スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

知ることで、見える世界が変わった三男の話

相変わらずたまにしか書かないブログですが、今日は三男がふと漏らした一言から考えたことを。

 

三男とバードウォッチング

我が家は三男が生まれる前くらいから家族で野鳥の会のバードウォッチングに参加することがたまにありました。

私がもともと野鳥に興味があったのと、子どもたちに自然観察の機会を与えられたらという思いから。

 

野鳥の会の先生方や、同行する博物館の学芸員さんたち、虫や魚に詳しい参加者の方々と 山や川に出かけて鳥だけでなくいろんなお話を聞く楽しい時間を、三男も他の子どもたちも楽しみに参加しています。(兄たちは最近は部活や他の予定で来られないことも多くなってきましたが)

 

野鳥の観察というと静かにして遠くの鳥の声を聴いたり、離れたところにいる鳥をスコープでとらえて観察したりすることがメインになります。

 

歩けるようになった頃からしょっちゅう参加していたとは言っても、三男は鳥そのものよりも歩く道々で見かける虫や魚、川の流れの方に興味を示していました。

そんな興味にも学芸員さんや野鳥の会の先生方も優しく見守って、時に一緒に観察してくれたり。

 

そんなゆる〜い感じでバードウォッチングにふわっと参加している三男でした。

 

「よく鳥を見つけるんだよ」

そんな三男が、先日一緒に車で移動している時にふと私に声をかけました。

 

「ねえ、お母ちゃん」

「ぼくね、最近、鳥をよく見つけるんだよ」

 

おや??と思いました。

 

「鳥がよく見つけられるようになったの、ふしぎ〜〜」

 

と三男。

 

我が家の周りの鳥が急に増えたわけではありません。

じゃあなんで、三男は鳥が見つけられるようになったんでしょう。

 

【興味を持つ】というフィルターのようなもの

三男が突然鳥に目がいくようになったのは、きっと鳥を意識するようになったからだろう、と思います。

 

それまで当たり前の日常の中の風景の一部でしかなかった野鳥たち。

人間が気にしてもしなくても関係なく、鳥たちは空を飛び、電線に止まり、道端をてくてく歩いてる。

わざわざ意識をしなければ目に止まることもないただの景色なんだろうと思います。

 

その景色の中から、鳥だけがぐっと浮き上がって見えるようになったのは、三男の中で鳥という存在が「意識する対象」に変わったのだろうと思います。

 

「好きなものだから、見えるのかな」

鳥が見えるようになって不思議そうな三男に、

「君が鳥のことを知って、興味があるからよく見つけるようになったんじゃないかな〜」

と話しました。

「そうか〜虫とか魚とかもぼく好きだからよく見つけられるもんね〜」

と三男。

 

「鳥もだんだん好きになってきたんだな〜」

とニヤニヤ笑っておりました。

 

おわりに

三男が今回言葉にした感覚、実は私が初めてバードウォッチングに参加した後感じたものと同じでした。

 

当たり前のいつもの道を歩いていても、鳥の声が耳に入る、飛ぶ鳥が目に入る。

あの不思議な感覚を三男も経験したんだな〜とちょっと嬉しくなりました。

 

興味のあるものが一つ増えると見える世界が変わってくるあの感じ。

 

そしてその興味は、次はその興味あるものを守ることにもつながっていくのかな〜と感じています。

 

鳥のことに興味を持ち身近に感じていることで、三男は鳥たちの環境を守ることもいつか意識できるようになるかもしれません。

このことを教えてくれたのは、やはり観察会でご一緒した虫の先生でした。

その時のことを書いた過去記事はこちら。

 

suminotiger.hatenadiary.jp

人はいとも簡単に、知らないことを「ないもの」にしてしまう。

これは、生き物に対してだけではないことだな〜とTwitterでいろんな議論を眺めていても感じることです。

 

「知る」ということの意味、「ないもの」にしないために自分ができること。

 

三男の何気ない一言から、いろんなことを考えさせられた備忘録でした。

 

おまけ

新・山野の鳥―野鳥観察ハンディ図鑑

新・山野の鳥―野鳥観察ハンディ図鑑

 

 

新・水辺の鳥―野鳥観察ハンディ図鑑

新・水辺の鳥―野鳥観察ハンディ図鑑

 

三男の愛読書。カバンからサッと取り出して開く姿がなかなか様になってきました。

学校とどうやって交渉する? 〜担任にうまいこと配慮をねじ込む問題について

先日ツイッターでちょっとアンケートらしいツイートをしまして

 

圧倒的に多かった

②担任にうまいこと配慮をねじ込む問題

について書いてみたいと思います。

 

なんと偶然にも同じタイミングでなないおさんも同じネタで記事を書こうとされていることがわかったので今回はコラボ企画にしようよ!ということで4/18 PM8:30に同時にアップすることに。(双方がアップされた後でどっかにリンク貼りますね〜)

 

ファイティングポーズになってませんか?ドッジボールになってませんか?

