スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

ワクチン論争を見て考えた、インターネット上で情報に浸かる危険性のこと


私のTwitterのフォロワーさんたちには医療関係者も多く反ワクチン派を否定する意見が良く流れて来ます。ここ数日それが加熱しているように見えていろいろと拝見していました。

 

余談ですが私は今のところ受けられる予防接種は子供たちになるべく受けさせている状態ですがワクチン全肯定派でも否定派でもありません。判断の結果そうなった、というのが現状です。

 

ワクチンを子供に接種させるかどうか、させないことがネグレクトなのかどうか、それぞれがどんな影響力を持つのか、その答えをここに書きたいわけではありません。

 

今日私が書きたかったこと、それは、その答えをネット上で求めることの危険性についてです。

 

ワクチン接種について戸惑った自分の過去

長男が生まれる前後、色んな本を読みあさりました。それこそワクチンを肯定するものから否定するもの、私のTLで叩かれている自然派育児を推奨するものや自宅で出来る手当法の本、科学的にそれに反論するものなど様々。

 

その中で読んだものに対して、ワクチン接種について過剰に否定的な意見のものもあり、接種について一瞬ひるんだ自分がそこにいました。

 

自分は何の疑問もなく接種してもらってきたものだけれど、副反応もある、後遺症が出ている人もいる…様々な事実を取り入れる中で「これを息子に接種しても大丈夫だろうか…」という不安が自分にもありました。

 

そのころにネットで色々と調べたんですね、それについて。

そこにはたくさんの、ワクチンを否定する意見がある。肯定する意見もある。たくさんの情報がそこにありました。

 

必ず存在する「私の願望」を肯定する情報

ワクチンに限らずですが、不安に駆られてネット上で何かの情報を探しているとき無意識に情報を選別していることが少なからずあります。

山のようにある情報の中から、自分の欲しいものを探しているんですね。

そして、それを見つけると安心する。肯定してくれる人が居た、やっぱりそうかと安心する。

 

そのたった1つの肯定する情報は、その周囲にはるかにたくさん存在する否定的な情報の価値を凌駕することがあります。1つの光を見つけると周囲に山のようにあったものは闇の中に消える、自分の中でなかったことにできてしまう。

 

不安に駆られて情報を求めているときにたくさんある情報を冷静に精査できる人はそうそういません。

自分でも言葉にできていない心の奥に潜んだ「本当はこうだったらいいのに」という願望を無意識に探します。

 

そして、恐ろしいことに広大なネットの海の中には必ず、自分のその奥深くに潜む「こうだったらいいのに」という願望を肯定する意見が存在します。

夜中にベッドの中でスマホを握って何時間もネットの海を彷徨えば、それに出会うことができるんです。

 

私というフィルターを通して見る世界

インターネットの海は広い。誰にとっても同じように広く見えるかもしれません。

でも実際には「私」というフィルターを通して選別した情報をかきあつめた世界に過ぎません。

Twitterを例にとっても自分のタイムラインに並ぶツイートを普段見ていると世論がそういうもののように錯覚しがちですが、検索をしたり違う人のリストを見たりしてみるとまったく違う意見が飛び交う世界がそこにあるのを見ることができます。

 

私たちは無意識に自分の見る世界を選別しているんですね。

 

信じるという危険への入り口

ネット上には答えを求めて彷徨う人がたくさんいます。そしてその人たちに答えを与えてくれるような情報がたくさん存在しています。

彷徨う人たちに救いの手を差し伸べようと記事を書いている人もたくさん居ます。

そこで救われた人もたくさんいるでしょう。それら全てを否定したいわけではないのです。

 

たくさんの雑多にある情報のなかで、あなたがたどりついたそれが正解かは誰にも分かりません。ネット上で叩かれている自然派育児ブログ、反ワクチン記事、アレルギーの存在を否定しているような記事(私も反論を書いたことがあります)を書いているそれぞれの人たちも、それが正解だと思って書いています。流布させることが善だと思ってやっている人の方が多分多い。

 

たくさんの人が「これが正解だ」「これが善だ」「いやそれは間違っている」「これは害悪だ」とあちこちに書いている、その「どれかを信じる」のは楽です。でもそれは危険への入り口でもあります。

 

それが正しいかどうか、あなたの生活に適しているかどうか、は誰にも保証されていないのです。

 

自力で見つけるしかない「答え」

私のブログに対するご意見のなかで「答えがどこにも書いていない」と言われることがたまにあります。意図的ではなく無意識にやってきてました。

なぜかと振り返ってみたときに気づいたんですね。そんなの私には提供できないんです、だから書いてない。

 

夫婦関係にしろ、子育てのことにしろ、答えはその人その家族の数だけあります。

法律とか虐待はダメだとか、最低限のラインはあるとは思います。でもその先のどんな選択が適しているかの答えはその人の数だけある。

だから、私には「これが答えです」とは書けないのです。

あなたの答えは、自分で見つけるか、自分を知っている誰かに助けてもらうかしなければ得られない。一般化したもののなかからは手に入らないのです。

 

おわりに

ネット上の広い海の中で不安に駆られて検索してしまうとき、何かの情報にすがりたくなったとき、そのとき見つけて安心した答えは「ネット上で見つけた正解」ではなく「自分がそうあってほしいと願っていたもの」かもしれません。

 

ネットの海に浸かっていたらそこにひきずられてしまう。その波に揺られているところにはあなたを陥れる情報も山のように存在しているし、その多くは一見とてもやわらかく優しくあなたに近寄ってきてあなたを包みます。(本当は自分が引き寄せているのかもしれないのだけれど)

 

そんな居心地のよいところをたとえ見つけたとしても、自分に合わせた答えを見つけるためには反対する意見や中立な意見にも目を通す必要があります。

でもそんな反論が自分に刺さって来たり、敵に見えたりして受け入れることが難しくなっているときにはインターネットから距離を置くのもひとつの方法だと思います。

 

もちろんそれを自力で判断して自力で離れる、というのが簡単ではないということも含めてのネットの情報に浸かる危険性、だと感じています。それこそ「こうすればいい」の答えがここには書けませんが、そういう危険性があることを知っているかいないかだけでも違うかな、という気持ちで書いています。

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