スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

末っ子三男の生き延びる力の話

最近ちょっとだけ、ちゃんとブログを書きたくなっていますがなかなか毎日書けません。

今日は、昨日面白かった三男の行動記録です。

 

宿題が面倒な三男

インドア派の上3人とは打って変わって外遊び命の彼は、毎日帰って来たら玄関にランドセルを放り投げてサッカーボールやバッドを抱えて公園へ走り去って行きます。

 

彼が入学して初めてその光景を目にした時、あぁ本当にこういう子いるんだ…って思いました。

 

近所の子たちと連れ立って公園で日が暮れるまで目一杯遊んで帰ってくる三男。

ご飯の前に宿題をしろというとものすごくめんどくさそうにグネグネと居間の床の上で転がっていることがよくあります。

 

2年生の宿題なんてお兄ちゃんたちに比べたら量も質も大したことないんだけれど、彼にとっては相当面倒らしく、机の上に宿題の材料をばらまいて、娘から「ほらはやくやりなよ〜〜」とよく促されています。

 

思い出す次男の宿題奮闘記

次男も、宿題が面倒な子でした。

(現在進行形ですが中学生になり私の手間は学校の先生に譲渡しました)

そんな次男になんとか宿題をさせようと、学校の先生や特別支援の先生、親の会の先輩母さんたち、いろんな人たちに相談する毎日。

筆記用具を工夫したり、机や椅子の状態、周りの環境、あーだこーだ色々やってみてはなかなかうまくいかない、を繰り返して消耗しきって私の方が気が狂いそうだった時期もありました。

次男の主治医からは「宿題は本人と先生との間の契約だからお母さんは関与してはダメ」と言われ、担任からは「自宅学習の習慣をつけないことは将来次男くんの首をしめるから家でやらせてください」と言われ、板挟みになって泣いたことも。

 

そんな次男の奮闘記を経て来た私にとって、三男が「宿題めんどくさい」と最初に発した時「え?この子も!?」って動揺したのは事実でした。

 

 

母の懸念と、三男の工夫

「宿題めんどくさい」の後に三男が続けたのは「動画見ながらやっていい?」

え?っと正直思いました。

 

兄ちゃんたちにそんなことやらせたことない…

そもそも見とれて宿題できないんじゃないの??

 

そう思いつつ、次男の奮闘記を経た私の脳裏に浮かんだのは

「結局終わればそれで御の字じゃない…」

 

ぐるぐる考えてた私がいいとも悪いとも言わないうちに、三男は「じゃあやるね〜〜」ってタブレットを机に置いてイヤホンつけて動画を流しながら、鼻歌を歌いつつ宿題をやってました。

結局、いつもよりちょっと時間は延びたけど宿題はちゃんと終わってて。

 

「いやなことするときはこれがいいんよ〜」

そこから、三男はどうやら面倒な宿題が出るたびに「何で紛らわすか」を考えているようです。

おやつを目の前に並べて少しずつ食べながらやったり、次男を隣に座らせてカードゲームをやりながらやったり、テレビを見ながらやったり。

 

先日は5問に1問くらいの割合でアレクサに声をかけていたり(でもやりとりがめんどくさかったらしく結局やめてた)、昨日は、宿題のノート類と一緒に前に買ってもらってた飴玉をどっからか出して来て「いやなことするときはこれがいいんよ」と言って口に入れ、しばらく甘さを堪能したところでぼちぼち宿題にとりかかってました。

 

親としての葛藤と夫の反応

宿題のめんどくささを克服するための三男の工夫の数々。

親として「いやそれはちょっとダメじゃないか」と思うことも結構あります。

勉強とは、学習に臨む姿勢とは、と思うこともしょっちゅう。

 

夫が横から「それはダメだろう」と言うことも、私に「なんであんなの許してるの?」と言って来ることも。

 

でも、三男はこれまでに一度も宿題をせずに学校に行ったことがない。

いやだ、面倒だ、と自覚しているのにその成果はやっぱりすごいことなんだろうと思う。

 

かくあるべき、に囚われてしまいやすい私。

自由な発想で、とにかく目的を達成することだけに的を絞る彼の言動はまるでびっくり箱。

目からウロコが落ちること、教えられることがいっぱいあって、すごく面白い。

発見と同時に、これまでお兄ちゃんたちを育てる中で無自覚に制限をかけて来たことがいっぱいあるんだろうなぁという反省も出て来る。

 

三男の「生き延びる力」

三男を育てていて、彼の、目的にたどり着く力、たどり着くために工夫し、行動に躊躇がない姿勢に日々驚かされていて。

それは、4人兄弟の末っ子ゆえの奔放さもあるだろうし、私たち親の手が程よく行き届いていないことも要因のひとつかもしれない。

 

嫌なことを躊躇なく嫌といい、やらねばならないことを前に「終わればいいんだろう」と手段を選ばない。

 

ストレス源が周りに散りばめられている人生の中で自分を削らずに生きる力、こなしていく力。

それは「生き延びる力」に他ならないんだろうなと思う。

 

彼から湧き出てくる「生き延びる」ための工夫、次はどんなのが出てくるのかな。

 

 

 

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 三男が大好きなのが、昔なつかしキュービィロップ。

 

 

 

 

「今」の話をしよう

ツイッターでここ数日、北海道で電気無しの暖房がどうだ、という話がたくさん流れてきてた。

なんだかよくわからないけれど、今回の震災のときのような規模の停電が冬に起きたらどうだとかいう話から起こってるらしかった。

 

たくさんの反論の方が先に流れてきてた。

「今の北海道の機密性の高い家屋で薪ストーブは使えない」

「薪を今からどうやって賄うのか」

 

現実的に無理だろうよという、相当数の反論の後、さっきやっと、どうやらこれが発端らしいというツイートが流れてきた。

 

