スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

遅刻しそうな次男と、私の抱える課題についての備忘録

今朝の次男くん

今朝、こんなツイートをいたしました。

 

 

私をフォローしていらっしゃる方はご存知かもしれませんが、我が家にポケモン(ソード)が導入されたのは一昨日のこと。

ポケモンは発売されるたびどっちも買うのが定番だった我が家でしたが、末っ子ももうDSやってないし、今回の発売は関係ないかな〜〜と思っていたら甘かった。

受験生のはずの長男が「ねえ…」と声をかけてきたときには後ろにキラキラした目の小・中学生がゾロゾロと待ち構えていました。

 

まぁそんなこんなで我が家のSwitchにダウンロードされた新しいポケモン、今のところきょうだいでそれなりに譲り合いながらそれぞれに楽しんでいるようです。

 

で、今朝です。

 

次男の寝起き問題は以前から我が家での課題でした。

 

が、今朝はスイスイと起きてきた(はずだった)次男。

 

子どもたちがそれぞれに朝の準備をバタバタとしている中で悠然とSwitchの前に座る次男。

 

Oh Boy? どうするつもりだい?

 

ええ、心の中にビバリーヒルズ的な何かを飼ってないととても平常心では対応できないんですよ。

 

だってもう7時を過ぎているのだもの。

次男がいつも出かけるのは7時半くらい、今は7時15分くらい。

そして彼はまだパジャマ。朝ごはんもまだ。

 

で、Switchの前に座って起動しようとしている次男。

 

さて、どうしよう

若干パニクりましたが、ここで注意をしたところで思春期真っ盛りの彼にとっては耳障りなだけ、キレられるだけ。

 

ならば黙ろうではないか。

そう思って心を落ち着けるべく、スマホを手にTwitterの画面を開きました。


で、冒頭のツイートをしたのでした。

 

ゲームをやめる気配のない次男。

このままでは遅刻します。

朝ごはんを食べる時間も取れそうにない。

身だしなみを整える時間もおそらくは取れないし、慌てて出かけることで忘れ物もするだろうと思う。

遅刻しそうになって慌てて出かければ階段から落ちるかもしれないし、気が急いたまま行けばイライラして級友とのトラブルにつながるかもしれない。

 

思いつくトラブルと防いで来た私

想定されるトラブルはいくつもあります。

そのどれもが、私が今ここでゲームをやめさせて朝の準備に取り掛かれば防げるだろうものです。

 

注意欠損や遂行機能の弱さがある彼に対して、私は小さい頃からそうしてきたのも事実です。

そうしなければ彼の生活はままならなかったから。

そうしなければ彼は家の外での活動に参加できなかったから。

 

でも、もうひとつ私が忘れてはいけない理由があります。

 

そうしなければ私の親としてのあり方が問われてしまうから。

ちゃんとしてない親だと言われてしまうから。

あそこの家はと陰口を叩かれてしまうから。

あそこの子だからと子供が不利益を被るかもしれないから。

 

こうやって言葉にすると「そんなことに囚われていた情けない親だ」と思われるかもしれません。自分のことをそうやって責めてしまうかもしれません。

 

でもね、私はそうは思わないです。

 

だって、そうしないとやってこれなかったんだもの。

次男にも私にも他の子どもたちにも必要なことだったもの。

 

学校も社会もシビアです。

親がちゃんとしてないとみなしたら途端に対応が悪くなる先生も知ってます。

次男がここまでいろんな方のサポートを受けてこられた要因の中には「お家の方がしっかりしてるから」という理由があるのも事実だと思っています。(はっきりそう言われたことがあります)

 

でも、だからそれを、どんどんやっていい、いつまでもやっていい、というものでもないんだろうな、と思うのです。

 

思い出した、ドクターストップ

次男が5年生くらいの頃だったと思います。

お世話になっている児童精神科の先生に、私が次男の宿題に介入するのを止められたことがあります。

 

当時の次男は【家で宿題に取り掛かる】というのがとても難しい状態でした。

取り掛かればそれなりに終わらせることができるものの、スタートするということがとにかくできない。

優しく諭したり、勉強部屋の工夫をしたり、ご褒美を用意したり、内容を検討したり、こちらとしても打てる手をすべて出し尽くしている状態。

それでも彼は、宿題という単語が出るなり癇癪を起こしてしまう状態に至ってしまいました。

 

それを医師に相談した時に出たのが、ドクターストップ。

宿題をやめるというのではなく「宿題に関してお母さんの介入禁止」というドクターストップでした。

 

医師は当時多くは語りませんでしたが、私が次男の課題に介入しすぎていることに気づいていたんだろうと思います。

 

そんなこと言われても、と躊躇する私に先生がこう言いました。

「お母さん、高校生になっても宿題の面倒みてあげるの?そうしたいの?」

そんなの嫌です、という私に、でしょう、と笑う医師。

「じゃあ、やってあげたらダメよ、宿題は彼と担任の先生との間の契約であって、お母さんの問題ではないのだから」

 

目から、ウロコと涙となんかいろんなものがぼろぼろ落ちたのを覚えています。

 

介入問題と、転機で見えて来た「親としての自責」

とは言っても彼はまだ小学生で、担任の先生は「宿題はおうちの方が見てあげてください」の一点張り。板挟みの状態が2年続きました。

その間も私は「ドクターストップがかかっているので私はできません」を貫きつつ、通級指導の先生に協力してもらって宿題が辛いときの対応の仕方の練習などをしてもらってきました。

(具体的に書くと長くなりますが、例えば期限に間に合いそうになかったら延長の申し出を自分でする、量を減らして欲しければその交渉を自分でする、など、自分の課題としてリカバリー方法を学び訓練していくような感じです。)

 

この宿題問題で転機だと感じているのは、中学の入学です。

ドクターストップの件は学校にも伝えましたが、基本的に色々な問題は「親の責任」ではなく「次男の課題」と捉えて対応をしてくれるようになりました。

 

とても、気が楽になったと同時に、これまで私が周りから「親の責任」という圧を受け、それをとても大きく感じていたのだということに気づきました。

 

無関心に見える夫との喧嘩の中で

「次男のことをみんな私のせいだって言う!みんな私のせいにする!」

と泣いた夜もありました。

次男の周りでトラブルが起こるたびに自分が責められているような気がしていたのだと思います。実際に責め立てられたこともありましたし、教員からお母さんがもっと頑張ってと言われたこともありました…。

