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スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

逃げられるものと、逃げてはいけないもの。〜正しく「逃げる」ために意識したい大事なこと


9月1日という、ある種メモリアルな今日。

 

若年層の自殺率が高い日としてネット上では数年前から9月1日を前に警鐘を鳴らす話題が散見されるようになりました。

 

私も去年、こんなエントリを書いています。

 


 

「逃げろ」という大人たちの声

ツイッターのTLには、辛かったら逃げていいという大人たちの声が並びます。

本当に逃げた人の声もたくさん。


「逃げる」ってなに?

まとめのなかでは学校をしばらく休んだという話や仕事を辞めた話などが並んでいます。

私自身も大学生のころにバイト先で店長から執拗ないじめを受け、君臨する店長の怖さに同僚も離れ孤立し、その状況に耐えきれなくなってある日シフトをぶっちぎってそのまま音信不通にして逃げたことがありました。

 

今振り返ってみればもっと周りに波風立てないやり方もあったんじゃないかとも思いますが、二十歳そこらの当時の自分にはできず、店からの着信を無視し、ちらほらと店長が私のことで暴言はきまくってるのを風の便りに聴きながら、二度と関わりを持つことなく逃げ切りました。

 

逃げて、その後気づいたこと

あのときの私には逃げる以外の選択肢はありませんでした。

でもその先も、選んだ環境によっては居心地の良いところもそうではないところもありました。

 

あの店長のように姑息ないじめ方をする人にはその後は出会いませんでしたが、それでも「なぜ自分がこんな目に」と思う事は1度や2度ではありませんでした。

あんな逃避行をしたことはその後は無かったけど、色んな理由を見つけてやんわりと逃げの姿勢に転じたこともありながらの、これまでの人生でした。

 

色んな経験を経て子どもが産まれて、ある日発達障害というものがあるという知識を得ました。そのときに調べた色々なこと、思い当たる色んな自分の過去、あぁここにあのときのトラブルの要素があったんだ、あぁこれで私はうまくいかなかったんだ、頭のなかのパズルのピースが、ばばばばーーーっとはまっていった瞬間でした。

 

逃げることは解決ではなく先のばしに過ぎない

私はいろんなところから逃げて来たし、自分の意志で環境を変えたと思った形の逃げもあった。でもそれを経て今思うのです。自分の抱えていたものにもっと早く気づけていたらもっと良い選択を出来たかもしれないのに、と。

 

逃げることは、一時的に自分を守ること。傷つける人を避けること。

 

でも、その行為で全てが解決するわけではありません。

自分以外の人が適応しているその環境の中でなぜ自分がそこで辛くなったのか。そこには必ず、何かしらの理由があります。

 

いじめられて辛い環境を離れてもその、自分の中に抱えているものは変わりません。

逃げるのは一時的な避難、解決を先延ばしにしているにすぎないのです。

 

いじめが起こる環境

もちろんそれを理由に人を傷つける人がいなければそんなことは起こりません。いじめる人、環境を悪化させる人、人を傷つける人の存在がなければ傷つかなかった。

でも、その環境は自分にも誰にもコントロールできません。いじめている加害側の人そのものも、なぜいじめるに至ったのかすらきっと把握していません。「いじめる悪い人」がそこにいるからいじめが起こるわけではありません。

いろいろな要素が絡み合って結果的に誰かが傷ついてしまう、傷つける人ができあがってしまう。

 

一時的に逃げ、環境を変えても、自分の中に抱えているものがそのまま変わらずに残っているなら、次に入る環境でもまた同じことが起こるかもしれないのです。

 

適応力という視点と、その先

今の環境が辛く、逃げたいと思っているのであれば逃げた方がいい。逃げましょう。

大事なのはその先です。

 

次の環境を選ぶ必要があります。

どんな環境が次に自分に適しているでしょうか。どこでもいいわけではありません。「逃げたい」と思った現状がある以上、どんな環境でも柔軟に適応していける「適応力」を持っていない可能性が高いんです。

 

その自分と向き合わねばなりません。

それが、自力でできるか、助けてくれる人は、話を聞いてくれる人は、相談できる先は…

その見通しを立てられているか。

逃がす対象が子供であれば保護者がその見通しを立てられているか。

 

そこが、逃げたあとの人生をどう生き抜いて行くかの鍵を握っているのではないかと思います。

 

いじめられる人には何の非もありません

誤解を避けるために繰り返しますが、いじめ行為に至る人間がもっとも卑劣です。そして、いじめられる人には何の非もありません。そこは、太字で強調していきたい。

なんの非もありません。いじめてよい理由などそもそも誰も持たない、存在してはいけないんです。

 

非があったからいじめられたわけではありません。

でも逃げた先にはこれからの人生があります。新しい環境を選ばねばなりません。そのときに、以前の環境になぜ適応できなかったのか、その内省をおざなりにしてしまうとまた同じ事を繰り返してしまう可能性がとても高い。

 

そうやって何度も何度も辛い思いをするのではなく、前向きに自分に合う環境を探して転々としても良いと思うのです。そしてそのためには、なぜ自分が(もしくは我が子が)以前の環境には適応できなかったのかについて分析していく必要がある。

 

自力では難しければ専門家に頼る必要もでてくるでしょう。

支援が必要なケースもあると思います。

先日書いたふみきちさんの息子さんのケースでも、相談者からは合わないと感じたら違う環境を求めることを勧められています。


 

逃げられる環境と、逃げられない「自分」

私の場合は自分自身が恐らくはそれなりの発達特性を抱えているだろうことが過去のいろいろなトラブルの根底にあった、という結論に辿り着きました。

しかし「逃げたい」衝動の理由が全てそれで説明がつくわけではないと思います。人それぞれに何かしらの要素が周囲にも自分の中にもあっての、居場所の無さだと思うのです。

 

自分が居づらかった環境からは逃げられる。

でも、自分が居づらくなる要素の中にあったかもしれない「自分の中にあるもの」からは逃げられません。

 

「逃げたい」と思ったときに、休息して傷が癒えたあとでその「自分の中にあるかもしれないもの」に向き合う見通しが立てられているか、子供であれば親がその見通しを立てられているか。

 

もしできそうなら気持ちよく逃げていいと思うし、それを一緒に背負ってくれる相談先が見つかればもっと自信を持って逃げられる。

 

そこを意識せずに逃げるだけだと、同じことを繰り返してより傷ついてしまうのではないか、と危惧しています。

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