新学期の空気が流れるTLに、こんな記事を見つけました。
学校のハテナ(3)鉛筆 教室で削ってはいけないの?|【西日本新聞】
「鉛筆は5、6本用意し、毎日、家で削ってきましょう」。福岡市の小学校に子どもが通う保護者に、学校からこんな連絡文が届いたそうだ。「教室で削ってはいけない」と受け止めている保護者も少なくない。
(中略)
低学年ほど何かと気が散る子どもたち。授業中に1人が席を立ち、教室の端にある鉛筆削りまで移動すると、別の子がちゃかしたり、まねをしたりして、教室が騒がしくなる。そんな事態を想定し、授業に集中できるよう、家での鉛筆削り徹底を呼び掛けているという。
一読して「自分たちの頃は当たり前に削りながら授業もできてたはず」「最近の子は気が散りやすい子が多いのか」と感じる方も多いのではないかと思ったのですね。
でも、教室の様子を見ていたらそういうことではないんじゃないか、と思うんですね。
ちょうどそれについて書かれたツイートがありました。
学校というのは、あらかじめ決められた教育課程があり、その目標を達成していくことが前提です。しかし、そのレベルが上がり、教科も増え、でも時間、予算が増えない中では、学校も苦しい。結局、弱さを持つ子にしわ寄せされることになるように思います。あまり話題にはなりませんが。
— 陰山英男 (@Kageyama_hideo) 2018年4月8日
自分たちが子供の頃に比べて、今の小学生に課せられる内容はかなり詰まっていると思うのですね。
さらにそこに職員数減で人手も足りなくなっている。
鉛筆削りを極力学校でしないように、●●を持たせないように、学校からアナウンスされる色々なきまりのひとつひとつは「そんなに縛らなくても」と思うようなものも少なくありません。
でも、学校の実情として「それに対応してたらカリキュラムを終われない」という切迫した状況があるように見えます。
鉛筆を削るという行為でも昔ならてまどう子が1人2人いたところで余裕を持って対応できていたのだと思います。
でも今の教室で教員がその子に構う時間をとることで授業がスムーズに進められなくなってしまう。
なるべくその教員の手間を取らないような対策を保護者にお願いすることになり、結果、保護者の背負うものが増える。
これ、鉛筆削りだけの話ではありません。
一律同じような発達をする子たちばかりではない中で、遅れをとっている子たちは教室の中で対応しきれなくなる。
発達障害と診断を受けて別枠での支援を必要とする子が増えていることの要因のひとつはその、教室の中の余裕のなさもあるのだろうと私は思っています。
陰山さんがツイートで指摘する、弱さを持つ子にしわ寄せが、というのはまさにそのお話だと思います。
国が決めた教育課程を教員がこなすスピードについていける子、サポートできる親を持つ子だけが生き残れる、それが今の教室なのかもしれないと思ったりします。
もちろん、発達障害と一言で言っても様々で、特別支援に予算が割かれ人員が配置されて十分な支援が施されることが救われる子たちがたくさんいます。そこを拡充してほしいという気持ちは強くある。
でも、それと並行して通常級にもっと余裕が出たら、あの子もあの子も楽になったんじゃないかと思う顔が我が子以外にも何人も浮かびます。
「鉛筆削りを禁止するなんてバカバカしい」とひとつひとつのきまりにあきれるのではなく、なぜ教員がそんなことを言いださないといけないのかを考えてもらえたら、と思うのです。
それくらい逼迫した、余裕のなさが今の学校にあるのだということ。
鉛筆削りを授業中に子どもたちがはじめても余裕を持って授業が進められるような学校であってほしいと、願わずにはおれないのです。