スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

質問箱へのお返事vol.3 〜カサンドラではという奥様から寄せられた夫婦間の自他境界についてのご質問


3回目になりました、質問箱に寄せられたご質問へのお答え回です。

 

今回はこんなご質問です。

はじめまして。いつもツイート拝読しております。 夫さんの共感性とカサンドラについての質問がありましたが、自分が送ったのかと三度見するくらいそっくり同じ状況でした。 特に、『わかりました、すみません、努力します、と返ってきて何も変わらない』というところがあまりにも似ています。 私の夫はこれまで生きてきて、誰かの生き方や言葉に心動かされ、影響されたり、憧れたりした経験が1度もないと聞いて、お互いに尊敬しあい学び合えるような関係が理想の夫婦と思っていたので、絶望してしまいました。 私は鬱状態で不眠も酷く、投薬治療を受けており、カサンドラだろうなと思っています。 私のどんな言葉も、喜びも悲しみも怒りも、夫に素通りされて響かないことが、本当に苦しく、共に居る意味を感じられません。 自他境界を引くことにより、自分のありのままでOK、相手もありのままでOKと思えるようになると読んだのですが、そこに成長や向上はあるのでしょうか? 誰かや何かに憧れ、影響されて自分を深く内省したり、言動を改めたりしてより良い自分を目指すことは、悪いことなのでしょうか? 誰かを喜ばせたいとか、自分も喜ばせて欲しいという気持ちも、自他境界をしっかり引く上では悪いものなのでしょうか? その辺りがわかりません。 宜しければ、ありのままをOKとすることと向上心や良い影響を得ることの両立があり得るのか、あり得るならどのように両立させれば良いのか、教えてください。

 

 

自他境界とはなんでしょう。

質問文の中にも登場する、私もよく回答の中でも使っている「自他境界」という言葉。

「自他境界」とは。まずは、ここからほぐしていく必要があるように感じました。

 

引用できるものがないかな〜と探していたら、平易な言葉で解説しているサイトを見つけました。

asqmii.com

一部、引用します。

自他境界とは、「自分と他者は、別のものである」という境目、「壁」のようなものです。
これは物理的なことのみでなく、精神的なことを含みます。 

 

「自分と周りの人たちは、別のものであるという境目」が明確に理解できていないことは、様々な不安や葛藤の原因になります。
一つ目は、「他者は自分と違う考え方をするかもしれない」ということが思い浮かばないということです。
「自分が考えていることは絶対正しい」「自分が考えていることは、相手も考えているはずだ」と考えます。
具体的に言うと、自分の片思いに過ぎないのに、「気持ちは相手も同じだ」と思い込んだり、「自分がこんなに困っているんだから、気持ちは相手に伝わるはずだ」と思い込みます。
ですが、実際には相手が解るはずはないので、不要な怒りや不安、葛藤を抱え込んだりするわけです。
「他者には別の考え方があり、他者は自分の思いのままにならない」、ということが理解できないのです。

 

もう一つの問題点は、周りからの影響を受けやすいという点です。
自分と他者は別のものだと思えないために、他者、特に周りのことを考えない「侵入的な人」に振り回されてしまいがちです。
相手の要求をうけいれてしまい嫌だと言えない、要求をはねつけることができない。
相手に振り回され、傷つけられ、他者が怖くなってしまうこともあります。 

 

自他の境界とは、自分と他者(家族を含む自分以外のの全ての人を指します)の間にある境界線、壁、隔てているもの。

ここが曖昧になってしまっていることの問題点は大きく2つ。

1つは他者に対して自分の思うままになるよう求めがちになること。

もう1つは、周りから過度な影響を受けてダメージを受けてしまうこと。

 

発達障害とこの自他境界の曖昧さの関連について私は学術的な見識は持ちません。

ですが、実体験や周りの保護者当事者さんたちのお話を通して、発達障害のある人やその周囲でここに由来するトラブルが起こりやすいというのは実感として有ります。

 

nanaio.hatenablog.com

娘は小学4年生になった現在、外では自分と他人の境界ははっきりと認識できているようですが、どうも家族の中には境界がなく、自分の境界の中に取り込んでしまっているようです。