その連続の中で、私はきっと次男を取り巻くトラブルを「私がなんとかしないと」とずっと思って行動して来たんだろうと思うのです。

 

特性の強い子だからこその難しさと私の不安

慌ただしくすぎる日常の中で、私のやってきたことが正解だったかはわかりません。

医師からストップをかけられるくらいだから、多分間違った対応も山のようにあったんだろうと思います。いや、ありました、ありましたよ、ありますよ、多分すごくたくさん。

もっといい親だったらと悔やまれるのだけれど、そうやって足踏みしててもその間にも子供たちの時間はどんどん流れていきます。

 

これが、特性の強くない子だったら、ゆっくりでない子だったら、多分また感じ方は大きく違うんだろうと思います。

 

しっかり者の長男や娘には、次男に感じるような不安はありません。

失敗しても大丈夫だいってこい!と背中を押せる自信があります。

宿題に関しても彼らにやれと迫ったこともないし、先回りして失敗を防ごうという気持ちもそこまで強くはありません。

 

でも、次男に対しては途端にそれがとても難しいことになるのです。

頭ではわかっていても、感情がついてこない。

とても心配でとても不安で、彼が直面するだろう失敗をなんとか防いでやりたくなるのです。

 

なんなんでしょうね、この感じ。

 

私の中のトラウマがそうさせるのかもしれないし、生い立ちの問題かもしれないし、なんだか本当によくわからないけど、今は掘り下げるのはやめとこうと思います。

 

なんだかわかんないけどそこにある、私の不安。

 

そう、私の不安。

次男の問題ではなくて、私が不安でたまらないのです。

 

そのことに気づいてからは、少し距離をおいて物事を考えられるようになった気がします。

ブレブレになってるなって思うときは話を聞いてくれる友達にぐちぐち吐き出します。

夫や友人に話を聞いてもらったり、Twitterやブログで整理したり、みんなによしよししてもらったりして、またがんばってる感じ。

 

そして、今朝の次男と私。

 

こうやって私が自分の不安に負けないようにTwitterを使って心を遠くに飛ばしている中、彼はのうのうとポケモン、やってました。

 

そして

 

Twitterでは書かなかったけど、途中「7時21分」とだけ棒読みで声に出す時報の役を2度ほどやりました。

 

それ以外何も言わず、働きかけることもなく、ただスルーしていたら彼は自分でゲームをやめ、モタモタと着替え、そこにおいてあったご飯をノロノロと食べ、ちょっと頑張れば遅刻せずに学校にたどり着けるくらいの時間にヨロヨロと(でも機嫌よく)家を出て行きました。

 

これが、今日の彼にとっての正解だったんだ、と思います。

 

次男の課題、私の課題

朝ごはんも適当にしか食べていないので、多分お昼を待たずにお腹がすいただろうと思います。

準備の時間が取れてなかったので忘れ物もあると思います。

多分パジャマの上に学ランを無理やり着て行ったので、体育があれば笑われているかもしれないし、何かはみ出て先生に注意されてるかもしれません。

ハンカチとティッシュも多分持ってません。

寝癖も直さないままだったと思います。

 

お腹をすかせて授業中だらしなくしているかもしれません。

忘れ物があって先生に叱られたかもしれません。

身だしなみを整えないまま行ったので女子に不潔だと嫌われるかもしれないし、いつもいちゃもんをつけてくるらしい男子にからかわれるかもしれません。

 

私にはそこまで見えてしまうので、じゃあそうならないように次男を守ってあげたいとつい思います。

次男にはそこまで見えてないので見えている私がなんとかしてあげないとと言う気持ちも湧きます。

 

でも。

 

想定されるのは次男の課題であって私の解決する課題ではないこと。

それを私の課題としないでいるというのが、私の課題。

 

おわりに

とりあえず次男に関しては、もう手を離していい時期が来ているのかもしれない、と思うのです。

本当はもっと早くても良かったのかもしれない。

でも私の心の準備ができるのが少し時間がかかってしまいました。

 

多分、特性のある子ほど、心配なところが多い子ほど、こうやって手を離すのは難しいんだろうと思います。

今ここでこう書いている私も、また要らぬ手を次男に出そうとしてしまうかもしれない。というか多分やります。やってしまうと思う。

 

何歳で子どもの手を離していいのか、私にもわかりません。

手を離すとは言っても見守りやお世話を全部やめるわけにもいきません。

でも次男は少なくとも、遅刻しないように学校に行くだけの力はもう身につけている。そこを私は見誤らないようにしなくてはならないのだと思います。

 

まだまだ惑い続けるだろうけど、Twitterでぼちぼち吐き出しながら、言葉にしながら、他の仲間たちに聞いてもらったり褒めてもらったり励ましあったりしながら。

少しずつ少しずつ、ゆっくりゆっくり、彼らの育っていっているだろう力を信じて離れていこう、と思った朝の備忘録でした。

「もっと出来るはず」と夫の能力を過剰に見積もってないですか、って話。

今朝は珍しく私以外の家族が私が家を出る前に出かけていきました。

いつもは誰かしら残ってて一緒にバタバタ出かけたり、夜勤明けの夫と入れ替わりだったりするんだけど。

 

で、久しぶりに手にした家でのひとり時間、バタバタとキッチンから居間に掃除機かけてあちこち片付けて、ちょっと冷めたコーヒー飲みながらキミちゃんの初恋の終わりを見届けじんわりしてたとこらへんで並行してのぞいてたツイッターで流れてきたツイートに目が止まりました。

 

 

なるほど。

とても的確な指摘だなぁと朝から唸りました。

 

私自身、とても覚えがあるのです。

 

子供たち4人の相手、学校からの連絡、明日の準備…

キャパ超えてあたふたしてるところに帰宅して悠々と座るオットから「そんなにイライラするなよ」と言われた時のあのなんとも言えない感情。

 

じゃあ!

じゃああなたがやってよ、宿題の丸つけも!

学校からの連絡を受けるのも!

忘れ物しないように準備するの手伝うのも!

晩ごはんの買い物も!

ご飯食べさせるのも!

ハミガキも!

薬飲んだかの確認も!

 

「俺は仕事してきたから」ってのうのうとそこに座ってんなよ!!

