スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

おたまじゃくしの餌をどうやって調べるか、という問題。


待ち焦がれた金曜日の夜、と言っても夏休みなのであまり特別感はありませんが。

すっかり夏ですね。
同志の皆様のお宅にもカサカサして足でうっかり踏むと粉々になるアレとか、赤くて鋭利なハサミを2つ持つアレとか、角が1本か2本くらいあって黒光りするアレとかが散見される季節ではないかとお察し申し上げます。

アホ息子どもが家に持ち帰るアレの仲間のなかに、成長するとゲロゲロ鳴くアレがあります。
そうです、オタマジャクシです。

我が家のアホ息子たちももちろん持って帰りました。
ペットボトルの中にぎゅうぎゅうに詰め込んだおたま様10匹程度。
だってともちゃんちのお隣の溝にたくさんいたんだもん!とは次男の談。そうだよね、そこにおたまがいたら採るよね、そうだよね。

オタマジャクシを飼うのは構いませんが我が家の条件は自分でお世話すること。育て方も自分で調べること。

ガレージに転がっていた水槽に水を張って、そこにおたまをいれた息子たち。
さてここで問題が。「オタマジャクシは何を食べるんだろう」
「苔じゃないの?」「虫?」「金魚のエサ食べるかな?」と口々に話す息子たち。

この段階で「小学生が調べる」と考えたときに「ネットに頼らずまず自分の力でたどり着かないと」と私は思ってて。
だって検索したらすぐわかっちゃうけど図鑑とかでちゃんと調べられないと困るじゃない?って。その、調べる能力、図書館や図書室へ行き、オタマジャクシの育てかたがどんな本に載っているかを考え、思い当たる本を探し、その本から該当箇所を探す。もしくは、オタマジャクシの生態に詳しそうな人がどこにいるかを考え、出向き、質問したりして必要な情報を得る。そういう、アナログの中で求める答えに出会うために試行錯誤すること、それ自体に学習の価値があるような気がしているので、一緒に図書館や博物館に出向いたりしていました。

さて今回はどんな風に考えるのかな、と思っていたら長男、「ね、お母ちゃんスマホで検索してよ」「オタマジャクシ エサ、で。」

我が家のパソコンは私と夫の商売道具なのでそれ以外の用途は私が仕事しながら遊ぶ程度。なので仕事の時間以外の日常的なネットはスマホがメイン。こどもたちにはまだあまり使わせていません。

それでも息子たちは色々調べてるのをそばで見てるからか、調べたい文言を入力すれば答えが表示されることを知ってるのだなぁ。
早く調べて!と急かす息子に、でもね、と話しました。

ネットに書いてあることはそれが本当のことかどうか簡単には判断できない。本に書かれていることはある程度色んな人がちゃんと調べた上で正しいことかを考えてから出来上がっているけど、ネットには誰でも書き込めるから正しいことも間違っていることも同じように並んでいるわけで、検索して出てきたものが正しいのかどうかを自分で色々考えたり試してみたりしないといけないけど、いまの君にはそれが簡単にはできないよね。


………と自分でいいながら、心の中でこっそり思いました。
本っていっても片寄ってる知識のものも間違ってる記述も、後世になって常識が覆っちゃったものも、色々あるわけで、本=正しい、と教えるのはなんか違うなぁと。

結局、書籍でもネットでもそこにある情報が正しいかどうかを精査する能力があるとないとでは全然違う。並んだ情報の中で正しい情報を選別したり、正誤を判断したりするためには知識と経験が必要で、その能力の有無は書籍よりネットのほうが影響が大きいようにも思う。

いまの段階の検索機能が、息子たちが大きくなったときに衰退しているとは考えにくい。もっと簡単に色んな情報が得られるようになっているはずで、そこに向かって育っていく息子たちにとってアナログの経験は無駄ではないとは思うけど必須でもないのかもしれない。

私はついアナログの手段をとることでこどもたちにも良い経験ができると思ってしまいがちなのだけど、そこに固執することで情報を選別する能力が培われず長じてパソコンやネットに接するのはそれはそれで危険なことなのかもしれない。

もちろん知識として、ネットの危険的なことは教えないととは思ってはいたけど、それはお仕着せの性教育があまり意味をなさないように、ただ知識を与えるだけでは役にはたたないのかもしれない。


アナログの世界で学べることもたくさんあって、それを共有したいとも思う。
でもそれと同じように、ネット環境の中で学んでいくことも家庭の中で共有する必要があるのかもしれないなと、改めて思いました。

とりあえず家族で使える端末を用意するところから始めないといけないかな。

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