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スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

その家事が、誰にとってのメリットがあるのかを考えること。


たぶん、今年最後のエントリとなると思います。

 

ここ数日、年末最後に飛び込んで来たあれこれを片付けたりやっと自分の年賀状に着手したりしながら、うんうん考えていたこと。

 

トピシュさんのエントリ


"妻よ、家事能力の低い夫を叱らないで"への意見 - 斗比主閲子の姑日記

とその発端となっている元記事やそれについてのツイートまとめ(トピシュさんのエントリからリンクが貼られていました)を読んで「家事能力の低い夫を叱る」って何だろう、と悶々としておりました。

 

Twitter上でもぶつぶつ言ったのですが、家事のスキルが低年齢で培われていることや一人暮らしをした経験があるかどうかと、実際に結婚してから家事に抵抗無く取り組んで夫婦間が上手くいくこととが繋がってるんだろうか、ということ。

私の周りには家事スキルゼロで結婚して専業主夫ばりに家事育児に取り組んでいる人もいれば、一人暮らしを長くしていたのに家事なんかしないと奥さんが愚痴るもいる。そこの違いはなんなんだろう、と。

 

そして思い出したのが、前に書いたこのエントリ


息子に家事なんか仕込まないぞ。 - スズコ、考える。

とその続き


私が「息子に家事を仕込む」ことに抵抗を感じた理由。 - スズコ、考える。

 

1年前から、考えていることの根っこはたいして変わっていないのですが、改めてこのことについて考え直して今年の締めくくりとさせていただこうかなと思います。

 

私は、今も息子たちに家事を「仕込む」(上記エントリでの私の中の印象による語意なので、気になる方は読んでみて下さい)ことはしたくないとかたくなに思っています。

 

日常の中で家族の一人して必要なことをしてもらうことはありますが、あくまでも彼らにとって利益があることを優先しています。例えば、友人を遊びに呼ぶときに玄関からトイレなど共有スペースの片付けや掃除、自分の着るものの整理、お風呂掃除、料理や食器の後片付け等。それ以外の、一見彼らにとってさほど利益が感じられないこと(窓ふきや私の作業の補助等)を手伝って欲しいときは手が必要な理由を説明して援助を求め、ありがとうを丁寧に伝えることを意識しています。

 

私は、家事と育児の分担、協力、ってこの、個人のメリットがどの程度あるのか、というところに尽きるのではないか、と実は考えています。

 

その行動で、誰にメリットが生じるのか、それを曖昧にしたまま「家事」「育児」を「家族のタスク」として設定してしまうことで、それへの抵抗や逃げたい心理、めんどくささが助長されるのではないかなと。

 

例えば長男にとって、玄関やトイレを片付けることは「友達に散らかった家を見せない」というメリットが生じます。彼はそういうことに細かいので、彼にとってはとても大事なこと。

これが、そういうことにまったく無頓着な次男にとっては片付けていようといまいとどっちでもいい、どこを見られても気にしない、だから共有部分を片付けることにメリットはない。

 

その、それぞれの感じることをバッサリ無視して二人に「友達を呼ぶなら家を片付けるよう」と言うとしたら。

長男は自分のメリットを感じながら動けるけど、次男にとっては強いられた苦行でしかなくなってしまう。

 

この、家事育児の中のひとつひとつの作業に対する個々の感覚を無視して「やらないといけないことだから」「当たり前の家事だから」「お手伝いさせないといけない」とねじ込むことでいろんな不協和音が生まれるような気がしています。

 

「人を家に呼ぶときには家を片付けた方が良い」という、一般的な良識を教える機会とする必要はあるかもしれません。が、それもその良識によってどういうメリットがもたらされるかを本人が理解しないと何の意味もない、ペットの躾と同じだと思います。

 

そしてこの、メリットを考えないで取り組もうとすることは妻であり母親である自分の首も締めることになるのではないか、と思うのです。

 

よく、家事は誰からも褒められない、お給料ももらえない、評価されない、と言われます。先ほどちょうど拝見したツイートで、賽の河原の石積み、という表現を見ました。まさに、そんな心境で立ち向かっている方も多くいらっしゃるのかなと思うし、私もそう感じてしまう事は過去にも今もあります。

 

でも。

その、徒労に思える行動を、何故やっているのか、という事。

徒労なら、評価されないなら、やらなくていいのになんでやってるの?

 

じつはこのこと、前に書いた事がありました。

たとえば、夫があちこちに服を脱ぎ捨てることが気に入らないとき。

張本人はどこに服が脱ぎ捨てられていようと生活するうえでは全く気にならないのかもしれない。むしろ、次また同じものを着ようと思ったときそこから取ればいいから楽とすら思っているかもしれない。

妻がそれにストレスを感じたとしたら、それが何故かを考える。

 

誰かが来たときにみっともないから?

床に服が落ちているのが我慢ならないから?

一度着たものは洗濯するか風を通すかしないと不快だから?

服が落ちているような雑然とした部屋で暮らしたくないから?

