産後クライシス、妻の不機嫌、夫のうつ、今まで水面下だったこういう問題が表に出てきていて、とても良い傾向だなぁと思う。
「産後クライシス」でギリギリの夫を救う方法 | 産後クライシス | 東洋経済オンライン | 新世代リーダーのためのビジネスサイト
この記事のように、夫側の改善のために出来ることも書かれていたりして、少しずつ楽になるご家庭が増えるといいなぁと思ったりもする。この記事に関しては、結局成果を上げて上司に認められよう!みたいなくだりもあってそこはなんかもやっとするんだけど。
こういういろいろを眺めながら、今日は、育児をしていく上での相互扶助という観点について思うことを書いてみようと思います。
私は、子供を育てるということを考えるときに「夫婦ふたりでやるものだ」という決め付けがあまり好きではありません。育児に関する愚痴に対して「夫がもっとしっかりすればいいだけなのに」「まず夫がやるのが前提でしょ」という声が上がるのはよく見るんですね。それが当たり前でしょ?という価値観を頭ごなしに押し付けられてなんだか切なくなったことも過去には何度かありました。
でも、いろんな家族を見ながら、それぞれの良いところや悩みやそういうのをいろいろ見てきて、私はやっぱり思うんです。子供って、誰が育てても良くない?と。
すごい極端な言い方だとは思うのだけど、子供を育てる人が誰であるのか、ってそんなに重要なんだろうかと思ったりするのです。両親ふたりがしっかりと育てるという事柄が大事なのであれば、片親や祖父母に育てられた子はまっとうに育たないということ?でもそんなことないよね。
かたや両親が揃っていて、ほかの手をあまり借りることなく二人で育てました!というご家庭のお子さんにトラブルが皆無かといえばそうでもない。
父親がしっかりと稼ぎ母親が家事育児に専念したお宅が必ず育児に成功してるかといえばこれまたそうでもない。
周りを見回しても、すくすく育ってるお子さんのお宅に家族構成の傾向というのは特にないような気がする。
だから。
私は固執しなくていいと思うの。気負わなくていいと思う。
私が母親だからしっかりしなきゃ、私が母親だからなんでも自分でしなきゃ、これ、私が25で長男を生んだときに自分に呪文のように言い聞かせたこと。
そしてその呪文は「父親なんだからもっとしっかりしてくれなくちゃ」「父親なんだからもっと子供との時間をとってくれなくちゃ」「父親なんだから周りを頼らずに子守してくれなくちゃ」という夫への呪詛へと変わっていったような気がする。
でももっと肩の力を抜いていいと思うし、ほかの人を、ときにお金を使ってでも頼っていいと思うの。育児の一番手がかかる時期は特に。
と言っても家族の中で夫しか頼る人がいない!という方も都会では多いのかな、と思う。その、家族の範囲がとても狭いこと、頼り合うという習慣が薄れていること、それが、都心部で子供が育てにくい一番の要因じゃないかな、と私は思います。
私は地方都市で暮らしていて、近所に夫婦双方の実家があります。夫の母と私の両親が健在で、私の仕事が忙しいときや役員等の用事で夜出かけるときに預かってもらったり、一緒に出かけたりすることも。うちの末っ子が入院したときも3人の子たちのお世話を夫一緒にしてくれました。
そんなことを言ったり書いたりすると「そばに頼れる身内がいればそりゃ楽でいいよね」と言われたりもするのだけど、え?してもらってるばっかりって思ってるの?と驚いたりします。
両親が近くにいる、親戚がそばにいる、助けてくれる人がそばにいたら楽だよね、と思いがちかもしれないけど、成人で家庭のある人がそれで済むわけないじゃん、と思うのです。誰かに何かをしてもらうということは、その人やその人の大事な人に何かをしてあげるということでもあります。我が家の具体例を挙げれば、子供たちの面倒を見てもらったり、お誕生日や行事ごとに何かをいただいたり。そして私たちからは、車の運転が出来ない義母の代わりに買い物に行ったり送迎をしたり、私の母に頼まれて何かを作ってあげたり、力仕事が必要な時は夫が出向いたり、それぞれが、今出来ることをお互いにしあって生活をしています。今は私たちがしてもらっていることのほうが多いと思いますが、これからの介護も控えています。そういう関係です。
そしてこれは、血の繋がった家族だけの話ではないと私は思って暮らしています。
実家の裏には昔から住んでいる老夫婦がいます。そこのおじいちゃんとおばあちゃんは孫が遠くに住んでいてめったに会えないこともあり、うちの子たちをすごく可愛がってくれます。おやつを用意してくれていたり、家で遊ばせてくれたり。
私たちからは逆に、重いものを買うお使いを頼まれたり、たくさん作った食事を差し入れしたり、何日か姿を見ないなと思ったら声をかけに行ったり、そういう形で恩返しをしたりしています。
こうやって、わかりやすい形でのギブアンドテイクもありますが、もっと長いスパンのものもあるなぁと感じています。私の両親にお世話になったからという方が子供たちを可愛がってくれたり、兄の旧友にお世話になったり、夫の祖父にお世話になったという方が夫に仕事を回してくれたり。
