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スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

「女性が〜〜に向いている」ように錯覚させる性差ではない2つの差。


新年最初のエントリになります。

今年もぼちぼち考えていきます。よろしくお願いいたします。

 

さて最初に何を書こうかな、と思っていた昨夜。

認知症の父親の介護のことを書かれたツイートが流れてきました。その中で、男性は親が呆けてしまうことを受け入れられないことが多い、というような表現を見て気にかかりました。

 

現実として、私の周りでもその傾向はあります。

自分の親の介護を妻に任せて病院にも行かない男性、って結構たくさんいます。

受け入れられない、という本人の声を実際にきいたこともあります。直視出来ない、どう対応して良いかわからない、見ていて辛い。

 

そういう逃げ腰の身内を持ちながら、結局出来る誰か(主にその人の妻や姉妹)が介護を全うして見送って行くのを周囲で何組も見てきました。

 

男性には受け入れづらい。向いていない。転じて、女性の方が向いている。

 

これは、介護のことを話す時によく耳にすることでもあります。そして育児のことを話すときにも。

  

性別による向き不向きがあるかどうか、これ、目の前の傾向だけを見ていたら錯覚しやすいのではないかな、と思います。

 

自分の身の回りの現実を眺めていたら、確かに性別で傾向が分かれているような気がするんですよ。男性は育児や介護にはあまり手は出さず(出せず)女性が担っているケースがかなり多いから。

 

育児中の男性は主に働き盛り、介護時期の男性は社会的要職についていることも多い時期、でどちらも多忙な人も多い、というのはわからなくもないのです。物理的に分担が難しいことをごり押しして平等に負担を分ければ良いという話ではありません(そうじゃない話は過去のエントリで色々書いてきたのではしょります)。

 

結果的に「出来ない感じ」の男性も多かろう、ということは前提として踏まえた上で、では本当に女性という生き物が最初から構造として「介護に向いている」「育児に向いている」のか、ということについて考えます。

 

結論から行くと私は、否、と思います。

 

それは「女性を差別するなんて」「女性と男性は同等である」という価値観から発する見解ではありません。結果的に女性が向いているように感じることには、性別ではない2つの差があるのではないか、と考えています。

 

1つめは「経験の差」

やったことがあるか、見たことがあるか、の差です。

これは祖母が認知症になったときに痛感しました。祖母の子どもたち(つまり私の親や伯父伯母等)の中で祖母の状態を受け入れて接することがすんなりできたのは同じように認知症になった曾祖母の介護をかつて経験したことのあった一人だけでした。他の親族は介護の当事者として接することがあっても現状を受け入れるのがとても難しそうに見えました。適切でない対応(怒鳴る、否定する、等)を見せることも多くあり、そこに男女差は特に感じませんでした。

 

経験があれば先も見やすいし接し易い、諦めもつけやすいし、手も抜きやすい。

介護への難易度が低いのは至極当たり前なことです。

 

その当たり前の連鎖を「女という性が何年もやってきた」というのが根底にあると考えたら。

 

今の男女を大きな枠で考えて比較したときなんとなく女性の方が向いている人が多いように感じるとしたら、その表面ではわからない積み重ねた経験の差が影響を与えていたりしないだろうか、と思うのです。

 

今ではそう見られないことかもしれないけど、私が小さい頃は台所に入っての手伝いは兄たちには与えられていませんでしたし、祖父母の介護の手伝いも私はなぜかさせられていて。

じゃあそれを経た私は多少の家事労働の経験があり、老いていく祖父母の姿を複数見て来た経験もある上で大人になった。それが皆無の人との差はかなりあろうと思います。

 

その傾向を個別ではなく大枠で考えたら、自分で手を出した事や見聞きした事を含めて、育児や介護といういわゆる女の仕事とカテゴライズされて来たことについて未経験な人より得意とする女性が多いのかもしれないなと思うのです。

 

その水面下の経験値差を無視して、女性は男性より家事育児介護に向いている、と主張するのは無理があるんじゃないかなぁと思ったりします。

介護職や保育職に男性がたくさん活躍されているように、男性には向かない、というわけではないと思うのですよね。その現実に直面するまでの経験値の差、その差を生んでしまうそれまでに培われ続けた社会的な性的役割分担の経緯が根底にあるような気がするのです。

 

 

2つめは、環境の差。

環境、というと漠然としていますが要は「逃げられるか否か」です。

前述した介護を直視したく無いという心理が働いたときにそれを避けられるか否か。

困難に直面した時、それを前向きに受け止めてこなすのはとても難易度の高い事だと思います。介護はとくに自分が選ぶ選ばない、望む望まないとに関わらず降りかかってくるものなので何故自分が、という気持ちは多かれ少なかれ生じるものなのではないかと思います。(育児に関してこれを持ち込むと「自分で望んだ未来なんだから我慢しろ」という言葉がかかることがありますが、自分の経験から言うと生む前にその困難の度合いを想像するのは多分かなり難しいです。万全の体制で健康な子供が生まれるとは限らないわけですし、どのくらいしんどいかも子供の個体差もあり想定は難しいと思います。)

 

これまでに経験した事のない困難に直面したら、逃げられるものなら逃げたい、負担を出来るだけ減らしたい、と思うのはとても自然なことだと思います。

 

でも。

育児で最終的に誰もが逃げたらどうなるか、想像に難く無いと思います。過去のリアルな事件を思い浮かべてしまったのですが、そういう結果が待っている。介護でも同じです。

 

