スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

見えない困難を抱えた子どもたちへの、4つの試み

なないおさんの記事を読んで思い出したことを今日は。


私は小学生のころ、授業がつまらないと思う子供でした。理由は覚えていないけど親が1学年上の学研だかの雑誌を買ってくれていたのでそれを読んで1年分習うことを先に知っていました。新しいことに出会っても教科書を授業の始めの数分で読めば問題は簡単に解けました。そこから先45分間が終えるまで、知っている話を延々と聴くのは本当につまらなくて退屈だったし、答えが分かっていることをわざわざ考えさせようとする先生の見え透いた言動に苛立ちを感じることすらありました。

 

そんな私の不満は授業中に態度や言葉としてあらわれていたのだろうと思います。授業態度が悪い、集中力がない、とよく注意を受けていました。窓の外を眺めて話を聴いてないなんてしょっちゅうだし、教科書やノートは落書きだらけでした。高校になってからはずっと寝ていたので「●組の眠り姫」と職員室で呼ばれていたそうです。通知表にもテストの成績は良いのに…という指摘をされることも多かった記憶があります。

 

態度を注意されて私が感じていたのは不快感だけでした。だってつまらないんだもん、と思ってふてくされてました。

 

でも今になって思うのです。あのときに周りの大人の中にひとりでも、私が感じていた「つまらなさに感じる不快」に寄り添ってくれる人がいたらどうだったんだろう、と。

 

私は、自分の習熟度に合わせた高度な教育が受けたかった訳ではありません。もちろんその環境が与えられていればまた違った人生があったのかもしれませんが、あの頃私に必要だったのは自分でも言葉にしきれないそのモヤモヤした不快感、不満、しんどさを形にしてくれる大人の存在だったような気がするのです。

 

「わかってるからっていい気になるな」と怒鳴られたこともあったし「出来るんだからみんなにつき合ってやってくれよ」とため息をつかれたこともありました。私は私で、つまらない授業を受け続けることに「一生懸命頑張って」いました。不適切な言動といっても授業を妨害するような立ち歩きや奇声なんてやったことない。イスに座って授業を受けているふりを子どもなりに一生懸命していました。でもそのがんばりを認めてくれた大人は1人もいませんでした。

 

 

このエントリのなかで、私は「ズルい」と感じる子は見えない所で頑張ってるんじゃないか、と書きました。あの当時私が教室でずっと座って周りの迷惑にならないよう授業を受けるというのは、頑張ってやっと出来ることでした。私はつまらない授業を受け続けることに困っていました。その自分のキャパを超える頑張りからくるストレスが引き起こしていたのが、教師から叱責されるような問題行動だったんだろうと思います。

 

幸い当時の学校環境ゆえその問題行動でうちの親が呼び出されたり、親からそれを叱られたりすることはなかった記憶があります。でも過去を思い返して思うのです、今うちの子が同じことやったら間違いなく私が学校に呼び出され、注意され、子どもたちの問題行動再発を防ぐための対策をすることになるだろうなと。

 

そんなときに私に「しんどいよね」と寄り添ってくれる大人がいたら。退屈さを理解してくれる大人がいたら。それ故の問題行動を「短く丁寧に」指摘してくれる大人がいたら。そしてそんな私のために「つまらないときはこうしてね」と代替案を出してくれたり、がんばりを褒めてくれる大人がいたら。

 

  • 気持ちに寄り添うこと
  • 問題行動は短い言葉で的確に指摘し、制止すること
  • 問題行動の代替案をわかりやすく提示すること
  • 頑張りを褒めること

 

当時の私がやって欲しかったこの4つは、私が最近インクルーシブ教育や特別支援について知りたいという方と話すときにまず理解を求めることです。

 

「ズルい」と声を上げる子どもたち、問題行動を起こす子どもたちに、そうならないような環境を適切に整えてあげたい。でもそれは色々な制約がかかります。経済的な地盤、指導者支援者保護者の精神的安定と技術、それらの要素が周囲に整わないと不可能なことも多い。全てを叶えるのはまだまだ先のことでまだ今は雲の上の理想でしかないかもしれないインクルーシブ教育の徹底ですが、まずこの4つを試して行くことだけでも初めていけたら、と考えています。

スポンサードリンク