「行政がやってくれて当然、は都会の人の我が儘だ!」
増田の「保育園落ちた、日本死ね」の余波がまだ続いているTL、今朝は「行政がやってくれて当然、というのは都会の我が儘だ」という趣旨のツイートが流れてきました。
それを見ての一連の感想がこちら
限界集落に近いところにいる身としてはその感覚は分かる。でも「だからそれは都会の人の我が儘だ!」ではなくて、その主張は田舎の人もしていいし、もっと公共のサービスは受けられるはずなのだよね…
— イシゲスズコ (@suminotiger) 2016年3月18日
でも地方にいると「そんなお金は回って来ない、改善したいなら自分たちで動くしか無い」っていう状況は本当にたくさん直面する。改善を要求したとしても「予算が無い」でバッサリやられて終わり。結局、地域の有力者が身銭を切ったり動ける人が動いたりしてなんとか生活してたりする。
— イシゲスズコ (@suminotiger) 2016年3月18日
都心部にいるとその、周囲と連携してなんとかやり過ごす、は無理だろうと思う。地縁や血縁が物を言う世界だから。だから、改善の為には声を上げるしかないのだろうし、それが民主主義国家としてあるべき姿なのだろうとも思う。
— イシゲスズコ (@suminotiger) 2016年3月18日
地方にいたらその、声を上げるということすら縁遠い。国会なんて近くを通ったことも無いし、県庁所在地すら遠い、自分たちの地域を管轄している自治体の役場すら近くには無いこともあるし、行ける範囲にある出張所には権限を持つ人など居ないことすらある。
— イシゲスズコ (@suminotiger) 2016年3月18日
その取り残されたところで自分たちでなんとかすることが日常になっている人にとってテレビを通してみる、デモとか要望書を提出とか、近代的な手段を踏んで声を上げている人たちに違和感を覚えてしまうのかもしれない。それは妬みかもしれないし、憧れかもしれないし、羨みかもしれない。
— イシゲスズコ (@suminotiger) 2016年3月18日
ブログにも書いたのと同じ。どちらも「困ってる」のだろうと思う。どちらも疲弊して、困っている。その両者が泥を投げ合っても仕方ないのだけど、そうなってしまうほどにみんな疲れてる。
— イシゲスズコ (@suminotiger) 2016年3月18日
長々とツイートしたのですが、結局、カチンとくる方にはそれはそれなりの理由がきっとあるんだろうなぁと思うし、疲弊した困っている両者が泥を投げ合っている現状がどうやったら打開されていくんだろう、と思ったりもしています。
行政の手が届かない地方の抱える問題
私が住んでいるあたりも大概な片田舎だけれどまだ開けている方。
車を少し走せたところには行政の手が届きづらい限界集落といわれる地域がいくつかあります。そんなところでは自治組織が作られていたり、農道の補修を自力でやっていたり、行政の手が届かないところを自分たちでなんとかする、というのが日常的に行われています。
私の住む地域でも街路灯は自治会が設置して住民が出し合ったお金から電気料金を支払っています。これは小さな一例ですが、こんなふうに、都心部だと行政が整備して当たり前に感じられることを地域住民でなんとかしてしまっているというケースは田舎にいけばいくほどゴロゴロと転がっていると思います。
行政に求めていることもないわけではないのだろうと思いますが、予算がそもそもないとか、求めても得られないことが多いとか、声を上げて目立つことの弊害が大きい(それを理由に村八分にされるとかあとあと叩かれるとか子の代になって「お前の親が」って面倒に巻き込まれることもあり得る)とか、色んなそこそこの事情があるんじゃないかと思う。とかく田舎に居ると「声を上げるくらいなら黙って自分たちでなんとかする」という風潮が残っているところがあるのかなと。
声を上げても、という感覚の麻痺
先日、図書室の司書の先生と話しているときに「図書購入の予算が少なくて」というお話が出ました。児童数から算出して割り振られているので、児童数が減少傾向にあるうちの小学校の図書購入費はかなり少なくなっているようです。
それを聴いて、まず私の脳裏に浮かんだのは「寄付」と「PTAとかからなんとかして捻出できないか」という発想でした。PTAというのが浮かんだのはちょうどその直前に、PTAから読み聞かせボランティアへの活動費が支払われている学校がある、と小耳に挟んだから。うちの学校でもその辺の組織改編を提案してそれが通れば、年に少しでも活動費として読み聞かせボランティアにお金が降りて来る。それで読み聞かせで使って好評だった本を購入したりできるんじゃないか、と思ったのです。
そのときには名案だ、と思いました。
でも今はちょっと、迷っています。
一つの手段としてはアリだと思う。でも、本来なら改善を求めるのはまず「少ない図書購入費」の方じゃないかと思ったのです。
児童数が少ないからと言っても、それを理由に本が買えないという現状はおかしい、そこを行政に働きかけるのがまず筋なんじゃないか、なぜそこが思いつかなかったんだろう、と。
そこが、田舎で暮らす自分の感覚の麻痺なのではないか、と。
黙ってなんとかし続けてきてしまった弊害
田舎に住む自分たちは声を上げて全体を変えていくリスが大きい。だからそのリスクより、黙って自分たちでなんとかして問題点をちょっとずつ緩和しながら根本的な解決を待たずに過ごして来たんじゃないか。
周囲に声をかけてまわれば地の縁や血縁でなんとかなっていくという田舎特有のメリットを知らず知らず活用しながら、本来カバーすべき行政に頼ることを視野に入れずにきてしまったのかもしれない。その癖が、今回の図書購入費の解決方法を考える時にも出て来てしまったのかもしれない。
親たちの世代が黙ってなんとかし続けて来た、その考え方の癖が自分にも受け継がれているような気がしてちょっと背筋が凍ったりもしました。
黙ってなんとかし続けて来てしまったがゆえに、いまもそれが脈々と残ってしまってる。自分たちが勝手になんとかしてしまう、行政もそれをよしとしてしまう、または気づかない、これでいいんだろうか。
おわりに
行政だって、求められること全てに応えられるわけではないと思います。予算もあるだろうし、法外な要求に応える義務も無いと思う。でも、住民として認められている権利が行使できない状況になっていたり、受ける権利のある支援が受けられない状況になっていたりすることは声を上げて訴えていってもよいと思う、それは、我が儘なんて言葉でくくっていいことじゃない大事なこと。言わないと分からない、言わずに黙ってなんとかしてきてしまったらどんどん言えなくなっちゃう。
30代の私よりはるか上の世代ではおかみに訴え出ることは相当のリスクだっただろう、それは容易に想像がつきます。でもその癖みたいなものが脈々と今も残り続けているのはやっぱり、なんとかしていかないかんことのような気がしています。