そういう経験をしていくうちに、今私たちがしたことが何年か先に子どもたちや両親や兄弟へ帰ってくるかもしれない、そう思いながら暮らすことが出来るようになってきました。
子育ても、それでいいのかもしれないと思うのです。
なんでも自分たちだけでやることが当たり前、ではないと思う。困ったときは周りの誰かに頼っていいと思うし、頼られてそれに答えられたらそうしてあげることでまたいつか自分が助けてもらえるかもしれない。
できる人が、できることを、できるだけやる。
まえにラジオでたまたま耳にした言葉です。そのラジオではそれぞれの頭文字をとって「3Dの法則」と呼ばれていました。
そうやって、それぞれが自分に出来ることを提供する。困っているときは助けを求め、出来る人が手を差し伸べる。そうやって、それぞれが出来ることをし合うこと、それが、相互扶助。
都心部が育児しづらい、というのはこの欠如が要因なんじゃないか、と私はこっそり考えています。一緒に働いている人や街ですれ違う人との関係性が希薄だから、この相互扶助が成り立たなくなってしまっている。相手を助けなくていいということは一見すごく楽なことだけど、それは自分が健康かつ自由の身でいる場合だけ。
育児や病気や怪我や介護や貧困、そういう、自分一人の努力や頑張りではどうにもならないことが起こったとき、助け合わずに自己責任で暮らすことのマイナス面が出てくるんじゃないかなと。
これ、最初に紹介した産後クライシスの記事の私のもやもやにじつは繋がると思うのです。
会社の中で、育児中というマイナス要素があってもほかの人と同じかそれ以上の結果を産まなければならない。そうしないとそこにいられない。そこに、違和感を覚えるのです。
みんなが自分のギリギリで暮らしていて、余裕がない。
一時的な不利益を受け入れるメリットを肌で感じることが出来ない。
その環境が、相互扶助の意識を薄めて、結果的に育児というハンディを負う人たちをサポートする手を減らしてしまっているんじゃないかなぁと思う。
育児をハンディと捉えることがおかしい、という意見もでるかもしれません。実際、子どもは意図的に作るものだから余裕がなきゃ産まなきゃいいじゃん、というご意見も正論だと思います。でも私はそんなんじゃ誰も産めないよと思う。
生活保護を受けなきゃ生きられないような状態の人がどんどん子供を産むのは無責任だと思うけど、そこまでの貧困ではない状態の人が子供を持つことは自然なことなんじゃないかと。
私は子供を授かったあと、近所のおばあちゃんたちから「子供が小さいうちは大変だろうけどみんなを頼って育てりゃいいから、がんばりよ」と励ましの声をたくさん貰えました。こんな環境だから、4人産めたんだなと今は思う。
そして、幸いに今は実家のフォローや環境の手助けもあって4人の子それぞれのために役員をいくつか兼任することもできています。この、役員を引き受けるということに関しても、できる人ができることをできるだけやればいいという考え方はとても有益だと感じています。できない、という人を責める気持ちが起こりにくいから。
私はたまたまできる、だからやる。もし出来なくなったら、その時は誰かに頼る。
できることはやる、苦手なことやできないことは誰かを頼る。
私は、いろんなことがこれでいいと思う。それを、不公平だと思う人もいるかもしれない。でも、無理なく出来る人がやる、出来な人は出来る人を頼って感謝する、できることがあればやる、出来る人は、自分が出来るというその幸運さに感謝する。(これを「自分の努力ゆえだ」と思っちゃうといろんな歯車が狂う)
あんまり突き詰めるとちょっとスピリチュアルな感じにもなっちゃいそうではあるんだけど。
ま、そこまで気負わず、自分でなんでも、自分と夫だけでなんでも、と抱え込まないで苦手なことをなんでも人に頼ろうよ、逆に自分が得意なことはできる範囲でしてあげたらどうかなぁ、と私は思うです。
そして、それがみんなで自然とできる社会が、育児しやすい、ハンディを持つ人が暮らしやすい、多様性を認めやすい社会なんじゃないかなぁ、と思っています。
壮大になりすぎたところで、今日は終わり。
※2013.12.12 加筆。
ブコメにもあったけど、正論だけどそんなにうまくいかないよ、というコメントはたぶん出るだろうなと思っていました。
私自身も、そう思いながら書いたのも事実です。
じゃあなんであえて書いたのか、それは、私自身もときどき自分勝手な気持ちが湧いてきてイラッとくることもある。そのときに、この努力は、この配慮は、この一つ踏み出すことは、いつか自分や自分の大事な人にかえってくるかもしれないと思い直したり、そうすべきだったとあとで反省したりすることがよくあるのです。
だから、当たり前じゃんこんなこと、でも無理じゃん、と思われるかもしれないけど、どこかでふと思い出してもらえたらいいなぁという気持ちがありました。
毎日それをずっと意識し続けて暮らすことは難しいと思うけど、たまに、何か自分にできそうなことが目の前にあるときに、自分が手一杯で辛くなったときに、ふと考えて一歩踏み出してみたらどうかな、と思っています。