スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

「手取り14万」のツイートを通して考えた、視点の違いによる噛み合わなさについて


急な寒さに子供たちと慌てて長袖を引っ張り出した朝です。おはようございます。

 

今朝は、昨日のツイートに寄せられたたくさんの反応から考えたことを書いておこうかな、と。

 

本題に入る前に、前置きをします。

私がこれから触れる幾つかの事象について、私はその内容について議論したいわけではありませんので、それに関してなにか反応をいただいても対応しません。

あくまでも、それら事象の周りで起こっていることについて、気づいたことを書こうとしています。

 

まず、昨日のツイートとその反応について

 

これ、別にホリエモンさんの話だけに言及したというわけではなくて、以前から手取りが低いのは努力不足だ、自己責任だ、という話がよく上がっているのを踏まえてのツイートでした。

まぁタイミング的に、堀江さんのツイートに反応したと受け取られても仕方ないだろうとは思いますし、そういうリプライはたくさん飛んできてました。

 

この後、私はこんな風に補足のツイートをしてました。

 

この話題に関して私が話題にしていたのは、個人の転職や給与アップの話ではなくて、フルタイムで勤務する必要のある(副業前提ではない)職業で成人が自立できるだけの給与が稼げない、という社会の問題でした。

 

私自身、これらの職についているわけではありません。

が、なぜか私がそうであるという前提で転職を勧めるリプライや、そういう職を選んだのが悪いという自己責任論、負け犬がほざくな等の暴言など、まぁいろんなものが飛んできました。

 

地方の問題もあるのだという意見も多くありましたが、それには同意します。

私の住んでいる地域でも、無理をしてでも遠くの隣県まで通ったほうが給与が高いと転職して遠距離通勤している人もいます。

地元のハローワークはどれも軒並み手取りにすると15万前後になるような求人ばかりたくさん出て、経営者は口を揃えて募集しても人が来ない、人手不足だと言っています。

 

内容についてもっと思うところはたくさんありますが、今回の本旨ではないので言及はこの程度にしましょう。

 

主張と反応について整理する

私は「社会の問題」を語りました。

いくつかのツイートの中で触れた、保育士や学芸員や図書館司書、教員などはたくさんの人が生活していく中でゼロになっては困る職種であるにも関わらず、賃金が低い傾向が続いていると感じます。

いただいたツイートの中では専門の資格を持っていても無能だから低賃金の仕事しかできないのだというものもありましたが、専門性が必要な職種の賃金が低い状態が続くリスクについては看過できません。

 

実際、学校図書館に司書が集まらず司書不在の公立学校も出ています。

これは、子どもの学力にダイレクトに影響が出る可能性が高く、私はとても危惧しています。

本旨ではないのでこれ以上は掘り下げませんが、同じような専門性の低下による長期的な影響が出る可能性もあります。

 

このような長期的な社会への影響を不安視した結果の、専門職が食えない状況への警鐘を鳴らしたいわけです。

 

しかし、私のツイートへの反応の多くは、「社会」ではなく「個人」の問題としての視点のものだったように思うのです。

 

「個」の話であれば至極真っ当

 

転職すればいい、もっと早い段階から稼げる職を見据えて進学就職すればいい。

 

個人の話としては、大変もっともなのです。

 

夫が同じように給与について苦しんでいたら、私は「食うに困るわけだし、転職したら?」と言うと思います。

息子が進路について悩んでいたら、内容だけでなくどういう職がどのくらいの給与かを検討するのを勧めるでしょうし、保育士になろうとしていたら「給料安いよ?大変だよ?」とクギを刺すでしょう。

 

個人の今の辛さをなんとかする、個人単位で生き延びるために選択をする、という視点に立てば、現状打開のために動くべきだ、転職すべきだ、稼げる職に就くべきだ、と言うのは至極真っ当な意見だと思うのです。

 

どちらも「真っ当」、だから噛み合わない

私は、「社会」の視点に立てば、長期的なリスクを考えると今の、特に専門職の賃金が低い状況はとても看過できません。それは、真っ当な意見だと自分では考えています。

 

そして、「個」の視点に立てば、なるべく稼ぎの良い職を選んでいくべきだという意見も至極真っ当だと思います。

 

どちらも、真っ当な意見だと思うのです。

どちらも、間違ってない。

でも、視点が違う。だから噛み合わないのだろうと思うのです。

 

似たような「視点の違い」

ネット上(とくにツイッター上)で、同じような噛み合わなさがたくさんあるなぁ、と思うのです。

 

例えば、夫の育児参加のことが話題になっているとき。

残業が多くて帰りが遅い夫の現状についての話題に関して

 

①今の家庭の中でどう動けばうまく対応して乗り切っていけるか

②残業が当たり前になってしまっている社会の問題をどう改善していくか

 

①は各家庭の話、「個」の視点ですが、②は社会問題の話ですね。

ミクロ視点とマクロ視点という言い方もできると思います。

この両方の視点がごちゃごちゃになった状態で議論が拮抗しているのを見ることが良くあります。

 

私自身もここを整理できずに発言していた過去があるなぁと自覚があります。

ツイッターでいろんな方とやりとりし、教えてもらう中でだんだん切り分けられるようになってきたと思います。

 

家庭の中の話だけではありません。

ハンディのある子の支援を必要とする、という話をするときにも

①今の我が子の状況と学校環境の中でどこで折り合いをつけて妥当な線を探るか、という個人の視点での話と、

②理想的な特別支援とはどんなものか、特別支援が十分に受けられる環境が整備されるにはどうしていくべきか、という大きな視点の話と。

 

ここを上手に切り分けでいないと、理想に取り憑かれて足元を見失ってしまったり、逆に個人のメリットを基準に全体に無理に当てはめようとして歪みが生まれたりしてしまうのではないか、と思うのです。

 

おわりに

最初に紹介したツイートへの反応は今も止まらないので、いつまで続くのかな〜と思いながらぼんやり眺めています。

同意の声や、代弁してくれてありがとうという声、反論の中にも参考になる意見もそれなりにあり、なるべく目を通しています。

ただ、中にはあからさまな暴言を寄せる方もいます。

ナイフの絵文字が付いている方もいらっしゃいました。殺意があるという意味でしょうか。

さすがに、暴言やそういう絵文字による脅しのようなものは匿名のツイートであっても一瞬怖さは覚えますね。

 

言葉遣いや引用RTの使い方などの相手への印象についても考えるきっかけになったツイートになっているのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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