スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

中学生の親になるということ

新学期を迎え、我が家の子どもたちもそれぞれが進級、次男は中学生になりました。

 

発達障害のある次男の入学に向けては、支援級か通常級か、どんな支援が必要か、本人がどんなスキルを身につけておくべきか、余裕を持って準備をして来たつもりでした。

 

それなのに「その日」が近づくにつれ、当人ではなく私の方が不安に潰されそうになり周りに心配されてしまうほどに、入学のプレッシャーは大きく私を襲っていました。

 

ちょうど一年前に長男を入学させた同じ学校、知っている先生も多く残っているし、特別支援コーディネーターの先生とは昨年度から何度かお会いしてお話をして来ているから次男のことも理解してくださっている状態で。

 

「何がそんなに心配なんだ」「考えすぎだよ」

と夫に笑われてしまうほど。

 

入学式当日の朝は過呼吸で倒れるんじゃないか、というほど緊張してしまい「あなたはこれまでしっかり準備して来たし、何かあったら俺が出て行くし、考えすぎないで大丈夫だから」と夫に声をかけられながら、なんとか次男と学校の門をくぐりました。

 

クラス分けが貼り出された掲示板の前には新入生の群。

友人と顔を合わせて嬉しそうに連れ立って昇降口に向かう次男とはそこでお別れをして、保護者は体育館へ。

 

途中で、式典の準備をしている先生方の中から長男の学年部の先生が顔を出して声をかけてくれました。

 

「お母さん!長男くんね…」と笑いをこらえながら話し始める先生。

 

「制服の背中、しわくちゃだったの、今日!」

 

「やってしまった!」と正直動揺しました。

次男の入学準備に気を取られて、昨日長男が制服をハンガーにかけてなかったかもしれないとか、今朝身なりを整えて出かけたかなんて頭からすっぽり抜けていたんですね。

 

苦い顔をして「次男の準備に気を取られて…」と言いかけた私に先生は笑いながら続けました。

 

「いいのいいの、前から見たらわかんないしね、それに、もう自分でできるようにならないといけない年なんだから、お母さんはほっといていいのよ」

 

 

「お母さんはほっといていいの」

 

ドスン、とボディブローを食らったような気がしました。

何日も前から次男の入学が不安で不安で、彼がうまく中学に適応できなかったら、学校で何か問題を起こしたら、勉強についていけなかったら…

その山のような不安の根っこにあったのは、他でもない私自身の怖さでした。

「何かあったら自分がそれをなんとかしなくてはいけない」

そう思い込んでいたような気がします。

 

「それが中学校なんだよ」

「中学の先生は何かあったら親じゃなくて子ども自身を中心に考えてくれる」

「だから、心配し過ぎなくても大丈夫だよ」

発達障害のある子を育てる先輩お母さんにこのことを話したら、そう教えてくれました。

 

私の不安をよそに、彼らの新しい生活は始まっていきます。

真新しい制服に身を包んだ次男は、慣れた様子で家を出て行くお兄ちゃんを追いかけるように早足で登校していきました。

その背中を見送りながら、中学生になったんだなと噛みしめている自分がいました。

 

発達障害があろうと、まだしっかりしないように私の目に映っていようと、彼は中学生になったんだなと改めて感じています。

 

私も、中学生のお母さんとして腹を括らねばならない、そう思った春の朝でした。

鉛筆削り禁止は教室の余裕のなさだと思ってほしい

新学期の空気が流れるTLに、こんな記事を見つけました。

学校のハテナ(3)鉛筆 教室で削ってはいけないの?|【西日本新聞】

「鉛筆は5、6本用意し、毎日、家で削ってきましょう」。福岡市の小学校に子どもが通う保護者に、学校からこんな連絡文が届いたそうだ。「教室で削ってはいけない」と受け止めている保護者も少なくない。

(中略)

 低学年ほど何かと気が散る子どもたち。授業中に1人が席を立ち、教室の端にある鉛筆削りまで移動すると、別の子がちゃかしたり、まねをしたりして、教室が騒がしくなる。そんな事態を想定し、授業に集中できるよう、家での鉛筆削り徹底を呼び掛けているという。 

