!」と言いかけて私の目に入ったのは、あのヒーターの表示画面。

右側の室温が、面白いようにどんどん下がっていくんですね。

 

部屋に戻ってきた三男に「ねえねえ見て見て!」と声をかけ、画面を指さしました。

「●●くんがドアをちょっと開けてったじゃない、そしたらほら!」

画面に表示されていたのは「20 15」の文字。

 

三男はびっくりして「5度も!5度も下がったの!!」と慌ててドアに戻ってしっかり閉まっているか確認していました。

 

そこからは部屋を出入りするたびに「温度が下がっちゃう!」とゆっくりドアを閉める三男の姿。

これは使える…と学校から帰ってきてやっぱりちょっとドアを開けて出入りしてた次男にも同じことをやってみたところ…

 

「うわあああ!こんなにいいい!」と漫画みたいに驚いてくれた次男。

 

そこから今日の登校前に至るまで、彼らは「温度が下がる…」と呟きながらドアをゆっくり確実に閉めている姿が観測されています。

 

あたらめて考えてみたら、

・行動のフィードバッグが視覚的にわかる形で示された

という、彼らにとってとてもわかりやすい方法だったんですねえ。

 

知識や経験があれば簡単に気づきそうなものなんだけど、日常の中だとなかなか発想の転換って難しいなぁと痛感した出来事でした。ゴロゴロするほど余裕のある時だったから思いついたのかも、だとしたらやっぱり母さんがゆっくりするって大事だなぁ。

こしあんとつぶあん、「苦手」の中にあるグラデーション

松の内を過ぎましたので新年のご挨拶は控えますが、今年もこんな適当なペースで書きたいことを書いていきます、宜しくお願い致します。

 

さて、新年一発目に何を書くかなと考えていたのですが、昨日だかTwitterで回ってきたつぶあんこしあん論争について書いてみたいと思います。

(元ツイートはもうどこへいったかわからないので省きます)

 

「つぶあんが好きな人はこしあんも許容できるケースが多いようだけど逆はないのはなんだろう」的な内容だった元のツイートを受けて私が書いたのはこんなことでした。

 

これを書いた時、つぶあんにはつぶ以外の部分でこしあんの要素があるから許容できるケースも多そうだけど逆につぶあんが苦手な人はつぶそのものへの抵抗があるからダメなんじゃ、と思っていたんですね。

 

でもそれから一晩経てTLを流し見てたら「どうにもこしあんが嫌だ」という声があったんです。「こしあんは泥、耐えられない」と。

 

なるほどと思いました。

 

それを経てこんなことをつぶやきました。

 

一言に「つぶあんが苦手」と言ったところで、その苦手にどんな意味が込められているかまでは見えてきません。

 

ツイートに書いたように

「つぶあんでも食べられるけどどっちか選べるならこしあん派」

という人から

「どうにも苦手で絶対に食べられない、無理」

という人まで、程度は様々、グラデーションが存在しているんですよね。

 

んで、「こしあんが苦手」と言う声の中にも同じようなグラデーションが、多少の程度の差はあっても存在しているわけです。

 

じゃあ「〜〜が苦手」と言う言葉を聞いた時に、自分がどんなニュアンスで受け取っているだろう、って振り返ってみる。

 

「こしあんが苦手」と言われた時、

・食べられないこともないけど避けたい程度の好き嫌い

・我慢すればなんとか食べられる程度

・食べたら吐いてしまうほど苦手

・部屋の中に存在しているだけで具合が悪くなるほど辛い

いろんな「苦手」が存在しているけど、じゃあ自分がどの段階を想定して聞いてるだろうかと。

 

「普通『苦手』って言ったらこのくらいの段階でしょ〜〜」ってこれ読みながら自分のこの程度ってところを思い浮かべていると思うんだけれど、その「普通」が10人が10人同じとは限らない、と言うか多分、10人が10人、微妙な差がありつつ違うんじゃないかと思う。

 

そのズレが、「苦手って言ったのに出された」「我慢すれば食べられるんじゃないの?」なんかの現実問題として浮き彫りになってきちゃうのかなと。

 

これ、あんこの話として書いてきたんだけど、いろんなことに当てはまるんだろうな〜と思うのです。

 