なので娘は学校で問題のある行動はほぼなく自分からトラブルを起こすことはありません。なのに家では毎日のようにトラブルになりパニックを起こしています。

なないおさんのブログからの引用ですが、娘さんのケースのように「外ではそれなりにうまくやれているのに家族に対しては他者との境界が認識できない(しづらい)。

これも我が家も含め、よく見聞きするお話です。

 

質問主さんのケース

「自他境界とは」という情報を整理したところで、質問主さんのケースに目をむけましょう。

文章を読む感じでは、質問主さんは夫さんに対する自他の境界が曖昧になっていることに若干の自覚があるようにも見受けられました。

私の夫はこれまで生きてきて、誰かの生き方や言葉に心動かされ、影響されたり、憧れたりした経験が1度もないと聞いて、お互いに尊敬しあい学び合えるような関係が理想の夫婦と思っていたので、絶望してしまいました。

質問主さんが夫さんに対して自他の境界がかなり緩そう、と見える一文です。

ものすごくドライに言うと、夫さんの「だれかに憧れたり影響されたりしたことがない」という過去やそういう性格の発覚について、それを質問主さんが尊敬したり、そんな夫さんから学ぶことがあったりしたらそれはそれでいいんじゃない?という話にも見えるんですね。

夫さんの告白は「配偶者を尊敬し配偶者から学ぶ」という理想に関しては何も侵してはいません。

 

ではなぜ質問主さんは【絶望】するほどのショックを受けたんでしょう。

それは、質問主さんの思い描いていた理想が

「配偶者を尊敬し配偶者から学ぶ」ではなく

「お互いに尊敬しあい学び合えるような関係」だったから。

 

それはつまり夫さんが「夫が私から学んでくれる、夫が私のことを(私の思うような形で)尊敬してくれる」ことを潰したと感じたからです。

 

耳障りのいい言葉に隠された、境界線の侵害

「お互いに尊敬しあい学び合えるような関係」

とても、耳障りのいいセンテンスだと思います。

質問主さんは質問文の後半にも

誰かや何かに憧れ、影響されて自分を深く内省したり、言動を改めたりしてより良い自分を目指すことは、悪いことなのでしょうか? 誰かを喜ばせたいとか、自分も喜ばせて欲しいという気持ち(以下略)

と書かれています。

どれも、それだけをとればとても耳障りが良く、批判の対象になるようなお話ではないように見えます。

 

「尊敬しあい学びあう関係」

「誰かに憧れる」

「影響を受けて深く内省する」

「言動を改めてより良い自分を目指す」

「誰かを喜ばせたいとおもう」

「自分を喜ばせてほしいと思う」

 

単体では、これらはなんの問題もない事なんですね。

人間関係をよくするための自助努力としてはむしろ推奨されるような内容。

 

ここで鍵になるのは、その「推奨する」という、というような、他人に対する働きかけの部分なんですね。

 

「自分が変わろう!」と目指すことはなにも悪くない

質問主さんが夫さんに希望しているいろいろな事、それそのものは上でも触れたように、なんの問題もない、むしろ夫さんがより良くなることに役立つかもしれないことも多く含まれていると思います。

 

「それ自体はなにも悪くない」んです。

質問主さんが自分で「人の影響を受けて良い方へ自分が変わろう!」と目指すことはなにも悪くないんですね。

夫さんが何かのきっかけで「あの人のようなより良い自分になりたい!」と目指すことも、なにも悪くないです。

そういうなにかしらにより触発を受けて成長や向上をする人もたくさんいるでしょうし、質問主さんご自身はそうやってご自身の成長を感じてこられたのかもしれません。それ自体は誰からも侵害されることも否定されることもない、質問主さんの大事な過去や大事なスタンスです。

 

では、なにが問題なんでしょう。

 