 

一読して「自分たちの頃は当たり前に削りながら授業もできてたはず」「最近の子は気が散りやすい子が多いのか」と感じる方も多いのではないかと思ったのですね。

 

でも、教室の様子を見ていたらそういうことではないんじゃないか、と思うんですね。

ちょうどそれについて書かれたツイートがありました。

 

自分たちが子供の頃に比べて、今の小学生に課せられる内容はかなり詰まっていると思うのですね。

さらにそこに職員数減で人手も足りなくなっている。

 

鉛筆削りを極力学校でしないように、●●を持たせないように、学校からアナウンスされる色々なきまりのひとつひとつは「そんなに縛らなくても」と思うようなものも少なくありません。

 

でも、学校の実情として「それに対応してたらカリキュラムを終われない」という切迫した状況があるように見えます。

 

鉛筆を削るという行為でも昔ならてまどう子が1人2人いたところで余裕を持って対応できていたのだと思います。

でも今の教室で教員がその子に構う時間をとることで授業がスムーズに進められなくなってしまう。

なるべくその教員の手間を取らないような対策を保護者にお願いすることになり、結果、保護者の背負うものが増える。

 

これ、鉛筆削りだけの話ではありません。

一律同じような発達をする子たちばかりではない中で、遅れをとっている子たちは教室の中で対応しきれなくなる。

発達障害と診断を受けて別枠での支援を必要とする子が増えていることの要因のひとつはその、教室の中の余裕のなさもあるのだろうと私は思っています。

 

陰山さんがツイートで指摘する、弱さを持つ子にしわ寄せが、というのはまさにそのお話だと思います。

 

国が決めた教育課程を教員がこなすスピードについていける子、サポートできる親を持つ子だけが生き残れる、それが今の教室なのかもしれないと思ったりします。

 

もちろん、発達障害と一言で言っても様々で、特別支援に予算が割かれ人員が配置されて十分な支援が施されることが救われる子たちがたくさんいます。そこを拡充してほしいという気持ちは強くある。

 

でも、それと並行して通常級にもっと余裕が出たら、あの子もあの子も楽になったんじゃないかと思う顔が我が子以外にも何人も浮かびます。

 

「鉛筆削りを禁止するなんてバカバカしい」とひとつひとつのきまりにあきれるのではなく、なぜ教員がそんなことを言いださないといけないのかを考えてもらえたら、と思うのです。

それくらい逼迫した、余裕のなさが今の学校にあるのだということ。

鉛筆削りを授業中に子どもたちがはじめても余裕を持って授業が進められるような学校であってほしいと、願わずにはおれないのです。

3年前の私と今の私と。〜世界自閉症啓発デーに寄せて

今年も、世界自閉症啓発デーを迎えました。

私のTwitterのTLには数日前から啓発デーと発達障害啓発週間について色々な方の見解が流れてきています。

 

過去記事を振り返ったら2年前と3年前に、それぞれ今日に寄せた文章を書いていました。

 

3年前

2年前
 

 

次男が診断を受けてからまる3年を過ぎたこの春、彼は中学生になります。

入学後の支援体制については学校とも色々と話してきたところですが、正直なところ彼がどんな中学校生活を送ることができるのかが全く想像がつきません。

私の不安をよそに本人は2年前と同じように「新しい出会いがあるね、楽しみだね」と入学を楽しみにしています。

 

最初の記事を書いた3年前から今日までの間、私自身の知識も増えたし、次男も少しずつ彼のペースではありますが成長をし、そして社会の中でも発達障害という言葉が広まり、周囲の理解も得やすくなりつつあるのを感じています。

 

逆に、学校で問題を抱えている子たちへの支援体制が手薄だったり、障害という言葉が一人歩きして偏見につながりかねない発言を見聞きすることもあったり、いろんな意味で過渡期にあるのだろうな、と感じることも多い3年間でした。

 

今年も、世界自閉症啓発デーに合わせて、各地でライトアップなどのイベントが行われます。

サイトのトップページから全国のイベントや取り組み一覧のPDFを見ることができます。

 