内容に関しては、もっともだと思うこともないわけじゃない。

今回のような規模の停電が起きたらどうするんだ、なんとかしないといけないだろうというのは至極最もだと思う。

 

じゃあなんで、これが荒れるんだろう。

 

根本的な要因は「どの時点を見てるか」じゃないだろうか、と思う。

 

過去にできていたことをいくら話しても、現実に即適用なんて出来ない。

気候も変わっているし、住む人も、街の状況も、自然の状態も何もかも違う過去のことをいくら持ち出してもそれが「今」の解決策としては生きてこない。

 

もし本当に北海道で「この冬にもし大規模停電が起こったら」という対策について考えるなら、「今」の北海道で、「今」の日本で、「今ここにいる」住民が取り組める対策する必要がある。

 

「過去」からスタートして「今」に合わせていこうとすると多分失敗しやすいんだろうなぁと思う。


今ここにいる人たちが取り組むことを想定してないと話が噛み合わないのかもしれない。

 

これ、子どもたちの周りや夫婦関係について考える時もよく起こることなんじゃないかな。

 

過去がどうだったとしても、「今」の「目の前」や「足元」をベースにして、「今ここにいる人」が当事者であるのだというところから考えを起こしていかないと詰みやすい。

 

もしなんか、いろいろもがいてるのに、いろいろやってみてるのに、なんかうまくいかないなぁってことがあったら、視点がどこにあるのか一度立ち止まってみるのもいいかもしれない。

 

どうあがいても、自分が現時点で立ってる「今」から全てがスタートしていくわけだから。

夏休みの終わりに思い出した、次男の「ずるい」と言われた宿題のこと。

夏休みが終わりを迎えている声や佳境に入って宿題の悲鳴や、いろんな夏の終わりが聴こえてくるTLを眺めています。

 

いろんな宿題に関するツイートに混じって、時期的なものなのかな、配慮を受ける子供たちに対する周囲の「ずるい」という声についてのツイートも散見されます。

 

それらを見ていて思い出した、次男の宿題のことを書いてみようかと思います。

 

苦手だった「●●新聞」

子どもたちが小学校高学年になると、長期休暇の宿題に必ず「●●新聞を作る」という課題が出ていました。(今年、5年生の娘にも出てました)

B4サイズの紙に新聞らしいケイ線が引いてあり、そこに休みの間にあったことをまとめて新聞に仕上げてくるというもの。

新聞の作り方そのものは学校の授業の中でなんとなくはやっているようで、長男は行事の写真を切り貼りしてなんとか仕上げていたのを覚えています。

その新聞作り、手先が不器用で書字に困難のある次男にとってはものすごく苦手とする宿題の一つでした。ベースになる文章を思い浮かべて別紙に書くことはできるのですが、新聞という限られたスペースの中に写真を配置し文字を美しく書き込む、という作品として仕上げる行為がどうにも難しいのです。

 

やっぱり残った、新聞作り

去年の冬休み、ドリルや漢字など苦手ながらもなんとか片付けていきながらも、やっぱり最後に残ったのは新聞作りでした。

本人が書きたいと言った行事の写真をプリントアウトして渡したところで、用紙と写真を前に悶絶する次男。

先延ばしにしていたものの明日は始業式。

このまま放置したら「宿題が終わってないのに…!」と登校前にパニクるのは目に見えています。

さてどうしようか、と考えていたところで思い浮かんだのが、通級指導教室でパソコン指導受けていたことでした。

 

そうだ、パソコン使おう。

次男の通う通級指導教室には同じように書字の困難がある子が多く、その子たちに書字訓練と並行してパソコン操作を教えてくれていました。

脳から溢れ出る言葉はたくさんあるのにそれを文字として書けない苦しさを少しでも軽減できたら、という先生の思いに後押しされて次男も少しずつキーボード操作が上手になっていたところでした。

せっかく通級でもやってるんだし、その指導情報は次男のクラスの担任の先生にも伝わっているはず。

苦肉の策として次男にはパソコンで文字を入力させ、写真の配置などは私も手伝いながらB4サイズの新聞をなんとか仕上げました。

 

「ずるい、って言われるかもしれない」

やっとできた〜〜!と喜んだ次男は翌朝、少し不安げな表情で言いました。

「パソコン使ってずるい、って言われるかもしれない」

うん、そうだよなぁ…。

送り出す前の短い時間しかなかったので、ひとまず次男には

「君は苦手なことをがんばってろうとしたし、キーボードで入力するのも簡単じゃなかったよね?この文字は手で書いてないけど君が一文字ずつ確かに入力したものだから書いたのと同じだよ。胸をはっていいんだよ」

「もし、パソコンを使うことを羨ましいと思う子がいたら、それをお家の人や先生に話してその子もそれをやっていいと思うし、それが叶わないならうちに連れておいで、君にやったのと同じように、母ちゃんが材料も全部用意して同じように教えてあげる、クラス全員きても対応できる、君だけの特別扱いじゃない、母ちゃんは嘘をつかない、大丈夫だ」

と話して送り出しました。

 

やっぱり言われた「ずるい」

事前の確認や通級での指導のこともあり、次男の新聞は担任にはスムーズに受け入れてもらったようでした。

でもやっぱり「ずるいって言われた」と帰宅した次男。

あ〜やっぱりそうか…、と思いつつ、そのことについて次男と話しました。

「私たちは手で書いているのに次男くんは楽してずるい!」という声が一番多かったようでした。

次男が「じゃあうちにおいでよ」と言うと「そういうことじゃない!」と言われたと…

うん…そうだよね…そう言うことじゃないんだよね…

浅はかだったなぁと反省しつつ、次男とそのことについて話す時間を作りました。

 