 

ってキャパ超えてキーキーなってる上に、我関せずで座ってる様子にまず腹が立ち、その上こちらのやり方に上から物申してくる姿勢にさらに腹が立ち。

 

あぁあ…情けない。

 

そんなケンカ、何度やったかわかりません。

 

このキーキーなるやつの原因は、キャパオーバーなんですよね。

私が私の許容量を超えたタスクを抱えてしまって手に負えなくなってる。

渦中にいるときはそんなこととても考えられないんだけど、落ち着いて友達に愚痴ったりしてて、あー抱えすぎだな〜と反省する。

 

家事育児で大変で、旦那さんが思うように動いてくれないっていう愚痴は私がTwitterを始めるずっと前から今までずっと、ネット上に何度も何度も流れてくる。

 

苛立つよね、いっぱいいっぱいになってるときに「稼いできてるから」「そっちは俺の担当じゃないから」って顔してそこに悠々といられると腹たつよね。

 

そういう苛立ちとか、キャパ超えをやらかしてしまった自分への反省とか、いろんなものをぐるぐるぐるぐる自分の中で整理しててある日思ったんですよね。

 

私、そんなスペック高くなくね?

 

って。

 

あれもこれも自分でできるできると思い込んで、抱え込んで、やろうとしてない?って。

 

育てられるつもりで4人産んで、抱えられるつもりで家事育児背負って、やれると思って仕事して、でもいまの私、どれも抱えきれてない。

キャパオーバーでキーキー怒ってる。

 

私の荷物が多すぎるんじゃなくて、もしかして私、そこまで能力高いんじゃなくないか。

 

「あー買いかぶってたなぁ、自分のこと」

 

もっと持てると思ってた。もっとできると思ってた。

でも、なんだ私、この程度なんじゃん。

 

そう思った時に肩の力が抜けたような気がしました。

部屋散らかってても、なんだ私この程度だしいいじゃんて。

ご飯が適当でも、私には無理だもんしょうがないじゃん、って。

 

そんな風に私、自分を甘やかしてたんですね。

で、今日、最初に紹介したツイート見てあれこれ考えてる時思ったんです。

 

「もしかしたら、夫のことも買いかぶってきたんじゃないだろうか」

 

仕事して帰ってきてもこれくらいできるでしょ?

私が大変なんだからこれくらいやってくれて当然でしょ?

なんでやってくれないの?

 

これまで感じてきたいろんなこと。

それ全部「夫ならできる」と思い込んでたなぁって。

夫の「出来る範囲」を過剰に見積もってたんだなぁって。

 

女性誌に載ってる午前3時に起きて完璧な家事をやろうとするスーパーワーママの記事を見て「ばっかじゃん、こんなの無理に決まってんじゃん」って思ってた。

 

でも私どっかで、自分は無理だけど夫はもっとできると思ってなかったかなぁ。

それ、無自覚に夫に押し付けてなかったかなぁって。

私がスーパーワーママじゃないみたいに、うちの夫もスーパーワーパパじゃない。

私と同じ、そこらへんにいるただの人なんだよね。

なのに、夫に対して「もっとできるでしょ、もっとできるでしょ」って思ってたなぁって。

 

最初に紹介したツイートの、相談してきた同僚の人も多分そうなんだよね。

奥さんに対して「もっとできるはず」って多分思ってる。

あれもこれもやって、その上メンタルを平常に保って子供を諭せと言ってる。

でも奥さんは多分そんなキャパない。

 

無理じゃん。

 

旦那さんが求める「子供を冷静に諭す」を奥さんがやるためには、それを可能にするための容量を空けないといけない。何減らす?どれを誰に託す?

 

ネットにたくさん転がってる、パートナーに対する不満の声。

お互いに相手への要求が過度になってる結果のもの、多くないかなぁ。

 

怠けてる部分もあるかもしれないし、甘やかせばいいって話でもなくて。

ただ、スパルタ的に「できるはずできるはず」って叱咤され続けたらしんどいんじゃないかなぁって思う。自分がやられたら多分苦しい。

 

旦那さんに対して、奥さんに対して「もっとできるでしょ?」「なんでやらないの?」って苛立ってしまったとき、相手に過剰に求めすぎてないかな、無理なことやらそうとしてないかな、っていうのは立ち止まって考えてみてもいいのかもしれないなぁと思ったりします。


腹立つのはたぶん相手の荷物が自分より少なく見えるから。


それは相手の荷物が少ないんじゃなくて、自分の荷物が多すぎるのかもしれない。

 

不満って相手の能力やキャパを見誤って過剰に見積もってしまってるから出てしまうものでもあるのかもしれないなぁ。

「期待してるからだ」とも言えるんだけど。

 

自分に置き換えてみたら「できるはずなのになんでやらないの?」って怒られるより「無理ない範囲で」って思いやってもらった方が頑張りやすい気もする。

あ、これ子育てでも同じだなぁ…(反省)

 

「身の丈」って言葉はここ数日あんまりよくない感じでネット上に流れてきてる言葉だけど、タスクに関しては自分や家族の身の丈をしっかり見極めないとお互い苦しくなるんじゃないかな〜と自戒をこめて思っている次第です。

「手取り14万」のツイートを通して考えた、視点の違いによる噛み合わなさについて

急な寒さに子供たちと慌てて長袖を引っ張り出した朝です。おはようございます。

 

今朝は、昨日のツイートに寄せられたたくさんの反応から考えたことを書いておこうかな、と。

 

本題に入る前に、前置きをします。

私がこれから触れる幾つかの事象について、私はその内容について議論したいわけではありませんので、それに関してなにか反応をいただいても対応しません。

あくまでも、それら事象の周りで起こっていることについて、気づいたことを書こうとしています。

 

まず、昨日のツイートとその反応について

 

これ、別にホリエモンさんの話だけに言及したというわけではなくて、以前から手取りが低いのは努力不足だ、自己責任だ、という話がよく上がっているのを踏まえてのツイートでした。

まぁタイミング的に、堀江さんのツイートに反応したと受け取られても仕方ないだろうとは思いますし、そういうリプライはたくさん飛んできてました。

 

この後、私はこんな風に補足のツイートをしてました。

 

この話題に関して私が話題にしていたのは、個人の転職や給与アップの話ではなくて、フルタイムで勤務する必要のある(副業前提ではない)職業で成人が自立できるだけの給与が稼げない、という社会の問題でした。

 

私自身、これらの職についているわけではありません。

が、なぜか私がそうであるという前提で転職を勧めるリプライや、そういう職を選んだのが悪いという自己責任論、負け犬がほざくな等の暴言など、まぁいろんなものが飛んできました。

