スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

当事者も困ってるけど、叩きたい人も「困っている」


今日は、この増田記事を読んで思う事を。

 

当事者は「困っている」

昨日のエントリ、

で書きました。程度の差はあれ、周囲にどんな風に写るのであれ、当事者は「困っている」のだということ。そしてそれを肯定しないと先には進めないということ。

 

 

「なんでもいいから叩きたいんじゃないの?」

このことについて考えているときに頂いたリプライの中で「批判の声って『ただなんでもいいから叩きたいだけじゃないの?』という声をいただきました。うん、私もそう感じることもあるなぁと思います。保育園とか女性の就労とかの問題だから、ということでもなくとりあえず叩ける案件だと思って突っ込みどころを探して見つけて叩いてるだけなんじゃないか。

 

それへの分かりやすい対処法は、スルー一択なのかもしれません。

朝の連ドラ「あさが来た」で炭坑事業だの銀行だの女子大学の創設だのをガンガン計画してはそれを妬んだり脚を引っ張ったりする勢力が出てくる。その邪魔者を「暇なんやろなぁ」と一蹴していくスルースキルを毎朝見ながら清々しいなぁと思う反面、全面的にバックアップしてくれる夫がいて家があって成り立つものでもあるんよなぁとも思ったりする。

 

余力があればスルーできるそれが、後ろ盾もなく精神的に未熟な段階や余裕の無い状態だったらそうはいかない、そうやって、声を上げる人とそれを妬んで叩く人とのやりとりは現実にもずっと昔から繰り返されて来たし、今でもネット上に場を移して何度も何度もいろんな案件を種に繰り返されて来ているんだろうなと。

 

なぜ「叩きたい」のか。

ただ叩きたいだけなんじゃない、というのは真理かもしれません。とりあっても仕方が無い、取るに足らない意見、だからスルーで。私もそう思います。

 

でも、です。

問題の解決に向けてのとるに足らないかもしれないその反発、攻撃、足を引っ張る行為がそう簡単にスルーできないこともあるかもしれません。活動に支障を来すほどの攻撃をされて困るかもしれないし、スルーする余力が自分に無く影響を受けてしまうかもしれない。

スルーできないなら、自分のためにも相手のそれを掘り下げる必要があるかもしれません。

 

誰かの言動が目について気になって仕方ない、発言の内容が気に障って仕方ない、見ていてイライラするけど目が離せない、一挙一動が気になる、ひとつひとつに反発したくなる。

 

ただ叩きたくなってしまうときに背景にあるこんな心理に至るのも、きっと理由があると思うのです。それをかいま見せてくれたのが、最初に紹介した増田記事ではないかと。

 

叩きたい人の抱えているもの

あの増田を書かれた方は、恐らくは自分の現状を正確に理解し、自己分析できているのだろうと思います。だからこそあぁやって、妬ましい自分の感情を文章にできた。

でも、そこまでの自己分析が自力でできる方も、実はそう多くないのかもしれません。

私も自分の考えをコツコツと叩き割りながら分析し考えていく癖がありますしそれがこのブログのネタでもあるわけですが、ブコメなどで「そこまでの自己分析はできない」「ここまで細かく考えて把握できない」という声を複数頂いたことがあります。私自身も自分が精神的に疲弊しきっているときに周囲の「自分より恵まれているように見える人」をただただ妬んで毒をお腹の中に溜め込んでいた時期があったので余力が無ければそこに行きつけない怖さも知っています。

 

「自分より恵まれているくせに」「ズルい」

自分の抱えている現状からしんどさが来ていること、そこからその感情がわいて来ていることに気づかずに、目の前の対象が自分を苛立たせているのだと錯覚してしまい怒りの矛先がそちらに向いてしまっているのではないか…

 

これについては以前、子どもたちの話として書いたことがありました。

 

色々な場で子どもたちと接していると、やはり「ズルい!」と言う子たちにはその考えに至るまでのそれなりのしんどさのベースがあるように思います。そこに寄り添ってあげるとすんなり周囲の子たちへの配慮を受け入れてくれることも多い。

 

「ズルい」を受け止めるのは誰か。

子どもたちに対しては、その「ズルい」を受け止めるのは周りの大人の仕事です。

でも大人に関していえばその「ズルい」と思う感情を受け止め寄り添ってあげるのはそれを言われる側の人間が背負うことではないですよね。自分の中で整理をしないといけないことで、周りを無秩序に頼って良いことではない。それは赤ちゃんが親に無条件に甘えようとするのと同じかもしれません。

 

叩かれる側としてはやっぱりスルーしかないんだろうな、と思いますが、その背景に思いを馳せるか馳せないかで自分の中での受け止め方や流し方も違ってくるんじゃないかとは思います。

 

自分の為に、自分で片付けるスキル

そして自分がそこに陥っているのかもと感じたら、その溜まっていく黒い感情をどう整理していくか。排泄物を丁寧にトイレに流して清潔に暮らすように、おなかのなかの黒い感情も周りにまき散らしてしまわないよう自分なりの丁寧な片付け方を知る必要があるのかもしれません。私の場合はそれが夫に話すことであったり、信頼できる友人に愚痴ることであったり、Twitterを使って自己分析していくことであったり、この場を使って整理していくことであったりするのかなと思います。

 

黒い感情を整理せずまき散らしてしまうことは自分にとってのリスクも大きいです。それを見て離れてしまう人もいるだろうし、本当に主張したいことがあっても整理できないままに吐き出していたら「ただ叩きたいだけだろう」とスルーされてしまうかもしれない。それは勿体ない。

 

自力でその整理が難しければ、どんな専門家に繋がる必要があるかを検討するのも良いのではないかと思う。それも簡単なことではないと思うけど、脱出するためには必要なことなんじゃないかと思います。

 

おわりに

余談ですが、声を上げている人が正義、とは私は思いません。

主張には穴もあるかもしれないし、改善の余地は多分にあるかもしれない。「困っている」からと言って無条件にどんな主張も受け入れられてしかるべき、異論は許さない、というのもまた歪んでいると思う。

 

声を上げている人の視点は「困っている人」の視点。問題を解決していくためにはその一点からではなく、そこに関わるたくさんの当事者、国政側、自治体の担当、保育園、保育士、保護者、保育に欠けることになる乳幼児、保育園の周辺の住民、乳幼児を抱えた保護者を雇用する側、同僚…

「困っている」と声を上げている保護者だけではないたくさんの当事者がこの問題には関わっている、そのたくさんの声や事情を汲取り合わせていかないと本当の意味での解決には向かっていかないのかもしれない、とも思っています。

 

批判の声のなかには、自分の心理的な背景から「ただ叩きたい」だけの人もいる。でもその声に混じって、冷静に主張の問題点を指摘する声もあると思う。そこをごちゃごちゃにして批判に批判を返した打ち合いをしても何も解決しないし、疲弊していくだけじゃないかと思うのです。

 

批判や叩きに見えるその意見にカチンと来たとき、主張する側もその飛んで来たボールを全力で打ち返すのではなくて、冷静に見据えて、避けてスルーした方がよいものなのか、キャッチしてから考えをまとめて投げ返す必要があるものなのかは判断する方が建設的なやりとりができるのではないか、と思ったりしています。

 

 

 

 

 

 

 

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