「そういうことじゃない」ならなんだろう…

なんで次男をずるいと思ったか、それはやっぱり「自分は頑張ったのに楽して課題をクリアしたように見えた」からなんだろうなと思うんですね。

そして「次男の頑張り」の部分は彼らには見えない、当たり前だけれど。

次男に「ずるい」と言った子たちは字もきれいに書ける子たちで、参観日に廊下に貼り出された彼ら彼女らの新聞はとても上手に書けていました。

でも、それを「上手に書けたね、すごいね」とは多分言ってもらえない、高学年ならできて当たり前のことだから。

 

そのできて当たり前のことが人並みにできない時点で次男はもう彼らと同じスタートラインにすら立っていないのだけれど、でもその認識をしてもらうことはなかなかに難しい、次男の気持ちも考えるとそれをどこまで押し出して良いのか親としての私もわからない。

 

次男と色々話す中で、君は君で頑張った、ずるいって言った子たちもそれぞれに頑張って宿題を仕上げてきてた、どっちも頑張ってやってきたことだからそれをお互いに認め合えたら良いのにねえという、結論の出ないぼんやりした話をして終わった記憶があります。

 

思い出しながら、思うこと。

今年中学生になった次男の宿題管理は私の手を離れ、担任の先生や部活の先生がちょこちょことチェックをしてくれているようです。

多分穴だらけなんだろうと思うけれど、本人や学校からのヘルプがない限り私は手も口も出さないようにはしています。

 

次男に「ずるい」と言った子たちのことをいまもときどき思い出します。

そして思い出しながら、次男のようなサポートを必要としないで宿題をやっている長男や娘のことを思うのです。

彼らが「めんどくさいめんどくさい」と言いながら自力で宿題をやっていることを、私はあんまり褒めてもなかったよなぁということ。

当然だとどこかで思ってしまってないかということ。

 

夏休みのギリギリ最後に頑張って宿題を終わらせようとしてる彼らをもうちょっと褒めて良いのかもしれない。デザートを豪華にして労っても良いのかもしれない。

そんなちょっとしたことが、次男のような子たちにとって住みやすい世界につながる一歩なのかも知れない、そんなことをふと思ったりしています。

 

「生産性」発言のやり取りの中でふと刺さった、自分の中の差別感情

いつもなら割と頭の中で一つのテーマを思いついてからしばらく練る時間をかけてある程度行き着いてからブログにまとめるのだけれど、今日はちょっといつもとは違う趣向というか、思いついたことをそのまま備忘録のように書いておこうと思う、多分とても大切なことだから。

 

某議員さんの雑誌記事やツイートを発端に、マイノリティの「生産性」というのが話題になってるのをここ数日見てる。

自分もちょっと呟いたりもしてる。

障害のある子を育てていることもあり、またいろんなマイノリティの方との関係や自分もまたマイノリティの一面を持っている自覚もあることもあり、やりとりを眺める心境は色々と複雑で。

 

相模原の事件や某ジャーナリストが発した特定の疾病の方を罵倒するような発言、今回のような議員さんの発言、反論の多くは「自分の納得のいく弱者なら助けてやってもいい、という視点にある危うさ」や「優生思想を肯定するような発言を擁護できない」という、至極まっとうなものばかりで自分も同じように思うものが多い。

 

許すまじ、と思う。

そしてこの流れを止めるべきだ、とも思う。

 

と同時に、自分の中でしくしくと何かが疼く。

 

たくさんの反論する声の中にほんのりと見え隠れする差別を思わせる部分を見ては、あぁこれだ、と思う。

 

例えば今朝見かけたのはこんなのだった。

「うちの娘(LGBTQではない)が鬱になった時にゲイの友人が救ってくれた」というお話。このツイートをした方はこの声を通して、ゲイの友人は生産性のない無用な存在ではない、大事な人だ、と伝えたかったんだろうと思う。

でもその伝えたい声の中になぜ「うちの娘は違う」という情報をわざわざ入れてしまったのか。多分無意識に働くその、ほんのりとした自分の中の差別の芽のようなもの。

 

私の中にもそれがある。

 

「生産性のない人でも生きる権利がある」

 

当たり前すぎるその発言を私もする、公言する。

そしてその発言に違わない行動を取ろうともする。

 

でも自分の中の骨の髄までその理想が染み通って生きていると思ってはいけないといつも思う。確実にゼロにすることは絶対にできないから、必ず自分の中に何かしらの差別感情は存在しているから。

 

 

朝見かけたこのツイートが、また自分に刺さる。

 

自分が、家族が、

「役に立たない」「何も生み出していない」存在になったときに私はどうするだろう。

それは遠い未来でもなんでもなく、これまでもこれからもいつでも自分のすぐそばにある。

 

自分にこの問いを残して、今日は終わり。

質問箱へのお返事vol.3 〜カサンドラではという奥様から寄せられた夫婦間の自他境界についてのご質問

3回目になりました、質問箱に寄せられたご質問へのお答え回です。

 

今回はこんなご質問です。

はじめまして。いつもツイート拝読しております。 夫さんの共感性とカサンドラについての質問がありましたが、自分が送ったのかと三度見するくらいそっくり同じ状況でした。 特に、『わかりました、すみません、努力します、と返ってきて何も変わらない』というところがあまりにも似ています。 私の夫はこれまで生きてきて、誰かの生き方や言葉に心動かされ、影響されたり、憧れたりした経験が1度もないと聞いて、お互いに尊敬しあい学び合えるような関係が理想の夫婦と思っていたので、絶望してしまいました。 私は鬱状態で不眠も酷く、投薬治療を受けており、カサンドラだろうなと思っています。 私のどんな言葉も、喜びも悲しみも怒りも、夫に素通りされて響かないことが、本当に苦しく、共に居る意味を感じられません。 自他境界を引くことにより、自分のありのままでOK、相手もありのままでOKと思えるようになると読んだのですが、そこに成長や向上はあるのでしょうか? 誰かや何かに憧れ、影響されて自分を深く内省したり、言動を改めたりしてより良い自分を目指すことは、悪いことなのでしょうか? 誰かを喜ばせたいとか、自分も喜ばせて欲しいという気持ちも、自他境界をしっかり引く上では悪いものなのでしょうか? その辺りがわかりません。 宜しければ、ありのままをOKとすることと向上心や良い影響を得ることの両立があり得るのか、あり得るならどのように両立させれば良いのか、教えてください。

