以前のエントリ
夫婦だけで育児なんかやっぱり無理ゲーでしたごめんなさい。 - スズコ、考える。
になんかたくさんのブコメやコメントを頂きまして、また色々と考えるきっかけになりました。
このエントリのなかで私は最終的に「誰かをどんどん頼ろうよ」というような結び方をしたのですが、書き終わってしばらくして、あれ?ってなったんですね。頭の中で。
というのは、私はこの話題について書こうと思った当初、ここに帰着させようと思ってなかったんです。脳の中でぐるぐる考えているときは、違うことを考えてて。
でもいざ書き始めたらあの日あの勢いで最後、あそこに落ち着いたのでした。
では私は当初、どんなことを考えていたのか。
違和感を自分の中でこねくりまわして改めて考えたところで出てきたのは
「家庭を「フル稼働」前提で回しちゃだめじゃないか」
ということでした。
「フル稼働」
これ、ここ数年の私の状態そのものでした。仕事と家事と育児と自分の趣味と色んなお付き合いと、全部含めて「自分の能力をフルに出してやっと回るところ」を限界点として設定して色々なことを裁いていたような気がします。
いや、設定すら出来てなかったのかもしれない。とにかく、目の前のことを猛ダッシュで片付けて、夜中にやっと一息ついてダッツる、そんな日々だったような気がします。
そして、これは上のエントリにも書いたんだけど
それこそが親としてあるべき姿、みんなそうしてる、そうしないといけない。
そして、そういう姿である私は頑張ってる
とどっかで思ってたような気がする。
でも。
子どもたちが大きくなるにつれて、物理的に手がかかるのではない形のケアが必要になったり、自分の精神状態に限界を感じることがあったりして、そこで「これじゃダメだ」と気づいて。
そしてじゃあ誰かを頼ろうとかちゃんと感謝しようとか、そういう風に自分をシフトさせていく方向に考えを改め始めたんですね。
そういう視線で自分や自分の周りを改めて考えたところ、問題点がどこにあるかというとそれは「誰かがフル稼働する前提で担うボリュームを決めちゃダメなんじゃないの?」ってこと。
息子たちの通う小学校の先生方、いつもとても忙しそうなんですね。
こちらが相談する時間をとっていただくのも申し訳ないほど、残業をされていたり日中もあわただしく作業されていたり。
役員の関係や息子たちのことなどで校長教頭先生方とお話することがたまにありまして、そのときにも「~~してあげたいけど手が足らないのが現状で」という言葉はよく耳にします。
先生たちが少数精鋭でフル稼働してることが前提の学校、それは子どもたちを預ける環境としてはやっぱり心配ではあります。ここに人員的な余裕ができればもっといろんなことが解決していくんじゃないか、と思ったりもしています。簡単ではないからこそ今の形で皆さん頑張ってくださっているのだと思うのだけど。
会社で仕事をしていても、ギリギリの状態でまわしているときはミスが増えたりギスギスしたり、なんかしんどくなることも多く。
ブラック企業と言われるところなんてその典型だよね。
家庭も、同じだと思うのです。
フル稼働になっちゃ、だめなんだろうなと。
いつも忙しくしてること、全力で頑張ることが日常になってること、それはやっぱり、色んなひずみを生んじゃうんだなと。とても当たり前なことのようなのだけど、改めてそれを感じています。
自分がフル稼働でいて精神的に疲弊してきちゃうと周りの「フル稼働せずに生きてる人」が妬ましくなったり、フル稼働でないことがおかしいという考え方にすらなっちゃうような、そんなこともあるんじゃないかなと。
人生の中で、フル稼働で頑張る時、って言うのがあること、そのメリットは否定しないです。頑張らないといかんときもあるし、頑張ったときにしか得られないものもある。
でも、それを日常にしてしまうと、自分が思っている以上に周りを困らせることになるんだろうなと思うのです。
というようなことを下書きに保存してそこから先が書けずにいたら、WMとして著名な治部れんげさんのこんなツイートが流れてきました。
2人とも0歳の時に復帰、時短とらず就労継続、専門職的総合職をつづけると、つい「実力と努力で仕事つづけた」と思いがち。でも違うんですよね。たまたま「上司」がよかった。たまたま「夫」が協力的だった。たまたま「保育園」に入れた。ラッキーじゃなきゃ続かないのが現状。
— 治部れんげ (@rengejibu) 2014, 9月 5
この、つい思いがちな感情、私も思い当たるものがあるのです。
私が頑張ってることの成果、賜物、ついそう思ってしまって、突っ走っていた。でも本当は、いろんな人が支えてくれていたり、色々なラッキーが重なったりして乗り越えられてきていたに過ぎなかった。
これは、先日のエントリで私が白旗をあげた、その理由そのものでした。
大きな問題に遭遇することもなく、努力だけで何とかなっているような程度で済んでいただけだった、それが現実でした。
そしてその、努力してるんだという自負によって、ラッキーであることの自覚も、支えてもらえていることへの認識も薄いままだったと、痛感した結果が、前回のエントリの結末となった「人をちゃんと頼ろう」という結論でした。
フル稼働であること、それは「イレギュラーが無いという前提」と同義だと思います。
無いといいなと心のどこかで思いつつ、何事も起こらず過ぎていく運のよさに胡坐をかいている状態。その不安定さを標準に設定してしまうことは美談でもそれが親として当たり前でもなんでもなく、無理なことをしてるんですよ、子どものためにも自分のためにも周りのためにも良くないですよ、ということを、しつこくても何度でも表明し続けたいと、そう思うのです。