原発再稼動を容認する候補者2名と反対派の候補が1名の3名による選挙戦で、当選したのは容認派の現職、という結果でした。
再稼働積極派の現職が3選 佐賀・玄海町長選 (朝日新聞デジタル) - Yahoo!ニュース
玄海原発で事故があれば私の住んでいるところも住めなくなるかもしれない、という位置関係からもこの原発の稼動や存在については前から関心はあるつもりでした。
結果的に再稼動を容認する候補者を地域は選んだ、と報道されていたこと。
地元には国や九電から多額の交付金が入ってきていることや、その交付金を使って建設中の立派な小中一貫校の映像、雇用のことなど、この町が原発に依存しているという現状が選挙結果のニュースとともに流れていました。
私も小さな子を持つ親なので、もし玄海原発に何かあったら、ここに住めなくなったら、そう考えるとやっぱり怖い。再稼動なんてして欲しくない。そう思っています。
でも、選挙の報道を色々と見ているなか、福岡のローカルテレビ局の地元向け放送で玄海町の方へのインタビューが流れていました。
当たり障りのない回答が並ぶなかで一人の男性が答えた言葉が印象的でした。
「そこにあるんだよ」
なにげない一言でしたが、とても重く響きました。
「そこに、ある」
動いていてもいなくても、そこに原発がある。
毎日、目にとまるところに建っている。
そしてその中には原子炉がある。
原子炉が、核燃料が、ある。
目の前の、そこに。
とても当たり前のことだけど、この人たちは毎日、その建物を見てるんだなと。
廃炉にすると言っても簡単なことではないし、稼動していなくてもそこに原子炉があり続けることには変わらない、だったらそのリスクを負っている以上、何も無いじゃマイナスばかりだ、というような趣旨のことをその方は続けておられました。
原発の建物が見えない遠く離れたところに住んでいることで、私は廃炉にすれば、再稼動しなければ、原発がなくなれば、と簡単に考えていたのかもしれない、と、なんだか自分の考えの浅さを情けなく感じました。
原発の廃炉というのが、どのくらい時間やお金がかかるものなのか、ということ。
いやそもそも可能なのかどうかということ。
稼働していてもしていなくても、そこに原発が、原子炉が、あるというのを毎日眺めながら暮らすというのがどういうことか、ということ。
それらを私は、知らなかったわけではなくても、でも、ちゃんと考えてこなかったんだということを痛感しました。
建ててしまった、誘致してしまった、その過去をどんなに責めても、もう「そこにある」原発は無くならない。
でも「だからしょうがないじゃん」ってそこにあることを放っておき続けることで将来大きくなる子どもたちに、そのまた子どもたちに、リスクを大きく残すこともして良いとは思わない。
自分たちに何が出来るのか、を冷静に考えなきゃいけない。
ただ、やめろ無くせと言えば良いわけではないんだよね、と、今更だけど、当たり前なんだけど、そう改めて感じた地元の方の声でした。