#宿題やろうぜ
Twitterの盟友、スナック黄ちゃんの発案で始まったタグ、#宿題やろうぜ。
黄ちゃんの息子さんへの様々な配慮や工夫はこれまでにも何度も読ませてもらって来てとても参考になっていて、先日はそれをはてなブロガーのなないお(id:nanaio )さんが記事にまとめて下さっていて、現段階で発達障害に悩んでいる方だけではなく宿題がなかなか進まないと頭を抱える親御さんやそこまではいきついていないけど困りを感じている方にとって必見の記事だなぁと拝見させていただきました。
宿題しているときの、お母さんと子どもの目線
さて閑話休題。
その黄ちゃん発のタグに私も投稿したこのツイート。
#宿題やろうぜ
宿題させてるときに親は意外と子供の顔を見ずに、テキストやノートや子供の手元だけ見てることが多いらしい。そのときに子供が親を見ても視線が合わなくて不安を増すことに。子供が親の顔を見たときに目が合わせられるように意識して接すると子供のやる気が長続きするんだって。
— イシゲスズコ (@suminotiger) 2015, 8月 9
たくさんRTやふぁぼを頂いていて関心の高さを感じています。
これ、先日観たNHKの「助けて!きわめびと」という番組の中のお悩み相談で紹介されていたこと。(「お悩みとことん承りますスペシャル 前編」という回です)
小学生の息子さんの宿題に悩むお母さんからの悩み相談。なかなか進まない宿題、そばでみていてイライラしてしまうお母さんの様子をカメラで撮影していました。
そのときに指南役の方が指摘していたのが「お母さんと子どもの目線」
お母さんはずっと、テキストやノート、子どもの手元を凝視しているんですね、怖い顔して。息子くんはお母さん怖いから一生懸命頑張って手を動かしながらときどきチラッとお母さんの方を見るんですね、でもそのときお母さんはテキストを凝視してるから目は合わない。先生は言うんですね「ここです」
子どもの「顔」を見ること
そばで宿題をする子どもを見ているとき、親はついノートにしっかり書けているかが気になったり、テキストの内容に目がいったりしてしまう。でも、子どもが本当に必要としているのはその「監視」ではないんですね。
お母さんが「頑張っている自分」を見てくれているということ。それを確認することで安心材料になって、それがやる気を持続させる栄養になる。
なるほど、と思いそれから子どもたちの宿題を見るときに子どもたちの顔の動きを意識してみたんですね。そしたら確かに、時々目が合うんです。面白い。
あぁうちの子たちもこうやって、私が見てるかを確認してるんだなぁと。そして、テレビの中で先生が言っていた通り、目線を合わせながらそばにいると口を色々と挟まなくても子どもたちの手が止まらずに進んで行く、不思議ですが。
思い出した、人前で話すときのコツ
それを考えているときにふと思い出したのが、先日参加したとある講演会で知った「人前であがらずに話すコツ」
現役のアナウンサーの方が教えてくれたコツの1つが「目が合う人、相槌を打ってくれる人に向けて話す」こと。
笑顔や穏やかな表情で自分を見てくれている人、自分の話にうなづいてくれている人、というのは、自分の意見を否定せず聞き入れてくれている人のような印象を人は持つのだそうです。そうやって味方で居てくれるように感じられる人に向かって言葉を紡ぐことで過度の緊張が抑えやすくなると教えていただきました。
余談ですが、もう1つ教えて頂いたコツは「ハンディのある方がいると想定して話す」ことだそうです。小さい子や耳の悪い方、早口だと聞き取りづらいかもしれない方、目が見えない方、色々なハンディのある方が会場にいると想定して話すことで早口にならずゆっくり丁寧な言葉を話しやすくなるのだそうです。
「見る」ことの与えるもの
子どもたちと出かけたり、授業参観だったり、様々な場面で子どもたちは不安を感じた時に身近にいる自分の信頼のおける人をちらっと見る、それは目を合わせることで安心材料にするためでもあるのだろうなと思います。
プロテニスプレーヤーだった松岡修造さんも以前なにかの番組で、コートに立って不安で仕方が無いときにコーチを見て、目が合ってうなづいてくれることが支えだったと語っておられました。
不安の中で誰かが自分を「見て」くれていること。その視線は時として「それでいい」という、無言の肯定に繋がるのかもしれないと思いました。信頼する人が見てくれていること、今の自分の行動を否定せず見守るという行為が「そのまま続けて良い」という安心材料となるのだろうなと、それは、私たちが子育てのノウハウを求めるなかであちこちで出会う「褒める」「認める」のもっとも簡単な方法なのかもしれません。
子どもたちがいる、手探りの世界
宿題をする姿をそばで見守られているとき、子どもたちが本当に求めているもの。それは「宿題が完了するまで監視する役人」でもなければ「答えを教えてくれる役に立つ人」でもないのかもしれません。
同じ「助けて!きわめびと」の番組の中で中高生のお子さんに口うるさくガミガミ言ってしまうというお母さんに対して指南役の先生はあるゲームを仕掛けました。
アイマスクをして、声だけを頼りに迷路のゴールを目指してもらいます。先生は「こっちだよ、いいよいいよ」等優しい声で言葉をかけながらお母さんを誘導していたのだけど突然「コラ!」と大声、お母さんはビックリして終了。
「これが、子どもたちの気持ちなんですよ」と先生。アイマスクで挑む迷路、子どもたちはそれと同じように毎日毎日初めてのことに出会いながら不安の中で周りの情報に振り回されている状態。その中で、優しい言葉をかけてもらったり、肯定されると安心するし、大きな声や否定を受けるとショックは大人以上に大きい。
その不安だらけの子どもたちの世界の中で、信頼のおける大人がただじっと「見て」くれること、それは沢山の言葉にも勝る水先案内になるのかもしれません。
宿題という、やらされている面倒で大変でしんどいものに挑んでいるこどもたちにとっても、まず必要なのはその、「見て」肯定してくれる人の存在なのかもしれないなと思います。
親の「見て」いるもの、子どもが「見て」ほしいもの。
親としてはつい、子どもたちが期限通りに宿題を終えられること、余裕を持って終わらせられること、丁寧にやること、間違えないこと、理解していて回答していること、それを確認したり、管理したりしたくなるもの。
その意識のもとで子どもたちを見ていたら目線が行くのは子どもたちそのものではなく、埋まっていくノートや鉛筆の動き、怠けようとする予兆…
でも。
「褒めて」「認めて」励まして伸ばしていく相手はテキストでもドリルでもえんぴつでも子どもの手元でも埋まっていくノートでもない。
本当に大事で見守る必要があるのは、目の前にいる我が子そのもの。
そして子どもたちも、見て欲しいのは頑張って書き上げたノートでも終わった宿題の山でもなく、それを終えられた誇らしい自分の顔、なのかもしれません。