スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

休校が続く中、お子さんの学習で焦りを感じているお母さん、お父さんへ。

相変わらず「書く気持ち」が高まれば書けるしそうじゃなければ書けない、そんな自分を目の当たりにしておりますスズコです。

 

さて、今日は休校延長が決まった学校も多い中で「自宅での学習への取り組み」のお話を。

 

「学び」と向き合う保護者の方へ、という村中先生の記事

Twitterでフォローさせていただいている村中先生がこんな記事を書かれていました。

inthevillege.com

まず一番最初にお伝えしたいことは、教える人つまり「教師役」や「先生役」を引き受ける必要はないということです。必要はないというよりも私個人の感覚としては「してはいけない」というほうが近いです。

教えるという行為がうまくいくためには、教える側のスキルと教わる側のスタンスの両方が揃っている必要があります。その両面から考えて保護者の方がその役割を担うことは不可能ではないですが非常に困難です。

(中略)

簡単にいうとケンカになっちゃうんですよね。

(中略)
つまり保護者の方とお子さんの関係性が悪化する要因にしかなならない場合が多い。

(中略)

だから「学校に行けないのだから私が教えなくちゃ!」と感じておられる場合、まずはそれはしないほうがいいというふうに考えてもらえると幸いです。

 

このあとにも参考になる自宅での学習への取り組み方や保護者が心がけることがたくさん書かれているので、ぜひご一読をお勧めします。

 

さて、私が書きたいのはそれとはまたちょっと違うお話です。

 

お母さんお父さん、焦っていませんか。

休校措置が始まってから1ヶ月と少し、春休みの期間が終わりを迎え、さらなる休校が続くことが決まった地域も多いと思います。

私の住んでいる地域は感染者が少ないということで登校が再開される見通しになっているのですが、状況によりいつどう変わるかわからない状況ではあります。

 

さて、私が今回書こうと思ったのは、親御さん焦りを感じていませんか?ということ。

 

まず、宿題。

たくさん出ましたよね。

うちの子たちもブスブス言いながら大量の課題に埋もれて過ごしていました。

 

第一段階として「宿題がスムーズに進まない」という問題を抱えていらっしゃるご家庭もあろうかと思います。

 

そして、ネット上にたくさん投稿されている「有意義なお休みの過ごし方」。

 

ドリルを何冊も頑張ってるお子さん、新しいことに取り組んで生き生きと過ごしている様子。

Twitterにも流れてくるし、インスタやFacebookになるともっとキラキラしたのが溢れてる。

 

あぁ、うちの子はこんなに何も進んでないのに、何もできてないのに、って焦ってしまっていませんか。

 

このブログでも何度も書いたことがあるエピソードなのですが、実は私は宿題に関して「お母さんの介入禁止」というドクターストップを医者から出された経験があります。

そんな私からの「焦らなくても大丈夫だよ」と言うお話をしたいと思います。

 

ドクターストップをくらったわたしの話

発達障害で児童精神科に通う次男の主治医からドクターストップが出たのは、次男が5年生のときだったと思います。

次男は3年生くらいから宿題が壊滅的にできなくなり、なんとかやらせようとする私と嫌がってパニクる次男との攻防が続いていました。

3年生から通い始めた通級指導教室の先生の手厚いサポートもあってなんとか宿題を少しずつできるようにはなったんですが、それでもとても全部は無理。

3〜4年の先生は出来る範囲でいいと見守ってくれていたのですが、5年から担任になった先生は「自宅学習の習慣がつかないと困るのは次男くんですから!」というスタンスで毎日自宅でやるよう促されるように。

 

主治医に相談したら「宿題は次男くんと担任の契約だから介入したらダメ」と言われ、通級の担任からは「宿題をやれないならやれないなりに担任と交渉をするスキルも身につけないといけないから、それも練習させて」と言われ、在籍級担任からは「とにかく自宅でやる習慣をつけさせて」と言われる。

 

板挟みで私の方が潰れてしまう…というところで主治医から「お母さんは介入禁止、自宅で無理に宿題をさせて二次障害が出たら取り返しがつかない」という判断でドクターストップがかかりました。

 