学校と交渉していく上で一番大事なのが、どんなスタンスで臨むかです。

ツイッターでよく私が言及するのが「ファイティングポーズをとってませんか?」ということ。こちらが臨戦態勢をとれば当然ですが向こうもそれに応じることになってしまう。

また、要望をドッジボールのように相手に投げつけてませんか?」ということ。

f:id:suminotiger:20190418093935j:plain

自分がやってほしいと考える要望を塊にして相手に「これをやってね!」と投げつけてしまっていたら交渉は成り立ちません。

相手にとって「こちら側の状況を無視している」と受け取られてしまいかねず、関係が悪化したり不信感を抱かれたり、困った保護者だと認定されて話が通りにくくなってしまうかもしれません。

 

対等にテーブルにつくために

交渉をするためには対等な立場で話し合いのテーブルにつかねばなりません。

学校側と保護者側、どちらが上でも下でもない、というスタンスで臨むことが大切です。

学校・先生は子供を真ん中に挟んで「一緒に育てていくパートナー」という認識を保護者の側が持っていると学校側も同じようなスタンスを取りやすくなると思います。

 

なにを求めるか、という大きな問題

話し合いのテーブルにつく前の準備として大きな問題があります。

「学校に具体的になにをどんなふうに求めていくか」という課題を整理しておくことです。

ケースによってはここが一番大変だと感じている方も多いだろうと思います。

今回は

  1. 具体的な困りが明確になっていてどうしてほしいかがある程度見えている場合
  2. 心配や不安があるけれどなにをどう求めていいかわからない場合

の2つに分けて話を進めてみようと思います。

 

1、具体的な困りが明確になっていてどうしてほしいかがある程度見えている場合

この場合、上で挙げたドッジボールのように「こうして!」を丸ごと投げたくなってしまうかもしれません。が、それではうまく通りません。

 

①「母の暴走ではない」と示すための準備

まず準備しておくと良いのが、それを「誰が言っているか」です。

親(特に母親)が希望する、というだけだと根拠としては弱いと私は感じています。

病院の医師や心理士、スクールカウンセラーや教育相談の先生、通級の先生など、親以外の第三者がこの子にとってそれが必要だと考えている、というバックボーンがあると交渉の場で説得力がぐんと上がると思います。

配偶者がいる方であれば「夫も同じ意見である」という項目が追加されるとより良いと思います。

 

過去に学校の先生方とお話をしていて「母親の暴走」を恐れているのかな、と感じることが何度かありました。根拠なく不安が募って学校に過度な要求をしてくる母親が少なからずいること、そしてそういう保護者対応に困った経験のある先生も多くいらっしゃいます。

こちらが求めることも「お母さんが心配しすぎなんじゃないか」と受け取られると一気に交渉が不利になります。

 

医師の意見書があればかなり強いですし、ペーパーでなくても「医者(心理士・〜の先生)がそう言っている」という話だけでも自分の暴走ではないのだという表明になります。

私の例だと、過去にはプロ以外だと「親の会で」とか「知識のある友人が」という話を出したこともあります。何でもかんでも出せばいいというわけではないので注意が必要ですが、自分だけが思い込んでいるわけではないということを示す方が話し合いがしやすい、というのは念頭に置いておくと良いと思います。

 

②自分の案は不完全であることを意識する

具体的な対策を求めたいとして、こちらが想定した具体策を100%通そうとするとうまくいきません。

 

保護者はあくまでも保護者の目線しかありません。

学校の都合や先生の事情、他のお子さんの状況など学校の先生が見えているものまでは想定できませんよね。

つまり、保護者が想定した具体策は想定の時点ですでに、学校で実行するための完璧な案ではない。片側からの視点しかない不完全なものなんですね。

 

ですから、その不完全な案を飲ませることはお子さんにとっても良いとは限りません。

そして、学校側の事情が見えていない案だけ出されて「飲むか飲まないか」という話をされてしまうことは先生にとっても気持ちの良いものではないと思います。

 

③まず、心配ごとを共有

具体的な策を持って話し合いに挑むと、どうしてもそれをいの一番に言いたくなってしまうのですが、そこはまずグッと堪えた方が良いと思います。

まず先生と共有した方が良いのは、策ではなくて

「何が心配か」「どんな困りがあるか」

という、子供本人の困りや保護者の不安などの「ぼんやりしたもの」です。

f:id:suminotiger:20190418094015j:plain

 

④お互いの具体策を出し合う

そのぼんやりしたものを共有した上で、

「先生はどんな風に見ていらっしゃいますか」

「学校としてはどんな事例がこれまでにありますか」

など、先生の見立てや学校側の事情、前例などについて質問します。

その会話の中で、

「自分は(例:医師は、カウンセラーは)こういうのはどうかなぁと思うけど学校としてはどうですか?」

と、意見を伺う形でこちらが持ってきた案を先生にも提示すると話がうまく進みやすいです。

 

