スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

おなかをすかせたヒヨドリと、いじめ加害者になった子どもたちのこと。


夫の実家の庭のハナミズキの木に、毎年義母がこの時期になるとミカンを半分に切って刺している。その木にやってくる小鳥たちを、義実家のリビングからガラス越しに眺めるのをうちの子どもたちや甥っ子たちが楽しみにしている。

 

ミカンを楽しみに毎年やってくるメジロ。緑の小鳥を子どもたちが喜んで、ガラスから少し離れたところで息を殺してじっと見つめる。それを義母がうれしそうに眺める、そんな春の風物詩、柔らかな春の陽射しのなかでのうっとりとした一こま…の静寂を破るのがバンバンとガラス戸を叩く音と「あっちいけ〜!」という甥の声。彼が一生懸命追い払っているのは、メジロより一回りもふた回りも大きな体の黒っぽい鳥。

 

義母が刺しているミカンを目指してやってくるヒヨドリ。小さな可愛いメジロたちを声で威嚇し、バサバサと飛んで来て追い払ってしまう大きな姿は小さな甥っ子たちにとっては悪者そのものなのかもしれない。子どもたちが叩くガラスの音にビックリして去っていくヒヨドリ、しばらくするとまた、静寂のなかでこっそりメジロがやってきてミカンにくちばしを伸ばそうと…したところにまたやってくるヒヨドリ、逃げるメジロに甥が叩くガラスの音。それが、夫の実家で毎年繰り広げられる春の光景。

 

小さなメジロにとって、そしてそのメジロを愛でたい人間たちにとって、メジロのために用意されたえさ場を荒らしメジロを追い立てるヒヨドリは悪役。あの、ギロっとした大きな目や浅黒い羽根の色、あまり品のよろしくない鳴き声、来訪を好ましく思わなくても仕方が無いのだろうなと思う。

 

 

今朝、小学生たちを送り出した帰りにまだ鳥たちがやってきていなかった寂しそうなハナミズキと義母の用意したミカンを眺めながら、少し前にTwitterのTLで賑わっていた子ども食堂の話題を思い出した。そのときにお友達Cookさん(野鳥愛好仲間でもある)と話した「子ども食堂は止まり木なのかもしれない」という話。

 

色んな子がやって来てはお腹を充たしていく場になるであろう子ども食堂。その存在を「貧困で飢えている子」に限定してしまうと本当にそうである子はなかなかそこに足を運べないだろう、それよりは誰でもやってこれる止まり木のような場所として開いて、飢えてない子、家庭で食事を食べられる子も含めていろんな立場のいろんな人たちが出入りできる場にしていたら、その中に本当に飢えている子も紛れ込むことができるかもしれない、子ども食堂ってそういう、誰に対しても開けた場であることが求められるのかもしれない、という、そんな話の中で私が出した例えが、庭のハナミズキの止まり木でした。

 

メジロという、本当に来て欲しい鳥のためにミカンを用意してはいるけれど、メジロだけどうぞ、という入り口を用意していてもメジロはそれを通って入って来てはくれない。誰に対しても開けている止まり木だからこそ、スズメも、シジュウカラもやってくる。そのなかに時々、メジロがふらっとやってきてくれる。開けているからこそ、沢山の鳥に混じってお目当てのメジロがやってきてくれるんだなぁと。

 

そしてその開けている止まり木には、望まない客ヒヨドリもやってくる。邪魔者として追い払いたくなるかもしれないしそうされてしまうかもしれない。でも、開けている以上ヒヨドリはやってきてしまうんだよね、それはそれで仕方ない。

 

邪魔者かもしれないヒヨドリは、どこに行っても嫌われるかもしれない。疎まれて行き場を無くして止まり木にミカンを求めて来ているのかもしれない。

 

でも。

ヒヨドリだってただお腹をすかせてご飯を食べに来ているだけなのだよね。

嫌われたくてそこに来ているわけじゃない。

メジロをいじめたくてわざわざやってきているわけじゃない。

ヒヨドリヒヨドリで、お腹がすいて、食べ物が欲しくて、それを探し求めてる。

 

 

 

 

数日前の息子の担任からの連絡で発覚した、とある事件。

これまで子どもたちが感情のコントロールができずに手を出してしまったりして謝って回ることばかりだった私たち夫婦が、初めて、被害者の保護者として話し合いの場に望むことになってしまった。

被害を受けてしまった子の心のケアという親としての課題を抱えながら、そんな行為に至ってしまった子どもたちの心の中のことが気になる。彼らは、甥っ子たちにとってのヒヨドリのように「悪い」印象を周りに与えてしまうのかもしれない。

 

でも私は思うのです、加害者として扱われてしまうその子たちもまた、お腹をすかせていたんだろうなということ。餌の探し方が、食べ方が、たまたまよくなかったから今回は加害児童として扱われてしまうその子たち。彼らが本当はお腹をすかせているということに、誰か気づいてくれるだろうか。

 

息子には、私と夫がいる。親以外にも理解してくれる周囲の大人が複数いて、彼をサポートしてくれる体制は恐らくはそう難しくなく整えられる。息子はその大人たちに守られ、これから傷ついた心を癒していく作業に入る。私はそれに専念する。息子は、たぶん大丈夫。じゃあ、その子たちは。

 

話し合いの場に臨む前に、それが気になって仕方が無い。彼らの空腹に気づいてくれる大人が周囲にいますようにと遠くに聴こえるヒヨドリの声を聴きながら空に願う、そんな、まだ少し肌寒い春の朝。

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