スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

いじめたくなる環境


年度末年度初めでどたばたしていたので久し振りのエントリになりました。

 

今日は、こないだの週末に息子たちと体験した、いじめについての面白い経験を書いてみようと思います。

 

風が少し冷たいけどお天気のいい日曜日、息子たちが所属するサッカーチームの上級生の試合が山の上の競技場で行われていたので、ピクニックも兼ねて応援に行きました。

でも小さい人たちは試合そのものにはすぐ飽きて、グラウンドの隣の遊具が少しある小さな公園で、上の子の試合について来ていた同じチームの低学年の子たちと複数で遊び始めました。

 

しばらくすると、泣きながら次男がやってきます。

「お兄ちゃんたちが意地悪するんだ」予想通りのよくある状況。空気を読むのが苦手な次男は集団で遊び始めるとその場のルールをすんなり理解できず、いつもこんな風にひとり仲間はずれにされることが良くあります。話しを聞いて、落ち着いたらまた男の子たちの群れに戻って…というのを何度か繰り返しながら、狭いその公園の中で、長男を含む男の子たちの群れがだんだんエスカレートしていくのを感じていました。

鬼ごっこを始めた子どもたち、次男が鬼、足の遅い彼はずっと誰も捕まえることが出来ず、からかいながら逃げ回る子たち、なんとか次男が誰かにタッチしても難癖をつけてまた鬼になるよう仕向ける。

長男を呼び寄せて少し話をしたりもしましたが、同じような状況は続き、見ていられなくなった私は次男を呼び、下の子たちも連れて公園を出て「森の中を探検に行こう」とグラウンドの上の森へ向かいました。

展望台も設置されているある程度整備された森の中を、どんぐりを探したり、枯葉の隙間から顔を出している小さな花を見つけたりしながら歩いていくと、後ろから長男たちも付いて来ました。

 

森の中をみんなで歩きながら、誰かが何かを発見したと叫んではみんなで駆けつけたり、折れた大きな木の枝をそれぞれが拾って土を掘ってみたり、それを杖にして小高い丘の上までちょっとした登山をしたり。

 

斜面を登りながら、小さな公園の中でいじめられっこといじめっこの関係だった次男と他の子どもたちの関係が変わっていることに気づきました。弱い立場で泣いていた次男が他の子に危ない場所を知らせたり、それを受けてその子がお礼を言ったり、見つけたものを共有したり、誰かがやったことを張り合ったりせず素直に賞賛したり。

 

美化しすぎてはいけないとは思うのですが、グラウンドを見下ろす小高い丘の上まで登りきって休憩している子どもたちは誰かを妬んだり揶揄したり見下したりしているときとは違う、とてもいい顔をしていたことがとても印象的でした。

 

小さな公園の中で遊びを制限された子どもたちと、広い場所で好きなように動いていた子どもたち、前者では自然発生していた弱いものいじめが、後者の場面では自然と収まっていました。

 

これ自体は私にとっては実は珍しいことではありません。

狭い家の中に子どもたちを閉じ込めていたら兄弟げんかがどんどん激化します。絶えられなくなり同じような山や森や広い公園に子どもたちを放牧するとそれはのびのびと遊び、互いに協力をしたり思いやりあったりするという現象は我が家ではよくあります。

今回はそれが、よその子たちを複数交えても起こった、とても面白いなと思いました。

 

狭い家の中や教室、遊具のすくない狭い公園、車の中、バスや電車の中、狭い環境の中で行動を制限すればするほど、子どもたちは余裕をなくし、周りに対して寛容でいられなくなる。私は、いわゆるいじめもこの延長線上で起こってくるものなのではないかなと思っています。

これは子どもに限らず、混雑した公共の交通機関の中での大人のふるまいや、田舎の閉鎖的な環境などでも似たようないじめ様の人間関係が出来上がってしまうのではないかなと。

 

思い起こしながら、さかなクン朝日新聞の「いじめられている君へ」へ寄せた記事 朝日新聞デジタル:いじめられている君へ - 教育 を思い出しました。

「広い海へ出てみよう」というタイトルのその記事、上記のことをツイートしたときもこの記事に似てる、と指摘してくださった方もいらっしゃいました。

 

狭い水槽のなかで起こるメジナの攻撃。

むかし飼っていた金魚も、仲間が増えて自分のスペースが狭くなると周りを攻撃して死なせてしまうことがあり結局その子1匹を別の水槽に入れたりしたこともありました。

 

人間に置き換えたとき、ただ単に広さや狭さの問題とは言い切れないのかもしれない、もっと複雑なことなのかもしれないのだけど、私はこの心理的物理的制限がいじめを起こすことと密接な関係があるんだろうなと経験的に感じています。

 

いじめという問題を考えるとき、私たちはつい子どもたちに対して真っ向から「いじめの何がいけないのか」を説きたい気持ちになるのではないかと思います。そういう、言葉による啓蒙、いじめられた子の気持ちを考えさせること、いじめそのものを撲滅しなくてはという意識を根付かせることも、大事なことだと思う。理性的に「人をいじめてはならない、傷つけないよう配慮せねばならない」ということを社会的生き物として身に着けさせることは教育や育児の大きな課題だとも思う。

 

でも、それとは別に、子どもたちや自分たちの環境を「いじめが起こりにくい環境にするために」見直すというアクセスも大事なんじゃないかと思ったりしました。

環境を少し変えてやることで、子どもたちはいじめを起こす行動を自然と抑えることが出来ていた。今回はたまたまうまくいっていたのだと思いますし、陰湿ないじめにそれが即対応できるとは限らないとは思います。

これからの子どもたちを観察しながら、考察を深めていきたいなぁと改めて思いました。

 

抑圧するだけしておいて、そこで起こった問題を誰かの理性だけでなんとかしなくてはならない、それはなんかおかしい。そんな、一部の人に過度のストレスがかかることを前提とした解決方法しかないの、しんどいよ。

 

そう思いながら、今週末また子どもたちをどこで放牧しようか頭を悩ませる母でありました。

 

   

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