 

地方の問題もあるのだという意見も多くありましたが、それには同意します。

私の住んでいる地域でも、無理をしてでも遠くの隣県まで通ったほうが給与が高いと転職して遠距離通勤している人もいます。

地元のハローワークはどれも軒並み手取りにすると15万前後になるような求人ばかりたくさん出て、経営者は口を揃えて募集しても人が来ない、人手不足だと言っています。

 

内容についてもっと思うところはたくさんありますが、今回の本旨ではないので言及はこの程度にしましょう。

 

主張と反応について整理する

私は「社会の問題」を語りました。

いくつかのツイートの中で触れた、保育士や学芸員や図書館司書、教員などはたくさんの人が生活していく中でゼロになっては困る職種であるにも関わらず、賃金が低い傾向が続いていると感じます。

いただいたツイートの中では専門の資格を持っていても無能だから低賃金の仕事しかできないのだというものもありましたが、専門性が必要な職種の賃金が低い状態が続くリスクについては看過できません。

 

実際、学校図書館に司書が集まらず司書不在の公立学校も出ています。

これは、子どもの学力にダイレクトに影響が出る可能性が高く、私はとても危惧しています。

本旨ではないのでこれ以上は掘り下げませんが、同じような専門性の低下による長期的な影響が出る可能性もあります。

 

このような長期的な社会への影響を不安視した結果の、専門職が食えない状況への警鐘を鳴らしたいわけです。

 

しかし、私のツイートへの反応の多くは、「社会」ではなく「個人」の問題としての視点のものだったように思うのです。

 

「個」の話であれば至極真っ当

 

転職すればいい、もっと早い段階から稼げる職を見据えて進学就職すればいい。

 

個人の話としては、大変もっともなのです。

 

夫が同じように給与について苦しんでいたら、私は「食うに困るわけだし、転職したら?」と言うと思います。

息子が進路について悩んでいたら、内容だけでなくどういう職がどのくらいの給与かを検討するのを勧めるでしょうし、保育士になろうとしていたら「給料安いよ?大変だよ?」とクギを刺すでしょう。

 

個人の今の辛さをなんとかする、個人単位で生き延びるために選択をする、という視点に立てば、現状打開のために動くべきだ、転職すべきだ、稼げる職に就くべきだ、と言うのは至極真っ当な意見だと思うのです。

 

どちらも「真っ当」、だから噛み合わない

私は、「社会」の視点に立てば、長期的なリスクを考えると今の、特に専門職の賃金が低い状況はとても看過できません。それは、真っ当な意見だと自分では考えています。

 

そして、「個」の視点に立てば、なるべく稼ぎの良い職を選んでいくべきだという意見も至極真っ当だと思います。

 

どちらも、真っ当な意見だと思うのです。

どちらも、間違ってない。

でも、視点が違う。だから噛み合わないのだろうと思うのです。

 

似たような「視点の違い」

ネット上(とくにツイッター上)で、同じような噛み合わなさがたくさんあるなぁ、と思うのです。

 

例えば、夫の育児参加のことが話題になっているとき。

残業が多くて帰りが遅い夫の現状についての話題に関して

 

①今の家庭の中でどう動けばうまく対応して乗り切っていけるか

②残業が当たり前になってしまっている社会の問題をどう改善していくか

 

①は各家庭の話、「個」の視点ですが、②は社会問題の話ですね。

ミクロ視点とマクロ視点という言い方もできると思います。

この両方の視点がごちゃごちゃになった状態で議論が拮抗しているのを見ることが良くあります。

 

私自身もここを整理できずに発言していた過去があるなぁと自覚があります。

ツイッターでいろんな方とやりとりし、教えてもらう中でだんだん切り分けられるようになってきたと思います。

 

家庭の中の話だけではありません。

ハンディのある子の支援を必要とする、という話をするときにも

①今の我が子の状況と学校環境の中でどこで折り合いをつけて妥当な線を探るか、という個人の視点での話と、

②理想的な特別支援とはどんなものか、特別支援が十分に受けられる環境が整備されるにはどうしていくべきか、という大きな視点の話と。

 

ここを上手に切り分けでいないと、理想に取り憑かれて足元を見失ってしまったり、逆に個人のメリットを基準に全体に無理に当てはめようとして歪みが生まれたりしてしまうのではないか、と思うのです。

 

おわりに

最初に紹介したツイートへの反応は今も止まらないので、いつまで続くのかな〜と思いながらぼんやり眺めています。

同意の声や、代弁してくれてありがとうという声、反論の中にも参考になる意見もそれなりにあり、なるべく目を通しています。

ただ、中にはあからさまな暴言を寄せる方もいます。

ナイフの絵文字が付いている方もいらっしゃいました。殺意があるという意味でしょうか。

さすがに、暴言やそういう絵文字による脅しのようなものは匿名のツイートであっても一瞬怖さは覚えますね。

 

言葉遣いや引用RTの使い方などの相手への印象についても考えるきっかけになったツイートになっているのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

起きない息子に当てたライトの意外な効果

昨日に引き続き、今日も次男対策についてのお話です。

 

早起きだった次男

次男、生まれつき寝起きが悪かったわけではありません。

小さい頃は「むしろもっと寝ていてくれ」と願っていたほど、夜明けとともに起きるような早起きな子でした。

次男含め他の子も朝起こす必要がなく起き出す子達だったので、

「子供を起こしたことがない」

と言って周りに羨ましがられるほどでした。

 

起きられなくなった理由と私の都合

そんな次男の寝起きが悪くなってきたのは、中学に上がるかどうかくらいの頃から。

原因はわかっています。

夜更かしと、学校がめんどくさいこと。

早く寝るように促すことはできますが、学校でのことに関しては年齢が上がるごとに介入が難しくなっています。

宿題を溜めていたりするのも一つの理由にはなっているようですが、宿題のことには介入するなと以前から主治医に言われているので詳細は把握できません。

起立性調整障害の可能性も視野に入れてはいますが、彼の場合はどうもそうではないだろうというのが主治医の見解です。

 

起きない彼に何度も呼びかけて起こそうとするのですが、なかなか起きない。

最初は優しい声をかけますが、私もだんだん腹も立ってきますしなんせ小さな声ではびくともしない。

じゃあと大きな声を出すと、次男は叱られたと思って下手したらパニック状態になってしまう。

 