二次的な障害について説明を捕捉しておきます。

内在化障害
不安や気分の落ち込み、引きこもりなど自分に向けた情緒的問題として表れるのが内在化障害です。具体的には以下のような症状や行動の問題を指します。
 
 
特に抑うつ症状は、発達障害がある成人にもっとも多い二次障害といわれています。
 
外在化障害
精神的な葛藤などが他者に向けた行為として表現されるものです。反抗や暴力、家出、ときには非行などの反社会的な行動として現れることもあります。

発達障害の「二次障害」とは?発達障害のある人がうつや引きこもりになりやすい理由は?二次障害への対処法・予防法、支援機関なども紹介します | LITALICO仕事ナビ

 

これら二次的な障害にいたってしまうとそこからの回復はかなり厳しいものになると言われています。そこに至らないように、心が折れないように、ストレスをかけすぎないように、本人の状態を守っていくことが何より大事だと主治医からも言われています。

 

そこからは中学に入って今に至るまで「先生方には申し訳ないですがドクターストップがかかっていて私は介入できません」と細かく経緯を説明をした上で宿題への配慮をお願いしている状態です。

 

次男の今と、これから

そんな次男、中3になろうとする今に至るまで宿題は本当に家で全然してません。

私以外の外部のサポートを、と探し回って学習支援をしてくれる先生にやっと出会えたので、いまはその先生に個別指導をお願いしています。悪くいえば丸投げをしている状態です。足を向けては寝られません。

先生のおかげもあり、また学校の先生がたのご協力もあり、次男は二次的な障害を拗らせることなくなんとか過ごせています。

もちろん学力はそこまで高い状態ではないのでその心配はありますが「今の状態なら大丈夫」という主治医の言葉を信じて、自宅では穏やかに過ごすことを最優先にしています。

 

「二次的な障害に繋がらなければ大丈夫」

次男と私の極端な例を挙げましたが、主治医から一貫して言われているのは「二次的な障害に繋がらなければ大丈夫だから」という言葉です。

これは、発達障害を持つ子を育てる先輩お母さん達からも何度も言われたことがある言葉でもあります。

 

それは逆に、そこに至りさえしなければどうにでもなるから大丈夫、というメッセージでもあると思うのです。

 

周りと同じペースであることは必ずしも大事なことではないんですね。

宿題の量が同じにできなくても、同じペースで進められなくても、本人なりの頑張りで少しずつでも進んでいっているはずなんです。どんなにできないように見える子でも、その子なりのペースで少しずつ前には必ず進んでいるんですね。

 

うちの長男は小4の1年間、荒れに荒れて学校にあまり通えず、その間の履修すべきところが抜けている部分がかなりあるんですが、それでも彼なりに努力した結果、この春、晴れて希望した高校に進むことができました。

 

次男も小3小4の2年間にかなりの抜けがある中で、学年で中程度の成績を維持している状態です。

少しくらいの抜けがあってもメンタルが折れなければどうにでもなるんだ、とやっと私も思えるようになってきました。

 

エンパワーメント、という視点

なんでうちはうまくいかないんだろう、なんでうちの子はできないんだろう

そう思って苦しいことがありませんか?

私はこれまで何度もありました、いまも時々それに襲われます。

 

そのときに意識するように気をつけていることがあります。

「エンパワーメント」という視点です。

アレントメンターの講習を受講したときに出会った概念です。

 

能力や権限は訓練や指導によって後から付加されるものではなく本人が本来もっているもので、それが社会的制約によって発揮されていなかった。本人が力を発揮できるようにするためには、あらゆる社会資源を再検討し、条件整備を行なっていく必要があるという見方である。これは、自立生活運動、セルフヘルプ・グループの活動、ストレングスモデル(本人の資源として健康や強さの側面を見るという考え方)等にもつながっている。

エンパワメント/エンパワーメント

 

講師の先生が繰り返し「本人の中に力があるのだ」と仰っていました。

 

無いものを生み出してやるのではなくて、本人の中にそもそも力があると信じること。

そして、その力を本人が出そうという気持ちになるまで見守り寄り添い、そして力を出し始めたことを我がことのように喜び、一緒に歩くこと。

 

講習の中で私はエンパワメントとはそういうものだと学びました。

 

私が受けた講習は主に障害児を持つ保護者の支援のためのものでしたが、この概念は子育てにもとても役立つものだと感じています。

 

つい、子供の事を「できないことがたくさんある無力な存在である」と思い、そして「大人が教えさとし、導かねばならない」と思ってしまいがちだなぁと思うのですね。

 