 

 

自他境界とはなんでしょう。

質問文の中にも登場する、私もよく回答の中でも使っている「自他境界」という言葉。

「自他境界」とは。まずは、ここからほぐしていく必要があるように感じました。

 

引用できるものがないかな〜と探していたら、平易な言葉で解説しているサイトを見つけました。

asqmii.com

一部、引用します。

自他境界とは、「自分と他者は、別のものである」という境目、「壁」のようなものです。
これは物理的なことのみでなく、精神的なことを含みます。 

 

「自分と周りの人たちは、別のものであるという境目」が明確に理解できていないことは、様々な不安や葛藤の原因になります。
一つ目は、「他者は自分と違う考え方をするかもしれない」ということが思い浮かばないということです。
「自分が考えていることは絶対正しい」「自分が考えていることは、相手も考えているはずだ」と考えます。
具体的に言うと、自分の片思いに過ぎないのに、「気持ちは相手も同じだ」と思い込んだり、「自分がこんなに困っているんだから、気持ちは相手に伝わるはずだ」と思い込みます。
ですが、実際には相手が解るはずはないので、不要な怒りや不安、葛藤を抱え込んだりするわけです。
「他者には別の考え方があり、他者は自分の思いのままにならない」、ということが理解できないのです。

 

もう一つの問題点は、周りからの影響を受けやすいという点です。
自分と他者は別のものだと思えないために、他者、特に周りのことを考えない「侵入的な人」に振り回されてしまいがちです。
相手の要求をうけいれてしまい嫌だと言えない、要求をはねつけることができない。
相手に振り回され、傷つけられ、他者が怖くなってしまうこともあります。 

 

自他の境界とは、自分と他者(家族を含む自分以外のの全ての人を指します)の間にある境界線、壁、隔てているもの。

ここが曖昧になってしまっていることの問題点は大きく2つ。

1つは他者に対して自分の思うままになるよう求めがちになること。

もう1つは、周りから過度な影響を受けてダメージを受けてしまうこと。

 

発達障害とこの自他境界の曖昧さの関連について私は学術的な見識は持ちません。

ですが、実体験や周りの保護者当事者さんたちのお話を通して、発達障害のある人やその周囲でここに由来するトラブルが起こりやすいというのは実感として有ります。

 

nanaio.hatenablog.com

娘は小学4年生になった現在、外では自分と他人の境界ははっきりと認識できているようですが、どうも家族の中には境界がなく、自分の境界の中に取り込んでしまっているようです。

なので娘は学校で問題のある行動はほぼなく自分からトラブルを起こすことはありません。なのに家では毎日のようにトラブルになりパニックを起こしています。

なないおさんのブログからの引用ですが、娘さんのケースのように「外ではそれなりにうまくやれているのに家族に対しては他者との境界が認識できない(しづらい)。

これも我が家も含め、よく見聞きするお話です。

 

質問主さんのケース

「自他境界とは」という情報を整理したところで、質問主さんのケースに目をむけましょう。

文章を読む感じでは、質問主さんは夫さんに対する自他の境界が曖昧になっていることに若干の自覚があるようにも見受けられました。

私の夫はこれまで生きてきて、誰かの生き方や言葉に心動かされ、影響されたり、憧れたりした経験が1度もないと聞いて、お互いに尊敬しあい学び合えるような関係が理想の夫婦と思っていたので、絶望してしまいました。

質問主さんが夫さんに対して自他の境界がかなり緩そう、と見える一文です。

ものすごくドライに言うと、夫さんの「だれかに憧れたり影響されたりしたことがない」という過去やそういう性格の発覚について、それを質問主さんが尊敬したり、そんな夫さんから学ぶことがあったりしたらそれはそれでいいんじゃない?という話にも見えるんですね。

夫さんの告白は「配偶者を尊敬し配偶者から学ぶ」という理想に関しては何も侵してはいません。

 

ではなぜ質問主さんは【絶望】するほどのショックを受けたんでしょう。

それは、質問主さんの思い描いていた理想が

「配偶者を尊敬し配偶者から学ぶ」ではなく

「お互いに尊敬しあい学び合えるような関係」だったから。

 

それはつまり夫さんが「夫が私から学んでくれる、夫が私のことを(私の思うような形で)尊敬してくれる」ことを潰したと感じたからです。

 

耳障りのいい言葉に隠された、境界線の侵害

「お互いに尊敬しあい学び合えるような関係」

とても、耳障りのいいセンテンスだと思います。

質問主さんは質問文の後半にも

誰かや何かに憧れ、影響されて自分を深く内省したり、言動を改めたりしてより良い自分を目指すことは、悪いことなのでしょうか? 誰かを喜ばせたいとか、自分も喜ばせて欲しいという気持ち(以下略)

と書かれています。

どれも、それだけをとればとても耳障りが良く、批判の対象になるようなお話ではないように見えます。

 

「尊敬しあい学びあう関係」

「誰かに憧れる」

「影響を受けて深く内省する」

「言動を改めてより良い自分を目指す」

「誰かを喜ばせたいとおもう」

「自分を喜ばせてほしいと思う」

 

単体では、これらはなんの問題もない事なんですね。

人間関係をよくするための自助努力としてはむしろ推奨されるような内容。

 