「なにを」ではなく「どう」求めるか

鍵になるのは「他人への働きかけ」の部分だと書きました。

「あの人のようなより良い自分になりたい!」という感情を例にして、そこを掘り下げてみましょう。

 

  1. 「あの人のようなより良い自分になりたい!」と自分で思うこと
  2. 「あの人のようなより良い自分になろう、っていう気持ちを持ってくれたらいいなぁ」と配偶者に対して思うこと
  3. 「あの人のようなより良い自分になろう、っていう気持ちを持って」と配偶者に求めること
  4. 「あの人のようなより良い自分になろう、っていう気持ちを持って」と配偶者に求めた上でそれについての相手の反応により影響を受けること(例;怒る、悲しくなる、辛くなる、喜ぶetc.)
  5. 「あの人のようなより良い自分になろうっていう気持ちを持たないあなたはおかしい」と相手を責めること

 

いくつかの段階をおって箇条書きにしてみました。

どれが人間関係に支障を来すかわかりますか?

 

1と2はなんの問題もないですね。自分の境界線の内側で自分の感情を制御している状態です。

 

3は一見するとNGに見えるかもしれませんが、セーフなラインだと私は思います。

求めるという行動そのものの責任は自分にあるわけです。相手がそれに対してどう出るかはわかりませんが、求める行為そのものはセーフだと私は考えます。

自分は自分の感情や要求は伝える、でも自分の要求に対して相手がどう動くかは相手に委ねている状態です。

 

人間関係がこじれるのは4と5です。

4は、求めた先の相手の行動をコントロールしようとしていたり、また過度に影響を受けてしまうことに繋がっています。

5は、違う人間であるはずの自分と相手が同じ思考をする前提で物事を見ています。相手の人格を否定することに繋がっていきます。

 

これを日常的にやられると人間関係は破綻しやすくなると思います。

自分が自分としてそこに居ていい、という環境ではなくなります。

 

 常に自分という人格を否定する人と一緒に暮らす、同じ職場や教室で過ごす、というのは質問主さんにとっても想像するだけでお辛いのではないかと思います。

自他境界の曖昧な関係性の中で暮らすというのは、そういうことです。

 

自己肯定感と人格否定

質問文の中には夫さんの思いや他のご家族のことは触れられていませんが、質問主さんが今鬱状態でお辛い日常を過ごしておられる中で恐らくはご家族も、質問主さんの言動に苦しんでおられるのではないか、と心配になりました。

 

打開するために具体的な何が必要かということはここで簡単に話すことはできませんが、最後に、質問主さんが書かれている最後の疑問にお答えしたいと思います。

 

ありのままをOKとすることと向上心や良い影響を得ることの両立があり得るのか、あり得るならどのように両立させれば良いのか、教えてください。

 

ここでもう一つ、定義を確認する必要がある言葉をだします。

「自己肯定感」(自尊感情)という言葉です。

流行っているのでしょうね、学校関係でもよく見聞きするようになりました。

自尊感情については過去に書いたことがありました。

suminotiger.hatenadiary.jp

 

社会的自尊感情とは、「できることがある」「役に立つ」「価値がある」「人より優れている」と思える感情で、他者と比較して得られるもの。相対的、条件的、表面的で際限がなく、一過性の感情です。

基本的自尊感情とは、「生まれてきてよかった」「自分に価値がある」「このままでいい」「自分は自分」と思える感情です。他者との比較ではなく、絶対的かつ無条件的で、根源的で永続性のある感情です。

 

参考:http://www.kyoushi.jp/entries/2428

 

質問主さんが書かれている「より良い自分であろう」とするために向上する意識は「社会的自尊感情」を持ち、保つための努力と繋がると思います。


そして「ありのままの自分でいい」というのはどんな状態の自分でも「生きていていい」「自分が自分であっていい」と自分で自分をまるごと肯定すること、自分という人格を大切にすること、それが基本的自尊感情です。

 

