スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

「パパ」「ママ」という価値観の檻 ~日経DUALの記事を読んで考えたこと


昨夜こんな記事を読みました。

パパと子どもだけで「ママ抜きお出かけ」しよう! | 「パパとお出かけ」のススメ | 日経DUAL

 

タイトルはパパの育児参加を促進する目的なのかなというふんわりした内容なのかと思いきや、読み進めていくと「ママはこう」「パパはこう」という、性別役割分担の先入観に満ち溢れた記事でございました。

釣りなのかな?という感じがしないでもなくツイートやブログのネタにするのもどうかなぁと思ったのですが、読んで色々と考えていて、やはり気になったことを書きたいなと思いました。

 

この記事では

生き物や乗り物に興味はなく、子どもが手や服を汚すことを先回りして防ぎ、自由に遊ぼうとする子どもを自らの価値観で制限しながら育てる母親

生き物や乗り物に興味を持ち、子どもと同じ視点でものごとを楽しみ、子どもと一緒にアクティブに遊び、多少のことを気にせず子どもを楽しませられる父親

がそれぞれ対比されながら描かれています。

 

私のTLにはこの記事に対するなんだこりゃというご意見が並んでいました。

虫が好きなお母さんも、乗り物に興味ないお父さんも、母親以上に口うるさく注意する父親もいるよね、と。

 

うん、ほんとそうだと思うのです。

その反発を産む表現が、この記事のなかにある良い要素も打ち消してしまっているのだろうなと思いました。

 

以前のエントリで「理想的な夫」という自分が作り上げた幻想にとりつかれていたら現実とのギャップで苦しくなるよ、ということを書きました。

男性の育児参加、家事参加、それは、一人で家事や育児を抱え込んでしまっている母親にとってはとても有難く、もっと促進されることで辛い思いをするママさんが減り、子どもたちがより楽しく過ごせたらいいなぁと思います。

でも、パパの性格も資質も職種や環境も、ママのそれも全然違う。

その、違う、という前提をやはり忘れてはいけないと思うのです。

 

この日経DUALの記事そのものの伝えたいこと、パパとおでかけすると楽しいことがたうくさんあるよ、ということ、それ自体は、この記事を通してじゃあ出かけてみようと思うパパが一人でも増えるといいなという価値はあると思うのです。

ただ、この視点には、パパってこんなもの(だからこれをしとけばいい、だからこれはしなくていい、ほんとはこんなことできるはずなのに)というのがどうしてもついてきてしまう。

 

その幻想に囚われてまた「パパだからこうしなきゃいけない」っていう負担や「世のパパってこんなものなのにうちは…」っていうイライラの種や押し付けのもとになっちゃわないかな、と思ってしまう。

 

私は、ママが笑って育児するために、男性の家事育児参加がいまよりもっと進むために、子どもたちがたくさんの大人に見守られて育つために必要なのは、性別による役割分担という檻の概念から離れて「個」を尊重できなきゃダメだと思う。

 

性別による差は確実にあると思うし、母親と父親の担うものがイコールになるべきだとも思わない。~~だと~~になりがち、という傾向は確かにあると思う。

 

ただ、環境も性格も生い立ちも何もかもが違う、たまたま父親や母親という立場であるそれぞれが、ベースの全く違う色んな人と共に「母親とは」「父親とは」という枠の中でその傾向を断定されたりジャッジされたりするのはなんか違うと思うし、そこに固執していたらいつまでも価値観の檻の中でお互いに足を引っ張り合うだけのような気がする。それは、なんかとても不毛だなぁと思う。

 

自分がそれが得意だったら、その立ち位置で子どもに接すればいいと思う。

苦手でも男だから女だから母だから父だから、我慢してその性的役割分担に従った行動をしなきゃいけない、っていうのはなんか違うと思うし、できるでしょって押し付けるのも違うと思う。

 

「ママにはどうせ出来ないでしょ」っていうマウンティングで育児に参加したり、「パパってこういう存在であるべきなのにあなたは」っていう非難の目で育児参加を促したりしてるうちは、いつまでもお互いのストレスの種はなくならないと思ったりするのです。

スポンサードリンク