「大きな音や雑踏の騒音が苦手なの」と言われた時、どんな困難がその人にあると想定して聞いてるだろう。

「食感によって苦手な食べ物があるの」と言われたら、「朝起きるのが苦手」「眩しいのが苦手」「長時間同じ姿勢でいるのが苦手」と言われたら…

 

つい、自分の感じ方を軸にして「どの程度か」を瞬間的に察して受け取ってしまいがちなのかなぁと思うのですね。それは多分、自動的にやっちゃいやすいことで、それはそれで仕方ない機能なのかなと。

 

でも、もう一歩意識したいな、と思うのです。

「苦手」と申告する言葉の中に、「どちらかといえば苦手」という程度から「どんなに頑張っても無理、苦しみを伴う」という程度までのグラデーションが込められているということ。

 

この「グラデーションがある」を意識して話を受け止めるか否かで、多分物事の見え方が大きく変わってくるんだろうなというある種の発見(というほどでもない些細なこと)で新年最初のエントリを締めたいと思います。

ゆたろう先生の「強いきまりと弱いきまり」について子どもたちと話したことをまとめました

昨日、教員でもあるゆたろうさんのこ子から始まる一連のツイート群がたくさんの方にRTされ、まとめ師cookさんにより早速丁寧なまとめが作られていました。

 

 

まとめはこちら。


さて、機会があったらこれをお話ししたいな〜と思っていた矢先のこと。

夕方三男と次男を留守番させている間にケンカが起こっていたとわかり、そのお話をする中でこの「強いきまりと弱いきまり」のことを子どもたちに話すことになりました。対象は小1三男、小4長女、小6次男の3人です。

 

まず「強いきまりと弱いきまり」は何かを考えてみよう

白い紙を用意して、紙に「強いきまり」「弱いきまり」と書き、それぞれが箇条書きにできるよう表の形を作りました。

「学校で色々なきまりがあるよね?その中には『強いきまり』と『弱いきまり』があります。じゃあ、君らが知っているきまりを挙げてごらん、表を埋めてみよう」

と、強いと弱いの違いを話す前に例を挙げていくことを提案しました。


 お話をし始めた時点で手にひものようなものを持っていじっている次男を見て娘が「手遊びをしない」と言いました。

「それは『弱いきまり』の方ね」と弱いきまりの欄に書き込みます。

 

なかなか出てこないので私が「けしごむをなめないとかも弱い方」と持ち出すと「え〜〜〜いや〜〜」と言いながら「あ、じゃあ鉛筆を噛んじゃだめなのは?」と三男。

「それも弱い方」

 

こんな感じで、子どもたちから色々と具体例が出てきますがどれも「弱いきまり」の方ばかり。

 

面白いなぁと思っていたところで娘が「なるべくふわふわことばを使う」と学校でよく言われているきまりを挙げました。

それに連動して「チクチクことばを使わない」と出ました。

初めての「強いきまり」の方です。

 

この辺りで子どもたちが「強いきまり」と「弱いきまり」の違いについてなんだろうと考え始めます。

ティッシュとハンカチを持っていくとか、授業中姿勢よく座るとか、歯磨きをするとか、考えても考えても弱い方ばかりが出てきます。(自分たちがいつも注意されていることだからでしょうか)

 

やっと出てきた「強いきまり」

娘が「こそこそ話をしない、は?」と持ち出しました。

娘が学校でやられて悩んでいることでもあります。

「うん、それは娘ちゃんが傷ついているから『強いきまり』の方だね」

 

それを横でゲームしながら聴いていた長男が

「先生を殴らない」とボソッと呟きました。

 

下の3人が「そんなのあたり前だよ〜〜」と笑います。

私「うん、それも『強いきまり』」

子どもたち「え〜〜〜!」

 

「人をきずつけないこと!」と最初に言ったのは確か次男で、そこから芋づる式に「暴力をふるわない、たたかない、けらない」「ガラスをわらない」「暴言を吐かない」…と続きました。

 

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実際に使った表、走り書きなので雑ですが。

 

「強いきまり」と「弱いきまり」の違い

どんどん出てき始めたのだけど一旦ここで止めて、それぞれの違いを説明します。

 

強いきまりは『人やものや自分の体や心を傷つけること』で、みんなが守らないといけないこと、危ないこと、だから大人は注意するし、君らも見かけたら大人にすぐに知らせてほしいこと

 