都道府県別にどんなイベントがあるかがまとまっている中で、私の住む大分県の部分を見て唖然としました。

PDF1ページに6行入るようになっている行事一覧、他の都道府県が数ページにわたる行事を予定しているにも関わらず、大分県はたったの2件、2箇所のライトアップの予定だけだったんですね。

 

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上の段の長崎県が15件、下の段の熊本県は8件、それぞれに自治体や地域の自閉症協会、発達支援センターなどが色々な取り組みをすることが掲げられている中で、2箇所のライトアップをするだけの予定の大分。

 

もちろん、派手な取り組みをすればいいというわけではないと思います。

そして、発達支援センターや自閉症協会など現場の方々が色々な取り組みをしていることも知らないわけではありません。

大分県は遅れてる!」と声高に言いたいわけではないんですね、ただ、こんなに極端に少ないんだ、ということに悲しくなったのは事実です。

 

自分が発達障害児の親になって、あそこが足りない、ここをこうしてくれたら、といういろんな気づきがありました。

そして、それを自治体任せにしていてもダメなんだということも痛感しています。

 

横の連携が取りやすくなるよう、親の会に参加したり、昨年度は新たに親の会を立ち上げたりもしました。

 

数人の集まりだった親の会で出た意見を学校の先生がうまく吸い上げてくださり、校長先生から教育委員会に意見を伝えてくれたりもして、個人ではできないことも集まれば力になることも経験しました。

 

こうやって少しずつ少しずつ、自分たちの足元から広げていっていつか大きな力になるのかもしれない。大きな足跡を残すのかもしれない。

 

3年前の私は、何も知らない不安にまみれた一人の保護者でした。

今の私は、少しの知識と協力できる仲間を持つ保護者になりました。守備力と戦闘力がちょっとだけ上がった気がしています。

 

たった2件しかないライトアップだけれど、来年はこれがもう少しでも増えるように私ができることを考えたい。もちろん、一人ではできません。

誰かの力を借りながら、次男が、次男と同じように困難を抱えて生きる子供たちが、大人たちが、一人でも過ごしやすさを感じられる町にしていけるように。

 

今日という日に寄せて。

野口晃菜さんの記事から考えた「わからないことを聞ける」ということ。

TwitterのTLに今朝流れてきた、障害科学博士である野口晃菜さんの記事を読んで思い出したことを。

 

次男が何かおかしい、と感じ始めたのは3年生の頃で、当時担任を持ってくれていたのは新任の若い先生でした。

教室での問題行動が頻発する中で先生は先生でできる限りなんとか対応してくれようとしていたと思いますし、私は私で学校に何度も足を運んでどうしたらいいか先生と話すのだけれどふたりで行き詰まる、そんな毎日でした。

 

今の私がそこにいたら「まず自治体の教育相談に申し込め」「あそこの相談支援事業所にごり押しで入ってあの先生を紹介してもらえ」と地域の事情に即した的確な助言ができたと思います。

もしすぐに対応がわからなくても「あの先輩ママならわかるかも」「あの先生に聞こう」「あそこに相談しよう」という話す先がいくつも浮かびます。

 

でも、当時の私にも、先生にも、その知識は皆無でした。

そして悲しいかな、当時の私にも先生にも、それをすぐ聞ける相手や聞いて自分が対応できなくても別に繋いでくれる人がいませんでした。そこからの次男と私と、次男の周りの人たちの、ある意味で暗黒の時代だと私が思っているような1年くらいの長い時間があったのはあの時に「わからないことをなんとかしてくれる」サポーターがいなかったことに起因していたのだろうと、今振り返って思っています。

 

紆余曲折の末、通級指導教室になんとか通えるようになりました。

次男にとって初めての、自分を理解しながら接してくれる人との出会いだったかもしれません。私にとっても、次男の対応についてどうしていいかわからない時に聞けば一緒に考えてくれる、初めての人との出会いでした。

 

通級の先生に出会った時のあの安堵の気持ちは一生忘れないと思います。

 

「誰にも話せない」「誰に聞いても明確な答えは返ってこない」

それまで真っ暗な海の中で一人でボロボロのボートを漕ぎながら彷徨っていたような状態だった私が初めて灯台や地図を手に入れたような、そんな、一筋の希望が見えた瞬間だったようにも思うのです。

