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スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

暴発する善意と、その善意への敬意


昨日のエントリ

 にいただいた色々なご意見や同時期にあがっていたいくつかの千羽鶴に関するブログやツイートから思うことを今日は。

 

ズイショさんのご提案

千羽鶴に関するネット上のやり取りについてズイショさんがこんなエントリを書かれていました。

いや「役に立たねぇよ」「馬鹿かよ」「迷惑だよ」って言うのは簡単ですけど、そんな単純な話でもないんじゃねえのとは思うんですよ。(中略)どこかでなにか悲しいことがあった時に「あ、千羽鶴折ろう」って小林製薬くらいの勢いで「あ、千羽鶴折ろう」って脊髄で思っちゃう人が一定数いるのは仕方ないよ。だからありがたく受け取れって話ではもちろんなくって、文化を変えていくにはそれなりの敬意がいるんじゃねえのって話。敬意っていうのは被災地のために何かしたいっていう人の善意への敬意ね。それは役に立とうが立つまいが善意のはずですよ。だから千羽鶴ありがたく受け取れって話じゃないですよ。

(中略)

「何かしたい」って思い、それ自体は素晴らしいことだと思う。そういう人たちが明らかに間違った形で善意を発揮してしまった時に僕らがするべきことってのは「お前のその気持ちは善意じゃない」って叩くことじゃなくて~、「もっとこういう善意の発揮の仕方したらいいじゃん」って言ってあげることなんじゃないの~? ちょっとなんか俺今すげえ恥ずかしいこと言ってるかもって思っちゃって照れで一瞬喋り方がグータンヌーボのYOUになりましたけども。もちろん現場の人たちはそこまで面倒見てられないよ。現場からしたら「迷惑だ」「勘弁してくれ」としか言えないよ。じゃあ外野が言うほかないじゃない。カリカリしないってのも「できることをやろう」の一つだと思う。難しいけど。

YOUのくだりも大事なのではしょらず引用させていただきましたが、このズイショさんの言葉で思い出したことがありました。

 

「何かしたかった」母のこと

東日本大震災が起こったとき、うちの母親は見事にその脊椎反射的に何かしたくてあたふたする種類の人間でした。

時間さえあればテレビをつけてニュースやワイドショーの被災映像を見続け、被災地に想いを馳せていました。かわいそうだと何度も口にし、当時の母の様子は、今回の熊本大分の震災のときにネット上で困ったさんとして描かれていたのとよく似ていたなぁと思います。揺れた地域に住む親戚に何度も何度も電話をかけて安否を確認し、着るものがないだろうと自分のものを含む古着をどんどんと段ボールに詰め始め、そのたびに「電話回線が混んで必要な電話がかけられなくなるからやめて」「いきなり古着を送っても向こうが困るだけだから」と横から声をかけて行動を抑制し続ける日々でした。

 

あの頃は母だけではなく同じように何かしたくておさまりがつかない感じで浮き足立っている人が周囲に複数いたような気がします。

 

母を止め続ける日々

母がやろうとすることはことごとくネット上で「現地が困ってる」と言われていることばかり。ひとつストップをかけてもまたすぐに違う支援活動らしいことを見つけてきます。詐欺なんじゃないかというものもあったりで最初はやんわり止めていた私もだんだんカチンと来て大きな声でいい加減にしてくれと言ってしまうこともありました。

 

私が声を荒げれば母もそれに応えるように怒ります。

「私が現地の人の為になにかしたいと思っているのになんでいちいち止めるの!」

 

このやりとりはまさにズイショさんのエントリのなかで触れられていた「部外者同士の敬意」がお互いにバッサリ欠けてた状態だったんだろうなと思うのです。迷惑とネット上で書かれている行為に挑もうとする母に対する敬意が、私には足りませんでした。

 

母を止めたもの

当時はそんなこと考えもしなかったので、とにかく何かしようとする母をどうにかしなきゃ何をしでかすかわからない、と思ってあれこれ思案の日々でした。そんなときにネット上で見つけたのが、東北のNPO団体の方が子供たちのためのレッスンバッグを作って欲しいという声を上げていた記事でした。自分のものを流されてしまった子供たちのためにキルト地のレッスンバッグを作って送って欲しいというもの。内容を読んでこれならと思ったので母にその記事をプリントして概要を説明しました。

 

母は喜んで、それから毎晩夜なべをして段ボール一箱分のレッスンバッグを作り、うれしそうに箱に詰めて現地へ送る手配をしていました。

 

何度も何度も、ときに声を荒げて止めて来た母の行為でしたが、彼女はその一件で満足したのかそこから何かやりたそうなそわそわは少しおさまっていったように見えました。彼女を止めたのは抑制ではなく、「これならどうかな」という提案だった。それはズイショさんのエントリのタイトルそのもの。迷惑になりかねない行為を止めてもらう為に必要なのは実情を細かく話して聴かせることでもなく、強い言葉で止めるのでもなく、内情なんか置いといて行動を替えてもらうために相手を立てて代替案を示すことだったんだなぁと。

 

どこかで見覚えが。

この、細かいことに目を向けずに相手の行動を切り替えてもらうための行為、相手を怒らせずに違う方を向いてもらうための働きかけ、ってよくよく考えたら私が日常的に夫や子供たちにやろうと意識していることであり、これまでにもこのブログで何度も書いて来たことだったなぁと。

 

多分、ネット上でやりとりしている実在の皆さんも他人相手に日常的にやってると思うんですよ。友人から「これ似合う?」って聞かれて全然似合ってないときに「似合ってない」とは言わずに「こっちの方が似合うんじゃない?」って提案したり。

 

相手が友人や自分の目上の人のような敬意を日頃から意識して一定の距離感を保っている相手には自然にやりやすいこの配慮が、実生活の中でも夫や子供たちのような距離が近過ぎる相手には意識しないと難しかったりする。

 

ネット上でも同じように、リアルでは外面を持って振る舞えていることが距離感を掴めずに叩き合いに見える行為になってしまっているのかもしれないなぁと。ネット上で強い口調の方も目の前の知り合いが千羽鶴折ろうとしてたらきっと「要らねえよ!」って言わないんだろうなと。

 

おわりに

母が自分の感情に任せてやってしまった行為の中には、実際に被災地に迷惑をかけてしまったものも多分あるんだろうと思います。でもその気持ちをうまく誘導することで迷惑をかけずにメリットを産む行為に繋げることはできた。あのとき成功体験を積んだ母は今回の震災では今のところ慌てておかしな行動はとっていないようではあります。

 

ズイショさんが書かれていたように、彼らが抱えている感情は確かに善意なんですね。ただそれが暴発してしまって矛先を見誤っているだけかもしれない。その善意を叩き潰してしまうことは支援の可能性を摘んでしまうことにもなるのだよなぁと思ったりしています。

 

昨日のエントリで私が書いたような、あえて能動的な活動を行わないこと、「何もしない」で公の支援を見守り影で支えることも、ズイショさんが「くまモンの絵を」と仰るのと根っこは同じ。昨日のエントリはその人たちに向けて書いたわけではないのだけど、何もしてないと焦ることはないと今も思っています。もしかしたら母も、先の経験を経てその、見守り日常を送ることの価値に気づいているのかもしれません。

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