⑤100%の答えではなく、落としどころを見つける

②でお示ししたように、自分が考えた案というのは片手落ちの可能性もあるものなので100%通すのはまず無理です。

でも、100%通らず諦める必要もありません。目の前の子供は困っているし、学校はそこに寄り添ってもらえないと困ります。

④のようなやり取りをしながら、こちらの事情と子供の困り、そして学校側の都合、双方が少しずつすり合わせながら、今回の落としどころを見つけることが大切です。

f:id:suminotiger:20190418094052j:plain

経験から、こちらが望んだ要求が8割通れば大成功、5割くらい受け入れてもらえたら御の字で次に繋げられる、という感覚で学校に出向いています。

 

⑥次の話し合いにつなげるために

学校と保護者が話し合った末に出した答えが正解とは限りません。

すり合わせていった打開策なので、それが効果があるかどうかはやってみなくてはわからない。

そして、それを学校側に投げるだけだと成果が出ているかどうかも確認ができません。

私は、打開策が決まって先生にお願いをした時、話し合いの最後は「やってみたところでどうかをまたお話ししたい」ということを先生に伝えるようにしています。

 

2、心配や不安があるけれどなにをどう求めていいかわからない場合

次に、具体的に何をどう求めていいかわからないけど心配や不安がある状態について考えます。

 

これは、一般化してお話しするのがとても難しいなと思うのですね。

どんな困りがあるかは千差万別だからです。

 

ただ、取れそうな策としていくつかあげておきます。

 

①先生に直接聞く

当たり前すぎるけれど当たり前な対策がまずこれです。

具体的に先生に対して、不安な気持ちを話したり、困っていることを話したりすること。その時間を取っていただくこと。

通常級在籍のお子さんの場合は、その話をする場に特別支援コーディネーターの先生に同席していただく、というのも手だと思います。

担任とコーディネーターそれぞれに、どう見ているか、というのを聞いて学校でどんな対応ができるのかについてお話を聞くのも良いと思います。

 

②専門家(支援者)に聞く

これも当たり前すぎる対策すぎてわざわざ書くようなことではないんだけど、でもすごく大事なことですね。

必要な対策について話していける専門家に一発で出会えるかというとそれはすごくハードルが高い。

並走してくれる支援者に出会えたら本当にラッキーだなぁと思います。

 

この項目については今の段階でこれという細かいことを書く材料が揃わないので今回はこのくらい触れる程度でご容赦ください。

整理できたら後日続編が書けるかもしれません…

 

最後におまけ。話し合い方のコツ

ここまでは話し合いを進める手順について書いてきましたが、最後にちょっとだけ私が学んだり親の会で教えてもらったりした、話し合いをするときのコツについて書いておこうと思います。

 

①ゆっくり、低い声で

高い声、早口だと相手に威圧的に感じられることがあります。

いつもよりゆっくり言葉を出すこと、低いトーンで話すことを意識すると相手に自分の言葉が伝わりやすくなります。

 

②話の聞き方は「遮らない・相槌・オウムがえし」

いわゆる「傾聴」と呼ばれるお話の聞き方です。

相手が話しているときに遮って自分の話を始めないこと。

これをやると相手から「自分をないがしろにしている」と受け取られたり、不快さを与えて交渉がうまくいかなくなる可能性があります。

相手が話しているときはただ聞くのではなく、言葉の途切れる合間で「うんうん」「なるほど」と相槌を挟むこと。相手が大事なことを言ったときは「〜〜ですね」と同じ言葉を返して確認すると相手に「ちゃんと話を聞いている」「理解している」という印象を与えることができます。

 

③我が子の話を鵜呑みにしない

「うちの子がこう言ってた」ということを根拠に話をするときに気をつけなくてはいけないことです。

目の前で起こったことを後で言葉にするとき、大人でも自分のフィルターを通してしか話せません。

子供ならなおさら、自分の目線からしか話せませんし、自分がやらかしたことをうまく認識できていなかったり罪悪感からボヤかして話したりすることは十分あり得ます。

発達障害で認知の歪みがあるタイプのお子さんだとなおさら、話を聞くときには注意が必要です。

 

子供の話はあくまでも子供の目線から見た話であることを意識して話を進める必要があります。ここをすっ飛ばして我が子が見たものが正確であるという前提に立ってしまうと、先生や他の保護者との会話が成り立たなくなってしまいます。

 

低学年の頃はうまく状況を話せない拙さについて、また年齢が上がっていくごとに意図的に話をずらしたり、家での顔が学校での顔と違っていくことについても意識しておく必要があるかなと思います。