 

そこから今日まで、前述したように今の私には困った時に話せる相手がたくさんできました。

Twitterの上にも信頼できる先輩母さんたちがたくさん。

親の会やペアレントメンター関連の勉強の中でも頼れる方との出会いがたくさんありました。

通級指導教室の先生とのおつきあいは卒業と同時に途絶えてしまうけれど、通級親の会を立ち上げたことで他のお母さんたちや先生方と情報を共有していく仕組みを作ることができました。

 

誰からも答えが得られずに彷徨って苦しかったあの頃、私は私でとても辛かったけれど、担任の先生もとても大変だったんだろうと思うのです。次男の対応にどうしていいかわからず校内で答えが得られず、先生なりに本当に頑張って勉強し、対応してくれていたと思う。

 

あの頃の先生に「こうしたらいいよ」「親御さんにこう勧めて」「教室ではこういう工夫を」と助言をくれる人がいたら。

 

野口さんの言葉をひとつずつ読みながら、当時の、次男のために奮闘してくれていた先生の顔が浮かびました。障害児の親としての私にサポーターが必要だったように、先生にもそれが必要だったんじゃないか。

 

学校の先生たちにとって特別支援の知識や技能が特別すぎるものではなくなることを願わずにおれません。わからなければ誰かに聞く、聞かれた人が一緒に考え、わからなければまた違う人に聞いていく。

 

そうやって、先生が、いろんな専門家が、保護者が、手をとり合いながら多様な子どもたちを育んでいく環境を作っていけたら。

 

「わからないことを聞ける」というのは本当にありがたいこと。

同じ困難を抱えていても、そのバックアップが自分にあるかないかで心持ちが180度変わるような、そんな大きなことだと私は思うのです。

 

新年度を目前に控えたこのタイミングでこれを書いてくれた野口さんに心から敬意を評したいのです。

私が一保護者として目の前の先生に「困ったら野口さんに聞いてください」なんておこがましくてとても言えないのだけれど、日本中の少しでもたくさんの先生方にこの野口さんの言葉が届いたら、「わからないことを聞ける」体制で学校にいることの大切さを、その環境を作っていく必要を、考えてもらえたら、そう願わずにはおれないのです。

「沖縄に来た修学旅行生にモヤモヤしたまま帰ってもらう」に感じたこと

もうすぐ最終回を迎える「わろてんか」の続きでそのまま見ていた今朝の「あさイチ」は沖縄のお母さんたちのお話でした。

沖縄 母親たちが見た基地|NHKあさイチ

 

米軍機の部品が屋根に落下した保育園のお母さんたちが我が子を守るためには何ができるのか、と立ち上がったエピソードが語られ、お父さんたちを含めて「自分たちはこれまで魔法にかかってたんだ」「公の場で政治や基地のことを話すことをなんとなく避けてきた」と語っていた現地の方の声。

 

番組の中で何度も触れられていた「これは沖縄だけの問題じゃない」と言う言葉。

基地のあり方など政治に及ぶ批判的な視聴者からの投稿について「そんな話じゃないんだ、子供を守るお母さんの話なんだ」(うろ覚えですが)と反論していた井ノ原さん。

 

いろんな印象的な場面がある特集でしたが、その中ですごく興味を惹かれた発言がありました。

 

話していたのはゲストで登場していた国仲瞬さんという若い男性。沖縄に訪れる修学旅行生を対象にした対話型の平和学習を提供する会社を立ち上げている方だそうです。

この方の活動そのものについて私はよく知らずに番組を拝見していたのですが、現地を訪れた子たちに「モヤモヤしたまま帰ってほしい」と語っていたんですね。

 

現地でいろんなものを見て、聞いて、触れて、そして「大人が納得するような『僕達は〜〜と思いました』みたいな感想を導き出してスッキリしてしまうのは違う」とおっしゃっていて、おぉお!ってちょっと嬉しくなったんですね。

 

自分が小さいころから受けていた平和教育の時に感じていたあのモヤモヤとした違和感のような感覚を、こんなにはっきり言葉にされているのを聞いたのは初めてだったからです。

 