ここで鍵になるのは、その「推奨する」という、というような、他人に対する働きかけの部分なんですね。

 

「自分が変わろう!」と目指すことはなにも悪くない

質問主さんが夫さんに希望しているいろいろな事、それそのものは上でも触れたように、なんの問題もない、むしろ夫さんがより良くなることに役立つかもしれないことも多く含まれていると思います。

 

「それ自体はなにも悪くない」んです。

質問主さんが自分で「人の影響を受けて良い方へ自分が変わろう!」と目指すことはなにも悪くないんですね。

夫さんが何かのきっかけで「あの人のようなより良い自分になりたい!」と目指すことも、なにも悪くないです。

そういうなにかしらにより触発を受けて成長や向上をする人もたくさんいるでしょうし、質問主さんご自身はそうやってご自身の成長を感じてこられたのかもしれません。それ自体は誰からも侵害されることも否定されることもない、質問主さんの大事な過去や大事なスタンスです。

 

では、なにが問題なんでしょう。

 

「なにを」ではなく「どう」求めるか

鍵になるのは「他人への働きかけ」の部分だと書きました。

「あの人のようなより良い自分になりたい!」という感情を例にして、そこを掘り下げてみましょう。

 

  1. 「あの人のようなより良い自分になりたい!」と自分で思うこと
  2. 「あの人のようなより良い自分になろう、っていう気持ちを持ってくれたらいいなぁ」と配偶者に対して思うこと
  3. 「あの人のようなより良い自分になろう、っていう気持ちを持って」と配偶者に求めること
  4. 「あの人のようなより良い自分になろう、っていう気持ちを持って」と配偶者に求めた上でそれについての相手の反応により影響を受けること(例;怒る、悲しくなる、辛くなる、喜ぶetc.)
  5. 「あの人のようなより良い自分になろうっていう気持ちを持たないあなたはおかしい」と相手を責めること

 

いくつかの段階をおって箇条書きにしてみました。

どれが人間関係に支障を来すかわかりますか?

 

1と2はなんの問題もないですね。自分の境界線の内側で自分の感情を制御している状態です。

 

3は一見するとNGに見えるかもしれませんが、セーフなラインだと私は思います。

求めるという行動そのものの責任は自分にあるわけです。相手がそれに対してどう出るかはわかりませんが、求める行為そのものはセーフだと私は考えます。

自分は自分の感情や要求は伝える、でも自分の要求に対して相手がどう動くかは相手に委ねている状態です。

 

人間関係がこじれるのは4と5です。

4は、求めた先の相手の行動をコントロールしようとしていたり、また過度に影響を受けてしまうことに繋がっています。

5は、違う人間であるはずの自分と相手が同じ思考をする前提で物事を見ています。相手の人格を否定することに繋がっていきます。

 

これを日常的にやられると人間関係は破綻しやすくなると思います。

自分が自分としてそこに居ていい、という環境ではなくなります。

 

 常に自分という人格を否定する人と一緒に暮らす、同じ職場や教室で過ごす、というのは質問主さんにとっても想像するだけでお辛いのではないかと思います。

自他境界の曖昧な関係性の中で暮らすというのは、そういうことです。

 

自己肯定感と人格否定

質問文の中には夫さんの思いや他のご家族のことは触れられていませんが、質問主さんが今鬱状態でお辛い日常を過ごしておられる中で恐らくはご家族も、質問主さんの言動に苦しんでおられるのではないか、と心配になりました。

 

打開するために具体的な何が必要かということはここで簡単に話すことはできませんが、最後に、質問主さんが書かれている最後の疑問にお答えしたいと思います。

 

ありのままをOKとすることと向上心や良い影響を得ることの両立があり得るのか、あり得るならどのように両立させれば良いのか、教えてください。

 

ここでもう一つ、定義を確認する必要がある言葉をだします。

「自己肯定感」(自尊感情)という言葉です。

流行っているのでしょうね、学校関係でもよく見聞きするようになりました。

自尊感情については過去に書いたことがありました。

suminotiger.hatenadiary.jp

 

社会的自尊感情とは、「できることがある」「役に立つ」「価値がある」「人より優れている」と思える感情で、他者と比較して得られるもの。相対的、条件的、表面的で際限がなく、一過性の感情です。

基本的自尊感情とは、「生まれてきてよかった」「自分に価値がある」「このままでいい」「自分は自分」と思える感情です。他者との比較ではなく、絶対的かつ無条件的で、根源的で永続性のある感情です。

 

参考:http://www.kyoushi.jp/entries/2428

 

質問主さんが書かれている「より良い自分であろう」とするために向上する意識は「社会的自尊感情」を持ち、保つための努力と繋がると思います。


そして「ありのままの自分でいい」というのはどんな状態の自分でも「生きていていい」「自分が自分であっていい」と自分で自分をまるごと肯定すること、自分という人格を大切にすること、それが基本的自尊感情です。

 

質問主さんは「両立があり得るのか」と書かれていらっしゃいます。

はい、あり得ます。

あり得るどころか、両方がないと人は人として自分の人格を保って生きて居られないのではないかと思うのです。

 

ありのままの自分をありのまま肯定できる、というのは木の根っこや幹のイメージです。それは、後天的な能力の高低や有無に影響を受けるようなものではなく、人格としての自分を肯定することです。

 

より良い自分であろうとすることは、木のイメージでいえば葉を茂らせるイメージです。他者からの影響を受けながら自分で培っていく部分です。

 

茂らせるのはあくまでも自分です。

 

質問文を拝見した感じだと、質問主さんは「ありのままの自分をよしとする」ということについて「ダメな部分も容認してしまっていいのか」と受け取られているように見えましたが、どうでしょうか。

 