質問主さんは「両立があり得るのか」と書かれていらっしゃいます。

はい、あり得ます。

あり得るどころか、両方がないと人は人として自分の人格を保って生きて居られないのではないかと思うのです。

 

ありのままの自分をありのまま肯定できる、というのは木の根っこや幹のイメージです。それは、後天的な能力の高低や有無に影響を受けるようなものではなく、人格としての自分を肯定することです。

 

より良い自分であろうとすることは、木のイメージでいえば葉を茂らせるイメージです。他者からの影響を受けながら自分で培っていく部分です。

 

茂らせるのはあくまでも自分です。

 

質問文を拝見した感じだと、質問主さんは「ありのままの自分をよしとする」ということについて「ダメな部分も容認してしまっていいのか」と受け取られているように見えましたが、どうでしょうか。

 

でも、その部分がダメかどうかもまた、夫さん自身が決めることなんですね。


質問主さんがやろうとしていることは、茂っている夫さんの葉を「こんな葉ではダメだ」と刈り取って違う葉をくっつけようとしている状態、種類の違う木にそれを無理にやろうとしてもうまくはいきませんよね。

 

まとめます

細かくお話ししたのでかなり長くなってしまいました。ごめんなさい。

整理します。

 

質問主さんは「ありのままでOK」という表現を「ダメな自分も容認してしまって向上しない人間でいいのか」という意味合いに受け取られているように感じました。

でも、それは違います。

 

夫さんの「ダメにみえる部分」はあくまでも質問主さんから見た主観的な要素の一つであり、それをどう捉えるかは夫さんの側の課題です。

 

ありのままの自分や配偶者を肯定する、というのは、細かな要素の内容ではなく、丸ごとの人格を否定しないということです。

 

その上で「あなたのこの部分は好き」「あなたのこの行動は自分は嫌い」という感情を抱くことも、それを相手に伝えることも、それを理由に自分がどうするかを決めることも、質問主さんの自由です。

でも、その結果夫さんがどう動くかは夫さん自身が決めることで、配偶者といっても介入はできません。

 

夫さんに関して質問主さんが「ここがイヤ」と感じる部分について

  • 不快に思うこと
  • 不快さや辛さを伝えること
  • 改善してほしいという自分の思いを伝えること

は何の問題もありません。

でも

要求に対して夫さんがどう動くのかを決めることは夫さんが決めることです。

その決断には質問主さんが関わることはできません。

 

自分と他者の境界を意識するというのは、相手の判断する力を奪わないことでもあります。

 

質問主さんがもし夫さんから「俺の思うような妻であれ」と強いられ、いろいろな判断に介入されたらお辛いと思います。

自分の行動を判断する能力が質問主さんにとって大事なものであるように、夫さんにとっての判断する力もまた、誰にも侵害されることがあってはならない、夫さんの大事なものです。

 

最後に余談ですが。

特に夫婦間では何かのしんどさがあるとき片方にだけ大きく要素があるということは稀だと思います。

質問主さんに自他境界の問題があるように見受けられるのと同じように、夫さんには夫さんの何かしらの要素があるのだろうと思います。

これは、どちらがいいとか悪いとかの、主導権を取り合うパワーゲームではないと私は思うのです。

 

結婚生活を維持するという目的があるのであれば、その目的のために「自分がどうすれば自分がより楽にいられるのか」を双方が考えることが大事です。

その折り合いをつける話ができるかどうかは、片方がどんなスタンスで話し合いを求めるかによっても大きく変わってきます。

そして、そのためにはある程度のメンタルの余力のようなものも必要だと思うんですね。

そういう意味では、不眠が続いていらっしゃるような状態の質問主さんにとっては私のこの回答も重すぎるものかもしれないという懸念もあります。

それも込めて、あとでも読めるようブログにまとめる形を取らせていただきました。

 

折り合いをつける夫婦間の話の仕方については必要があればまた別の形でお手伝いさせていただくこともできるかなと思いつつ、長い文章をここで締めたいと思います。

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