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スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

読書離れを子供の問題にしてはいけないと思う


大学生の疑問の声

今朝のTLに、読書についてのツイートが流れてきていました。

大学生が新聞に投稿した文章の中には、「1日の読書量が0分という学生が五割という記事に懸念の声が上がっている」と書かれ、「役立つかもしれないが読まなくても生きていけるというのが本音」「楽器やスポーツと同じような趣味の範疇」と続き、「読書をしなければならない確固たる理由があるなら教えて欲しい」と締めくくられていました。

 

TLに並んでいた、数々の反論

私のTLにはその大学生の投稿に対して色々なかたが読書の有用性について触れているツイートが並んでいました。

うん、その一つ一つには私も納得のいくものが多い。

でも、違和感はあるのです。

私もその大学生と似たようなことを考えたことがあったから。

 

「本を読みなさい」という大人たち

小学生の頃から、本をたくさん読む子どもは褒められていました。

図書室の貸し出しカードがたくさんたまると賞をもらえたりもしていましたし、規定の本を読んだかのチェックシートが教室にはられることもありました。

私は読書が苦にならずむしろ活字の虫のように読んでいた子だったので、その風潮に馴染んでどんどん本を借りては読んでいた記憶があります。(自己肯定感の低い子だったので、本を読めば褒められるというのが一つの社会的自尊心を満たす手段になっていた可能性もあります)

 

息子たちの学校では今も当時と同じように、たくさん借りた子が表彰をされたりする仕組みが残っています。

図書室の前の廊下には、たくさん本を読んだ子の名前が掲げられていたり、長期休みには何冊読みましょう!という宿題が出たりします。

 

それらを目にするたび、ふわっと違和感を覚えるのです。

そんな風に、強いて欲しくないな、と。

 

私にとっての「読書」

読書というものについて考えた時、一つのツールに過ぎない、というのが私の中の答えでした。

テレビでも映画でもネット上の記事でも漫画でも人との会話でも、私たちは色々なものから日常的に情報を得ています。私にとっては本はそれらと同じような、一つの情報源というイメージです。

もちろん、テレビと映画館で見る映画から得られるものがそれぞれ違うように、同じテーマであっても小説を読むのと漫画で読むのとは少しずつ違うものが得られるとは思います。

 

その様々なものが得られるツールの一つが、私にとっての本です。

 

心の安寧を得る時間を共にするもの、知識や教養を得るためのもの、誰かと情報を共有するためのもの…人それぞれ、また本それぞれに色々な目的があるだろうとは思います。

認知特性により合う合わない、向き不向き、色々人によって違うわけで、いろんなメディアからいろんな情報を、それぞれが好みに合わせて選べばいい、その一つが本なのかな、と。

 

本を読むことのメリット

新聞も含め、活字を目で追うことだけでしか得られないメリット、というのは確実にあります。読書を勧める大人たちの中にはそれを具体的に想定している方もたくさんおられるでしょう。

 

パッと思い浮かぶだけでも、語彙力が高まること、自分のペースで文字を追っていくので他のメディアより能動的なメディアであること、進学につれて必要になる読解力や文章を綴る能力が高まるだろうこと…

いろんなメリットが、読書にはあるのは事実です。

たくさんのメリットがある、たくさんの発見がある、電源も必要なく比較的安価に手に取ることができ、人と共有することもでき、世界が広がっていくツール。

私もそれを知っているから、こうやってブログを通して絵本のことを発信したり、いろんな学校を回って読み聞かせボランティアを続けています。

 

卒業生への最後の読み聞かせの時間を担当させてもらえたらよく読むのがこの絵本です。本は想像力の海を満たす大切なツールの一つだよ、と伝えています。

 

本に、読書に、マイナスのイメージを持って欲しくないから

我が家では子供たちに「本を読みなさい」と言ったことはありません。

狭い狭い家の中に、玄関から廊下、居間、子供部屋、スペースを見つけたら本棚を置いては本を詰め込んでいます。何も言いません、ただそこに置いています。

 

全く興味を持たれていない棚も、掃除を怠るとホコリをかぶってしまって慌てる棚もあります。それでも、何も言いません。

いつか背表紙の文字に目を留めて、いつか琴線に触れる日が来たら手にとってもらえたら母さんとしては本望なのです。

 

うちの子たちに読書を強いていないのは、本を嫌いになって欲しくないから。読書という行為に負の感情を持って欲しくないから。

うちの子も1日の読書量が0分という日もおそらくあります。でも突然図書室からたくさん借りて来て読みふけっていることも、私が読み聞かせボランティア活動のために定期的に行く図書館について来てあれこれ借りて帰って楽しんでいることもあります。

 

読書という行為そのものを押し付けられ、義務的に本を読んでもつまらないんじゃないかなぁ、と思うんですね。だから我が子には絶対にしたくない。

うちの子たちも好きな絵本は何度でも繰り返し読んでいるし、学校の子供たちも面白い本は順番を待ってでも借りたがります。

読み聞かせで読んだ本が後日学校で借りられているとちょっと嬉しい(心の中でガッツポーズ)。

 

 

子供の問題じゃなくて、大人の問題

投稿をした大学生のように、本を読めという圧力から読書そのものに負のイメージを感じている人も多いんじゃないかなぁ、と思ったりしています。

 

昔より、私たちが小さいころより、今のほうがテレビにしろゲームにしろ、子供たちが触れるメディアは確実に増えていて、本というメディアと触れ合う時間が相対的に減ることは仕方がないことと思います。

 

でも、時間が減るだけではなく読書という行為そのものに負のイメージを持っていたり、嫌っていたりする子供やそこから成長した大人が存在するのもまた現実なんだろうなと思うと、それは子供の問題ではなくて、たとえ良いものだとしてもそれを強いてきた大人の問題なんじゃないだろうか、とも思えてくるのです。

 

本の良さを勧めるがあまりそれが強制として働き、義務としての読書を子供たちに敷いて来た代償が、今の本離れ、本を読む時間が0分の学生が5割、という現実なのではないか、それは、あまりにももったいない。

 

子供の読書離れを嘆く前に、私たちは大人として子供たちを尊重しながら本に触れる場を作っただろうか、と考えたい。子供たちが喜ぶ本を、手に取りたい本を、手の届くところに用意できただろうか、子供たちがそれを自由に楽しむ生活を提供できているだろうか、と再考したい。

 

読書という行為を強いるのではなく、自分が面白いと思った、自分がワクワクした、自分が何かを感じた、そんな本たちを「よかったらどうぞ」ってそっとそこに置いておく、そんな大人でありたいなぁと思うのです。

 

 

おまけ。

ブコメにもあった自宅での読み聞かせについてですが、うちでは今は私からそれを促すことはありません。子供たちが「読んで」と持って来れば可能な限り応じています。

子供がゲームしてる横で私が絵本を読んでいて、寄ってきた子供に「それ読んで」と言われることもよくありますね。

 

本を好きになってほしい、というより「本を嫌いにならないでほしい」という気持ちの方がしっくりくるような気がしています。

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