起きないと学校に遅刻しかねないし、そうなったらなったで「遅刻する!」とパニクるのは目に見えてる。

行かないなら行かないで学校とやりとりしなくてはならない。

後に控える山積みの面倒、そして何より、起きるまで彼の横で声をかけ続けねばならない(つまり他の家事も仕事に行くための準備も他の子の世話も何もできない)というこの状況…

 

どうすればいいの!と次男の部屋に向かって思わず大きな声を出すほど、私はイライラしてました。

 

現段階で私にできること

その日は私の大きな声でパニクった次男をなんとかなだめて準備させて、とりあえず遅刻だろうなって時間に送り出しました。

 

なんとかしなきゃいけないけどガミガミ言ってもどうにもならないので、現段階で自分に何ができるのかを整理します。

  1. 夜更かしと朝起きられない関連について自覚を促すべく話すこと
  2. 宿題のことなど起きられない心理的な原因があるなら早めに対策を取るよう促すこと(担任や特別支援コーディネーター、学習支援の先生との相談は可能)
  3. 起きてこない場合どういう対応をして欲しいか本人と相談すること

とりあえずこの辺りが浮かびました。

 

3に関して帰宅した本人に希望を聞くと

「声だけだと起きられないから、バシバシ叩くとかして欲しい」

と言われ、そういうのはやだなぁ…と答えたまま、どうするのが良いかが見出せずにいました。

 

対策の見つからないまま、翌日

あれだけ夜更かしをするなと話をしたのにやっぱり前夜の次男はダラダラと動画を見たりしている物音がしていました。

このままだと同じことを繰り返すよな〜と思いながらベッドに向かった時、ふと隣の学習机の上にあったデスクライトが目に入りました。

 

「徐々に光を当てていくと目が覚めやすくなる」

以前何かで読んだのを思い出しました。

(フォロワーさんが教えてくれましたが、サーカディアンリズムというんですね。)

 

効果あるんじゃね?と、ベッドで眠る次男の顔に向けて煌々と光るライトを当ててみました。

全然「徐々」ではなくものすごくダイレクトだったのですが、そのくらいやっても構わねえだろうという気持ちの表れですね…

 

起きてきた、次男

ライトをつけて20分ほど、ふらふらと次男が起きてきました。

怒ったり苛立ったりするでもなく機嫌よく。

 

「効いた!」

と腹の中でニヤニヤしながらコーヒー飲みました。

光当てるの、効果あるじゃん、やったー!ヒュー!

 

そしてなんと翌日も、彼はスーッと起きてきたのです。

 

そして3日目

2日間効果があったんだからと思った私がバカでした。

昨日おとといと同じ時間にライトをつけたのに、3日目の今朝、次男は起きてきませんでした。

 

もうここで起きないと遅刻確定ですよ、っていう時間になったところで、次男を軽く叩いて、一言「時間だよ、今起きればまだ間に合うよ」と声をかけました。

 

次男が動いたのを確認して、部屋を出たらゴソゴソと準備をしている物音が聞こえました。

 

彼の動く音を聞きながら、洗濯を干します。

ここ3日、私は彼を起こすためにガミガミ大きな声を出さずに済みました。

 

ちょっと待て、一番効果があったの、これなんじゃないか。

 

次男と私が得たもの

私はガミガミ言わずに済んだ。

次男は叱られなかった。

叱られず、パニクらず、なんとか起きて学校に遅刻せず行けた。

 

その成功体験を3日続けて彼はできた。

私が「ガミガミ叱る」以外の対応ができた。

 

いつもなら彼のそばに張り付いて起きるまでヤイヤイ言っていたのが、ライトをつけるという行為を一つしたことで「よし、離れよう」と距離を置くことができたような気がするのです。

 

やれることをやっている、だからほっておこう、という気持ちが自分の中に湧いたような気がします。

対策を一つ取ることで息子に対して過剰な干渉をせずに済んだのではないか、と思うのです。

 

おわりに

もちろん、ライトをつけても結局起きてこなければ声をかけねばならないし、声をかけてもすんなり起きなければだんだん声を荒らげねばならないのかもしれません。

週明けまた、そんな騒動になるかもしれない。

 

でも、少なくとも次男に対して

「この3日は私が大きな声を出すことなくすんなり起きられたね」

という、成功体験を一緒に喜ぶことはできる。

 

ライトを当てることが思わぬ効果を産んでくれたなぁと思いつつ、週明けが心配な金曜日です。

 

 

 

次男の【寝間着・部屋着・外出着】識別問題とその対策

気温が少しずつ低くなってきて、目をそらしてきた衣替えを本格的に考えなければならなくなってきました。

 

秋冬物を出すのを考えてる中で、ふと部屋着と寝巻きについてのツイートが目に入りました。

私が見たのは、おそらくはまだ子供が小さく働いてないママさんが、朝起きてから部屋着のままでいたら夫から「なんで着替えないの?」と不思議がられた話。

そのかたの部屋着というのはTシャツと短パンで、部屋の中ならそれでいいだろうという感覚だったとかそういう話でした。

 

この、部屋着や寝間着、外に着ていく服、という感覚で次男のとあるエピソードを思い出したので、書いておこうと思います。

 

我が家の衣服事情

4人の子持ちである我が家には、あちこちから「お下がりいらない?」という声がかかります。

大変ありがたいことなので、大喜びでいただいています。

が、その中には「外出するにはちょっと…」な傷み具合のものやデザイン的に微妙なものももちろん含まれています。

貧乏性の私はそれを思い切って捨てることができず。

部屋着や寝間着として着せればいいや、と思い、寝間着・パジャマの類をわざわざ買い足すことなく適当にやってきてました。

 

その結果、我が家では長らく、子供たちそれぞれの衣類は

①外出着相当の服

②寝間着にもなる部屋着

というざっくりしたわけ方で収納されており、雑な私の仕事ゆえ、それらが混ざっていることもよくありました。

それぞれが適当に部屋着的な服を着て寝て、翌朝外出着に着替えて出かける、という感じでした。

 

狂い始めた歯車とそれに気づかなかった私

思えば、次男が小学校に入って、私服登校が始まった頃から歯車は狂い始めていたと思います。

長男と娘は引き出しからそれなりの衣類を出して自分たちで着替え、それぞれそれなりの身なりを整えていたにも関わらず、おかしな組み合わせで出かけようとする次男。

 