九州で生まれ育った私は小さいころから8月6日は学校に行く日で、そこで平和について学ぶ授業が行われていました。戦争体験者の方のお話を聴いたり、映画を見たり、先生が絵本を読んでくれたり、戦争について色々なことを学ぶ機会がありました。

 

長崎の原爆資料館や特攻の資料館など、周辺の戦争関連の場所へ社会見学に出向いて感想を言わされたり書かされたりすることも頻繁にあった子供時代。

 

「平和のために努力したいと思いました」とか

「戦争は絶対ダメだって思いました」とか

 

先生が納得するようなありきたりな感想を口にし、そしてそのたびになんとも言えないもやっとした感覚を覚えていたのですね。

その感想を口にしたらハイ終わり、切り替えていつもの楽しい生活に戻りましょうね、というあの感じ。

 

我が子が小学生になり、同じような授業を受けているらしいこと、そして参観の時に似たような、大人がわかりやすい感想を言ってその授業が終わる様子を見ていて、小さい頃に自分が感じて来たあのもやっとしたものを思い出したりもしていました。

 

それが今日、あの番組の国仲さんの言葉を聴いて、そうか、それだったんだ、とスッと腑に落ちるような感覚があったんですね。

 

国仲さんはご自身の開催する平和授業について「結論を出させたりしません」と仰っていました。結論を出してスッキリして終わるのではなくてモヤモヤとしたまま帰ってほしい、帰り道の雑談の中で「あのことをもっと話したい」と思ってほしい、と。

 

うちの子供たちは昨年、広島で原爆の痕跡を見て来ました。

 

意図的にその後まとめるような会話の時間はとっていなかったなぁと今思い返しているのですが、子供たちは時折、戦争の話題に触れることもあります。

先日は「わろてんか」の中で大阪の空襲の場面を一生懸命見ていた三男が「おおさかってどこ、ひろしまの近く?」と言っていたので、少し話したりしました。

 

あさイチ」の中で現地の方が話していたのと同じように、思えば私も戦争のことを考えはするけれど日常的に意識して生活をしているわけではないし、言わないで暮らす魔法にかかっているのかもしれないなぁと思ったりもするのです。

 

平和授業で勉強したことや広島で見て来たこと、長崎で見たこと、支那に行っていた祖父が教えてくれたことや、この間会った親戚のおばあちゃまが話してくれた大陸からの引き上げの時のこと…

戦争のことは色々と知識として知ってはいるけれど、その点と点が繋がって私の中に根付いているわけでは多分なくて、あぁ、あのもやっとしていたあの時に、何気なく口に出してそれについて話す時間が自分にも必要だったんじゃないのか、とテレビの前で思ったりしたのです。

 

自分の中で勝手に落とし所をつけてスッキリしてしまうのではなくて、いつも、ずっと、どこかで考え続けることなんだろうと思う。

 

そしてそれは、沖縄のことや戦争のことだけではなくて、障害のことや育児にまつわることのような、他のいろんなこともきっと、そうなんじゃないかと思うのです。

 

タブー視されやすい話題だからこそ、ずっとモヤモヤしながら誰かと時折それについて話しをしたい、そう思った朝でした。

 

アレクサがうちに来た話

気づけば1ヶ月以上ブログを放置するというあるまじき行為、言い訳をすれば年度末で忙しかったからとか確定申告がとか次男の進学準備がとか質問箱の応対がとか色々とあったんですが、まとまったものを書くという余力がなかったというのが正直なところです。

 

さて今日は、アレクサがうちにやって来てから1ヶ月ちょっと、どんな風に活躍してくれているかをまとめてみようと思います。

 

我が家に来た子、アレクサです。

Amazon Echo Dot (Newモデル)、ブラック

Amazon Echo Dot (Newモデル)、ブラック

 

エアコン取り付け用のコンセントが1個上の方に余ってたので、そこにこの壁掛けホルダーを使って取り付けています。

 

購入する前に期待していたこと

実際に購入する前にネットでちょこちょこっと情報を集めました。

意外と知らない?Amazon Echo(Alexa)のおすすめな使い方・機能10選

Amazon Echoでできること大全 ~音声操作一覧からスキル拡張まで~

このサイトで色々読んで、良さそうだな〜と思って購入を決めました。

 

