スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

「謝罪」と「反省」 〜昨日のつづき。


昨日のエントリが思った以上の反響を呼んでいてちょっとビックリしています。


スリードを引き起こしてしまった要素はやはりタイトルなんだろうなと。
そして内容のなかで「謝る」ことと「反省させる」ことを明確に線引きして書いていなかったことが敗因だったのではないかと考えています。

 

昨日、たくさん頂いているブックマークコメントやTwitter上で頂いた感想等を参考にしながら自分なりに色々と考え、その中で思い至ったことは「謝罪って何だろう」ということでした。

 

私が出会った男の子とお父さんのケースで考えると、あのとき男の子がすぐに謝れなかったのは、自分がぶつかってしまったことととても大きな声で謝るよう何度も促したお父さんの様子に驚いたことが大きな要素になっていたと思います。その状態から、自分がしたことを受け止めて謝る気持ちになるまでには時間がかかるだろうなと私は思いました。

 

そこで無理に何度も謝らせようとして怒っていたお父さんと何も言えなくなっていた男の子のことがちょっと気になってしまっていたのだろうと思います。

 

すぐに謝れなくても、時間をかけて自分の気持ちや起こってしまったことを言葉にして誰かに聞いてもらって整理して、そこで初めて反省と、その反省を伴う謝罪が出来るのだろうなと、そう思いながら書いていました。

 

たくさんのコメントにあった「でも謝らないとダメでしょ」という言葉。
うん、本当にそうなんですね。ごめんなさいと謝ることでその場は収まるから。
でも、このケースで謝らないといけなかったのは男の子ではなくて怪我をさせたかもしれなかった子の保護者であるお父さんであり、また管理が充分でなかった私でもあるわけだということに、夜中ズイショさんが書いてくれたアンサー的エントリを読みながら気づきました。

 

子どもが謝るのは一番最後でいいっすよ - ←ズイショ→

 

お父さんは私と末っ子に、私はお父さんとその男の子に、それぞれ「ごめんなさい」「すいません」と言葉を交わした。そうか、お互いそれでよかったんだなぁと。最後に声をかけなくてもよかったんだろうなと、反省しています。

 

ここで行われた謝罪は、起こってしまった事実を考え反省して絞り出した謝罪、ではなくて、ある種形式的な、大人だから短時間の思考で導きだせるコミュニケーションスキルの一環としての「ごめんなさい」なのだろうと思います。起こった出来事に対して

・相手の溜飲を下げるために
・相手をこれ以上怒らせないために
・その場をうまくおさめるために
・自分の非を拡大させないために etc.

これを即座に判断して、謝罪の必要性を考えて謝る。これはよく考えたらかなりの知識を要する技術なのかもしれないと。何歳くらいになればこれが可能になるのかは個体差もあるとは思うので一概には言えませんが、大人でも判断が難しいこともあるんだろうなと思います。

 

前述のズイショさんのエントリのなかでは、ボーイスカウトの子たちが危険なことをしていたところを叱ったら引率の方が来て謝ってくれて子どもたちを連れて行って、後から叱られたであろう子どもたちが自分たちで謝りに来た、と書かれています。
管理する大人がそこにいる以上、謝るべきは大人であるというこの視点はとても大事だなと思いました。相手がどんな大人か分からないところで、状況の理解も怪しい状態の子どもに無理に謝らせることで相手の溜飲を下げさせようとするのは、相手の大人にとっても失礼だし子どもにとっても苦痛でしかないのかも。

 

後からゆっくり話して聴かせて自分たちから謝罪に行かせたボーイスカウトの引率者さんの行動、見習わねばと思います。
※もちろん、相手がその時間が経過するまで待ってくれるとは限らない、という状況も有るとは思いますが。


私が本を読んで自分の子育てを振り返り危惧したことは、親としてつい謝らせることに固執させていないだろうか、ということ。そして、謝れば終わりではないと改めて考えなければということでした。

 

