スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

強制的に課すことと、「見通し」を立てる能力


hamusoku.com

 

これが流れてきまして、読んでいてなんだか悶々としまして。

んで次の日に流れて来たのがこれ。

djaoi.blog.jp

 

この2つ、どっちも根っこは同じなんじゃないかなぁと思ったんですね。強制すればそれに対する反発やノルマをこなすことへの面倒臭さ、ミスを許されないという不安なんかが募って対象を楽しめなくなっていく、嫌だと言う気持ちが募っていく。

 

この2つを読むと「じゃあ勉強を強制せず見守ってあげればいいし辞めさせたいことはノルマを課しちゃえば良いってこと?」って結論に達しそう、ではある。

 

でもほんとにそうなのかな、と思った訳です。

 

長男に起こった変化

サッカーを習っている長男、彼は長距離走が苦手のようでした。指導者が指導のなかでグラウンド何周とか、遠征のときに競技場の周囲のジョギングコースを走らせるとかがよくあって、それが苦痛で苦痛で仕方ない様子。最近はそれを理由に本来好きだったはずのサッカーを「辞めたい」と口にすることも出てきていました。でも必要な練習なんだろうと思って宥めたりすかしたりしながら練習に送り出す毎日でした。

 

あんまりしつこく辞めたいという時期があったのでそれを聴かされる私もだんだんメンタルがしんどくなってきて本当に辞めさせた方が良いのか夫と相談していたときのこと。

 

ある日の練習試合から帰って来た長男が開口一番「走るの楽しかった!」と。山の上にあるグラウンドでの試合で、合間にグラウンドの周りの山道を走ったらしく、そのときにいつもより体が軽く感じて速く走ることが出来た、いつも抜かされてばかりだった他のチームメイトを何人も追い越せた、走りながら楽しいって思った!と目をキラキラさせて話す長男。

 

「これまでいやいやながら頑張って来た成果が出てきてるのかもしれないね」と話しました。

 

嫌々ながらやってきたということ

半泣きで走っていた長男が嫌々ながら走ったその先に得たもの、それはタスクを強制的に課されなければ得られなかったものかもしれない、と上の2つのサイトを見て思ったんですね。もともと走ることがあまり好きな訳ではなかった長男が、やんわりと様子を見る指導者から促され見守られ自分に裁量を与えられていたら、多分同じ量走ってない。結果、今の成果、今の能力を手にすることはまだ先送りになっていたのかなと。

 

「見通し」という視点

じゃあ何でも親が無理矢理課せば能力が伸びるのか、いや放任の方が良いのか、という話になってくるのかもしれないけど、そこで考えるべき大事な視点の一つが「見通し」だと思うのです。

 

長男のケースでは、私と夫と指導側は「サッカーがうまくなりたい」という長男の目標とする到達点を見据えた上でそのために必要なことだと判断し、彼の能力と鑑みて実行可能なボリュームだと思えたので本人の意志にあえて沿わずに走らざるを得ない環境におくことを選びました。もちろんこの段階で彼には「サッカーの能力向上のために必要な鍛錬だ」ということを彼に理解できる言葉で何度も説明してきました。頑張って走り続けることで脚力やスタミナが付いて試合で思うプレーが出来るようになるというような。でも彼には大人のそれと同じような見通しはついていなかったのだろうと思います。(だからこそ嫌が先行してしまってたわけで)

 

「見通し」を立てる能力

この「見通し」を立てる能力、大人として子どもにそれがどの程度備わっているのか、は結構に重要なポイントなのかもしれない、と今回改めて考えました。長男に何度も話しながら、私は彼に自分と同程度の見通しを立てる能力があるかのように錯覚していたような気がするのです。でも実際には10歳の彼にそこまでの能力は培われてはいなかったのかなと。

彼が自分と同程度の見通しが立てられると思っていたから、私は何度も長男に「必要なことだから」という種類の説明を続けてきました。自分の経験も踏まえて話してきたし、それはけっして無駄ではなかったと思うのだけれど、過信しすぎて結果的に彼が嫌だと思っているその気持ちそのものに充分に寄り添えていなかったような気がするのです。気持ちに寄り添いながら必要なタスクを課すことと、彼の見通しを立てる能力を信じて見守ることとのバランスがうまくとれていなかったなと。

 

課さなくていい?

最初に挙げた2つのサイトでは、どちらも強制的にタスクを課すことを否定しているのかなと私は思います。でも長男の例をとってみれば、彼は走ることを課されなければ走ることを楽しいと思える能力は手に入れられなかった。

タスクを課されずに能力を伸ばして出来ることを増やしていくというのは、生来走るのが好きだとか、もともと運動神経が良いとか、先天的なギフトがある子にだけ可能なことのような気がする。スタート時点で本人の裁量に任されてしまったら、元々そう上手でない子、能力が高くない子たちは楽な方を選んで自分の伸びしろに気づかないままずっと苦手だと思い込んで育ってしまうかもしれない、それってとっても勿体ない。

 

私自身、小さい頃から親に通わされていたピアノと習字教室、どちらもいやいやながら通っていたのだけれど、ピアノに関しては途中で徹底的に嫌になって辞め、習字はなんだかんだ言いながら中学まで続けて筆耕の仕事が出来る程度の能力を得ています。

どちらも課されていたことで、当時の私に見通しのアドバイスだけして見守られていたら多分どっちも伸びずに辞めてたと思う。後者が伸びたのは多分見出してうまく導いてくれる指導者に出会えたから。強制的に課すこと自体が子どもにとって良い悪いとかそういうことではなくて、周りの大人がどんな風に導いたり、見守ったりしながらそれを与えてくれるかによるんじゃないか、と思うのです。

 

未熟な見通し能力を補う

DJあおいさんのブログの中にあった、時間のことにふれたりする声かけは、私も子どもたちの自宅学習のときなどに利用しています。何気なくやっていたことなんですが、これ、改めて考えたら見通しを立てるためのフォローなんだなぁと。

大人のように自分のスケジュールを考えてこれを先にやっておいた方が良いとか段取りを立てるとかがまだ未熟な子どもたちにとって、その見通しを立てていくためにお手伝いをしているという感じ。

 

大人だと短い時間でそれを考えていつやるべきかの判断をして、面倒なことにも取り組んだり、また長期的に能力を培うため、目的を果たすためにこれは必要なんだと理解して面倒なことに取り組んだり、ということをやっているのだけど、子どもたちにはまだその見通しを立てる能力が充分じゃないんだなぁということに改めて気づきました。

 

課すことと補うことのバランス

その未熟な部分を大人がうまく補ってあげながら、見通しを立てることが自分で出来るような手助けをすること、そして時には必要なことだと判断してタスクを課して引っ張り上げることも、どちらも子どもたちのために必要なことなんじゃないかなと思う。

 

大事なのは子どもたちがどこを目指しているのか、どんな能力が必要なのかということ、そしてその見通しを大人ほど上手に立てられていないかもしれないということ。その理解の上で、強制的に課してでも伸ばす必要があることもあるだろうし、見通しを立てられるようになるような手助けとして声をかけ見守って行くという補いも、どちらも必要なんだろうなと思う。どちらに転んでも、それが嫌になったり楽しめなくなったりして本来の、本人の目指すところから遠ざかってしまうかもしれないから。

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