スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

「ピンクのランドセル」から考えた差別と多様性のこと


新学期、うちの子たちも新しい教室で新しい担任のもと新しい生活が始まりました。

 

今朝のTLに流れて来たのはカラフルなランドセルの画像と多様性の容認を喜ぶ声のツイート。うん、私の小学生の頃は赤と黒が主流だった小学校でも、30年近く経った今は登下校の子どもたちのランドセルはとてもカラフル。子どもたちの学校でも白や銀やパステルカラーや、色んな色のランドセルが並んで校門へ向かう姿が見られます。

 

カラフルなランドセル

教室に当たり前に並ぶカラフルなランドセル。子どもたちは、誰がどんな色のランドセルを持っているかについて特に話題にすることは有りません。誰のかを識別する程度、どんな色を持っているかで相手への価値観が変わる様子は見られません。最初からカラフルなものとして受け止めているから、違っていることが当たり前だからなんだろうなと思います。

 

そうその、違っているのが当たり前だということ。

それは、30年前の私たちには無かった感覚でした。

 

転校生の「ピンクのランドセル」

小学校中学年の頃だったか、東京から転校して来た子がいました。違う学年だったその子は、赤と黒のランドセルのなかにぽつんとひとつ、ピンク色のランドセルを背負って登校してきました。

 

テレビの中で見たことが有るかもしれないという程度だったピンク色のランドセル。赤しか選択肢がなかった私にとってそのピンク色が衝撃的だったのを覚えています。

 

もし自分が、自分の子が、赤いランドセルの中に一人ピンクだったら、心細いだろうなぁ、いじめられたらと思うだろうなぁ、と今振り返ってみて思います。実際その子がランドセルの色のことでいじめをうけたとかは無かったと思います(学年が違っていたので実情は分かりませんが)でも上級生の中でも奇異な目で見られて陰でコソコソと噂されていたのはなんとなく見聞きしたり、自分がその輪のなかに居たことも有りました。

 

「違うもの」差別やいじめの芽

赤い中で、1人だけのピンク。そこからじわりと起こる差別の目、子どもたちの中に自然に起こっていたその差別やいじめに繋がる要素が、年月を経てガラッと変わったこと、まったくその要素を持たなくなっているということに時代の流れを感じます。

もちろん根本的な、違うものを排除しようとすることが解消されているわけではないのだろうとは思います。今も子どもたちの輪のなかでそういう傾向が無い訳ではありませんから。でも、ひとつの要素が無くなった、ということ、それにより好きな色を選べるようになったということは大きな変化だと思いました。

 

「選べる」ことへの抵抗と「選べない」ことの安住

夫婦別姓の是非を問う声の中に「選べることを拒む人」の存在が有ることがずっとひっかかっていました。

色々な方の意見を拝見していると、マイノリティが多様性を求めること、選べるようになることのメリットのために「選べる」ことを良しとすることで、「選べない」=「選ばなくてよかった」ことへの安心感が無くなってしまうことを恐れているのではないかと感じる否定的意見があることが見えてきました。

 

「選べる」ようになることで、「なぜそれを選んだのか」という理由付けが必要になってしまう、「どちらを、何を選ぶのか」を考えなくてはならなくなる、それへの抵抗。

これまで考えなくて良かったことを、理由なんか付けなくて良かったことを、考えなくてはならなくなる、説明を求められたら答えなければならなくなる、そのハードル。

 

マイノリティにとっては選べないことで苦しみ続けて来たり、差別を受けてきたりしていること、それが選べるようになれば苦しみから解放されることに繋がる、良いことだ、と考えてしまっていたのだけど、選ばなくてよかったのにあえてどちらかを選択することになることはそれはそれで違う弊害を産む可能性があるのだということ、そしてそれを考えておかないと意見が拮抗するだけ、敵対するだけで議論は進まないのだろうなと、見ていて思いました。

 

もちろん夫婦別姓に反対する方の意見が全てそれに起因するというわけではなくて、もっとたくさんの理由があるのだろうとは思うのですが。

 

選べるようになってから、当たり前になるまで

ランドセルも、過渡期があったのだろうと思うのです。

ピンクのランドセルを背負って奇異な目で見られてしまっていた子がいたように、それを理由にいじめられた子もいたように、それを心配して赤いランドセルを選ばせてきた親の姿があったように。

でもその過渡期を経て、今のうちの子たちの周囲では子どもたちはランドセルの色の違いを意識しないところにきています。誰が何色を選んでいるか、そこに深い理由は誰も求めていません。たまに話題に上っても「好きだから」で終わりです。

 

夫婦別姓や、同性婚など様々なマイノリティの方のしんどさを解消するための取り組み、支援学級や通級などハンディのある子をフォローするための取り組み、「違う」ことを選ぶことのハードル。それが、周知されること、選択肢が増えること、時間が経過することでだんだんと下がっていったら、いつかランドセルの色のように当たり前に受け入れられてみんなが自分の状況に合わせて選んだり、選んでいる人を自然に受け入れたりする状況になっていけばいいのになと。

 

終わりに

もちろん、差別を根本から根絶するために必要なのは「差別はいけない」という概念であり差別意識を抑えるための理性であり、ふんわり状況が変わり要素が無くなったからといって解決と言ってはいけないと思います。

ただ、当事者にとってはその概念うんぬんより自分の肌で感じる差別の視線の方が辛いと思う。だからこそ、要素そのものが無くなっていく、ということもまた、マイノリティへの差別を無くしていくためのひとつの方法なんじゃないかなと、そんなことを考えたりしています。

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