TLに音楽家の方が中学生を殴ったひどいというニュースが流れてきたと思ったら今度は中学生がクソだったから音楽家は悪くないんだというまとめ記事やツイートが流れてきた。
動画やいろんな方の証言ツイートを見るに、当該の中学生がみんなで短い時間ずつを使って順番に回していたソロ演奏のときに一人だけ暴走して周囲を煽り長い時間演奏を続け、さらに止めに入った音楽家の方の制止も聞き入れず反抗した結果の「髪を掴んで往復ビンタ」だったらしい。
いろんな意見を見てる中でやっぱりどうしても気になる。
暴力行為そのものをやんわり肯定するような流れが一部にあるということが。
現場を直接見ていないし、双方にどんな感情があったのかも、その中学生がどんな子なのかも、その音楽家の方がどんな方針で指導している方なのかも、私はわからない、知らない。
でも、たった一つこれだけは確実に言えるだろうと思うのが
「どんな理由があっても大人が子供に対して『髪を掴んで往復ビンタをした』という行動については肯定したらダメじゃないか」ということ。
いやそんなの当たり前なんです、当たり前なんだけど、たくさん飛び交っている意見の中には「あの中学生が悪いから」という理由で持ってその音楽家さんの行動そのものも仕方なしとしているように見えるものもあったように思うのです。
そこは、違うと思う。
どんな理由があっても暴力は肯定したらいけない。
その、一線はやはり守らないといけないと思う。
もちろん、人としていつでも完璧ではいられないから感情が振り切れて手が出てしまうことがないとは言い切れない。
うちにも中学生男子がいるけれど反抗した時の煽り方、状況によっては本当にひどいこともある。意図的に大人を煽ろうとする目をした彼らの行動にこちらまでカッとなって大きな声を出してしまうことは私にも経験があるし、あそこでもっと煽られたら殴るくらいやってしまいそうな怖さすらある、子供といえどもこちらを逆撫でることができる子がいるのは知ってる。
もしそうやって煽られて、追い詰められて、カッとなってしまって手を出してしまうことだって、あるかもしれない、あるかもしれないけれど、でもそれを「あいつが悪いんだから仕方なかった」と思うのか「カッとなった自分の行動は良くなかった」と思えるのか、全然その先は違うわけで。
周囲の反応としても、あいつが悪かったんだから殴られても仕方ない、という風潮はやっぱり怖い。あの子の取った行動そのものは良くなかったんだろうし、それを本人が反省し次に繋げるフォローや適切な謝罪に導ける大人が周囲にいたらいいなと思う。
こういう話の時にどうしても「誰が」悪かったのか、という話になりやすくて、そこに視点を置いてしまうと結局は悪者が誰か(逆に誰は悪くなかったのか)という流れになってしまう。
そうなると、悪者になった人の行動は責められ、逆に悪くなかったと擁護される人の行動そのものまで丸ごと擁護の対象になってしまいやすくなる。
でもそれは違うと思う。
「誰が」悪かったんじゃない、誰の「どの行動が」が悪かったのか、に視点を移さなければ本質的なことは見えてこない。誰が何を反省し、どう改善していくのかが見えなくなる。火を消して悪く見えたものに蓋をして終わりになってしまう。誰も幸せになれない。
当該のケースでは中学生の親御さんも含めて双方にお話が成立しているようなので、それ以上どうこう言えることではないんだろうと思うのだけれど、こうやって悪者探しをする流れが音楽家さんの活動そのものや中学生の私生活、あのイベント全体への悪影響になるような気がして、危惧しています。