自分が見ている我が子の姿が全てではないのだ、ということを意識しておかないと、学校とのやり取りの中で思わぬ落とし穴にはまってしまうかもしれません。

 

④感謝の気持ち、ねぎらいの言葉を忘れない

学校の先生方はクレームを入れられるのは日常、でも成果を褒められる機会はあまりないんだろうな〜とこっそり思っています。

日頃から関係性をうまく築いておくために、先生がやってくれて嬉しかったことや子供が喜んでいること、家で話してくれたことなどを小まめに先生に伝えるようにしています。

また、話し合いの場でもこちらの要求を1出すときは2感謝する、くらいのバランスで先生に負担だけを強いるつもりはないのだと伝えるようにしています。

 

おわりに

とてもとても長くなってしまいましたが、お役に立てるお話になったでしょうか。

子供に困りがあればあるほど、学校との間でいろんな交渉をしていくことになり親としても負担が大きいなぁといつも思います。

ただ、日頃から意識して学校とうまく関係を繋いでおけば何かトラブルがあったときにも対応がスムーズに進みやすいなぁとも感じます。

次男が小学校の頃、彼がトラブルを起こしたとき周りのお家の方に「イシゲさんのお宅はしっかり対応してくれるから安心してください」と言ってもらえていたと聞いて、頑張ってきてよかったなぁ、ありがたいなぁと思ったこともあります。(と同時に身が引き締まる思いがしたのも本当のところですが)

 

何かあったときに駆け込む!というのではなく、日常的に担任と信頼関係を築いておくことを意識しておくこと、その上での交渉術と考えていただけるといいのではないかなぁと思っています。

鎮静の青〜自閉症啓発デーに寄せて

昨年の今日書いたものを読み返しながら

「そうだった、ブルーライトアップあちこちでやりたいなぁって思ってたんだった」

と思い出したりしています。

 

suminotiger.hatenadiary.jp

 

今年も昨年と同様に、大分県内では別府タワーとホルトホール前の100年の樹の2箇所でブルーライトアップが行われるようです。

 

シンボルカラーのブルーは「いやし・希望・平穏」の願いが込められているそうです。

ライトアップそのものはアメリカで始まり、その後日本では神戸からスタートしたと聞いています。

 

青には鎮静効果があるとよく言われます。

パニックになった時に青い色を見て落ち着く当事者の方の話を聞いたこともあります。

そういえば私も、診断のある次男も青を好む傾向があります。

青の中でも濃い、ロイヤルブルーと呼ばれるような強い青を見ると安心するような気がします。

 

特に視覚優位の人が多い自閉スペクトラム、目から入る青い光はパニックになった脳に強い鎮静効果を与えやすいのかもしれません。

 

ブルーのライトアップは、イベントとして盛り上がることで周知や理解に繋げる目的があるのだろう、と思います。

 

でも今日のこの日に、またライトアップされるこの時期に、もうひとつの効果があるんじゃないかな、あってほしいな、と思っています。

 

それは、街にいくつも灯る青い光を見て心を落ち着かせる方がいてくれたらいいなぁ、ということ。

 

喧噪や混雑や非日常が苦手な当事者の方の中には、啓発デーのイベントに参加できない方も多くいらっしゃるのではないかと思います。私も、楽しさが募ってルーティンを崩すかもしれない次男を連れてはるばるライトアップ関連のイベントに参加する勇気は今のところ有りません。

 

でも、遠くからでも、映像からでも、ネットの画像からでも、たくさん溢れる青い光に癒される人が一人でもいたらいいなぁと思う。

 

そして、大規模なライトアップじゃなくてもいいと思うのです。

家の窓辺に青いライトをひとつ置くだけでも、青いものをそっと身につけるだけでも。

 

当事者やその家族だけでなく、知ってるよ、関心を持ってるよ、一緒に生きているよ、っていうメッセージを込めた青が街にたくさん増えたらいいなぁ、と思うのです。

 

そして街に溢れる青で、少しでも心落ち着く当事者がいたらいいなぁ、と願っています。

 

 

私のトラウマと三男のランドセルの、情けなくて愛おしい関係

このブログでも何度か書いたことがあるけど、私はランドセル選びについてトラウマがある。

 

父に連れられていったお店に並ぶランドセルの中で、私が欲しかったのはピカピカ光るクラリーノのランドセル。

 

でも父が私にと選んだのは、お店で一番上等の牛革のランドセル。

 

満足そうな父の横で、本当はクラリーノが欲しかったとあの日の私が言えたのかどうかははっきり覚えていないのだけど、教室でピカピカのランドセルと一緒に並ぶくすんだ赤茶の自分のランドセルがとても悲しかった。

 

私の中でざっくりと傷として残るその記憶があるから、4人の子どもたちのランドセル選びには絶対に自分の意見を入れない、と心に決めていた。

 