最終的に「みんなが逃げる」ことは倫理的に不可能。だから、最終的に誰かの肩にいろんな事が乗っかってしまう。その、乗っかる人に最終的になってしまったら。

 

前述したように、仕事の多忙や社会的な活動など、これまで外の活動のために時間を割く必要があるのは男性の方が圧倒的に多かったのではないでしょうか。その結果、自宅に残らざるを得なくなる役回りが女性に回ってくることが多かった、というのが現実に起こって来たことではないかと思うのです。

 

そして、項目を分けはしましたがこの、結局お鉢が回って来て逃げられないのが女性に多い、という状況が1つめの経験値へと繋がっていくのかなと。

 

結局妻がやらざるを得なくなって普段やってない夫より子供がなつくから(上手に出来るから)しょうがないよねってなる、という一世代のなかの短いスパンでも起こり得ることだし、世代をまたいで女性にその性的役割分担が課せられてきた結果として積み重なってきた長いスパンで起こり続けてきたことでもあるのではないかと思います。

 

そしてその長い時間をかけて、これが差別であるという意識は無くなりとけ込んでいってしまったのではないか、というのが今朝読んだこの記事でした。

「男向け」「女向け」にみる区別アレルギー 〜ダサピンク現象のズルさと危険性 - YU@Kの不定期村

 

丁寧に書かれており部分的には理解出来る箇所もあったのですが、最後の最後でお茶汲みの事例を挙げて根底にしっかり差別が根付いていることを露呈してしまっている「自分は差別する気持ちなどない」と言いながら結果的に差別に繋がる言動をする人の特徴が顕著に読み取れる記事でした。

 

筆者は繰り返し、差別の意図はないことを書かれています。

実際、意図的に女性を排除しようという意識はもたれていないのだろうと思います。

 

が、具体的に最後の例で言うと、お茶汲みという女性に与えられた性的役割分担について

母によると、「お茶を淹れるのは台所経験が多い女性の方が上手いのだから、女性がやるのはある意味当たり前だ」、と。

 とお母様の例を挙げていらっしゃるのですが、台所経験が多いのは「筆者の母」であって「あらゆる女性」ではないことに気づかず、個の経験値による得手を女性の生来の特徴であるという性差へと結びつけている。(実際にはお母様の言葉ですが例示されているので本人のお考えと同意と受け取りました)これが、性差別でなくてなんなのかと思うのです。これを、男女ともに無自覚にやってしまうことが差別の怖さです。渦中にいる本人も分からなくなる、周囲も麻痺してそれよしと思ってしまう。

しかし同時に、「女が淹れて当たり前という男性には淹れたくない」「ありがとう、と一声かけてくれる男性にはまたお茶を淹れようと思える」とも言っていた。

と続くのですが、これは私がこれまでにこのブログで書いてきた、自分の出来ないことや苦手とすることをしてくれたら感謝する、というのとは根本的に違います。性的役割分担の上に胡座をかいて、労いの言葉をかけることで自分の差別を肯定するための言葉であり、その言葉を受け取ることで虐げられている現実から目をそらすための言葉でもあるからです。

漫画「プロチチ」3巻で妻が家事を主に請け負う夫に「無理しなくていいのよ」等の労いの言葉をかけるが夫がそれに苛立つ、というシーンがあります。

この労いには「自分がその労を引き受ける気は全く無いことが透けて見えるから」イラッと来る、と夫は同僚の助言から気づくのですが、上記ブログのお茶汲みへの労いもそれに近いと思います。

自分はやらない、請け負うわけがない、という前提のもとで、やっている人に労いの言葉をかけている、という状況。相手は絶対に1ミリも肩代わりはしてくれない、自分がやらざるを得ず改善の余地もないところにかけられる言葉。

 

このお母さんが労いの言葉を好意的に受け取っているのはそうしない人が大多数であり声をかけてくれる人がいることが多少のモチベーションを上げることに繋がっていたからではないか、と推察します。私の母世代の女性(戦中戦後生まれあたり)と接していると、自分が置かれている明らかに差別的な環境について疑問を抱くこともなくある意味自然に受け入れている傾向を感じることがあります。それはもう抗えないものであると最初から思っている感じです。この筆者のお母様もその傾向はあるのではないかな、と世代的な背景からも感じました。

 

さて話は性別ではない差について戻ります。

 

うえの2つの差をふまえて出てくる3つめの差。

それが環境や経験値を含めての個体差です。

当たり前すぎることを最後に持ってきてしまったのですが、これがやはり一番意識しなくてはならないことなのではないかと思います。

 

前述したブログ記事のお茶汲みのエピソードでもありましたが、台所経験が多いとか、家事が得意だとか、よく家事をやるとか、それは全部性差ではなく個体差です。

家事が苦手な女性も、家で家事をやらない女性も、小さい頃からやってこなかった女性も、同時に存在していてなにもおかしくない。

得意な人がやるのが前提であるなら、得意な男性がやってもいいわけで。

 

その個体差でしかないことを、女性の傾向だと結びつけ、性的役割分担の強制に繋げ、その差別を正当化している、それに無自覚でいる、というのは怖いなと改めて思います。

 

企業がその広報活動のなかで様々な統計から男性向け女性向けの商品や広告を作ることが即男女差別だとは私も思わないし、過剰な反応は逆効果だと思うこともありますが、声を上げなければ解消されないことでもあるのは事実で、冷静に考えながら言葉にしていきたいと今年の抱負的なことを考えながら、長くなりましたが新年1つめのエントリを終わります。

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