スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

「なんでわかってくれないの」で思考を停止していませんか? 〜夫婦げんかの根っこにあるもの


白い犬先輩からの課題

ちょっと前に書いたエントリ、確かこれだったと思うのだけど

suminotiger.hatenadiary.jp

 

そのときに私がはてなの師を仰ぐ白い犬先輩から「この手の夫婦関係のネタ何回も見て来たしそろそろ総括的なエントリを書いたらどうだろうか」と助言を頂いておりまして、そのことが自分の中で一つの課題としてずっと残っていました。

 

きっかけとなったツイート

昨日、TLに並ぶツイートをチラホラと眺めながら、ふと考え始めたこと、それがその頂いた助言とリンクしてなんとなくまとまりそうなので今日はそれを書いてみたいと思います。

 

考えるきっかけになったツイートは、道ばたでいきなり我が子を触られたら怖いよねっていう話だったんだろうなと思うのだけど、その中で同年代の多いTwitterでは賛同が集まるけど年上が多いと思われるFacebookでは叩かれてるという、その中でなんでこんなに丁寧に主張しているのにわかってもらえないんだろうっていう憤りを言葉にされているものでした。(この著者の方のツイートでした。 ひとりの母として、お願いです。保護者に断りなく赤ちゃんに手を伸ばすのはやめてほしい。

 

「なんでわかってもらえないんだろう」

現状を丁寧に説明し、自分の気持ちを話し、言葉を尽くした、はずなのに相手の理解が得られない、こんなに自分が困っていると態度や言葉で示している、はずなのに相手が理解してくれない。

そんな状況に陥った時に感じる「なんでわかってもらえないんだろう」という悲しい気持ち、「なんでわかってくれないの?」という憤り、それ、一緒に暮らし始めたり、子育てが始まったりした夫婦間でよくあるやつなんだろうなと。

私が過去にあーだのこーだの書いてきた夫婦関係のあれこれも、この、「なんでわかってくれないんだろう」っていう気持ちが根底にあること、多いんじゃないかと思う。

 

こんなに私が辛いと言っているのに、こんなに私が嫌だと言っているのに、こんなに私が身動きが取れない状況になっているところを見ているはずなのに、こんなに私が困っていると伝えているはずなのに、なのに「なんでわかってくれないの?」

 

なぜ、理解が得られないのか、という理由

赤ちゃんに手を伸ばさないで欲しい、という記事の話に戻ります。この記事の主張する内容については今回の話題からズレるのでとりあえず私の意見は置いといて、これに対するたくさんの意見のなかで、一定年齢以上の方からの賛同が得られにくいという疑問や憤りが私は気になりました。

 

この記事で著者の方は恐らくはご自身の手を尽くして丁寧に自分の感情やこうして欲しいという気持ちを言葉にされているのだろうと思います。それは言葉の端々から感じられました。ただ、それでも反論は寄せられ、理解は十分に得られない、なぜ?

 

この記事が燃え易い要素は色々とあるんじゃないかなとは思います(言葉の使い方や画像の選び方等気になる点はありますがこういうのはトピシュさんのお得意とされるところだと思われるし私は苦手なので控えます…)が、私が今回着目したいのはそういう記事の作り方、ではなくて、記事を読む人それぞれの見ているもの、考えているもの、その、ベースになるものが決定的に違っているのかもしれない、という、背景みたいなものです。

 

想起するものの違い

著者の方が指摘されていた、一定年齢以上の人からの賛同が得づらいということ。それ、一つには「知らない人から声をかけられ子どもを触られる」という状況やそれに対する心理的な垣根みたいなもの、その、ベースになっているものがまず違うんじゃないか、と思ってみたりします。

 

私は小さな地方都市住まいなので、今でもご近所さんや親戚つきあいが割と密な暮らしをしています。その辺をウロウロしていても出会うのは知っている人、一見知らない人でも言葉を交わしてみるとたいてい共通の知り合いがいるという、そんな環境で暮らしていることもあり、その辺の人に話しかけられるとか会話するとかのハードルはかなり低い状態で暮らしています。そんな土地なので、記事に出て来たような初見で子どもの足を折るような、ちょっと異常性のある方が気軽にうろうろしてない、という安心感がまずある。

 

