ジャポニカ学習帳についてのツイートがなんかたくさんRTされててここ数日通知欄が大混乱してますこんばんは。
ジャポニカ学習帳の件で思うのは、虫が好きな人も嫌いな人もいて当たり前なんだけど、私が気になるのは「好きな人もいるだろうけど自分が不快だと思うものを声をあげることで無くすことができる」という経験はわたしはしたくないし子供らにもさせたくないということ。
— イシゲスズコ (@suminotiger) 2014, 11月 27
TLに流れてきた、ジャポニカ学習帳の表紙から虫の写真が消えたという記事が、ツイートの発端でした。
元記事は違うメディア発だった気がするのですがYahoo!に転載されてる記事を見つけました。
Yahoo!ニュース - ジャポニカ学習帳から昆虫が消えた 教師ら「気持ち悪い」 40年続けたメーカーは苦渋の決断 (withnews)
結果的には一年以上前の別の記事
虫嫌いのママも納得 昆虫と仲良く暮らす秘訣 :日本経済新聞
の掘り起こしにより、上記の記事は「気持ち悪い」と訴えて排除した教師や保護者をクレーマーやモンスターとして叩く対象としてあぶり出しているような意図を感じさせる、やや悪質な記事だったということが見えてきてツイートに私が書いたような、自分の不快感を声高に叫んで何かを排除するという経験をした人が実際に存在したかどうかも良くわからない感じにはなってきました。
が、たくさんの方がRTしてくださっているこのことについて、少し書いてみたいと思います。
私は、差別表現など問題をはらんだ特定の何かに対してその存在について問うために声をあげることは否定しません。
私が怖いのは、不快、という自分の感覚、感情をもとにしてその存在そのものを否定したり排除を求めたり、それが叶ってしまったりすることです。
上記のふたつは、声を上げると言う点では同じ行動かもしれませんが根底にあるものが全く異なります。
前者はその存在が孕んでいる社会的な問題について考えていこうという提言であり、そこから冷静な議論を積み上げていくことを前提としているのに対し、後者はまず感情ありきであること、差別的であるとかの社会的な問題を孕んでいるものではなく是とする人、好む人もいることがわかっているけれど自分の感情が優先されており他者の意見を取り入れる余地が感じられないという、大きな違いがあると思います。
私はツイートの中で、その、自分の不快という感情を押し出してその対象を存在ごと消してしまうという経験はしたくない、と書きました。
その経験をすることがなぜ嫌なのか、それは、自分が何かの存在に対し「不快だから無くなれ」という考えの元に行動を起こしそれが通ってしまうということは、私以外の誰かが、自分や自分の大事なものや人に対して同じように「不快だから無くせ」という主張ができること、そしてそれにより排除される可能性があるということを自分で認めることになってしまうからです。
何かに対し、不快だと感じることは個々の自由です。
虫が嫌いな人は虫がテレビの画面に映ることもノートの表紙になっているのも嫌だろうと思います。
その、嫌だと感じる気持ち自体は誰にも制限できるものではない、自分だけの大事なもの。
それを、見ないようにすることや避けることは、自分の境界線のこちらがわで出来ること、そのラインを踏み越えて、自分が不快なのだから周りが変わるべきだと動くことは、自分以外の人が同じように自己の境界線を踏み越えて感情でなにかを動かしてもよいということ、それが、私にとって怖いことなのです。
今回のジャポニカ学習帳の件については、クレーマーに屈して虫の表紙がなくなったというよりは教育現場でなるべく選ばれるデザインを優先したという結果、人気がなく淘汰されたと言うのが実情なのかなと思います。
今回はこういう実情もあって結局はマスコミによりモンスタークレーマー像が作り上げられていた感は否めず、私のツイートやこのエントリの中で懸念したことも杞憂であったと言えるのかもしれません。
ただ今後、さまざまな出版物や造形物、そこから発展して生きているものの存在に対してまで、このような不快感を押し出すことによる排斥が起きていかないかと、これが杞憂に終われば良いのにと思わずにはおれません。
余談ですが、こういうことをいうと恐らく一例として出てくるのが、電車の中吊り広告の卑猥な表現について。
私は、あれは女性蔑視などの差別表現も多く含まれており子供も含め不特定多数の目に触れるところで掲示されることに問題があると考えます。
ただ、そのような性的な嗜好を持つことやそのような表現を好むこと自体を簡単に否定するのは難しいと考えます。
児童ポルノなど明らかに社会的な問題を孕んだものを擁護はできません。
でも二次元のものなどをそれと同じ理由でまとめて否定できるのか、存在の抹消を求めることができるのか、については個人的に好む権利はあるのではないか、とも思え、その境界線を越えて踏み込むことが是であるとは言えないのではないかと思います。
2014.12.03 02:29 PCよりリンクの貼り直しと一部修正をしました。