スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

主語を「私」に変えることと、その副次的な効果


お祭りのおこづかい

めっきり秋らしくなってきて、私の住んでいる地域でも秋のお祭りがちらほら。

お祭りの出店を楽しみにしている子どもたちはそれぞれにおこづかいを貯めていました。

それに加えて私や夫、祖父母からもお祭りだからとそれぞれに追加をもらっていたのですが、お金の使い方があまり上手ではない次男と三男は予想より使い過ぎてしまったらしく、案の定足りなくなって私やおじいちゃんたちに交渉を始めました。

 

「お祭りに行くのにおこづかいちょうだい」

という息子たちに、私は

「今月お母ちゃんの用意してた予算はもう余分がないから、お母ちゃんはあげられない」

と断りました。

息子たちは残念そうな顔をしつつも、仕方がないと諦めていました。

 

私を攻略できなかった息子たちは、おじいちゃんを狙います。

同じように打診した息子たちにおじいちゃんは

「次男くんは修学旅行も控えてるし、三男くんは運動会もあるし、あまり出歩いたりお金を使ったりしないほうがいいんじゃないか」

と提案。私の予想通り、次男と三男は納得がいかずそれぞれにブスブス文句を言っています。

 

私とおじいちゃんのNOの違い

同じようにお金がもらえなかったのに、なぜ私の話には納得し、おじいちゃんの話には納得できなかったのか。

 

答えは、主語。

「行動の主は誰なのか」という部分です。

 

私は「私は払えない」と自分を主語にしてNOをハッキリと伝えました。

おじいちゃんは「君はこうしたほうがいい」と、主語を息子たちにして遠回しな表現で諦めさせようと促しました。

 

この、遠回しな表現を使われたことで、息子たちはおじいちゃんのNOをハッキリ認識することができなかった、それが納得できない状況つながっていたのだろうと思います。

 

遠巻きなNOが腑に落ちないのは次男だけ?

発達障害のある次男は特に、大人がやんわりとたしなめるような表現を理解できない傾向にあります。

 

では発達障害ではない子ならすんなり理解できるのか、というと、実はそうでもないような気がしています。

 

次男以外の子たちも、おじいちゃんのような言い回しをされると「納得はいかないけどそれ以上言えないからとにかく諦める」という、腑に落ちない状態になっているのをよく見かけます。

「おじいちゃんはおこづかいくれないんだな」というのは理解できるし、それ以上食い下がると面倒なことになるのもわかるから、言わない。

 

発達障害の次男は空気を読んでとりあえず引き下がるということができないので、納得いかないといつまでも引きずってしまって、結果「聞き分けのない子」のように見えてしまう。

 

わかりづらいけれど、納得のいってない他の子達

でも他の子たちも、言えないから言わないだけでストレスをためる結果になってしまっているんですね。

 

主語を「私」に変えることの副次的な効果

「私は」行かない

「私は」やらない

「私は」こうして欲しいと思っている

 

主語を自分に変えることで、子供たちに自分のメッセージが伝えやすくなる。

子供たちに対する接し方のハックのようなものと思っていたのですが、意識し続ける中で意外なことが見えてきました。

 

子供に声かけをするとき、主語を相手や漠然とした曖昧な状態から「私」に限定する。

これ、やってみてハッとしたんです。

ただ言い回しを変えるだけではダメ、考え方そのものを変えなければ、主語を「私」にして発言することができないんです。

 

「私」を主にすると、同時に発言に対する自分の責任がぐんと増します。

ぼんやりした表現で適当なことが言えなくなってくるんですね。

 

おじいちゃんの発言を例にすると、

「おじいちゃんはあげない」

「そんなにお金は使わない方がいいと思う」

打診に対してとる自分の行動(今回は【おこづかいはあげない】)は変わらないのです。

 

でも、前者は自分の確固たる意志がそこにあるのに対して、後者だと自分の発言の中に相手に対する責任を負うような話が入ってないんですね。

悪者にならないようにぼんやりぼやかして逃げてるようにも見えます。

この、弱腰の逃げが、子どもに対しても説得力なく見えるんじゃないかなぁとも考えたりしています。

 

主語を「私」にしようと意識した結果…

指摘や注意の主語を「私」にしようと意識するようになってから、子どもに対するお小言の頻度がかなり減りました。

言おうとしたときに「そこまで言うようなことじゃなくない?」と踏みとどまることが増えたからです。

 

なんとなく世間一般の線引きの中でそれはダメじゃないかな〜とぼんやり思っていたけど、改めて自分の尺度で考えたらそこまで制限することじゃないんじゃないか、と思うようなことがとてもたくさんあったんですね。

 

お祭りのおこづかいのような話でも、お金の余裕がたとえある時でも

「〜くんはもうトータル○円使ってる。

 小3でそれ以上使うのはやりすぎだとお母ちゃんは思う。

 だからあげない。」

と、私を主語にした返答を話すと子どもなりに色々と考えた反応が返ってきます。

 

どんな屁理屈をこねてきても「私はこう思う」という筋はハッキリ主張している前提が共有できているので話がこじれることはあまりありません。

 

おわりに

もしうちに次男のような子がいなかったら、私はおじいちゃんのような曖昧な声かけをしがちだったかもしれないな、と思ったりします。

発達障害のある子との暮らしは本当に大変。

大変だから2兆くれとツイートしたくなるくらい大変なんだけど、でもこういう、ほかの子に対しても有益な接し方のヒントをくれたりすることが割と良くあって。

彼のおかげで培ってこられている私のスキルもだんだん増えているし、それは他の子たちにもいい影響を与えてくれてる。

大変なこと、しんどいことばっかじゃないよな〜と、たまには思ったりするのです。

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