まだ小さい三男のお世話に追われながらだったので私も根っこからどうこうするとか思いつくこともなく

「上にあるやつから手に取っちゃうんだな、次男にはまだ用意してやらないといけないんだ!」

と思って、前の晩に次の日学校に着ていく服を用意して机の上におく、という習慣が始まりました。

 

その習慣は、次男が小学校を卒業するまで続きます。

今思い返せばその間も、風呂上がりにスキニーデニムを履いていたりとそれなりの予兆はあったのですが、慌ただしく過ごす中でそんなエピソードも埋れてしまっていました。

 

毛玉だらけのトレーナーを着た次男と、WATER!の瞬間

次男が中学生になり、制服登校が始まりました。

私にとっては毎日の私服を用意しなくてよくなり、助かるな〜と思っていました。

 

家でも外でもTシャツと短パンでどうにかなっていた季節が過ぎ、少し肌寒くなってきた頃のことです。

友達と遊びに行く、と言った次男に目をやると、部屋着として引き出しに入れていた毛玉だらけの色あせたトレーナーを着ています。

「次男くんちょっと待って!!!」

と呼び止め、それは部屋着だよ、お外に着て行くのは恥ずかしいよ、と伝えると驚く次男。

 

「そんなこと言われても、どの服がどうなのか、わからないよ!」

 

次男のその訴えは、私にとってWATER!そのものでした。

 

どの服がどうなのか、という、とても難しい課題

私の感覚で「これは寝間着、これはちょっとそこまでなら、これはよそいき」みたいに適当に仕分けていた衣類。

そのざっくりとした曖昧なニュアンスは、次男にはとても難しいものだったんですね。

私はずっとそれに気づけなかった。

 

長男や娘は私の反応や周りのお友達が着ているものを見ながら学んでいたんだろうと思います。

今思えばちゃんと教えてやるということをせずに大変申し訳なかった…猛省です。

 

次男にとっては引き出しに入っている服はどれも同じように「着る物」でしかなく、それぞれの服の特徴やTPOに合わせるという概念も持ち合わせるのが難しかった。

 

次男と一緒に手持ちの服を並べて話してみましたが、やはり服のTPOを判断するのがとても難しいんだ、というのがわかりました。

 

今のところの、我が家の対策

この騒動の後、すぐに次男の引き出しを整理しました。

うっかり外に着て行くと恥ずかしい傷んだ服は、勿体無いけど全て処分。

代わりに、見た目で明らかにパジャマとわかる、前ボタンのスタンダードなパジャマを買い足しました。

 

 こういうやつね。

 

この、スタンダードなパジャマ、次男のサイズを探すのが難しかった!

イオンやベルメゾンユニクロなどあちこちを探しました。

 が、売られているのはどれもいわゆるルームウェアというタイプの、こういうの。

 

トレーナーやTシャツとパンツがセットになったそれは、私が見れば明らかに部屋着だとわかるようなものですが次男には判別できない。

あちこちを探し歩いて、やっと彼が着られるサイズの前ボタンで上下同じ柄物の、彼にもパジャマだとわかりやすいものがいくつか買えました。

 

彼の衣類は制服を除けば2種類だけ。

①パジャマ

②外出着

(たくさんあると混乱するので、各シーズン上下3セットくらいに絞っていて、どれを組み合わせてもおかしくないようなものを選んでいます)

 

①と②、それぞれをきっちり別の場所にしまうよう、対策をとっています。

近くに置くと混ざってしまうので…

 

学校から帰って外出せず部屋にいることもありますが、その時も部屋着という曖昧なものは用意せず、外出着を着るようにして、パジャマを着るのはお風呂に入ってから。

 

ここまで対策を取って以来、次男がおかしな格好をすることは無くなりました。

 

おわりに

制服を着る高校時代まではこの対策でどうにかなるだろうな〜とおもいますが、その先はどうなるのか、不安は残ります。

ただ、彼がどういうことを認識するのが苦手なのか、というのは少しずつ把握できるようになってきているのでその時はまたそれなりに、相談しながら一緒に考えていけばいいのかなぁと思ったりしています。

 

今度は、最近試してみて効果が出ている次男の朝対策について、経過を書いてみようかなと思っております。

主語を「私」に変えることと、その副次的な効果

お祭りのおこづかい

めっきり秋らしくなってきて、私の住んでいる地域でも秋のお祭りがちらほら。

お祭りの出店を楽しみにしている子どもたちはそれぞれにおこづかいを貯めていました。

それに加えて私や夫、祖父母からもお祭りだからとそれぞれに追加をもらっていたのですが、お金の使い方があまり上手ではない次男と三男は予想より使い過ぎてしまったらしく、案の定足りなくなって私やおじいちゃんたちに交渉を始めました。

 

「お祭りに行くのにおこづかいちょうだい」

という息子たちに、私は

「今月お母ちゃんの用意してた予算はもう余分がないから、お母ちゃんはあげられない」

と断りました。

息子たちは残念そうな顔をしつつも、仕方がないと諦めていました。

 

私を攻略できなかった息子たちは、おじいちゃんを狙います。

同じように打診した息子たちにおじいちゃんは

「次男くんは修学旅行も控えてるし、三男くんは運動会もあるし、あまり出歩いたりお金を使ったりしないほうがいいんじゃないか」

と提案。私の予想通り、次男と三男は納得がいかずそれぞれにブスブス文句を言っています。

 

私とおじいちゃんのNOの違い

同じようにお金がもらえなかったのに、なぜ私の話には納得し、おじいちゃんの話には納得できなかったのか。

 

答えは、主語。

「行動の主は誰なのか」という部分です。

 

私は「私は払えない」と自分を主語にしてNOをハッキリと伝えました。

おじいちゃんは「君はこうしたほうがいい」と、主語を息子たちにして遠回しな表現で諦めさせようと促しました。

 

この、遠回しな表現を使われたことで、息子たちはおじいちゃんのNOをハッキリ認識することができなかった、それが納得できない状況つながっていたのだろうと思います。

 

遠巻きなNOが腑に落ちないのは次男だけ?