子どもにとっても、相手を怒らせたかもしれない場面、相手を傷つけたり泣かせたりした場面では即座に謝るというスキルは身につけておく必要があるとは思います。
私もうちの子たちに、子ども同士で何かトラブルがあったり、外で何かしてしまったら「まず謝る」ことを勧めてはいます。でもそれは更に怒らせたりトラブルを広げたりしないための護身術のようなもの。不特定多数の人と接触しながら、その場限りで終わる関係も含めて生活していくなかでは、とりあえず謝るという技術はとても有効だと考えます。相手がどんな人かわからない以上、とっさに謝ってその場を収められることは大事なこと。
将来的に子どもたちが取得していて欲しいとも思います。

 

でも、それで問題が解決できるわけでも、再発が防げるわけでもない。

 

その「とりあえず謝罪する」ということと、育児する上で子どもたちが、自分がしてしまったことを理解し受け止めたうえで相手の気持ちに寄り添い謝罪の言葉が自ら導きだせる子になっていくような働きかけができるか、というのは次元が違うのだなとも感じています。

 

ブコメの中で「謝れない大人」についての言及がいくつかありました。
ネット上でも謝ると死ぬ病、という表現もちらほら見ます。私の周りにも居ます。過去、私も謝ることが苦手でした。

謝れない大人の背景には「謝らなくて良い」と育てられた過去が有るのでしょうか。私は逆じゃないかと思うのです。適切に自分の反省の気持ちを導きだすような働きかけをしてもらえずに育ってきてしまった、自分の気持ちを聞いてもらって反省して謝って許してもらって見守ってもらってきた経験を積んでいないのではないか、と私自身の周りにいる「謝れない大人」とおぼしき方数人を見ていても思うのです。

 

謝れない人、は往々にして人を上手く頼れない人でもあります。
人に、何かを頼んだり謝ったりと自分のマイナスの側面を見せた上で肯定的に受け入れてもらって育ってこなかったからかもしれない、と自分や周囲の謝れない人たちを見ていて思います。
だから謝らなくて良いわけでも、免責されるわけでもありません。

ただ、そういう不運が過去にあったことも一つの側面として考えて接すればいいのかなと思っているだけです。

 

喧嘩をしたり、問題行動を起こしたりした子どもと直後に接すると、その場で出てくるのは「だって…」という言い訳のオンパレードだったりします。その、言い訳がましい親としてちょっと情けなくなるような言葉を相づちを打ち続けながらしばらく聞いていると、だんだんと語調が変わってくることもよくあります。

※このエピソードについては「子どもが聴いてくれる話し方と話してくれる聴き方大全」という本について過去に書いたことがあります。


話し方聴き方実践をやってみた。 - スズコ、考える。

 

自分の気持ちを吐き出しきった子どもは、最後に自分がしてしまったことを自ら振り返り、そして、相手がなぜこんなに怒ったのか、相手がなぜこんなに傷ついたのかを自分なりに考え、自分から謝りに行ったり、許してもらえる方法を一緒に考えて欲しいと持ちかけてきたりします。

 

昨日のエントリで触れた「反省させると犯罪者になります」という本。
前半は犯罪者更生についての内容が主ですが、第4章ではしつけについての話がまとめられています。

 

この4章の内容については過去に書いたいじめやそれを引き起こす環境についてのエントリに繋がる部分もあるので、また別の機会にまとめられたらなと思っています。

3章までの更生プログラムの中でも、4章のしつけについての内容の中でも触れられているのですが、犯罪や問題行動を引き起こす大きな要素の中に「人との関わり方」の問題が潜んでいると著者は書いています。これは私も思い当たる部分や納得の行く部分が多く有ります。

 

自分の話を真っ向から否定されること無く吐き出すことを認められた子は、自分の力で自分の過失や問題点を振り返り、反省することが次第に出来るようになっていく。周りとの関係性の中でそれを促されながら育って行くことが、最終的に「反省ができる大人」「自らを抑圧しすぎず周りに助けを求めながら生きて行くことができる大人」への道に繋がるのかもしれません。

 

そして、そうやって育っていった人にとって、謝る、という行為は、自然と人を頼れるのと同じくそう難しくない、ハードルの低いものなのではないかと考えています。

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