 

自分の中で思いついた理由を書き並べてみると良いと思います。

その中に一つでも、旦那さん自身が困っている理由があるか、ということ。

ほとんどなかったりするんですよね。自分が不快、というのがほとんどを占めていたりする。

だったら、「私が見たくないから」「私が嫌だから」→「私が片付ける」

もしくは「私が嫌だから」→相手に配慮を求め協力を促す→相手が応じて気をつけてくれる→「ありがとう」

だと思うのです。

この2つの行動、まったく違う次元に思えて実はとても近い。自分のストレスのための行動だと自分で理解してるからこそできることだからです。

 

「嫌なのは誰か」 ~自分が感じるストレスを減らすために - スズコ、考える。

 

家族の為に仕方なくやっていると思っている行動の多くは、結局「自分がやりたいから」「自分が不快だから」だったりしないかな、と思うのです。そして、その視点から見て自分にメリットが何もない行動なら、そんなの家事から除外してしまえば良い。お金で解決できるならそうするのもありだと思います。

 

ある家事動作を考えた時、その家事をすべき動機がどこにあるのか。

それを、自分ではない何かに強いられていると感じているから主婦にとって家事が負担なのかもしれない。

掃除も洗濯もご飯を作ることも、ただのタスクとして受け止めると苦行。

でも「子どもに汚い格好をさせたくないから」「自分が綺麗な部屋に住みたいから」やっているのであればそれは、苦行ではなく自分の負担やストレス軽減のための行動として取り組めるのではないかなと。

 

自分ではない誰か何かに強いられていてしんどいと感じてしまっているそのことを、同じように夫や子供に強いたら、それはただの悪循環でしかないと思うのです。

 

いくら家事のやり方を小中学校で習っていても、いくら家事育児を小さい頃から自宅でやっていても、自分がそうすることのメリットを感じられなかったら、感じられないのに強いられたら、やっぱりやりたく無いんじゃないかと思う。やらずに済むならそうするんじゃないかなぁ。

 

だって私だって、誰の為かも分かんない洗濯とか掃除とか「やれ」って言われたらやりたくないもん。

 

ここ数日、悶々と考えてた答えはそこだと思ったのです。

 

現状で家事を問題なくシェアできている家庭にあるのは、それじゃないかなと。

ひとつひとつの家事に自分の利益を感じられること、自分がしてほしいと思うことを相手に具体的に頼めることとその行動に感謝すること、相手がして欲しいと思うことを補うことで感謝されて嬉しいと思うこと。

 

たとえば洗濯は家族みんなにとって利益があること、だと思うけど、じゃあその洗濯の頻度は、洗剤の種類は、分別の仕方は…まったく同じことを想定しているかなということ。

妻が「当たり前」夫が「当たり前」と思っていることに差はないか、と考えてみたらどうかなと思う。そして、誰かの基準を家族のスタンダードにするのであれば、それ以外の構成員にとっては自分の求めることではない行動に繋がるわけだから、そこには協力の依頼と感謝を忘れたらいかんのではないかなと。

 

奥さんが機嫌悪くならないように家事をやる、というのも、一つのメリットのための行動なのではないかなと思う。だって奥さん良いほうが自分が助かるという、明確な利益がそこにあるから。

 

 

こういうことをつれづれ書くと、結婚てめんどくさいと思われて結婚したく無い人増えそうというコメントを頂いたりする。

うん、そりゃそうだと思う。

めんどくさいよ、だって他人が一緒に暮らすんだもの。

生まれも育ちも価値観もいろんなものが違う他人が、大人になってからわざわざ一緒に暮らすんだからめんどくさくないわけがない。

これまでもしめんどくさくないように感じている人に出会った事があったとしたら、それは奇跡的に価値観があっていたか、パートナーが精神的におかしくなるほどの我慢をして維持してるかどっちか。その歪みが、日本的なACを生み出す要素の一つになっているんじゃないかと思う。

 

 

よく、女の家事負担をどうにかしないと、夫の仕事の時間を…と総論としてこの問題について語る意見をあちこちで目にします。

でも、この、個としての家庭のなかを上手く回していくことと、日本の家庭、としての総論を同じ次元で語ることはできないと私は考えます。たとえ同じように夫の家事負担が少ないことで悩んだり不満を持ったりしている人が身近に複数いたとしても、その内情は全く違うはずです。育ちも性格も職業も。でも、個々の家庭内を上手く回すためにはその内情をしっかり考えて話し合わなくてはならない。同じ不満にみえても、それはイコールではけしてないし、同じ解決方法は取れない。

 

でもまとまって同じような意見がたくさんあるように感じると、家事をしない夫たちや夫を帰さない企業がぼんやりとまとまった、架空の敵と戦うことになってしまう。

そしてその架空の敵と戦う姿を見て違和感を覚えた人たちからの反論が起こり、お互いに敵ではないはずなのに噛み合ない論争が続いてしまっている、ように私には見えます。

 

上手く行っている家庭をモデルケースとして参考にすることや、同じような困りを持つ同士でその解消に向けてどうすればいいかを模索することは有意義と思いますが、そこと、個々の家庭の問題の解決はイコールではないと思う。

 

家事の負担について悩みやしんどさがあるなら、まず向き合うべきは目の前の夫であり、対策を取るべきは自分の家庭の中、だと改めて思います。

 

 

この1年、本当にいろんな事を考えたりしてきました。

前回のエントリでも触れたように、話し方聴き方大全の本に出会えたこと、その、本を通して対話について考えたこと。子どもや夫の話を聴くこと、聴いてくれるように話すこと。それは、相手が切り離された別人格だとしっかり意識することに繋がりました。

 

「私」と「あなた」は違う人。

それは、人間として別の個体として生きているという、目に見えるとても当たり前のことなのだけど、でも実感として、ちゃんと考えて生きていかないといけないことなんだと改めて考えた1年でした。

 

今回のエントリにも、それは考える基礎として関わっています。

夫婦であれ、親子であれ、自分とは別の人。

ひとつの家事をとっても、別の価値観で、別の捉え方をしている、別の人。

だからこそ、自分の「当たり前」を押し付けないように、相手の当たり前を背負わないように、話し合ったり、譲り合ったり、助けを求めたり感謝したり、していく必要があるのではないかなと思います。

 

それではみなさま良いお年を。

今年もたくさんのご愛読、ありがとうございました。

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