売り場やカタログの買ってあげられるものの中で本人がこれと決めたもの。

それぞれに自分の選んだランドセルにワクワクする様子を見て、あの日の小さな自分が成仏できるんじゃないかと思った。

 

うちの子たちが選んだランドセルの色について、父も母もなんだかんだ小言を言っていたけどスルーした。

 

私はあなたたちとは違う。

同じことを子どもにしなかった。

違う親になれた。

 

そう思ってた。

 

 

上3人が選んだのはわりとありふれた色のランドセルだったのだけど、三男が選んだのはとても珍しい色だった。

 

同じ市内でも滅多に見ないもの。

カタログで本人が見て「これ!」と譲らなかった。

オンラインで細かいパーツまで選ぶことができるプランのもの。

 

本体の色、側面やパイピングの色、金具の色や形まで、PCの前に一緒に座って一つずつ三男が全部決めた。

 

「ぼくだけのランドセル」

6歳の彼は誇らしげに、とても嬉しそうにそう言った。

 

うちの子のために買う最後のランドセル。

それがこんな風に形になっていく、よかった、本当によかったと思った。

 

 

 

こないだ。

もうすぐ3年生になる三男とおやつを食べていた時にポツンと言った。

 

「ぼくはさぁ、なんであの色のランドセルにしたんだろう」

 

ランドセルの色そのものが嫌いになったわけじゃない。

今も彼はその色が大好きだから。

 

「6年生まであのランドセルを持つわけじゃない?6年生の時にどうかな〜って思ってさ〜」

 

あぁ、なるほど。

6歳の頃の彼にはランドセルを選ぶ基準は好きかどうかしかなかった。

でも今の彼には、6年生までランドセルを使うという見通しが立つ。

だから、あの日の自分の選択について後悔のようなものがそこにあるんだなぁと。

 

「黒とかさぁ…ぶなんな色にしとけばよかったんだよー」

とぼやく8歳の彼に、聞いてみた。

 

「もし君がお父さんになって、子どもにランドセルを買ってあげる時、君と同じ色のランドセルを選んだらどうする?」

 

ニヤニヤ笑いながら

「6年生まで使うんだよ?もうちょっと考えてみたら?って言う」

と答えた三男と、ふたりでニヤニヤ笑う。

 

あの日の私のやったことが正解だったかどうかはわからない。

両親にやられたことを絶対にやらないぞ、というトラウマによる反動からの行動だから、冷静な判断だったかすらわからない。

 

三男がどんな気持ちで我が子のランドセルを買う場に立ち会うんだろう。

 

私は我が子にいつでも最善の選択をさせられる親にはなれなかった。

 

でも二人でニヤニヤ笑いながら、これでいいんだなって思った。

あの時のあれは失敗だったね〜ってニヤニヤ笑える親子にはなれたから。

 

あの日、くすんだ赤いランドセルを背負った小さな私は今も私の中にいる。

珍しい色のランドセルを背負う三男をぎゅうっとハグしたとき、小さな私が腕の中でクスッと笑ったような気がした。

 

 

 

学校との間のディスコミュニケーションのようなものを掘り下げた話。

1ヶ月ぶりに書いてます。相変わらずです。

 

ちょっと面白いなと思うお話があったので書いておこうかなと思ったのです。

(リアル知人の話なので場面設定等ちょっとフェイク入ってますが本筋は変えてません)

 

舞台は小学校の図書室です。

お友達ママさんとの会話の中で

「先生が『1年生は絵本しか借りられない』と言ったから、それで物足りない子が不満に思わないか心配」

と言うお話が出ました。

 

うちの子たちとは違う、大規模校に通っているお子さんがそう言っていたと。

子どもたちからそういうの聞いた事なかったな〜〜と思って、その後【うちの子・うちの子の学校の司書さん・その学校の司書経験のある知人】の3者に聞き取り調査(というほど大げさなものではありませんが)を行いました。

 

①うちの子の証言

「そんなこと言われたことない」

「一年生でもなんでも借りてたよ」

 

②うちの子の学校の司書さん

「そういう指示はしたことないですね〜」

私「学校の司書さん業界での通例とかでもないですか?」

「うん、ないと思いますよ〜」

 

③その学校の司書経験のある知人

「あ〜それはね、絵本しか読ませないって話ではないよ〜」

私「!!!!!」

 

知人の話をまとめますと、こういうことのようです。

 

小学校に入学すると休み時間に自由に借りたりする前段階で授業の一環で「図書室の利用の仕方」をまず学ぶことになる。

その時に、1時限(40分かな)の枠の中で「説明を受ける・本を選ぶ・貸出カードを書いたりと借りる作業をする・片付けて教室に戻る」までやらないといけない。

 

大規模校となるとうちの子たちの小学校より図書室自体が広く、蔵書も多い。

その図書室内で1年生1クラス30人程度を「自由に選びなさ〜〜〜い」と野放しにするとどうなるか。

 