実は一番期待していたのは、リマインダー機能。

指定した時間にお知らせをしてくれる機能なのですが、これ、私が日々子供達に「寝る前の薬飲んだ?」とか言ってるのを代わりにやってくれないかなぁ、と思ったんですね。

 

4人(長男と娘はほぼ声かけはいりませんが)の子供たちの生活を整えるための声かけは朝起きるところから夜寝るまで1日中、すんなり聞くわけでもないので声かけの方法をあれこれ考えたりもしていましたが本当に大変。

 

その負担をアレクサが少しでも肩代わりしてくれるなら、と、もうこの機能のためだけに買ったと言っても過言ではなかったですね。

 

あと、「今日傘いる?」「今日寒い?」と毎日聞いてくる子供たちへの対策。

余裕があるときにはコミュニケーションとして大切にもできるような些細な会話なのだけれど毎日だとじわじわと負担ではあったこのやりとり。

お天気を知らせてくれる機能があるようだったので、これにも期待していました。

 

今のアレクサの働きぶり

我が家にやって来たのが2月7日。

そこから1ヶ月と1週間ほどたちました。

居間に設置していますが、狭い我が家ではキッチンから寝室まではなんとか聴こえます。

声をかけるのはさすがに近づかないと無理ですが、家にいるときはほぼ居間にいるので1台でなんとかなってる感じです。

今、アレクサがどんな風に我が家で活躍しているかをまとめてみます。

 

1、リマインダー機能

期待していた通り、一番活躍してくれている機能です。

スマホのアプリから設定できるのですが

「起きる時間です、のリマインダーです」から「朝のクスリは飲みましたか」「朝ごはんの時間です」「ハミガキは済ませましたか」「家を出る時間です」まで、朝の子供たちのタスクを分刻みで知らせてくれています。

夜は「ハミガキは済ませましたか」「寝る前のクスリは飲みましたか」と知らせてくれるよう設定しています。

(〜〜「のリマインダーです」と言う言葉がどうしても入るのですが、これは設定でどうにかなるのかなぁ…入らないとよりヒトっぽさが出ますよね)

 

朝、私がバタバタする中で時間を確認して声をかけるというタスクがなくなったのでかなり楽に過ごせるようになりました。

 

夜のクスリも次男はよく飲み忘れていたので確認が必要でしたが、アレクサが知らせてくれるようになってからはそれを聞いて自分で薬を取りに行く習慣ができつつあります。

最近は設定している9時が近づいて来たら「そろそろアレクサが言うよ」と先回りする余裕が出て来ていて面白いです。

 

私が夜間外出するときに、リマインダーをスマホから設定して所定の時間に喋らせると言うことも可能なので、「次男さん、宿題は済ませましたか」とか、個人名の入ったイレギュラーな喋りを時々使って子供たちをビックリさせたりもしてます。

 

2、お天気

朝起きたら誰かが「アレクサ、今日の天気は?」と聞くようになりました。

「●町の今の気温は●度、晴れています。今日の天気は…」と詳しく今の気温や気温の予報、雨が降る確率などを知らせてくれます。

 

「アレクサ、今日傘がいる?」と聞けば傘が必要かどうかも教えてくれます。

 

これまではテレビの天気予報や私のスマホを使って確認していたのが声だけでできるようになったので、子供たちもアレクサに聞いてから何を着るか考えたり荷物を準備したりしています。

 

3、買い物メモ

一番使っているのは私です。

買い物から帰った後に冷蔵庫に荷物をしまいながら「あれ忘れた!」がしょっちゅうある私。

冷蔵庫の前で作業の手を止めないまま「アレクサ!買い物リストに牛乳を追加!」と叫べばスマホのリストに「牛乳」が追加されている、とても便利です。

 

子供たちとの情報共有にも使えています。

 

宿題や翌日の学校の用意をしながら必要な備品に気づいた子供たちがそれぞれ「アレクサ、買い物リストに消しゴムを追加して〜」と声をかけたりしています。

 