でもそんな私が、旅行や遠出で慣れない都会へ出向き、知らない人だらけのところに子連れで足を踏み入れると一気に怖さが増してきます。この中の誰が、子どもの足を突然折るような異常性を秘めた人なのかが分からない、と怖くなってしまったりするのです。

 

私が普段暮らしているような環境で育っていたら、またはそのような環境だけで子どもを育てていたら、そんな人たちが想定している「道ばたで知らない人に声をかけられる」という状況は著者の方が思っているそれとは明らかに違う状況なのではないか、と思うのです。

 

「同じ事柄」について話している、はずなのだけど

この、子育て環境の違いはあくまでも一例で、内容も私がざっくり仮定したものなのでその内容について語りたいのではなくて、このように同じ事柄について話しているはずなのだけど、それぞれの人の想定している場面、状況は必ずしも同じものではないのかもしれないということ。

そしてそれは、それぞれの人の性格や経験や特性やおかれている現状、色んなものに影響をされて全く違うものになっているのかもしれない。その、全く違うものをそれぞれが想起しながら「同じこと」を論じていることから引き起こされるズレ、がそこにあるのではないか、と思うのです。

 

「なんで!」で思考を停止していませんか?

ベースが違うそれぞれの人が会話したり一緒に暮らしたりしているなかで直面するトラブル、意見の違い、そのなかで「なんでわかってくれないの」と思うこと、よくあると思います。その「なんでわかってくれないの」で思考が停止してしまうこと、私はそれがとても怖いことなんじゃないか、と思っています。

 

自分は精一杯丁寧に説明しているはずなのに

自分の状況は相手はわかっているはずなのに

こんなに言葉を尽くしているのに

こんなに頑張っているのに

こんなに努力している姿を見せているのに

 

なのに「なんでわかってくれないの」

 

もしそこで思考を停止してしまったら。

「なんでわかってくれないの」で思考を停止してしまったら、そこから先の進む道は「自分が悪いからわかってもらえないのだ」と諦めてしまうか、「わかってほしい」という願望を、自分の中で「わかってくれない相手が悪い」とすり替えてしまうか、そのどちらかなんじゃないか、と。

 

スルーしても構わないような問題なら別に良いのかもしれないけど、自分の生活に大きく影響してしまうような事柄だった場合、前者は自分を苦しめ、後者は相手を攻撃することで相手との関係を更に悪化させ、どちらも問題の解決からは大きく遠のいてしまうことになってしまうのではないか。

 

そしてこの、どちらかに移行して分かり合えないという、それこそが白い犬先輩から与えられた課題の答え、夫婦間で家事や育児の負担でのやりとりで起こっている、トラブルの解決を困難にしていることなんじゃないか、と思ったのです。

 

夫婦間トラブルの根っこにあるもの

「なんでわかってくれないの」と思った時、そこで立ち止まって思考を止めてしまって、自分や相手を責めること、諦めること、それが必要になるほどしんどいときもあると思う。精神的にも肉体的にも疲弊して、考えるに至れないこともあると思う。

 

でもそこで立ち止まるということは問題の解決にも近づけない、ということでもある。

 

この、問題の解決に近づかずにお互いに理解してもらえないと思っている状況、これが多くの夫婦間のトラブルの根っこにあるんじゃないか、と思うのです。

 

 

おわりに

「なんでわかってくれないの」から「わかってくれない相手が悪い」「わかってくれない相手がおかしい」で立ち止まらず、自分の説明を相手が理解していないのは、相手に上手く伝わらないのは、相手が言葉の通りに受け取ってくれないのは、相手の背景のなにかを見落としているのかもしれない、自分が慮れていない何かの事情があるのかもしれない、自分の伝え方に工夫が必要なのかもしれない、と発想を転換してみる。

 

それは、「伝わらない」を「こうすれば伝わる」に、「分かってもらえない」を「こうすれば理解を得られる」に、帰る分岐点になるかもしれないし、もし好転はしなくても「仕方がない」と自分の中で誰を恨むことも無く落とし込めるきっかけになるのかもしれない、とそんなことを考えています。

 

じゃあどう噛み砕けばその背景がわかるんだろう、については今後も考えて行きますがとりあえず過去のエントリをご参考までに。

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