そこにいる大人は担任と司書の2人程度。

(副担任がいたり司書が複数いる学校だともうちょっと多いこともあるかも)

 

30人の中には、地域の図書館に行き慣れて好みが絞れている子もいれば、本など読んだこともない子もいる。経験値も生まれ持った特性も様々な30人が一斉に図書室内に放たれたら「借りる本を選ぶ」という作業だけでも40分の授業があっという間に終わってしまうような状況になってしまって、「借りる」までたどり着けない。

 

だから、現場にいる先生の判断で

「ここからここまでの棚の中から選んでね」

って、背の低い低学年用の本が並んだところから選ぶように促すようにしてたよ、そういうことなんじゃないかな、と友人。

 

なるほどなるほど。

子どもを通して保護者に伝わっていた

【1年生は絵本しか借りられない】

という決まりごとのようなものは、実は学校という現場の中での色々な背景由来の理由があった上での暫定的な処置だった、ということがわかります。

 

友人によると、担任次第だとは思うけど、借り方のレクチャーがある程度進んでみんなスムーズに借りられるようになったら、その子の程度に合わせて選べる本の幅を広げられるようになったりするんじゃないかな〜とのこと。(「担任次第」というのがポイントではありますが、本題ではないので今日はスルーしときます)

 

似たようなお話は、うちの子たちの間でも良くあるのです。

 

例えば、娘が「シャープペンシルが禁止されてる、お兄ちゃんが5年の時は良かったのに」と言ってきた。確かにそうだなぁと思って担任に事情を聞いてみると、一部落ち着かない子たちがいてシャーペンを解禁すると授業中カチカチ言わせ続けるのでいまは全面的にダメと伝えてます、とのお返事。(これについても色々と異論が出したくなるところではありますが、本題ではないので今日はスルーします)

一見、理不尽なことのようにも見えますが、先生には先生なりの理由があってそうしてるのだなぁというのがお話を掘り下げて聞くとわかります。

 

小学校入学の時に、コップの袋や体操服の袋の紐の長さを細かく指定されたプリントを渡され「手作りしないといけないってことか!」と思わず手作り強要への拒否反応が出そうでしたが先生に詳細を尋ねると

「机の横のフックや体操服かけの高さから、床につかないような長さでお願いしています。掃除の時に引きずって危なかったり、床について不衛生だったりするので」

とここでも現場を知らないとわからない納得の理由が。

 

 

学校や園にに通わせていると子供が言ってきたことに対して大人の感覚として「え、それは先生がおかしなこと言ってるよね?」って思えることはたくさんあって、でもそれぞれを掘り下げて聞き取ってみると「へーなるほどな」ってなることは本当によくある。

 

Twitterでもいろんな「学校のこれ、おかしくない?」が流れてくるんだけど、それをみるたびにこんなエピソードを思い出しては「向こうには向こうの事情もあるかもだなぁ」と思ったりしています。

 

そしてお互いに

「もうちょっと説明したり」

「もうちょっと聞き取ったり」

の余裕があったらすれ違いがちょっと減ったりするのかな〜と思ったりするのです。

 

学校の先生が説明のプリントに

「机の移動の際に安全な長さです」

と書き添えてもらってたら印象は多分随分違う。

 

図書だよりに

「1年生は借りる練習のために選ぶ本をいまは少なめに絞っています」

って説明があったらまた多分ちょっと違うかな(読む読まないはあるだろうけど)

 

んで保護者の側も黙って憤ったり、いきなりクレームを入れるんじゃなくて

「そういう話を小耳に挟んだけど先生なんか事情あるの?」

って聞くステップがあるとなるほどねって話せたりする。

 

まぁ、お互いに余裕と会話ができるだけの人間関係がないと無理じゃない、とかそういう話ではあるんだけども。

タイガー水筒直飲みステンレススポーツボトルのリカバリー能力の高さについて

さっき、フォロワーさんから

「毎年紹介してる水筒、教えてください!」

ってリプレイが届きました。

 

探してて切実に困ってる!というお話のよう。

サクッとAmazonで検索、リンクを貼ってお返事いたしました。

 

ふふふっとおかしかったのは、フォロワーさんから「毎年紹介してる」と認識されていたこと。

うん、多分この方の認識の通り、私は同じ水筒を何度も何度もtwitterで紹介し続けてます。

 

なぜこんなに推しているかといえば、これまで自分が欲しかった水筒の機能をほぼカバーしてくれている商品だから。園児の頃からいくつも買ってきたけど、どれも微妙で納得がいかず。やっとたどり着いたこの水筒は定期的なリニューアルを繰り返しているけれどどの段階でも使用感やメリットが欠けない。タイガーの底力を感じます。

 

何度も紹介している水筒はこれです。

 

Twitterでも何度も書いていますが、この水筒の良いところを改めて。

 

