スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

連携と結果を同時に意識するスキル 〜映画「みんなの学校」感想文


ドキュメンタリー映画「みんなの学校」を観てきました。

minna-movie.com

 

リンクを張るためにサイトを開いて流れて来た予告編にまた目がうるむほど、映画の途中からずっと鼻をすすりながらの鑑賞で、感極まりすぎて内容を自分の中に落とし込むまでに少し落ち着く必要があったほどでした。

(なるべく直接は触れないようにとは思いますがネタバレに繋がる表現もありますのでこれから観る方はご注意頂ければと思います)

 

私には4人の子がいて、それぞれがそれぞれの個性を持ち特性の強い子も、定型発達だろうと思われる子も、その程度も色いろ。そのそれぞれの子供たちのどの立場から観ても、どの立場の親として観ても、考えさせられる要素が詰まった映画だと思います。

 

障害の名前と先入観

映画を見て印象に残ったことをいくつか。

まず「障害の名前が出てこない」こと。

全校児童220人程のなかに要支援の子は30人近く、という学校の現状、その中でカメラの焦点がより当たる数人の子たちも名前は出ないまでも画面に映り込む子たちのなかでも、ぱっと観てハンディがあると分かる子が何人も出てきました。名前が挙がり、カメラが追う子たちもその周りの子たちも、恐らくは診断を受けている子も多くいるのだろうけど診断名は一切出てきません。先生方の言葉の中にも出て来ている様子はありませんでした。

 

そして「先入観無く個人を見る姿勢が徹底されている」こと。

不登校や他害などで他の学校から転入してくる子も多い学校のようで、映画の中でも他の学校に馴染めない子が転入してくるシーンがありました。校長先生は職員への申し送りのなかで転出元の学校の校長による所見を読み上げたあと「これが、あちらの先生の見解」「先入観なく本人をみていこう」と職員に促し、全校児童の前で彼を紹介するときにも「どう接していけばいいか、自分たちで考えていこう」(1度しかきいていないのでうろ覚えですが…)と児童に促す。

 

誰かから提示された情報や誰かが付けた診断名に振り回されることなく、今、目の前に居るその子を見据えること、そしてその子と自分に必要な行動は何かを考え動くこと、それが教員にも児童にも徹底して叩き込まれているのを感じました。

 

「世界一難しいリレー」

もう一つ印象に残っているのがハンディのある子が多い6年生が運動会で挑んだ全員参加のリレー、校長先生はこれを「世界一難しいリレー」だと子供たちに説明していました。

走るのが遅い子、足に障害があり走ることに困難がある子、バトンを持ちトラックを走るというリレー自体の内容の理解に難がある子、そして、普通に走れる子、早く走れる子、様々な特徴を持つ子供たちが4つに分かれてリレーで競う。校長先生は自分が走ることだけを考えているように見える子供たちに檄を飛ばします。「〜〜がバトンを受け取る位置はそこでいいの?〜〜くんは走るの速い?どこで受け取れば有利になる?」

 

速い子はより長い距離を走り苦手な子の距離を補う、トラックを線に沿って走れない子に付き添って走る、バトンを握り続けられない子のためにバトンを持ち声をかけながら並走する、みんなで試行錯誤しながら、自分たちのチームの走りを考えていく子供たちの姿を短い時間でしたがかいま見ることができました。

 

譲り、フォローする「健常者」?

こういうシーンを目にすると、どうしても健常な側がハンディを持つ側を補ってあげている、譲ってあげている、迷惑を被りながら理性や善意でそれをカバーしてあげている、というイメージがついてくるような気がします。それは同時に「この人がいなければもっと良い結果を生める」という排除の思想にもどこかで繋がっていく。

現実に子供たちの周囲や自分の周りを見ていても、このイメージ、わいてくる感情、排除の思想は自分の中にも周囲にも、どこにでもはびこっているように感じます。

 

でも。

リレーでなるべく良い結果を生もうと奮闘する児童たちの姿を思い返しながら、そこにあるのはそんな理性や善意なんだろうか、それがあの校長先生の考えてることなんだろうかと考えたとき、違う、と思ったんです。

 

精鋭ではないチームの中で

サッカーの代表戦のように選び抜かれた人たちが集められる場でない限り、私たちの実際の生活のなかで何かを行うときにそのメンバーが「選び抜かれた精鋭」であることなんてほどんどない。学校の教室でもなにかの役員会でも会社のチームでも、ある程度の選別が行われることがあっても「どの点においても秀でた最高の結果が出せる個人」が集まっていることなどまず、無い。

