スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

「何もしない」というひとつの支援の形


千羽鶴はいらない」

ここ数日、TLには千羽鶴の話がたびたび上がってきます。発端は多分前回の震災の教訓を元にして作られたタグ、#被災地いらなかった物リスト ぽいです。

このタグに怒ってる方のツイートがまとめられてたびたび言及されてるみたいなのですが、このタグって元々が東日本大震災のあとに被災地で必要だったもの、ありがたかったものを集めるための別のタグがあったような記憶があります。それに付随する形でこの、要らなかったもの、集まって困ったものを集めるためのタグが流行ったような。

 

まとめの中では熊本の方が発信したかのように受け取って怒っている方が多く見られましたがたぶん今回現地からそれを発信した方がたくさんいたわけではないですよね…。

 

思い出した、図書館のこと

今回の千羽鶴に関して色んなやり取りを見ていて思いだしたのが、このエントリでした。

 

この2つのエントリは昨年の夏休みの頃、鎌倉市図書館の方がツイートした

もうすぐ二学期。学校が始まるのが死ぬほどつらい子は、学校を休んで図書館へいらっしゃい。マンガもライトノベルもあるよ。一日いても誰も何も言わないよ。9月から学校へ行くくらいなら死んじゃおうと思ったら、逃げ場所に図書館も思い出してね。

という不登校の子供たちへの言葉に対するネット上の反応について書いたものです。

 

2つめの、見逃せないと思った方へのエントリに書いたことが、今回の千羽鶴について感じたこととリンクしています。

 

「お願いです、何もしないでください。」

自殺率の高い9月1日に図書館に居る子に大人として「何かしたい」と感じて行動を起こそうとする方に、私は記事のなかで具体的な解決法をいくつか提示しました。不登校の子をフォローする団体への寄付や団体に属してのボランティア活動、不登校について学ぶこと、どれも、目の前に居る子に素人が直接手を出すよりもはるかに有効な、不登校の子たちへの支援活動です。

でもそれでは事足りない、そんなことじゃなく自分が具体的に何かしたい、と感じる方へのメッセージとして、半年前に私はこう書きました。

そんな遠回りな事じゃなくてと感じる方がいらっしゃったら、お願いです、何もしないでください。私があげた4つの例は、遠回りかもしれませんがどれもあなたが最初に望んだ「不登校と思われる子を救う」ためのより確実性の高い方法です。そこに価値を感じられないなら、もしかしたらあなたは「救いたい」のではなくて「見逃せず落ち着かない自分の気持ちをどうにかしたい」だけなのかもしれません。

その気持ちと向き合う必要があるのは、目の前にいる子どもたちではなく、あなた自身です。それは、不登校の問題でも子どもの問題でもなく、あなたの抱える問題です。どうか子どもたちにそれを覆い被せて自己満足の犠牲としないでいただければ幸いです。

素人が迂闊に不登校の子に接触する危険性は上記エントリのなかで述べました。その可能性、リスクを見通すことなく、とりあえず自分が何かしたいのだという感情で行動を起こすことの危険性を持つ方はお願いだから何もしないでほしい、と。

 

「何かしたい」という感情が引き起こすもの

今回の震災で目の前のテレビに映る困窮しているように見える人たちに「何かしてあげたい」と思う、そのこと自体を否定したいわけではありません。実際私も、我が家はほとんど被害にあわなかったので今回の震災に対しても募金や絵本の提供などいくつかの支援活動に参加しました。そのときに強く意識したのは、これが現地の人にとってどんな風に必要なのか、邪魔にはならないのか、迷惑をかけることには繋がらないのか、ということ。復旧のための公的な活動の妨げになる可能性のある活動には声をかけられても応じずやんわりお断りしました。

 

「何かしたい」気持ちだけで行動を起こして自家用車で現地に乗り込んで渋滞に繋がったりするケースは今回の震災でもあちこちで見られているようです。

 

ここで前段と共通しているのが、自分の行動により起こりうるリスクを想定することなく「何かしたい」感情で行動を起こしている点です。

 

千羽鶴に関するたくさんの言及の中には「お金のない子供たちの気持ちを形にしたものだ」という声もありました。たしかに子供たちは物を買って送ることもお金を集めることも難しいかもしれません。でも、ここで大人たちにできることは何もできない子供たちに「何か生み出せるものを送れ」ではなくて、「今の自分たちに何ができるかを考える」よう働きかけることじゃないか、ということ。

 

迷惑になるかもしれないけどとにかく何かしよう、何でもいいからしよう、ではなくて、今の自分たちにできることはなんだろう、対象となる方々には何が必要だろう、思いついた行動を起こしたときにどういう影響があるだろう、それを考えるための良い機会なのではないか、と思っています。

 

「何もしない」という形の支援

考えるたくさんの「自分にできる支援」のなかの一つに「今は何もしない」「直接的なことはしない」という選択肢もあると思うのです。

お金がなければ送らなければ良い、送るに適した物を持たないなら送らなくても良い、現地に出向いてボランティアをする余力がなければしなくても良い、と思います。

そうやって「邪魔をしない」ことも一つの大事な支援の形だと思うのです。

邪魔をせず静観していれば、自衛隊や消防による復旧や公的な機関による支援活動が迅速に行われていくでしょう。

 

邪魔をせず自分たちの日常を送ること、生活をし仕事をして税金を納めることでそのお金がまた公的な支援活動を支えることになる、それも大事な支援の形だと思うのです。

直接的なことは何もしなくても、日常を回していくことは巡り巡って現地の人たちのためにもきっとなっていく、直接的な活動だけが支援ではないんじゃないかな、と。

 

おわりに

今回の震災では、私も被災者と隣り合わせのところにいます。実害は今のところ無いので日常生活が戻って来ていますが、今後もどんな風に揺れが続いて行くかわからず、周囲では中止になるイベントや変更になった活動も出てきています。考え方も大きく変わるきっかけになりました。

 

行こうと思えば行ける距離で起こった災害、手の届くところに被災地がある現状で、自分には何ができるのか、自分の身の丈はどの程度なのか、を改めて考えるきっかけにもなっているような気がします。

 

小さな子たちを抱え、経済的にも裕福ではない私に今回できることはほとんどありませんでした。そんな自分を受け入れるのは少し辛かった。でもそれが私の現実です。

あぁこれは自尊心との兼ね合いの問題なのかもしれない、と思ったりしています。可哀相な人たちに手を差し伸べれば「何かしてあげた」充足感が得られます。自分が役に立った、と思って少し満たされます。行動を起こせば自尊心が少しだけ底上げされるのかもしれません。

 

でもそれは、自慰行為のようだとも思います。自分を満たすための行為、そこに相手は存在していません。自分や家族がその、自慰行為の対象にされたらとても悲しいと思う、だから私は今回の震災で「直接的なことは何もしない」という選択をしたのだろうと思います。

 

そして今後は、子供たちと、今の自分たちにできることはなにか、を一緒に考えていく時間になっていくのかな、と考えています。

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