①手を中に突っ込んで洗える

②カバーの底が丈夫で子供が引きずっても破損しない

③保冷力が優れている

④パーツが簡素で洗いやすい

⑤カバーを洗濯機で洗える

⑥ボトルの内側に特殊加工されていて汚れが落ちやすい

⑦容量やデザイン違い、発売時期違いの商品もパーツの互換性がある

⑧全てのパーツを公式パーツショップで購入できる

 

www.tiger.jp公式の製品情報ページも貼っときます。

 

この商品の優秀なところはその使用感だけではないんですね。

今回の本題はそこです。

 

ただ使用するだけのメリット以外の良さ、それがリカバリー能力」です。

この、商品のリカバリー能力、最近私が買い物をするときに意識するようになったことです。

 

このブログでも何度か触れてきましたが、私自身注意欠損の傾向がありますし、子どもの中には発達障害の診断が下りている子もいます。

 

そんな我が家は、水筒に関して

 

①パーツをなくす、壊す

②出し忘れ、置き忘れにより洗うまで長時間放置される

 

という、大きく2つの問題が起こりやすい環境にあります。

(さっきも車の後部座席の下で、おそらく先週末から乗せたままの水筒をひとつ発見しました…)

 

そんな我が家にとって、破損したパーツがどれもオンラインで購入できること、本体やカバーを洗浄しやすいことは大きすぎるほど大きなメリットです。

 

失敗が起こってもそれをリカバリーして元通り使い続けることができるから。

 

洗った時にうっかりゴムパーツをなくしてもオンラインショップですぐ買えるし、互換性が高いので複数ある同じ水筒のパーツを流用もできます。

カバーを汚してもお風呂場でゴシゴシこすってネットに入れて洗濯機に、翌朝には乾いて学校に持っていけます。

車内に置き忘れたりカバンの中で数日経ってしまっても、気づいてから洗うのもすごく楽で、汚れが落ちずに困ったことは今のところありません。(公式サイトにはスポーツドリンクを入れても大丈夫と書かれていますが、スポーツドリンクを入れたまま長期間放置というのは今のところやったことがないので影響はわからないです…)

 

タイガーのこの水筒は、使用の性能が優れていることはもちろんですが、このリカバリーに対する能力がものすごく高いと感じています。この水筒を買うようになってから、それまで水筒の使用に感じていたストレスがほぼゼロになりました。

 

ADHD傾向のある族にとって、失敗したらもう取り返しがつかない、という状況はものすごく辛いことです。

綱渡りの上を歩いているのと同じだし、リスが現れたら綱の上にいることすら忘れてそっちに気を取られて、奈落の底に落ちてしまう。

 

だから、食器を選ぶときも後で同じものが買いやすいものを選びます。

うっかり割ってしまっても同じものを買えばその失敗をすぐに補えるから。

 

こうやって暮らしていたら、買い物をするとき、その商品のリカバリー能力について考える癖がついてきました。

 

もし壊したら、無くしたら、同じものがすぐに手に入るかどうか。

同じものが手に入らなくても、なんらかの方法で穴埋めが即時可能な商品かどうか。

 

注意欠損の傾向がない人にとっては「壊さない・無くさない」が最初だろうと思われるかもしれません。でも、それができないハンディなんですごめんなさい、って思えるようになったのはごく最近のことです。

 

傾向のある我が子にも、もちろん前提として「大事に使うこと、無くさないこと」は伝えますが、どうあがいても頑張ってもやっぱり壊すし無くす。その度に叱られて自尊心が削れていってしまうリスクはとても大きいです。

 

壊したって無くしたって、リカバリーできればそれで御の字。

そんな生き方を母の背中から学んでくれろ息子たちよ、と思うのです。

 

 

 

 

もやし餃子と整理収納から考えた、自分のためのレシピを作るということ

相変わらず定期的に更新できてません、多分今年もこんな風にやってくと思いますがぼちぼちお付き合いください。

 

餃子を作るめんどくささとの戦い

餃子は私の好物です。

市販されたものもそれなりに美味しいのだけれど、どうしても自分が好む味に出会えない。(もしくはあってもとても高いので日常的に食べられない)

自作すると自分の好む味にできるのだけれど、そこには大きなハードルがあります。

 

前にこのブログでも書いたことがあったけれど、調理作業の中の特定の作業がとてもめんどくさいんですね。

餃子だと、あの葉物野菜を細かく刻んで塩で揉んで時間をおいて絞って、という作業が死ぬほどめんどくさい。

やり始めたらそれなりにやるんですが、まぁめんどくさい。

器用ではないので刻んだキャベツがボウルの外にあちこち出てる。

それを片付けるのもめんどくさい。

 

そのめんどくささを考えると、餃子が食べたくてもつい諦めてしまってたんですね。

 

もやし餃子、という啓示

きっかけは我が家の節制だったと思います。

4人の子供といつ食べ盛りが収まるのかわからない体格のいいオット、我が家のエンゲル係数はどんどん上がる一方です。

これはいけないと、食費を絞る方向へシフトしているのが現状です。

その中で、必然的に家計に優しいもやしの出番が増え、冷蔵庫に買い置きのもやしが常にある状態になりました。

 

餃子が食べたい、でもめんどくさい。

確か、何かを見たような気がするんです、テレビか何かで食材の代用としてもやしを使っているレシピをみて、これだ!と思ったんですね。

餃子、もやしで作れるんじゃね?