そんな状況で色んな人と共同で生きている生活をしている自分たちにとって「そこにいるメンバーで最善の結果を出す」ことが明確な目標であること、そしてそのために「メンバーの特性をどう活かし補い合うかを意識してそれぞれが考え動くこと」、その必要性を実生活の中で感じることがたまにあります。

 

そしてそれを実行するためには訓練が必要だということも。その訓練そのものが、大空小学校で行われている教育なのかもしれないなと。

 

考える過程で、以前見たNHKのエデュカチオの中の「サンガつながり隊」としてサッカーの指導をしている池上さんというコーチの方の回を思い出しました。

 

ハンディを補うことと、メリット

色々な指導法が紹介されている中で、子供たちにチームを組ませて短時間の試合をしていくという手法があり、そのときに子供たちに対して「女の子が得点したら〜〜点」とハンデをつけるシーンがありました。そのハンデをどう活かすか、子供たちは試行錯誤して勝つための努力をする。

コーチが課したこのハンデは、大空小の子供たちが自分たちで考え認識しているそれぞれの特性を、限られた時間の中で大人が目に見える形にして見せているのかもしれないなと感じました。ハンディを持つ子たちと一緒に過ごしていく教室の中で児童が得るメリットは、得点が多く入るというような子供たちにとって明確で分かり易いメリットではないかもしれない。

 

自分を振り返っても、何か明確な目標(試合で勝つ、とか)に直面した時、つい自分がどこまで頑張るかだけに一生懸命になってしまって横の連携を考えてない、というケースがよくあるような気がします。でも実際には、目標とする結果を見据えると同時に横の連携をどうとっていくか、メンバーとどう動いていくか、あの人が持ち味を活かした良い動きをするために自分はどう動けば良いか、それを考えられないと本当に自分が得たい結果には行き着けないことが多い。その、結果と横の連携を同時に見据えて自分の動きを考えていくためのトレーニング、それが、大空小学校で行われている指導なのではないかと感じました。

 

「安心していられる場所」

相手の持ち味を活かすため、全体が良い結果に行き着くために自分がどう動くべきかを考えるというのは、逆に言うと自分がそうやって周りからフォローしてもらえるということでもある。ハンディの程度に関わらず、自分がどんなコンディションであっても周囲がそうやって支えてくれるということ、失敗したらここには居られない、居づらい、ではない、どんな自分でもそこに居て良いということ。

「ここは安心していられる場所だ」と何度も映画の中で繰り返し校長先生が言っていた言葉。その、安心していられる場所である、その場所を自分たちで作っているのだという子供たちの自負は、長期的に指導を受けて大空小で過ごしていくなかで得ている、子供たちにとっての無意識に得ている大きなメリットなのかもしれないなと思う。

 

安心していられる場所で生みだされる結果

「みんなの学校」の記事を色々と読んでいる中で、ある新聞記事の締めとして「この学校の学力テストの結果は秋田と同レベル」という記述がありました。現在がどうなのかはわかりませんが、「安心して過ごすことができる」場所で特別支援対象外の子供たちが学力としても良い結果を出しているのではと考えられます。

 

私はつい先入観で、この学校にいる子供たちを「健常な子」と「ハンディや問題を抱えた子」という切り分けをしてみていたような気がします。どこかで健常な子たちがハンディのある子たちのお世話で不利益を被っているのではないか、それでストレスを感じたりしてないか、卒業と同時に解放されたような気持ちになってしまうのではないか、と気にしてしまっていました。

でも実際にはどの子も「一人の児童」としてこの学校で扱われ、どの子もそれぞれが「自分たちで学校を作っていく」意識を持っていて、そしてどの子にとってもあそこが「安心して過ごせる場所」になっているのかもしれない。

そしてその、安心して過ごせる場所にするという目的と、その場でそのメンバーで最善の結果を生むという明確な目標のために自分たちがどう動けば良いのか考えるスキルを徹底して指導されている子供たち。

 

それが、テストの結果にもあらわれているという、そしていじめも差別も不登校も無い学校が持続しているということ。

そこから私たちが学べることはとても多いのかもしれない。

 

あのやり方そのものを真似るのかどうかという話ではなく、あの結果を生むために今の自分たちの環境でどう動いていくべきかを考える必要があるなと、そう考えさせてくれた100分間でした。

 

書きながら、改めて映像を観たくなったりしています。

公開されている間にもう一回、観に行こうかな…。

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