発達障害のある次男は特に、大人がやんわりとたしなめるような表現を理解できない傾向にあります。

 

では発達障害ではない子ならすんなり理解できるのか、というと、実はそうでもないような気がしています。

 

次男以外の子たちも、おじいちゃんのような言い回しをされると「納得はいかないけどそれ以上言えないからとにかく諦める」という、腑に落ちない状態になっているのをよく見かけます。

「おじいちゃんはおこづかいくれないんだな」というのは理解できるし、それ以上食い下がると面倒なことになるのもわかるから、言わない。

 

発達障害の次男は空気を読んでとりあえず引き下がるということができないので、納得いかないといつまでも引きずってしまって、結果「聞き分けのない子」のように見えてしまう。

 

わかりづらいけれど、納得のいってない他の子達

でも他の子たちも、言えないから言わないだけでストレスをためる結果になってしまっているんですね。

 

主語を「私」に変えることの副次的な効果

「私は」行かない

「私は」やらない

「私は」こうして欲しいと思っている

 

主語を自分に変えることで、子供たちに自分のメッセージが伝えやすくなる。

子供たちに対する接し方のハックのようなものと思っていたのですが、意識し続ける中で意外なことが見えてきました。

 

子供に声かけをするとき、主語を相手や漠然とした曖昧な状態から「私」に限定する。

これ、やってみてハッとしたんです。

ただ言い回しを変えるだけではダメ、考え方そのものを変えなければ、主語を「私」にして発言することができないんです。

 

「私」を主にすると、同時に発言に対する自分の責任がぐんと増します。

ぼんやりした表現で適当なことが言えなくなってくるんですね。

 

おじいちゃんの発言を例にすると、

「おじいちゃんはあげない」

「そんなにお金は使わない方がいいと思う」

打診に対してとる自分の行動(今回は【おこづかいはあげない】)は変わらないのです。

 

でも、前者は自分の確固たる意志がそこにあるのに対して、後者だと自分の発言の中に相手に対する責任を負うような話が入ってないんですね。

悪者にならないようにぼんやりぼやかして逃げてるようにも見えます。

この、弱腰の逃げが、子どもに対しても説得力なく見えるんじゃないかなぁとも考えたりしています。

 

主語を「私」にしようと意識した結果…

指摘や注意の主語を「私」にしようと意識するようになってから、子どもに対するお小言の頻度がかなり減りました。

言おうとしたときに「そこまで言うようなことじゃなくない?」と踏みとどまることが増えたからです。

 

なんとなく世間一般の線引きの中でそれはダメじゃないかな〜とぼんやり思っていたけど、改めて自分の尺度で考えたらそこまで制限することじゃないんじゃないか、と思うようなことがとてもたくさんあったんですね。

 

お祭りのおこづかいのような話でも、お金の余裕がたとえある時でも

「〜くんはもうトータル○円使ってる。

 小3でそれ以上使うのはやりすぎだとお母ちゃんは思う。

 だからあげない。」

と、私を主語にした返答を話すと子どもなりに色々と考えた反応が返ってきます。

 

どんな屁理屈をこねてきても「私はこう思う」という筋はハッキリ主張している前提が共有できているので話がこじれることはあまりありません。

 

おわりに

もしうちに次男のような子がいなかったら、私はおじいちゃんのような曖昧な声かけをしがちだったかもしれないな、と思ったりします。

発達障害のある子との暮らしは本当に大変。

大変だから2兆くれとツイートしたくなるくらい大変なんだけど、でもこういう、ほかの子に対しても有益な接し方のヒントをくれたりすることが割と良くあって。

彼のおかげで培ってこられている私のスキルもだんだん増えているし、それは他の子たちにもいい影響を与えてくれてる。

大変なこと、しんどいことばっかじゃないよな〜と、たまには思ったりするのです。

質問箱へのお返事 〜ADHDのお子さんへのオススメの本について〜

少し前になりますが、質問箱へこんなご質問をいただきました。

 

f:id:suminotiger:20190918110723j:plain

(すいません、テキストの状態で抜き出すやり方がわかりませんでした)

 

ご質問いただいてから時間が空いてしまってごめんなさい。

バタバタしていたこともあるのですが、もう一つ事情がありまして。

 

この質問をいただいたのは連載させてもらっているゼクシィみんなの体験記の8月分の原稿を送った直後で、内容がちょっと被っているのでどうしたものかな〜と思っておりました。

 

その連載記事が今日アップされたので、折も良いかなと今日お返事をしたためることにした次第です。

 

その記事がこちら

zexybaby.zexy.net

この記事の中で私は、「本好きな子に育てる」ではなく「本が嫌いでない子になってもらえたら」という我が子への願いについて書いています。

 

お返事の大半はこの記事の中に入っているのではないかな、と思うので、よければご一読くださいませ。

 

さて、ここからはご質問の内容により特化したお返事を書こうと思います。

一般的なお話ではなく、質問者さんのお子さんのこと。

 

質問の中でお子さんについて「ADHD傾向のある小1」との情報をいただいています。

国語の音読もちょっと大変そうな様子なので、文字を読むという部分について若干しんどさのあるお子さんなんじゃないかな、と思いました。

音読はできているようなのでディスレクシア(読み書き字障害)と診断がおりるほどではないのかもしれませんね。

ただ、文字の読みづらさや、ADHD由来の落ち着かなさ、他のことに興味がそれやすく文字に集中できない…何が原因かはわかりませんが、年齢相応より少し文字を読むのが苦手なご様子。

でも私は専門家ではないので「なぜか」の部分にはクローズアップせず「とりあえず今、読むのが苦手なんだろうな」という前提でお話をさせてもらえたらと思います。

 

1年生の段階で読むことに苦手があれば、本を読もうという気持ちになりづらいのは自然なことなんじゃないかな、と思います。

お子さんにとっては、文字や文章はまだ十分な情報を得る手段になり得てない、と考えても良いのではないかな、と。

 

うちの次男もいろんな凸凹のある子です。

中2の今でも、小3の弟よりも遅れている部分もあるなぁと見てて感じるほど。

でも、そんな彼の発達が遅れている部分も、彼自身の1年前や3年、5年前と比べたら彼なりのペースで成長をし続けています。他の子に比べたらとてもゆっくりではありますが。

 

質問者さんのお子さんの文字や文章を読む能力も、きっととてもゆっくりゆっくり、伸びていくんじゃないかと思います。

同じ年齢のお子さんと比べるとちょっと悲しくなってしまうかもしれませんが、それでもきっと、彼なりのペースでゆっくり発達し続けていくはずです。

 

じゃあどう伸ばすか、となるとこれはもう言語療法とか専門家の領域に入っていくと思うので、私からはあくまでも親としてできることをご提案しますね。

 

大事なのは、ゆっくりな彼の発達を焦らず見守ることだろうと思います。

(と言っても焦りますよね、わかりますわかります)

 

①絵を見て楽しむ→

②読んでもらってお話を楽しむ→

③自分で読む

 

すごくざっくりですが、本を楽しむのも段階があると思うんですね。

お子さんが今どの辺にいるかな、っていうのを確認してみてください。

 

質問文の中からは本をお絵描きの見本にしているようなお話がありますよね。

 

では、お話の内容についてはどうでしょうか。

興味のある分野のことならお母さんが読むのを聞けますか?