でも、その部分がダメかどうかもまた、夫さん自身が決めることなんですね。


質問主さんがやろうとしていることは、茂っている夫さんの葉を「こんな葉ではダメだ」と刈り取って違う葉をくっつけようとしている状態、種類の違う木にそれを無理にやろうとしてもうまくはいきませんよね。

 

まとめます

細かくお話ししたのでかなり長くなってしまいました。ごめんなさい。

整理します。

 

質問主さんは「ありのままでOK」という表現を「ダメな自分も容認してしまって向上しない人間でいいのか」という意味合いに受け取られているように感じました。

でも、それは違います。

 

夫さんの「ダメにみえる部分」はあくまでも質問主さんから見た主観的な要素の一つであり、それをどう捉えるかは夫さんの側の課題です。

 

ありのままの自分や配偶者を肯定する、というのは、細かな要素の内容ではなく、丸ごとの人格を否定しないということです。

 

その上で「あなたのこの部分は好き」「あなたのこの行動は自分は嫌い」という感情を抱くことも、それを相手に伝えることも、それを理由に自分がどうするかを決めることも、質問主さんの自由です。

でも、その結果夫さんがどう動くかは夫さん自身が決めることで、配偶者といっても介入はできません。

 

夫さんに関して質問主さんが「ここがイヤ」と感じる部分について

  • 不快に思うこと
  • 不快さや辛さを伝えること
  • 改善してほしいという自分の思いを伝えること

は何の問題もありません。

でも

要求に対して夫さんがどう動くのかを決めることは夫さんが決めることです。

その決断には質問主さんが関わることはできません。

 

自分と他者の境界を意識するというのは、相手の判断する力を奪わないことでもあります。

 

質問主さんがもし夫さんから「俺の思うような妻であれ」と強いられ、いろいろな判断に介入されたらお辛いと思います。

自分の行動を判断する能力が質問主さんにとって大事なものであるように、夫さんにとっての判断する力もまた、誰にも侵害されることがあってはならない、夫さんの大事なものです。

 

最後に余談ですが。

特に夫婦間では何かのしんどさがあるとき片方にだけ大きく要素があるということは稀だと思います。

質問主さんに自他境界の問題があるように見受けられるのと同じように、夫さんには夫さんの何かしらの要素があるのだろうと思います。

これは、どちらがいいとか悪いとかの、主導権を取り合うパワーゲームではないと私は思うのです。

 

結婚生活を維持するという目的があるのであれば、その目的のために「自分がどうすれば自分がより楽にいられるのか」を双方が考えることが大事です。

その折り合いをつける話ができるかどうかは、片方がどんなスタンスで話し合いを求めるかによっても大きく変わってきます。

そして、そのためにはある程度のメンタルの余力のようなものも必要だと思うんですね。

そういう意味では、不眠が続いていらっしゃるような状態の質問主さんにとっては私のこの回答も重すぎるものかもしれないという懸念もあります。

それも込めて、あとでも読めるようブログにまとめる形を取らせていただきました。

 

折り合いをつける夫婦間の話の仕方については必要があればまた別の形でお手伝いさせていただくこともできるかなと思いつつ、長い文章をここで締めたいと思います。

窓口対応にキレた話から考えた、クレーマーにならないように窮状を訴えるスキルのこと

 

発端はこの記事に取り上げられている漫画です。

 

気になったのは、私も同じような経験があったから

自分が同じように当てにしていたものが用意されておらず困ってしまったら…

過去を振り返ったとき、似たような場面で同じように動揺して必死に窮状を訴えていたような記憶があります。

そして、窓口の方の対応が冷たく感じで同じように「わかってもらえない…」と悲しくなったり、その悲しさがつのって怒ってしまったこともあったなぁと振り返ったんですね。

 

私とこの漫画を書いた方に共通しているように感じたことがあります。

それが、漫画の中盤に描かれていた患者としてのスタンスの部分。

 

医者や病院に対して逆らわないようにしていた、治療してもらっているのだから信頼しないと、と考えていらっしゃる。

 

医者から薬を提案されている場面で、副作用に対する不安があるのにそれを口に出さずに受け入れる様子が描かれています。

 

ここで、あっ、と思ったんですね。

 

思い出した、三男の入院時のエピソード

赤すぐさんの連載に書いたことがあるエピソードなのですが、昨年三男が大ケガをして救急搬送され、翌日に大きな手術、そして半月ほどの入院と退院後2ヶ月ほどの車椅子生活をしました。

 

病院に来てすぐの処置から手術前のいろいろな検査などお医者さんや看護師さんがきてなにかしようとするたびに三男は

「しゅじゅつってなに?」

「いやだ」

「こわい」

「なにをする?」

「そしたらどうなる?」

と何度も何度も口に出します。

 

その度に手を止めさせてしまうのが申し訳なくて、私はその度にすいませんすいませんと思っていたし、それを言葉や態度に出したり、三男を制しようとしたりしていました。

 

でも病院の方はみなさん快く三男の不安に答えてくれるんですね。

 

手術の前にもお医者さんや看護師さん達が何度も顔を出してはどんなことをするか詳しくお話をしてくれ、三男が口にした不安についても嫌な顔ひとつせず「そのときはこうするよ」「そうはならないよ」とひとつずつ答えてくれます。

 

不安をバンバン口にしてしまう三男を前につい「すいません、色々言っちゃって…」と言ってしまいました。


そしたら看護師さん、きりっと笑いながら「言ってくれないとわかりませんからね〜」って言ってくれたんですね。

 

言わないで怖くなってしまったりする方があとあと大変で、不安なことや気になることはどんどん言ってくれた方がこちらもなにをすればいいかハッキリするから分かりやすくてかえって助かるんですよ、だから何かあったらもっとどんどん言ってくださいね、と笑いながら話してくれました。

 

