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スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

「忘れ物をしない」という機能を持たずに生きるために必要なもの

こどものこと


忘れ物大王としての人生

今日の午前中はTwitterでみなさんとお互いの忘れ物大王っぷりを語り合う時間となりました。興味のある方は是非TLをご覧頂ければ。

 

自他ともに認める忘れ物大王の私はこれまでも何度も失敗を繰り返し、学校で叱られ困り助けられ、社会に出ては上司に何度も叱られ怒鳴られ、子供を持ってからも備品や提出物の管理に手を焼いてきた日々でした。

 

学生のころは叱られてもまぁなんだかんだと逃げてこられたのかなぁと思うのだけど社会に出てからはそんなこと言ってられなかった。お客さんからの電話の内容を忘れてみんなが困ったり、打ち合わせの資料を忘れてきて上司に叱られたり、子供たちのお便りの提出期限やお弁当の日を忘れて連絡を頂いたり…

 

自分が困る、だけではない「周囲に多大な迷惑をかける」という山に直面するたびにこれはいかん、これはヤバい、と色々な対策を取りながら生きて来たように思います。

 

確立されてゆくライフハック

その一つ一つの工夫は自分なりのライフハックとして少しずつ確立されていきました。

自宅ではハサミやボールペンなどよく探すものはたくさん購入して使う可能性のある場所あちこちに置き、かつ使ったら同じ場所に戻す、を徹底する。カバンには「保険証等病院関係」「通帳」「文房具」「プリント類」等々種類別にポーチを用意してそこに必ず入れる、そしてそのカバンをいつも持ち歩く。行事のときは持っていくものを事前にメモに書き出しておいて声に出し指差し確認をする。不安にかられるときは「最悪、お金とスマホがあればどうにでもなる!」と自分に念じる…etc.

 

自分の特性や生活環境に合わせて必要に応じて工夫を繰り返していくことでなんとか忘れ物を最小限度に抑えながら生きていく道を構築しつつあります。と言いつつ「忘れてましたゴメンナサイ!」って職場でも自宅でも何日かに1回は言ってます、そんな感じです。

 

備わっている機能、備わっていない機能

先日、子供たちとその友達らを連れてぞろぞろと近所の公園まで行ったとき、途中の溝にカニがいるかもと子供たちがわらわらと覗き込み始めました。

4歳の末っ子はその日お気に入りのキャップをかぶっていたのだけど、溝を覗き込むときに末っ子が自分のキャップのつばをさっと握りました。それを見てふと思ったのです。「この機能が次男には無かったんだな」と。

末っ子は恐らく、溝を覗こうとする動作に移る前に「帽子が落ちるかもしれない」という見通しを立てて右手を動かした。もし次男が同じようにこの年齢で溝を覗き込んでいたら間違いなく帽子を溝に落としていたと思います。帽子よりなにより「溝、カニ、見たい」という衝動が先だからです。

 

私は末っ子も含め子供たちに「溝に帽子を落とさないようにつばを持ちなさい」という指導をしたことはこれまで一度もありません。教えた事は無いのに末っ子はそれをやった。危険予測をする能力、見通しを立てる機能が彼に備わってるんだなぁというのを感じた瞬間でした。

 

そして同時に、次男にはこの機能そのものが年齢に応じて備わっていた訳ではなかったのだということを痛感した瞬間でもありました。

今は年齢を重ね、失敗を重ね、彼もある程度の危険予測は出来ていると思います。がやはり衝動性が強く見通しを立てるのは苦手なのは変わりません。

 

「忘れ物をしない」という機能

次男が小さい頃から何度も何度も、出来ない部分が出来るようになるようにと口うるさく言ってしまって来たなと振り返って思います。そのときは不勉強ゆえそれが正しいと思って来たのだけれど、でも実際には彼には備わっていない色々な機能を意識することなく言葉や躾という行為でそれをなんとかしようとしてきてしまったような気がして猛省しています。

 

機能という視点から考えると、恐らくは私には定型発達の人が生まれながらに持っているのかもしれないし成長のどこかの段階で獲得するのかもしれない「忘れ物をしない」という機能を持っていないのだろうと思います。

 