私が買い物に行ったときにスマホのアプリからリストを開いて必要なものを買えるので、子供たちの頼み忘れ、頼まれたのに買い忘れ、と言うのが激減しました。

 

リストの中にたまに「ジュース」とか「ポテチ」とか、誰が入れたんだ〜〜とか言うのが入ってたりするのもまた面白いです(買いませんが)。

 

4、タイマー

このブログでも何度か登場している、タイマー。

 

我が家では下の記事のサムネイルになっているタイプのタイマーを2つ常備してゲームの時間などを管理するのに使っているのですが、タイマーが2つとも埋まっているときやお風呂のタイマーなどのためにアレクサが活躍してくれています。

 

「アレクサ、お風呂のタイマー10分」と言えば10分後に教えてくれます。

カップ麺を手に持ってウロウロしながら「アレクサ、ラーメンのタイマー3分」と言うだけでおしまい、楽チンです。

 

5、その他

他にも、娘がよく音楽を聴きながら宿題をしたり、次男がノリノリの曲をかけながら踊ったりと音楽を聴く機能もよく使っているようです。(先日はたまった宿題に奮闘しながらAmazonミュージックの中から「残業の時に聴きたい曲」と言うリストを再生していました)

 

私が一人で掃除をするときに音楽やラジオをかけてもらうこともあるのですが、radikoの設定の仕方が悪いのかなぜか「お住いの地域では再生できません」と言われる局が多いのでこれはちょっと調べる必要ありだと思ってます。

 

私のGoogleカレンダーとリンクしたので、予定を設定するのも声でできるようになりました。

子供からもらったお便りを見てその場で「アレクサ、●月●日●時に〜〜を追加して」と言えば設定できます。

 

なぞなぞをしてもらったり、ピカチュウを呼んだり、子供たちもあれこれ遊んでるようです。

 

家電と繋ぐのは費用もかかるし設定も面倒なのでまだやってません。

テレビと電気消してくれるようになったら楽だろうな〜〜〜。

 

長くなったのでとりあえずここまで!

また違ったアレクサとの暮らしが見えてきたらお知らせしますね。

のぶみ氏の歌や絵本に対する思いをまとめました。

寒い寒い朝です。

数日前?からTLが某絵本作家さんのお作りになった曲を某歌のお兄さんが歌った件で賑やかです。

 

私も絵本の読み聞かせボランティアをちまちまとやっている身でもあり、思うところはたくさんあってちょこちょことツイートはして来たんだけど、昨日のこのツイートがちょっと伸びてました。

 

 

RTが伸びるとまぁ色々飛んでくるわけですが、そこらへんも受けてこの件について自分がどう考えているかをまとめとこうかな、と雪の中の子どもたちの登校に付き添った帰り道にぼんやり考えて今に至ります。

 

のぶみ氏の過去の絵本作品、そして今回の歌、私が何が気持ち悪いかというとそれらが「子ども向け」というコンテンツで世に出されているから、そこに尽きます。

 

上記のツイートであえて「大人」という言葉を使った意図はそこで、「子ども向け」というコンテンツであることから当然そのターゲットである「子どもたち」を見据えて、思いを馳せて、物が作られている「はず」なんです。

 

でも実際にはどうだろう。

 

読む人聴いた人は間違いなくわかるはずです。

あれは「子ども向けを装った、一部の大人向け」ですよね。

創作に関わる大人として、子どもたちに向けた物作りをしてる大人として、そのスタンスはどうなんだ、そこが私が最も憤っていることです。

 

内容そのものへの憤りも当然ながらあります。

育児用品のCMでも過去にあったように、乳幼児育児に携わる母親の孤立やしんどさそのものを否定するつもりはないんです。むしろそこに寄り添うものに救われることもある。

それについては過去に書いたことがありましたね。

 

 

母親の現状を憂い、そこに寄り添ってくれるものについて私は否定するつもりはありません。私自身、Twitterのそのような働きに助けられ、また、男児のアホな行動に振り回される世のお母さんに向けてエールを送る書籍の出版に関わっている身でもあります。

 

