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スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

子どもを加害者にする、嫉妬・ねたみ


夜中に障碍児をからかう小学生のことを複数の方がツイートしているのを拝見しました。私自身みんなと同じことが出来ない子どもがからかわれるように見える場面に直面して悶々としたり、自分の過去を思い返して怒りや哀しみがわき上がって落ち着かなくなったりした過去があるので、憤りを感じる親御さんの気持ちは我がことのように読みながら共感してしまいます。

 

ただ同時に、その加害側である子どもたちに対してどう接していくべきかということについて色々と思い悩む事もあります。

 

きつく叱った方が良い、のは誰のため

夜中に見たツイートに関しては、当時者の親御さんには沢山の方から、そんなことした子には厳しく直接注意したりした方が、という声が寄せられているのも見ました。うん、それは有効だと思います、我が子を守るために。

 

そうなんです、あくまでも我が子を守るために、だと思うのです。

我が子に近づくな、下手したらただじゃおかないぞ、という威嚇という意味では効果があると思います。

 

なんでこんなことをあえて言うのか。

それは、その厳しい叱責が加害者側の子にとって改善のきっかけになる可能性は低く、下手したら逆効果になるかもしれないからです。

 

加害者とひとくくりには出来ない

加害側、と一言で言っても切り分けて考える必要があります。

理解が足りずに無邪気に人を傷つけてしまう低年齢の子たちと、ある程度社会的弱者のことを学んだ上で意図的にそれをやっている年齢の子たちです。

 

無邪気に人を傷つける、低年齢の子どもたち

前者に足りないのは、知識と経験です。よくあるのが、ハンディのある子が同じチームになったのを嫌がる、一緒に〜〜したくないと言うとかそう言う種類の、思った事を正直にしたりやったりした結果が、大人の目から見たらハンディのある子への差別的言動に見えたり、当事者を傷つけたりする結果になってしまう、というケース。

大人からしたらハンディのある子や人に失礼な振る舞いをしたときつく叱責しがちなケースですが、単なる知識不足なのでそこまできつく言われることはかえってトラウマに繋がる可能性は無いかな、と思います。実際、そう言う種類のトラウマを抱えて大人になっている人が知り合いに居て、ハンディのある人に関わることが苦手だと話してくれた事があります。

大人にとっては配慮が必要だとすぐにわかるハンディのある子たちも、子どもたちにとっては入園入学したときから同じ場所にいる子だったりするわけで、大人が考えるよりはるかに自分たちとの違いが感じにくい状態なんじゃないかと思います。大人が思っているほど、子どもたちは「社会的弱者に優しくしないといけない」とは思っていないのかもしれません。

うちの子たちも、低学年の頃は自分たちがしたら叱られることが支援級の子は先生が注意しないのはなんで?と疑問に思ったり、支援級の子に何か嫌なことをされたときに同じことをやり返して自分だけ注意されたと納得のいかない様子で帰ってきたりしたことがありました。彼らは支援学級の子たちを良くも悪くも特別視してないんだろうなと、そこからスタートしないといけないんだなと感じました。

自分の子が理解してない言動を見せると親としてはとても恥ずかしいし情けなくもなるのですが、だからといって慌てて必要以上に叱責することが障害者理解に繋がるかというと逆なような気がします。

この子どもたちに必要なのは、叱責ではなく行動を注意した上でハンディに関する正確な知識を与えることや大人が見本を見せて行くことなんじゃないかと思います。

 

わかっていてもやってしまう子どもたち

厄介なのはこっちです。

小学校中学年くらいからは、学校での支援学級の子たちとの交流やさまざまな授業や経験を通してハンディのある人にどう接すれば良いかを子どもたちも学んで行っています。かなり知識もついている、優しくしてあげることが正解だということは知っている。

それでも加害側に回ってしまう子、というのが出てきます。

もし学校でそれが発覚すれば当然厳しく叱られると思います。分かってるはずなのに行動が正しくないからです。出来るはずなのにしてないからです。大人はそれに直面したら悲しさや絶望や苛立ちを感じることもあります。それが、厳しい叱責に繋がります。

 

では、です。

それは本当に、加害者になってしまった子たちにとって必要なことなのかということを改めて考えたいなと思うのです。

 

加害という問題行動から見えること

我が子も含め自分の周りの子どもたちを見ていて感じることがあります。それは、問題行動は子どもたちのヘルプサインだということ。

 