脳が使えなくなった機能を補うように他の部分が発達するのと同じように、私も本来持っていない「忘れ物をしない」という機能の穴を、色々な工夫をしながら同じ結果に行き着けるように補って生きているのかもしれない。

 

機能を持たないかもしれない子

親にいくら言われても、叱られても、自分がちょっと困っても、重い腰は上がらなかったような気がします。社会に出た時や子供たちが入園したあとなどの「これはヤバい」と自分で心から感じた時に始めて、さてどうしたものか、と考える事態になった。

自分の過去と照らし合わせて思うのは、同じように「忘れ物をしない」機能や「帽子を落とさないようにさっと手を出す」機能を現状で持たない次男をいくら叱っても、怒鳴っても、彼が学校で多少困っても、多分その機能が突然芽生えることも、その機能を補うだけの工夫のための努力を彼が必死になってやることもないのではないか、と思うのです。

そして、それはそれで仕方の無い、彼にとってそうすることしか出来ないことなんだろうなと。

 

機能を持たない子に必要なもの

じゃあその「機能を持たないかもしれない」子をどうやって育てていけばいいんだろう、と考えた時、私に出来ることはそう多くないような気がしてきました。

叱っても、怒鳴っても、持たない機能を引っ張りだすことは出来ません。彼らがいつどの段階で、私が出会ったような「これはヤバいぞ」と感じる事態に側面するのか私は見当もつきません。

 

でももしその事態が彼の人生で訪れた時、それを乗り越える力を持った子に育てることは出来るんじゃないか、と思うのです。

 

怒鳴る、きつく叱る、強く促す、失敗を痛感させる、機能を持つ子にとっては意欲に繋がるかもしれないこれらの行為は、機能を持たずどうしようもない子たちにとっては自尊心を叩き潰し二次障害に繋げる布石にしかならないのではないか、と考えます。マイナスの要素しかないかもしれない。

 

彼らに必要なのは叱責でも無い能力を植え付けることでもなく、今はそれでいいと受け止めてくれる環境と、小さな成功体験を積ませてくれる周囲の協力なのかもしれないと思うのです。それで彼らが得られるもの、それが私がこのブログでも何度も取り上げて来た「自尊感情」なのではないかと思います。

 

忘れ物を絶対しない、ではなく、今日は筆箱の中を揃えられた、今日は宿題を忘れず全部持っていけた、小さな成功体験を親や支援してくれる周囲の大人と共有していけること、ダメな人間だと感じることなく成長して行ける環境を整えて行けること。そうやって自尊感情を高め、立ち直る力(レジリエンス、と呼ぶそうです)を持った子に育って行っていれば、将来もし本当に自分が困難に直面したときにそれをカバーすることも、周囲に支援を求めることもできるようになるのではないか、と考えています。

 

おわりに

「忘れ物なんかしない」という方からしたら、忘れ物をついしてしまう私たちのような種類の人間は怠けている、努力が足りないと見えてしまうかもしれません。

でも、みなさんが当たり前に持っているその機能はどうやら私たちには備わってない、もしくは発揮出来る状態で保有してないのかもしれません。それでも色々な工夫をすれば同じ結果を産める可能性は秘めている。

そして当然ですが、職場や学校で叱られることも、みんなを困らせて謝ることも無意味ではありません、必要な経験です。叱るな、諭すな、という話ではけしてないのです。

 

親として、忘れ物をしてしまう、何度言っても出来ない子に苛立ち叱責が激しくなってしまうことは発達に困難がある子を育てるうえでよくあることだと思います。周囲の目が気になって余計にきつく叱ってしまうこともある。でも過度に叱っても何もメリットはなく、むしろマイナスの要素が増えていってしまう。叱れば済む話ではない、というのが現実なのではないかと思っています。

 

叱られても出来ないことがある、本人が自分でそれに気づかなければ、乗り越えようと言う意識が無ければ前には進めない。その前に進むために必要なもの、それが「自尊感情」であり「レジリエンス」と呼ばれる力なのではないかな、と考えています。

 

自尊感情レジリエンスのこと、保育士さんのサイト向けにまとめた記事を書かせて頂いたのでご参考までに。

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