弱いきまりは「誰も傷つけない」けど、守ったほうがかっこいいこと、守れるようにがんばったら自分が輝くこと

 

と説明しました。

 

ちょうどその時、次男と三男は姿勢悪く座り手遊びをしていて、娘は姿勢よく座っていたのでその対比を説明したら、男子2人がさっと姿勢を正して「かっこいい??」とキラキラした目で。

うん、そうだね、姿勢が悪くても誰も困らないけど、姿勢よくがんばってるほうがかっこいいね、と話しました。

 

三男からの質問

三男から、給食を残す子のことで質問が出ました。

好き嫌いがたくさんで嫌いなおかずを全然食べずに残しているのに、完食した子がもらえるごほうびのおにぎり(残ったご飯で先生が握ってくれる)をもらってるんだけどそれはいいの?というもの。

「給食をなるべく残さないように食べるのは?」と聞くと「弱いきまり」と答える三男。

うん、その子は今、できるようになる前でがんばってるところじゃないのかな、と話すと「先生もそう言ってた」と三男。

そうか、三男くんはおにぎり欲しいからがんばって給食食べてるんだねと言うとそうなんだよ〜〜と嬉しそう。結局そこなんだろうなぁ…

 

三男のクラスにいる落ち着いて座るのが難しい子も、好き嫌いが多い子も、おしゃべりが止まらない子も、みんながんばってる途中だと思うよ。三男もみんなより下手くそなこともあるでしょ?それは「まだがんばってる途中のこと」じゃない?と話すと、うん、と納得してくれました。

 

締めのところで意外な質問が

まとめの中にもあったRAVENさんのお掃除当番のお話をチラッとして(これは三男にはちょっと難しかったようだけど)さあ終わろうかという時に次男から質問が出ました。

「弱いきまりに入っていることで傷つく人がいたら?」

これは私も目からウロコ、確かにそうです。

 

例えば、「鉛筆を噛まない」は弱いきまりだけど、それは自分の鉛筆を噛んだ時の話で、これがお隣の友達のを噛んでいたら…「え〜〜〜いや〜〜」「最悪〜〜〜」と子どもたち。

 

「お話を聞く」というのも授業の中だと自分しか困らないかもしれないけど一対一で大事なお話をしてる時に態度悪く聞かなかったら相手は傷つくかもしれない、そんなふうに、同じ行動でも相手を傷つけてしまうかどうかは確かに変わってくるね、相手がどう感じるかどうかを考えることは大事だね、と話しました。

 

後からゆっくり考えたこと、総括

この、最後の疑問が子どもの側から出てきたのは大きいなあと感じています。

「厳密なやってはいけないことではないけれど相手が嫌がるとわかっていること(例えば真似をしてからかうとか)」を利用するケースはうちの子たちの行動の中にもあるし、いじめの一環として行われることもあるもの。

行動そのものが判断基準ではなくて、相手の気持ちや心の状態を考えることが大事だということを改めて話す機会になりました。

 

子どもたちから「弱いきまり」ばかりが出てきていたのはなんでだろう、と振り返ったのですが「強いきまり」に入っているのは守ることが当たり前すぎていちいち細かく言われているわけではないからかもしれません。(それでも守れてるわけじゃないんですが)

「弱いきまり」の方でも、日頃比較的生活態度が良い娘はほとんどの項目について「え、それ当たり前じゃん」と反応していました。

 

「弱いきまり」のことを説明する中で、ゆたろうさんの書かれていた

「できない日もあると思う。できないときは励ましあったらいい」

という部分についてはうまく説明に盛り込めなかったので今後どうやって伝えていくかな〜と考えています。

 

三男のおにぎりの話のように、相手の行動についてズルさを感じてしまう根っこにあるのはやっぱり自分のがんばりが認められているかどうかなのかなと。

ゆたろうさんもツイートの中で何度も「みんな頑張ってるんだよと声をかける」と書かれていたけれど、子ども同士で頑張りが見えなくても周りの大人がそれを言葉にしてあげること、そして「頑張れない日だってあるよね」ってそこも認めてあげることって大事なんだろうなぁと改めて感じました。

 

大人だって毎日マックスで頑張れるわけじゃない。

子どもたちが学校で一生懸命頑張っているってことを、改めて考えてサポートしてあげられたらなぁと考えるきっかけにもなりました。

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