スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

9月1日、図書館にいる子が居たら見逃してください

9月1日という日

Twitter上で夏休みに入ったころから目にしていた、子どもたちの自殺率が最も上がる日、それが9月1日だということ。


長い夏休みがあける日、40日程度の「安心して休める日」が終わってしまう日。また、あそこへ行かなくてはならない、休むことに理由が必要になってしまう、その日を迎えた子どもたちが最悪の解決法を選んでしまうのが、この日なのだと統計が記しています。

 

去年一時的に教室に入れなくなった息子を持つ親としても、色々と噂を流され居場所を無くして学校の屋上に立ったことがある自分自身の経験からも、あそこに行かねばならない辛さより楽になると思って死を選ぶ子どもたちが今も後を絶たないのだとニュース記事や統計を眺めながら胸が痛みます。

 

ある、図書館からの言葉

そんな中、TLにこんなツイートが流れてきました。

鎌倉市図書館のツイートです。誰もいない部屋のPCの前で目が潤みました。こんなことを言ってくれる大人がいるのだなと。

 

私にとって図書館は、まさに教室に居場所が無くなったときに逃げ込んだところでした。

そして、昨年度末卒業する子どもたちへ最後の読み聞かせをするときに贈った言葉の中でも話したことでもありました。

このブログの中でははしょっていますが教室ではもう少し長く、もし辛いことがあって家に居づらいときや学校が辛いときにも行ってみるといいと思うというようなことを話しました。

 

図書館という場所

過去のエントリでも書きましたが、私も教室に居づらかった時休み時間に学校の図書室に籠ったり、放課後や休日に市立図書館で一日過ごしたりしたこともありました。

本を読むことも、借りることも、音楽を聴いたりすることも、涼しい部屋で勉強をすることも、色んな目的がありましたが私がそこを訪れていた最も大きな目的が「そこに居ていい」場所だったから。

誰にも咎められることもなく、特に話しかけられることもなく、子どもでも自由に出入りでき、お金もかからず、ただそこに居ていい場所、そこに行くと言えば誰もそれを止めない場所、そんな場所を私は図書館以外に知りませんでした。

 

今の子どもたちにとっての図書館が20年くらい前の私にとってのそれと同じかどうかはわかりません。もっと色んな逃げ場はあるのかもしれない。

 

でも、どんな貧乏な子でも胸を張って行ける場所、平等にカードを作ることが出来るし、カードをもし作れなくてもそこに居ることは咎められることのない場所として、今も恐らくは図書館は昔と同じようにそこにあるのだろうなと思うのです。

 

「その日そこに居る子」

鎌倉の図書館が書いてくれたこと。これ、全国の図書館の司書さんたちがみな同じ気持ちとは限らないとは思う。でも、同じ機能を有した場所としてこれまでもこれからも図書館がそこにあってくれるのは変わらないわけで、昔の私のようにそこを逃げ場にして小さくそこにいる子たちがこれからもそこで一時の雨宿りをして過ごしては去って行く、そんな場所でありつづけて欲しいと思っています。

 

ただ、これが公言され広まることである種の危惧が浮かびます。

これまで気づかれなかったその小さく雨宿りをしている子たちが「その日にそこに居る子」としてスポットライトが当たってしまわないかということ。そしてそのスポットライトが当たったその子たちを「なんとかしてあげたい」とその場で善意で干渉する人が現れないかということ。学校に繋げたい関係者が探しに行ったり、声をかけたりしてしまわないかということ。

 

居場所をやっと見つけた子どもたちが、その居場所すら奪われてしまったらと…、杞憂に終われば良いのですが。

 

彼らを見逃してください。

もしあの図書館のツイートや9月1日の自殺率のことを記した記事を見て、その日そこに居る子どもたちに何か働きかけたいと思った方がいらっしゃったら、どうかお願いです、見逃してください。声もかけず、ひとりの利用者がそこに居るだけだと見逃してください。

 

そうやって見過ごして、その日をその場で過ごしても何の解決にならない、と思われるかもしれません。それはその場では真理かもしれません。

でもその子たちは明日は、来週は、来月は、来年度はと淡い淡い希望だけを頼りにその日を過ごしているのかもしれないし、それすら意識してないのかもしれない。そして教室や学校が辛いという状況は大人がガツガツ介入して原因を突き止めることだけが解決とは限りません。周りの状況がじわじわと変わることで気づいたら楽になっていた、環境が変わることでガラッと変わった、というのもよくあること。(うちの息子もそうでしたし、私もクラス替えでかなり楽になった記憶があります)

 

本当に大人の支援が必要なケースもあると思うし、それを周囲がなんとかしてあげることができることもあるかもしれない。でもそれは、本人がそれを望みかつ本人にとって身近で信頼できる大人がそれを汲んだ場合に初めて動き始めることで、その条件が整わない状態で周りがどんなに働きかけても本人を苦しめるだけに終わったりしてしまう。

 

学校をさぼっているわけではない、何かから逃げてそこにいるわけではない学生も中卒で仕事をしている休みの子たちもそこにはいるかもしれないし、そういう子かもしれないしなぁっていう程度で特別扱いせずに、奇異な目で見ずに、ただそこにいる1人の利用者としてしんどい子たちが図書館でのわずかな時間を過ごせたらいいなぁと、かつて切羽詰まって利用していた身として願わずにはおれません。

 

余談ですが、私がここで想定しているような事情でそこに行かざるを得ない子がいない、という、私の空回りで終わることが一番の望みでもあります。

 

辛い9月1日を迎える子がひとりでも少ないことを願って。

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