スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

「図書館に居る子を見逃せない」と思った方へ


昨日のエントリ

suminotiger.hatenadiary.jp

に対する様々な反応を見ての続きです。

 

Twitter上のコメントやブログへのブックマークコメントなど私が確認できた範囲の反応の中に、「見逃して良いのか」「大人としてそれでいいのか」「学校へ連絡すべきではないか」「出来る事はなにもないのか」という声がいくつか散見されました。

 

支援を必要としているかもしれない子が目の前にいるのに何もしなくていいのか

それぞれの方にそのような、なにかしたいという感情がなぜ湧くのか、その理由は様々かもしれませんし、想定している状況も恐らくは様々であろうと思います。義務教育年齢の明らかに小さな子を想定している人もいるかもしれないし、高校生を想定している人もいるかもしれない。小さな小学生とおぼしき子が平日に図書館をウロウロしていたらそれは確かに奇異に映るかもしれません。

 

そんな支援を必要としている子がいる状況で目の前の大人である自分は何もしないわけにはいかないのではないか、と思っていらっしゃる方も言及された方の中にはいらっしゃると思います。

 

でも、です。

 

あなたになにができますか?

その、目の前のその子たちにあなたは何が出来ますか?

図書館という公共の場でたまたま居合わせただけの、支援に関する専門的知識もないかもしれないあなたに、その子の何が読み取れますか?どう声をかけてあげればいいかわかりますか?どういう支援に繋げてあげればいいいか、分かりますか?

 

もしその子が不登校で学校へ行っていない、とします。

 

学校へ通報、というご意見も散見されましたが、学校へ通報して解決するでしょうか。図書館に居る、という通報が入って丁寧に適切に対応してくれるような学校にその子が通っていたら、その子は不登校になる前に恐らくは救い上げられていた可能性が高いです。

 

学校から家庭に連絡が行ったとして、一つの可能性として、そのときに保護者が適切に対応できている家庭なら不登校として問題になっていなかったかもしれません。もう一つの可能性として、保護者も子どもも改善に向けて努力していてもどうにもできない状況のなかで保護者も子どもも疲弊した状況で子どもが居場所を図書館に求めていたのかもしれません。

 

目の前にいるその子が、どんな状況、どんな状態、どんな家庭環境や学校の対応を受けて来てそこに居るのか、あなたはそれが分かりますか?その子に合わせた適切な対応ができますか?

 

また、通報などではなく大人として、その場で少し声をかけて君が一人じゃないよって伝えてあげたいという気持ちがもしあってその場でちょっとお話ししたりしたら気持ちも晴れるかな、と思ったりしていますか?

 

あなたに覚悟がありますか?

大人として何かしてあげたという気持ちはとても崇高でかつ世界を良くする大事なものかもしれません。その意識が保ち続けられることで救われる子どもたちがいるかもしれません。

 

では、です。

あなたが声をかけた子どもがあなたのことを信頼して少しおしゃべりをしたり、楽しい顔を見せてくれたりするとします。あなたは役に立てたと嬉しいかもしれません。

その子が「またお喋りしたいから連絡先を教えて」と言ったら携帯のアドレスを教えますか?頼まれて断れますか?

 

断りきれず教えたとします。

その日から毎日、昼夜問わずあなたの携帯にメールが来るかもしれません。寂しい、怖い、助けて、これから死ぬ、絶え間なく送られてくるその子どもたちの声に、あなたは逃げださず根気づよく付き合う事ができますか?

 

もし断ったとします。

その次の日にその子が自殺したという報道を目にするかもしれません。

 

もしくはその次の日から毎日、その子が図書館であなたを待っているかもしれません。あなたが来ない日はあなたを探して周辺をうろうろするかもしれません。そのうちあなたの行動範囲を知って自宅を特定できるかもしれません。そして、自宅のインターホンを押すかもしれません。その子に、あなたはその子の望むように付き合ってあげる事ができますか?その子を支え続ける事ができますか?

 

断りきれず中途半端につきあった末にあなたが辛くなってその手を離して逃げるとしたら、その子はまたふりだしに戻り、そして「優しくしてくれたはずの大人が裏切った」という恨みだけが残ることになるかもしれません。

その子に長く残るかもしれないトラウマ、その責任をあなたは負えますか?

 

「見守る」という支援

見逃して下さい、と私は前回のエントリで書きました。それは、なにもしないでそっとしておいてあげてくださいというお願いです。でもそれは「なにもできない」という無力さを痛感して下さいということではありません。「この場ではあえてなにもしないことを選ぶ」という前向きな行動を選択してくださいというお願いです。

 

なにもしないわけではない、見守るという支援をする、ということです。

 

問題を抱えた子を支援する、というのは生半可な事では出来ません。親でも逃げ出したくなるような継続的な支援を赤の他人が続けることは容易ではありません。知識も覚悟もない大人が自己満足のために中途半端な介入をすることは子どもたちにとって何の救いにもなりません。大人が自分たちをもてあそんだという記憶が残るだけです。

 

それでも何かしたいと思ってくれる方へ

ぜひ、支援活動に協力して下さい。お住まいの地域について色々と調べれば、不登校の子どもたちを支援している活動はきっと複数見つかります。

NPO団体など寄付を募って活動しているところがあればそこへ資金を提供することも立派な援助の一つです。そこが健全にかつ円滑に活動を行えば素人のあなたよりもきっと良い支援を子どもたちに届けられるでしょう。

NPO団体や公民館活動で子どもたちの為に活動するボランティアを求めているところもあるかもしれません。そういう場に参加して地域の子どもたちと繋がることで子どもたちを救う一助になるかもしれません。

お住まいの自治体が不登校に対してどんな支援を行っているかを調べるのも良いかもしれません。つぶさに調べ、公表することで改善に繋げられるかもしれません。

不登校について学ぶことだけでも立派な支援です。どんな子どもたちがいるのか、どんな現状なのかが記された沢山の書籍が出ています。図書館にも恐らくそれだけを集めた棚があると思います。インターネットでも多くの不登校児やその親の声が拾えます。あなたが現状を「知る」だけでも、知っている大人が増えるという一つの支援の形です。

 

おわりに

最後の章に書いた事に違和感を覚える方もいらっしゃるかもしれません。

そんな遠回りな事じゃなくてと感じる方がいらっしゃったら、お願いです、何もしないでください。私があげた4つの例は、遠回りかもしれませんがどれもあなたが最初に望んだ「不登校と思われる子を救う」ためのより確実性の高い方法です。そこに価値を感じられないなら、もしかしたらあなたは「救いたい」のではなくて「見逃せず落ち着かない自分の気持ちをどうにかしたい」だけなのかもしれません。

その気持ちと向き合う必要があるのは、目の前にいる子どもたちではなく、あなた自身です。それは、不登校の問題でも子どもの問題でもなく、あなたの抱える問題です。どうか子どもたちにそれを覆い被せて自己満足の犠牲としないでいただければ幸いです。

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