たしかに不快や不安をバンバン吐き出していた三男は手術室に入るときには看護師さんに押される車椅子から私たちに手を振ってくれるほど余裕を見せてくれました。

術後の入院生活も嫌がることなく安心して過ごしていたように思います。

しっかりお話ができた病院の人たちを信頼することができていたからなのかもしれません。

 

不安ややってほしいことをうまく言葉にできていなかった自分

入院する時に病院で見かけたポスターにも、看護師さんが言ってくれたのと同じことが書かれていました。

 

痛い、辛い、不安…気持ちを伝えてもらったらそこからあなたに寄り添う医療ができるようになる、そんなニュアンスのことが書かれていた記憶があります。

 

三男の言動やそれに答える病院のみなさんの対応を見ていた入院生活。

その中で、自分がいかにこれまで必要なことを伝えずにいたのかを痛感したんですね。

 

言われるままに従うのが良い患者だと思っていたような気がします。

でも自分の中の思うことをうまく汲み取ってくれないお医者さんや看護師さんに出会うと「あそこはよくないな」とか「合わないな」と思ったこともあったなぁと。

 

それは医療に対してだけではありませんでした。

学校に対しても先生方にはなるべくいろいろ言わないのが良いと思っていたような気がします。

 

自分は気持ちや要求を言葉にするのはあまり得意ではないのかもということ。

三男を見習って、病院でも学校でもいろんな場で、もっと気持ちを言葉に出していい、その方がお互いのためにいいのかもしれない、と思うようになりました。 

 

自分ならどうしただろう、と考えて見えてきたもの

漫画を読み返して、いまの自分ならどうするだろう、と考えてみました。

漫画のなかで主人公さんは窓口で訴えているんですね。

自分は医師にきちんと頼んだということ、CD-ROMがないと役所への申請ができないこと、今日はこの足で役所へ行く段取りでスケジュールを組んでいること、出直すとまた予定も狂うし体調も悪いなかでやっているのに、ということ。

 

さらに言葉にしない思いとして、こうならないように付箋を使ったりして丁寧にお願いをしていることやレントゲンをとるために医者の言うなりにわざわざ出直してまで撮影をしてもらっていること…

 

ここまで言ってるのに、やってるのに。

 

でも病院の窓口の方は「私に言われても…」という雰囲気。

 

そして、噛み合わない会話。

どこに食い違いの要因があるのか、を掘り下げてみます。

 

訴える側が見ているものと、訴えられる側が認識しているもの

主人公さんと窓口の方の話が食い違った要因のの1つめはお互いが考えているスタンスのズレだと思うんですね。

 

主人公さんは窓口の方を『病院の人』として訴えかけています。今回の診断書を取り扱うすべての方を代表する存在、つまり、ミスの当事者とみなして窓口の人と接している

 

でも窓口の方はご自身のことを『誰かが用意したものを手渡すよう指示された役割』、つまりミスしたのは自分ではない、と認識して主人公さんと接してる。

 

ここに1つ目の要因があると思います。

 

求めているのは何か

食い違いのもう1つの要因に見えるのは、主人公さんが求めていることが相手にうまく伝わっていないのではないか、ということです。

 

窮状は訴えているんだけど「今日出してもらわないと困るんですけど…」という、下手に出ながらなんとかしてもらおうという雰囲気は読めるのですが、それは要求としては100%のうちの100をごり押ししている状態で、向こうには「交渉しようとしている人」ではなく「無茶を言っている人」と受け取られてしまっている。(だからその場を納めるために帰そうという方向に対応が向かってしまう)

 

キレる前の段階で

「そちらのミスなので迅速な対応を望む、最短でいつ用意できるのか」

という対等なスタンスでの交渉に臨んでいるか、というとそれが十分でないようにも読めるんですね。

 

もしいま、私が訴えるなら

もしいま自分が直面したら…

①こちらは間違いなく頼んだのだから病院側でミスが起こったのは事実、まずそれを認め謝罪するのが筋。ミスをしたのが窓口ではないというならミスをした担当者本人やそこを統括する上司、すぐにわからないならわからないで然るべき関係者がミスを認めていただきたい。

 

②ミスを認めた上で、今ここにCD-ROMがないのは仕方ないとして、リカバリーに最善を尽くしてほしい、つまり、今から当たり前の時間をかけて用意するのでは困るわけで、最短でいつ出来上がるのかを明確にしていただきたい。

 

この2点を主張するだろうな、と思ったんですね。

 

逆に考えると、ミスのせいで予定が狂って窓口に困窮を訴えているところで向こうから「こちらのミスでご迷惑をおかけして大変申し訳ない。急ぎ用意をするので一時間待ってもらえないか」と先に言われたら溜飲は下がりやすいかもしれない。

 

要点は2つ。

①ミスがあった事実を認める

 =当事者同士で事実確認をしどこに非があったかを共有する

リカバリーのために最善を尽くす

 =100%の補償ができない可能性も含め、

  非の割合が高い側が最善の努力の姿勢を見せ、

  双方で落とし所を見つける話し合いが成立する

 

ここまで考えたところで、じゃあなんで現実がそううまくいかないんだろう、と思ったのでそこを掘り下げてみます。

 

モンスタークレーマーと届かない訴え

漫画に描かれていた主人公さんは一生懸命窮状を訴えていました。

でもその思いは届かず最後に怒ってしまい向こうはそれに応じるように急に対応を早めてくれる結果になってしまいます。

これでは言う側は「キレれば話が通る」という経験を積むことになるし、病院側からは「この人は思うようにならないとキレるから気をつけて」と思われてしまう、意図せずモンスター認定されてしまうかもしれない。

 

なんでそうなっちゃうか。

前章の要点にあげた2つが鍵になると思います。

1つ目の、事実確認の話し合い、まずこれが成立するか、ということ。

そして2つ目の、落とし所を見つける話し合いが成立するか、ということ。

 