 

Twitterでも報告しましたが、できました。

レシピをざっくり紹介すると…

①もやしを袋ごと生のままバキバキに折る

②豚ミンチと混ぜる

③味をつける

④包む

⑤焼く

以上です。

 

ものすごく手間を省けた上、意外にもとても美味しくできました。

家族にも好評で我が家ではそれ以降、餃子といえばもやし餃子、が定着しています。

 

もやし餃子ともやしハンバーグ

もやし餃子に続いて、先日もやしハンバーグを作りました。

ハンバーグも餃子と同じく、玉ねぎのみじん切りとそれを炒める作業が死ぬほどめんどくさいのでなんとかそれを省略できないか、という試行錯誤の末に思いつきました。

 

この2つのメニューのレシピをブログに、というリクエストをいただいたので後日整理してアップしようかなぁとは思っています。ただ、後から検索してみたらどちらのメニューも料理研究家の方のものや某レシピ投稿サイトのものもいろいろ出てくるので「私の完全オリジナル」というわけではないと思います。似たようなレシピはあちこちに転がってます、多分。

 

もやし餃子は、万人向け手抜き料理なのか

ツイートした私の手抜き料理に関して、喜んでくれる方がいくらかいらっしゃいました。同じようにみじん切りが苦手だとかハードルが高くて敬遠してたという方もおられました。

ちょっと、役に立てたみたいで嬉しかったので、調子に乗ってレシピを増やそうか、と思ったんですが、はてちょっと待て、と考えたんですね。

「手抜き料理」とか「簡単料理」という種類の、手間を省くことを目的にしたレシピはたくさん世に出てます。それこそ某レシピ投稿サイトには山のように。

 

でも、私が考えたもやし餃子は、そういう「万人に向けた手抜き料理」として成り立つのか、と考えた時、猛烈な違和感があったんですね。

 

違う、違うぞ。

 

「餃子を作る上で私が嫌だったハードルを超えるための試行錯誤」だったからこそ意味がある。

 

そう思ったんです。

 

万人向けの手抜き法ではなく、私のための自分を楽にする方法、それが餃子にもやしを使うことだったわけです。

 

あ、似てる。

そうかそうか、そうだったのか、と思っていたときに、ピコーン、と繋がりました。

整理収納を考えるのと同じだなぁって。

 

もやし餃子と、整理収納

このブログでも書いたことがあるような気がするのですが、家の中の整理整頓を考える時に雑誌に書いてある方法をそのまま試してもうまくいかないことが結構あります。

 

これ、一人ひとりにそれぞれ行動の癖があるからなんですよね。

雑誌通りの工夫をしていても、自分の行動の癖とそのしまい方が合ってなかったらしっくりこずにやっぱり家は散らかってしまう。

鍵のしまい方ひとつとっても、決めた置き場所と家に帰ってつい置いてしまう場所にズレがあったらうまくいきません。無理に合わせるとストレスがかかってしまったりも。

 

だから、収納の雛形ありき、ではなくて、行動のスタイルをまず見つめ直して「どこにおくとスムーズか」を考え、試し、それぞれのものの置き場所を決めていく。

 

この方法を取り始めてから、我が家で物が無くなることが格段に減りました。

 

もやし餃子もそれと同じだったんですね。

 

ただ単にコストカットや手軽さが目的で考え出されたわけではなく

「私がとても苦手で取り組むのが難しかったハードルを下げる」

という、私のためのオーダーメイドみたいなレシピだったから、私にとって特別なものに感じられていたんだろうと思います。

 

おわりに

整理収納をオーダーメイドに考えるプロがいるように、生きる上でのこのめんどくささをどうしよう、っていうのを考えるのも面白いなぁ、と改めて感じています。

どうやら私はそういうのを考えるのは割と得意な方のようです。

自分のハードルを考え考えどこを工夫すれば楽になるかを考えるのは苦しくもあり、でも楽しくもある。

 

こんな風に、誰かのハードルを一緒に考えていくようなお手伝いをするのも悪くないかもなぁ…と思ったりしています。

「この料理のここが猛烈にめんどくさくて手が出せない」というお悩みがある方がいらしたら、よかったら一緒に考えてみませんか。 

スポンサードリンク