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スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

“マイツール(支援ツール)” 息子の夏休みの宿題と私のチキンライス②

こどものこと 発達に関すること


前回の記事の続きです。suminotiger.hatenadiary.jp

 

マイツールを使って宿題を全部終わらせた次男、そんな次男を誇らしく思いつつ自分を振り返った私のお話です。

 

鶏肉を切るのがメンドクサイ私

うちの子たちはオムライスやチキンライスが大好きです。作って欲しいと良く言われます。が私は苦手なのです、鶏肉を細かく切るのが。

なんで?と聴かれてもよくわからないのですが、とにかくメンドクサイ。チキンライスは玉ねぎもみじん切りにするじゃないですか、あれもメンドクサイ。だからついつい作りたくないなぁって思っちゃう。

特に鶏肉って生だとぐにゃぐにゃしてるから良く研いだ包丁でないとすっと切れない。それもまたストレスの要因の一つなんだろうな。色んなメンドクサイが自分の中にわらわらと湧いて来てしまって、結局なかなか手が出せないオムライスとチキンライス。

そんな、子どもの望むチキンライスを作ってあげられない自分が情けないなぁって時々思ってたんですね。

 

チキンライス用の鶏肉との出会い

先日行ったスーパーに「チキンライス用」と書かれた鶏肉が売られてたんです。いつもそこにあったのかそのときたまたまだったのかは解らないし、多分単価的に切ってないのより高かったような気もします。

そのチキンライス用鶏肉と書かれた小さなさいの目状に切られた鶏肉パックを前に色んな声が頭の中をグルグルと飛び交いました。

 

「面白そうだから使ってみたら」

「いや割高だし自分で切れば済む話じゃない?」

「こういう便利っぽいものを使っちゃうのって主婦としてどうなの?」

「でもこれ使えば鶏肉切らなくても良いよね」

 

グルグル会議の末に私はなんとなくそれを1パック買って帰って、子どもたち用にチキンライスを作ってみました。ええ楽でした、だって切らなくて良いんだもん。トレイからそのままフライパンへ。切ったのは玉ねぎだけ、あとは炒めるだけ、ええ楽でした。

 

でも子どもたちはいつもと同じように喜ぶんですね。当たり前です、できあがったチキンライスはいつもと同じ見た目と同じ味だから。

 

違うツールと同じ結果

私が作ったチキンライスはいつもと同じもの、でも私はメンドクサさを軽減し楽に作る事ができた、あれ、これ次男の宿題の支援ツールと同じじゃないか、と。

使ったツールは、切ってない鶏肉と切ってある鶏肉という違いがある、手順も切ると切らないとがある、値段もちょっと割高だった、でも、私は同じ結果を得た。子どもたちを喜ばせるという目的も達成できた。

 

そこに何かこだわりや躊躇が挟まるとしたら「こんな便利なものをつかっちゃダメなんじゃないか」という「主婦としてのコダワリ」だけなのかもしれない。

 

そしてその主婦としてのコダワリさえスルーしちゃえば、私はイライラもせずめんどくささも乗り越えて「チキンライスもすいすい作れないダメなお母さんである自分」というマイナスを払拭することができる。「できた」経験ができた、これってすごいことなのかもしれないぞ、と。

 

メンドクサイを乗り越える瞬間

宿題の前で「やるのメンドクサイなぁ」って手が進まず悶々として「宿題をすいすいできないダメな僕」を積み重ねていく次男と、スーパーの鶏肉売場の前で「切るのメンドクサイなぁ」って「チキンライスを楽々作れないダメな私」を積み重ねていく私と、結局同じ穴のムジナだったんだなぁ。

 

そしてこれは私にも次男にもよくある経験なのだけれど、メンドクサイメンドクサイと思っていた色々なことが、ある日突然めんどくさくなくなる瞬間が来たりする。その理由がなんなのかはわからないのだけど、Twitterで誰かがその瞬間のことを「ヘレンケラーのWater(ウォーター)!と同じだね」と教えてくれたことがある。本人も気づかないうちにそこまでに何かが育っていて、ある時突然溢れ出て行動に繋がる。

 

そのある日突然やってくるウォーター!な瞬間のための私たちが積み重ねる必要があるのは、しんどいしんどい鍛錬ではなくて「出来た」という小さな経験の積み重ねなのかもしれない。

 

日常生活の中でマイツールと付き合っていく生き方

チキンライス用鶏肉というマイツールを発見して、自分の日常生活を改めて意識したら実は私は気づかずに色々なツールを駆使していたんだなぁと気づいたんですね。

例えば予定を覚えていたり調整したりするのが苦手なので予定が入れば全部Googleカレンダーに放り込んで管理してます。それぞれに事前のアラートを設定したり、夫と共有したりして漏れがないようにし始めてから、約束を忘れるということが激減しました。

家族全員がそれぞれの予定を月単位で見通しが立てられるように2ヶ月分のカレンダーに予定を書き込んでトイレに貼っています。これを始めてから子どもたちも色々な準備がスムーズに進むようになりました。

物をなくし易いので、鞄の中に派手な色のポーチを何種類か用意して、スマホ入れ・支払い関係のもの入れ・保険証入れ、等の仕分けを徹底するようになって忘れ物や無くしもの、期限を過ぎてしまうなどのトラブルもほぼ無くなりました。

 

これはごく一部。今まで「これがマイツールだ」と意識していなかっただけで「困らないように何かをうまく利用すること」はやってきていたんだなぁと改めて思いました。

そして、それを私が駆使して暮らしてるのに子どもたちが使っちゃダメじゃないよなぁとも。

 

鶏もも肉をどの段階で手に入れるか、というのも結局は誰かとのあいだのことではなくて自分のなかのコダワリとどう折り合うかという事なのかもしれない。

私は鶏を自分で育ててもないし自分の手で締めてもないし、捌いてもない。

どの段階の鶏肉を使うかなんて誰に指定されているわけでもないものを自分で縛っていただけなのかもしれないなぁ。 

 

おわりに

マイツールに囲まれた自分の暮らしを振り返りながら、子どもたちは学校で、家庭で、「みんなと同じものを使ってみんなと同じ結果を生む」ことを強要されすぎてるんじゃないだろうか、と思うに至っています。

どの段階の鶏肉を買うかに無意識にこだわっていたように、学校ではみんなと同じものを使って同じ様に仕上げねばならないという概念に無意識に捕われていたのかもしれない。

 

次男は特に支援が必要だからと色々な工夫はしている状態なのだけど、でもこれ、特別支援が必要な子にだけ許される特権じゃなくてもいいんじゃないかなぁと思うのです。もちろん色々な配慮が無くてもスムーズにできる子も居る、でもそれはその子がそのツールを必要としてないだけなのか、必要としないよう自尊心を削りながら必死で食らいついている結果なのか、どっちかは大人は簡単にはわからないよなぁと。

 

教育という枠の中では統制のためや段階を追った知識の獲得のためにある種の縛りは必要なのかもしれないし、学校という現場で多様性を求めるのは難しいことなのかもしれないけど、その子その子に合わせた色々なツールを使うことが(もちろん使わないことも)もっと広がっていくと生きづらい子が減っていくんじゃないかなぁと、漠然とですがそんなことを考えたりしてます。

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