この2段階の話し合いが成立する要素が「お互いに」ないと無理なんだろうなぁと思うんですね。

 

今回話題にあげた漫画の件だと、患者さんの側にもこの話し合い交渉に持ち込むスキルが、窓口の方の側にもミスがあった事実から起こっているこの話のこじれに対応するスキルが、お互いにそれが備わっていたら、話の流れはもっと違っていたんじゃないか、と思ったりしました。(もちろん漫画から全てを汲み取るわけにはいかないので、憶測に過ぎませんが)

 

結局何が言いたかったかを振り返る

なんかだらだら書いてたら長くなったのだけどもうまとめ直す気力も体力も時間もないのでこの辺で締めようと思いますが、要は、「話し合うスキル」って意外とみんな持っているようで持ってないんじゃない?っていうのを感じる場面が最近結構あって、それについてこの漫画でも同じような引っかかりを持ったよって話でした。

 

余談ですが、一度お話を聞いたことのあるでかい障害児親の会のお母さんから教えてもらったことがあって、新入りの親御さんにまず勧めるレクチャーが「学校との交渉スキル」なんだそうです。

 

まず、声のトーン、話す調子、スピード…と言った「喋り方」

そして、何をどう求めていくかという「交渉術」

 

それを身につけておくと学校との話し合いが格段にやりやすくなるよ、というお話を聞いて目から鱗がボロボロと落ちました。

 

もちろん、誰でも自然に身につかなくても仕方ないし、どうにも苦手なものはあると思う。

でも、ひととおり読んで「あれ?自分も?」って引っかかりを感じる人がもしいたら、訓練次第で交渉が少し上手になる可能性もあるかもしれないよってことは頭の片隅にあると全然そこからが違ってくるかもしれないなぁと思ってダラダラと長く書き連ねたのでした。おしまい。

「書く」

はてなブログに初めてのエントリを投稿したのはいつだったのかと遡ってみた。

2013年9月9日「とりあえずはじめてみた。」というタイトル。

当時はTwitterのフォロワーもそう多くなかっただろうし、大してアクセスもなかっただろうこの記事を初めて書いたのが、おそらくは私の1つの転機だったのだろうと思う。

 

最初のエントリから16日後に書いたこのエントリがなぜか大きな反響を得て、初めて別メディアへの転載の依頼をいただくことになった。

 もらったDMの中身を読んでも何がどういうことなのかも全然わからなかったし、詐欺なのか、何か大きなものに巻き込まれるのかととても動揺したのを覚えてる。(実際にはただ転載されただけで何の影響も何の被害もなく、アクセスが増えるでもなく、良くも悪くも何もなかった)

 

2ヶ月後に書いた記事が、もう一つの大きな波になった。

この少し前から育児のストレスのことや夫とのいさかいのことに触れることが多かったように思う。今でもこのエントリは毎日検索からのアクセスがあり、記事を更新しなかった日はいつもアクセス1位にずっといる。

 

それを見るたび、あぁ、私が通って来た道で同じように悩んだり苦しんだりもがいたりしているお母さんが今もいるんだ、と思う。

 

この、通って来た道を振り返りながらできることはないだろうか、というのは私の中のひとつの大きなテーマとして、今も自分の中にずっとあるような気がする。

 

Twitterのフォロワー数が増え、ブログへのアクセスもおかげさまで増えていく中で再び私に突然飛び込んで来たもの、それが「原稿の依頼」。

 

初めての寄稿依頼ははてなを通した楽天の「それどこ」で。

srdk.rakuten.jp

「自分担当の編集者」という方がサポートしてくださった記念すべき記事。

初めて「記事そのものに対価としての報酬を受け取った記事」にもなった。

 

これが、私の2つめの転機。

「書く」ということが私の仕事のひとつになった。

収入としては微々たるものだけれど、初めての入金があった時は記帳したATMの前ですごく嬉しかったのを覚えてる。

 

会社員、妻、お母さん…それまでにいくつかあった私の肩書きの中に「ライター」が加わった瞬間。

 

そうか、この自分が何者かのことを書いた記事でブログ大賞をいただいたんだった。

 

初めての依頼をもらった日から今日まで、他のライターさんにははるか及ばない申し訳ないようなペースではあるけれど、少しずつ少しずつ、書かせてもらっている。

お話をいただくメディアもじわじわ増え、連載をもたせてもらえる栄誉も得た。

 

ブログの更新もたどたどしくも続く。

 

そして、その間に子どもたちはだんだんと大きくなった。

まだ生まれたばかりだったような気がする三男は小学生になり、手がかかる次男の発達障害がわかりたくさんの人に支えられた彼は学ランを着て登校する中学生になった。

 

私も育った。

Twitterのフォロワーは気づけば1万を超えていた。

ブログの読者数も2000近く。

夜泣きで寝られなくてボロボロの頃を支えてくれたTwitterやその頃のことを書いたブログを通して、自分の思ってたことはこれだったんだ!と喜んでもらえたり、救われたと言ってもらえたりもする。

やんわりとした不思議な絆が、じわりじわりとつながっていくのを感じて、とてもうれしい。

昨年度は発達障害のある子の親としての経験が少しでも役に立てばと受けた講習が修了し、私の肩書きの中に新たに「ペアレントメンター」が追加された。

ここから見えるものを通して、また何か始められないか、と少しずつ計画を立て始めている。

 

「お母さん」「妻」として書き始めたブログ。

そこから生まれた、ライターとしてのイシゲスズコという私。

アレントメンターという立場からの記事を書いて欲しいというありがたいお話もいただいていたり、まだまだ広がっていく予感がしている。

 

まだまだ大きくなるよ。

まだまだ広がっていくよ。

 

たくさんの方に読んでいただきながら、今日も私は書く。

書くことで見えてくるものが、自分の中にある限り。

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