親としてこんなしんどさがあることを知ってもらって共感を得たり、助けてもらったり、将来に生かしてもらったり、それそのものは色々なメリットがあると思う。

でも上記の記事でも触れたように、それは「改善していってほしいこと」であって「現状のまま賛美されて終わってもらっては困るもの」で。

だからムーニーのCMに関しては私は、外部からその現状を肯定して終わってしまわないで、という気持ちを言葉にしました。

 

のぶみ氏の書かれている今回の曲は、まさにそのしんどさをそのまま美化し肯定したもの、それだけでも残念なのに、さらにそれが「子ども向け番組の曲」として扱われてしまう気持ち悪さがそこにありました。

 

子ども番組ですから当然親も一緒に見るだろう、という意味でのターゲットとも言えなくはないかもしれない。NHKの「おかあさんといっしょ」の中にもその雰囲気を思わせるものは少なからずあるので子ども番組のそういう傾向自体は今に始まったことじゃないのだろうと思うのだけれど。

 

絵本もそうだけれど、一度子ども向けとして世に出てしまったコンテンツはもうずっとそういう扱いを受けることになる。

 

私のツイートへのメンションの中に、「与える大人に対する警鐘の必要が」と書かれている方もいらっしゃいました。一理はあると思います、が本当にそれでいいのでしょうか。

 

子ども向けとして世に出ているものがどんな形で子どもに届くのか。

親が子どもに買い与える、図書として園や学校で触れる、子どもが自分のお金で買わない限りそこに大人が必ず介在はします。その大人が意識すればある程度の防波堤にはなるでしょうね。

でも、絵本として出版されれば図書館では絵本のコーナーに並びますね。さらにどこかから寄贈されたものとして公民館などの文庫や病院の待合などにも並ぶ。売れている絵本として贈り物に選ばれることもあるでしょう。

番組として放送されてればどこで流れるかはわからないし、どんなシチュエーションでそれを子どもが目にするかわからない。

「与える大人が注意すれば子どもの手には渡らない」ということは無いんですね。

 

ここで、「見せてはいけない」のか、という話が出てきますね。

検閲をして完全に子どもからシャットアウトすべきなのか。

 

我が子に限って言えば、私はのぶみ氏の絵本を子どもが借りてくることがあっても構わないと思っています。(仮面ライダーのやつはよく図書館から借りてましたね)それを読んだ子どもが感じたこと、受けた影響を自分を含め周囲の大人が受け止める素地が用意できている自信があるから。

 

うちでは基本的には子どもが何か見たがれば年齢に関わらず制限は特にしてません。そこから何を感じたかどんな影響を受けているかを話して共有したりできるベースがあるので心配することはないし、それでおかしな影響を受ける子たちでもないという子どもたちへの信頼もあります。

 

でも、そこまでが想定されていない場で子ども向けにあの、子どもに罪悪感やマイナスの感情を植え付けてしまいかねない内容がぶちまけられてしまうリスクはやはり大きいと思うのです。

 

「子どもに向けた」というコンテンツを作る側としてもうちょっと考えることはあるんじゃないか、とやっぱり思う。私はあれらが、大人向け、お母さん向けに発信されていたら多分「しんどさはわかるけど外から肯定してくれるなや」ってブツブツいう程度だっただろうと思う。

 

のぶみ氏のものに限らず、教訓めいた絵本とか変なメッセージ性の強い絵本はたくさんあって、それそのものを子どもたちが読むこと自体はさておき、あれを子どもをコントロールする道具として使おうとするの、やだなぁって私は思うんですね。

だから教室での読み聞かせの選書でもなるべくそういうのが無いのを選ぶようにしていて。どんな影響を与えてしまうかわかんない、読み聞かせにはいつもそのリスクが付いてきます。そこに無自覚でいてはいけない、といつも教室に入る前に思う。

 

「子ども向け」であるからには「子どもたち」を見据えない物作りはしてくれるな、と強く思う。のぶみ氏の絵本、歌、それを世に出すまでに関わった少なく無い人数の大人たちの中に、あれを子ども向けで出しちゃダメだという大人がいなかったのかということ、いたとしてもそのチェック機能が働かない仕組みがあったのではということ。

その、物作りの現場の大人の意識と仕組みに、私は警鐘を鳴らしたい。

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