いつもなら割と頭の中で一つのテーマを思いついてからしばらく練る時間をかけてある程度行き着いてからブログにまとめるのだけれど、今日はちょっといつもとは違う趣向というか、思いついたことをそのまま備忘録のように書いておこうと思う、多分とても大切なことだから。
某議員さんの雑誌記事やツイートを発端に、マイノリティの「生産性」というのが話題になってるのをここ数日見てる。
自分もちょっと呟いたりもしてる。
障害のある子を育てていることもあり、またいろんなマイノリティの方との関係や自分もまたマイノリティの一面を持っている自覚もあることもあり、やりとりを眺める心境は色々と複雑で。
相模原の事件や某ジャーナリストが発した特定の疾病の方を罵倒するような発言、今回のような議員さんの発言、反論の多くは「自分の納得のいく弱者なら助けてやってもいい、という視点にある危うさ」や「優生思想を肯定するような発言を擁護できない」という、至極まっとうなものばかりで自分も同じように思うものが多い。
許すまじ、と思う。
そしてこの流れを止めるべきだ、とも思う。
と同時に、自分の中でしくしくと何かが疼く。
たくさんの反論する声の中にほんのりと見え隠れする差別を思わせる部分を見ては、あぁこれだ、と思う。
例えば今朝見かけたのはこんなのだった。
「うちの娘(LGBTQではない)が鬱になった時にゲイの友人が救ってくれた」というお話。このツイートをした方はこの声を通して、ゲイの友人は生産性のない無用な存在ではない、大事な人だ、と伝えたかったんだろうと思う。
でもその伝えたい声の中になぜ「うちの娘は違う」という情報をわざわざ入れてしまったのか。多分無意識に働くその、ほんのりとした自分の中の差別の芽のようなもの。
私の中にもそれがある。
「生産性のない人でも生きる権利がある」
当たり前すぎるその発言を私もする、公言する。
そしてその発言に違わない行動を取ろうともする。
でも自分の中の骨の髄までその理想が染み通って生きていると思ってはいけないといつも思う。確実にゼロにすることは絶対にできないから、必ず自分の中に何かしらの差別感情は存在しているから。
生産性がない人にお金をかけるなという人は、なぜ自分が常に生産性のある立場になれると思ってるの?
— Nikov (@NyoVh7fiap) 2018年7月23日
朝見かけたこのツイートが、また自分に刺さる。
自分が、家族が、
「役に立たない」「何も生み出していない」存在になったときに私はどうするだろう。
それは遠い未来でもなんでもなく、これまでもこれからもいつでも自分のすぐそばにある。
自分にこの問いを残して、今日は終わり。