僕は私は、今、とても困ってる、苦しんでる、問題を抱えてる、でもどうしていいか分からない、気がついて、見て、助けて、どうにかして。

 

それが、声として出せない子どもたちが起こすのが、大人から見たらいわゆる問題のある行動に見える、暴言や反抗、弱いものへの加害、いじめ、器物の破損なんかの見つかれば叱られる行動なんじゃないかと思うのです。

悪い子だから、育てられ方が悪かったから、そう言う悪い事をする、叱ればやらなくなる、そんな単純なものでは多分無いんです。

 

社会的弱者への優しさ

私は、弱いものに対して優しくする気持ちというのは意識しないと湧かないものなんじゃないかと思っています。自分自身が満たされていて余裕があるとか、そうした方が自分が得をするとか、そうしないと自分が損をするとか、そういう、精神的余裕や損得勘定の結果が無ければそう簡単に弱者へ優しくする、配慮する、ということは難しいんじゃないかと。

事実、大人の社会でもゆとりもなく損得勘定がない都心の電車内ではハンディのある人や子連れに冷たかったりするわけで。

そんな、大人でも維持するための意識が必要な社会的弱者への優しさを、子どもたちが見よう見まねで一生懸命身に付けようと努力しているのが学校という現場です。でも本来は自分の都合最優先な子どもたちが、その子により程度の違いはあれ努力しながら大人がそうしてるから、そうした方が褒められるから、そうしないと叱られるから、と周りを見回しながらハンディのある子にどう対応したら正解かを学んでいっているのだろうなと思います。

 

なぜ彼らが弱いものへの加害に走るのか

我が子をかばいながら周りの子達と接していたときに、私はその根底に嫉妬があるのを感じたことがあります。ハンディのある子たちは大人の支援を比較的受けやすいように子どもたちには見えているのかもしれません。

前にも書いた事がありますが、子どもたちは本当に利己的な生き物です。大人が理性や損得勘定でひた隠しにしながら生きているそれを、子どもたちは年齢が低かったり情緒的に問題があったりすればするほど、それを隠す事ができずに生きています。

自分の我が儘を抑えて社会的弱者には優しくしましょう、という、本来自然にわく感情を抑えるという行為は、精神的に余裕があれば高学年の子たちにはそう難しいことではないのかもしれません。

でも自分自身が家庭に問題があったり、交友関係で問題を抱えていたりすると大人より遥かに低いレベルで彼らのその理性は維持できなくなる。

 

そんな彼らにとって、自分よりも守られているように見える存在は攻撃の対象となり得ます。自分は親に愛されてないのに、守られてないのに、先生にすぐ叱られるのに、あの子たちは何かあるとすぐ担任が飛んで来て守ってくれる、親が熱心に学校に通ってくる、そういう種類の嫉妬です。自分より弱い存在に見えるのに守られているものへの嫉妬が、彼らを苛立たせ小さな嫌がらせに繋がり、それがだんだんエスカレートしていくのかもしれないなと子どもたちを見ていて思いました。

 

大人の社会でも似たような現象は起こりうると思います。

 

じゃあどうすればいいんだろう

私は、そんな加害者になる子たちを叱るのではなく、本人の辛さに寄り添う大人が必要だと思っています。やられた側の親からしたら敵に見える、憎さする感じる加害者の子どもたち。でもその中身は、ここ問題があるんだと自分の体を使って一生懸命アピールしている子どもたちなのではないかと思うのです。

 

最初に書いたように、被害にあっているハンディのある子たちの親がそれを担うべきだとは思いません。自分の子を守る為に、その子たちを牽制する為に、強い親が守っている姿を見せることが有効に働く事はあると思います。

でも、どうか学校の先生やその子の親や周囲の大人たちが、一緒にその子を責めないでほしいと思うのです。そうしたらその子たちは、誰からも理解してもらえないと絶望して、自分たちの国を作るしかなくなってしまうから。

 

おわりに

そんなことを夜中考えながら、朝テレビをつけたところで聴こえてきたのは川崎の事件のこと。主犯格の男の子は被害少年に対して「自分よりみんなに慕われている」とねたんでいたと語ったと。あぁこの子も、と思いながらやるせない気持ちになりました。

罪は罪として、償わねばなりません。でもそれとは別の角度で、この事件の加害者となった少年たちにもその抱えてきた辛さに寄り添い本当の意味で反省する日までサポートしてくれる大人がそばにいることを願わずにはおれません。

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