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スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

「健常者と障害者のあいだの境界線」

発達に関すること


朝イチ、とあるツイートを目にしました。小学校で人種や障害や病気やなんかの、多様性のことをもっと教えたら良いのになぁという。

 

それを読んで思ったことを今日は。

 

ハンディについて学ぶ授業

うちの子たちの学校や参加している色々な事業のなかでも、障害に関する授業というのはあります。実際に参観した回数は少ないので見る事ができていないものもあるのですが、これまでに経験したもののなかには車椅子利用の方や目が不自由な方をお招きしてお話を伺うというものや、支援学級の子のお母さんがその子のこれまでを語るとか、そういう感じ。

 

そういう授業のあと、大人の意を汲める子たちは往々にして同じような感想文を書きます。

「もっと大変な人がいるのだから色々な事にがんばろうと思う」「困っている人がいたら助けてあげたい」「親からもらった命や元気な体を大事にしたい」…

これ、授業を受ける子どもたちは、自分や家族ではない別の人たちのこととしてそのハンディのある人たちについて学んでるから出てくる感想なんじゃないかと思ったんですね。

 

「健常者と障害者のあいだの境界線」

ハンディのある人に優しくしてあげなくてはならない、という教えを受けること、それはひっくり返すと「自分たちは健常者であり社会的弱者に配慮する側である」ということを教えられているということでもある。

 

線をね、結果的に引いてると思うんです。

私たちは健常者ですが世の中にはハンディのある種類の人がいます、という、境界線。それを子どもたちは暗に受け止める結果になってやしないかということ。それ、私はなんだか嫌だなあと感じています。

 

授業を通して子どもたちが受け取っているように見える、ハンディのある人たちとの間にある境界線。この線を感じることに違和感や気味の悪さを感じる理由がいくつかあります。

 

「自分とは違う」安心感

ひとつは、他人事になってしまわないかということ。

障害のある人たち、ハンディのある人たちは「自分とは違う」という認識を持ってしまわないかということ。それは困難が有り社会的に支援を必要としている人たちに対して必要以上に哀れんだり、偏見から見下したり、逆に清い心の持ち主だと勝手に思い込んだりする。違うという線を自ら引いて、健常者の枠の中にいるのだということに安心する道具になりはしないかということ。

 

「そっち側」への抵抗

そしてもうひとつ。

自分が線のこちら側にいて安堵するということ、それは自分や自分の家族がハンディを持つことや支援を必要とすることへの抵抗を感じるということに繋がるのではないかという懸念があります。特に見た目に分かりにくい発達障害では保護者の障害の受容への困難が支援を遠ざけることにもなりやすいように思います。うちの子はそっち側じゃない、という抵抗が歯止めをかけているようにも思えるのですが、そこに線があると感じてしまう以上それは湧いて来ても仕方が無い感情なのだろうなとも思えるし、その気持ちもなんとなく分かるから、それが悪いとはとても言えない。

小さい頃から培われて来ている染み付いた感覚はそう簡単には払拭できないのだろうなと。

 

頑張れば何とかなるという足かせ

もうひとつの懸念、それは「健常者である」という概念が足かせになるのではないかということ。

そもそも、線なんか無いと思うんですよ。発達障害スペクトラムなものであり困難も人それぞれなように、身体障害も程度も支援の必要性も様々なように、自分が家族がいつどこでどんなタイミングで心の病気になるかも交通事故に遭って障害を負うかも、発達障害に気づくかも、生活の中で困難に出会うかも、家族を失って生活に困難を来すかもしれないかもしれない。それがいつ、誰に降りかかるかなんて大人になっても分からない状態で暮らしてる。

そんな中で、自分になにかしらの困難が降り掛かったときに。自分が、また目の前の家族が、同僚が、知人が、「恵まれた健常者」であると認識してしまっていたら「頑張ればなんとかなるはずだ」と思ってしまわないか、ということ。

 

ハンディのある人たちはそもそも社会的弱者で線の向こう側に居るから支援を受けるべき存在、でも自分は(家族は、同僚は、あの人は)違う、から頑張れば何とかなるはずなのにその努力が足りないだけだ、と自分にも周りの人にもそれを当てはめてしまったら、その人が適切なケアや支援を受けることが遠ざかってしまうのではないかと思うのです。

 

線よりも、知って欲しいこと

私は、最初に書いた目にしたツイートの方と同じように、まず多様性があるということを子どもたちに知って欲しいな、と考えています。色んな人がいるということ、色んな人が一緒に暮らしているということ、自分は特別な健常者ではないということ、たまたま今そこにいるということ。

そのためには重度の障害のある方に出会う機会を持たせてくれる学校もまた大事な存在では有るし、その他にもハンディには色々な種類や程度が有るということ、自分とその人たちは分かれているわけではなく連続体としてゆるやかに繋がっているということ、それが体感できるような経験がつめたら良いなぁと漠然とですが考えています。

 

そのために大事なこと

でもその、自分が取り立てて特別な存在でもないし線のこちら側に居る支援する側という恵まれた側ではない、ということ、平たく同じような人間としてそれぞれ生きているということを受け入れること、そのためには、線を引くことで無意識に得ようとしている優越感を感じずに済む自分であることが必要なのではないか、と思います。前にもここで書いた事のあること、基本的自尊感情があるかどうかです。

素人の憶測でしかありませんが、人間関係の中に無意識に優劣を感じて自分を上げようとする傾向は基本的自尊感情の欠如と関係があるのではないかと観察していて思います。それが弱いから、優位に立つことで社会的自尊感情を満たして自分を保とうとしているのだろうなと。

 

社会的弱者に過剰に優しくすることもまた、その発露なのかもしれません。

 

子どもたちが多様性を自然と受け入れ、みんな違ってみんな良い、を感じられること。そのためにはまず、自分が自分自身を好きであること、その土壌を作れること。

 

それが整っていれば「困っている人が居たら助けてあげましょう」なんて概念を教育として植え付けなくても、自分が必要としている支援を求めることも、相手が必要としている支援を出来る範囲で与えることも、無理なくできるんじゃないかなぁと、理想的な机上の理論かもしれませんがそんなことを考えています。

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