もしそれができる段階にあるなら、積極的にその時間を持つのはどうかな、と思います。

 

一緒に図書館に行って、興味のある本を見つけて、それをお母さんが読む。

年齢相応ではなく、より小さい子を対象にしたところから選んで良いと思います。

いわゆる絵本として並んでいるもの、その中でも1ページあたりの文字が少なく、単語の間にスペースがあって読みやすいものが良いかなと思います。

 

それを、お母さんが読んだり、一緒に読んだりする。

 

まずはお母さんが読むことからでいいと思います。

親が楽しそうに読んでたら、もしかしたら一緒に読みたくなるかもしれません。

その雰囲気が感じられたら、1文ずつ交代で読んでみるのもいいと思います。

 

読みづらそうなときは今読んでいるところを文を指でなぞってあげたり、定規のようなものを文の下に当ててみたり、本人が読みやすくなるような手助けをしてあげるのも良いと思います。(この辺りに興味がおありの時は、ディスレクシアに対する支援について調べると参考になるアイデアがいろいろ出てくると思います)

 

無理に本人に読ませなくても、年齢を気にせず何歳でも読み聞かせをやっていいんじゃないかな、とも思います。

 

本の中に物語や情報があることを知ることで、お子さんにとって本が「絵の描かれたもの」から「読み物」へと少しずつ変わっていくのではないかな。

 

読み聞かせることも無理強いはせず、お子さんが読んで欲しいと思うときだけにしてもいいと思います。

 

鉄道や虫に興味があるということは、好きなものがちゃんとありますよね。

その好きなものについての情報が本に詰まっていると知ること、そこに書かれている文字でそれがわかる、自分で読んでみようと思う、そこに自発的に至るまで、ゆっくりゆっくり見守ってあげるのはどうかな、と思います。

 

ものすごく時間がかかると思います。

気が遠くなる話かもしれません。

 

でも、そうやってゆっくり見守ってあげればきっと、本は彼の人生を彩る一つの大事なパートナーになっていくんじゃないかと思います。

 

発達のゆっくりな子を育てるのは本当に気力のいることです。

ものすごく長いスパンで見守らないといけない。

焦る気持ち、はやる気持ちをぐっと抑えることの連続です。

 

周りの子たちの成長していくのを見ながら、泣きたくなる日もあるかもしれません。

通常級にいて、頑張ればある程度できることもあるグレーの子を育ててると、よりそれを強く感じるかもしれません。

 

でも、やっぱりいろんなしんどさがある子だから。

頑張ればできるってことは、頑張らないとできないってことでもあるから。

 

だから、彼のペースに沿いながらゆっくりゆっくり見守ってあげられたらきっとお母さんと楽しい本の時間を培っていけるんじゃないかと思います。

 

余談ですが、学校の図書の時間に本を選ぶのが難しいという件については担任の先生に相談するのも良いと思います。

担任や図書館司書の先生と一緒に選んでもらったり、選ぶのがしんどいときは借りるのをパスさせてもらってもいいんじゃないかな。

学校の図書を借りない分、図書館や本屋さんなどに足を運んで本人にも手に取れるような本と触れ合う機会を作っておくのも良いと思います。

 

あと、学校で借りた本を必ずしも読まないといけない、という概念を捨てる、というのもひとつの手です。

借りる練習をしてきた、くらいのやんわりした感じで読まずに返したっていいと思うんですね。持ち帰るのが重いなら、読めないので置いて帰ってもいいか、と交渉するのもありだと思います。それか、すごく薄い本を借りちゃうようなちょっとずるい逃げ道を見つけちゃってもいいかもしれない。

 

もう今年の夏休みは終わってしまったけど、長期休みに貸出のために図書室が開放されていることはありませんか?

もしあれば、その日に一緒に図書室に行って、この辺の本を借りたらどうかな、って借りやすそうな短くて薄い絵本をいくつか探しておくのもありかな、と思います。

 

こんなかんじでいかがでしょうか??

また追加のご質問があったらいつでもどうぞ〜〜。

 

 

余談ですが。

発達さんと暮らしていく中で、私が時々ハッとすることがあります。

つい、いろんなことを【年齢相応】に考えてしまいやすいこと。

 

発達がゆっくりな部分があることは頭ではわかっているのだけれど、見た目はそれなりに育っていたり、計算や受け答えなど年齢相応かときに同年齢の子よりも秀でている部分もあるがゆえに、ついいろんなことが年齢相応にできるような気持ちになっていたりするのです。

 

でも、そうやってグイグイ引っ張ろうとして先走って、ふと次男がついてこれていないことに気づくことがあるんですね。

 

あ、そうか、この子はここがすごく苦手だったんだ、無理なことだったんだ、まだゆっくりだったんだ。

 

ひとつひとつの分野ごとに、この子の発達は今どのくらいかな、どんな方法ならわかるかな取り組めるかなって考えながら対応しなきゃいけない。

それは時に辛い修行のようでもあり、時に楽しい宝探しのようでもあります。

 

今回は本を読むということに特化してお話をしましたが、発達に凸凹がある子たちが何かに取り組みづらそうにしていたり、苦手があったりする時には【年齢】ではなく【そのトピックに関する発達段階】を探って対処していくというのは共通する対処の手段かなと思います。

 

どうあがいても発達しきれていないスキルは身につけられないと思うんですね。

これは次男を見ていても、自分自身の体感からもそう思います。

知的な遅れがなければ頭では「こうしたほうがいい」は理解できたりします。

でも、頭でわかっていてもどうにも体がついてこないことがあるんですね。

それは、頑張りが足りないとか訓練がたりないとかだけの話ではなくて、やっぱり「成長が追いついてない」というのもすごく大きな影響があると思っています。

 

ある程度の努力を経てもできないものは時間しか解決できない、だからやんわり見守るしかない。無理強いしてもメンタル削れて本人が苦しむだけ。

それが、次男と14年暮らしてきて私がいま辿り着いた、達観の境地みたいな感覚です。

 

今日はここまで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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