子どもとの間で衝突があるのはたいてい、大人の側にその意識が見え隠れしている時じゃないかなぁと思うのです。

 

でも、子どもたちの中にはそもそも、力があるんだろうと思うのです。

彼らなりのペースでその力はじわじわと育っていて、そして、いつか殻を破ってそれが出てくる。

 

みんなと同じペースで宿題が進んでいなかったら、ほかの兄弟がどんどん宿題を終わらせているのに1人だけできない子がいたら、宿題をせずに遊んでばかりのように見えたら、焦ると思います。

 

独自の学びを進めている子の話を見たら、実りあるお休みを過ごし充実しているように見えるエピソードを見たら、もっと焦ると思います。

 

でも、目の前のお子さんにはきっと、その子なりのペースがあります。

私もいつも焦ります。次男にもっといろんな事をさせないといけないような気持ちになることもあるし、このままじゃいけないような気がして揺れることもあります。

 

そんなときに、友人に話を聞いてもらうこともあるし、ときに厳しく叱咤されることもあります。

 

あぁ、私が信じてやらなくてどうするんだ、とその度に思うのです。

 

私が信じて、そして見守る、それしかできることはないんだなぁと思うのです。

 

おわりに

長くなりましたが、一番伝えたかったこと、それは

今はとにかく心の安定が最優先だと思ってていいと思うよ

ということです。

 

終わりが見えない休校は、大人もしんどいけど子どもたちだってとても辛い。

ダラダラしているように見えて、ゲームしかしてないように見えて、でもその子なりにストレスを感じていると思います。

いろんな不安が彼らにもきっとある。

 

親として焦るだろうし、もっともっとと思うかもしれない。

 

でも、圧をかけすぎて親子関係が悪くなってしまったらなかなか取り返すのは大変です。

そして、心が折れてしまったらリカバリーするのはもっと大変。

子供が家で勉強が進まないのはあなたのせいじゃないよ、なんか色々あるんだけど、でもどうしようもないことだから。

 

 

焦る気持ちは私も同じ。

溢れて辛くなったらTwitterでいつでも話しかけてね、一緒に話そう。

うちの子むけコロナウイルス予防対策ポスターを作りました。

 

ブログを書こうと思ってサイトを開いたら、前回の記事からもう2ヶ月以上経ってしまっていました。

 

さて、今回久しぶりに書こうと思ったのは昨日突然思い立って作ったポスターのことです。

 

まだ不確定ではありますが、うちの子たちの学校は今月のうちには再開される見通しになっています。

学校から詳しいお話はまだ降りてきていませんが、ここまでの1ヶ月以上外出を自粛して自宅で過ごしてきた子どもたちを親の目の届かないところに毎日出すことになるかもしれない。

そう思った時「改めてどんなことができるだろう」と考え、感染予防対策を視覚的に意識できるようなツールが作りたいな、と思いました。

 

視覚優位の発達障害児を含む我が家の4人の子どもたちに向けて

・あまり詰め込みすぎず

・パッと見て理解しやすく

・押し付けがましくない

そんなポスターが作りたいな、と思って作ったものをTwitterに上げてみたらみなさんが改善のための案をいくつか出してくれて、またイラストレーターとしても活躍されているお友達のまうどん(@maudon)さんが私の無茶ぶりに応えて快くイラストを入れてくれて、今朝、完成版が出来上がりました。

 

あんまり素敵なものができたので、自分たちだけで使うのはもったいない!と思いTwitterにアップしています。

 

ここにも貼っとこう。

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Twitterでも触れていますが、今回はあえてクレジットなど入れずに作っています。

お子さんに対する啓蒙のために使って頂けるのであれば、個人使用の範疇で自由に利用していただいて構いません。

お子さんに合わない部分はご自宅で書き換えたりしていただくのも構いません。

早速Twitterで悪意を感じる改変をされているケースを見かけたので声をかけさせていただきましたが、啓蒙の目的以外で使ったり、お子さんに合わせる以外の目的での改変やその流布などはやめてください。

あくまでもみなさんの善意ある使用を前提として、子供達のために役立てていただければ、と言う気持ちで公開しているものです。

 

ここからは、さらにこのポスターに込めた思いや取り上げた項目について書いてみようと思います。

 

こんな風に使って欲しい、と言う2つのお願いがあります

1つめ…口うるさく言わないでね、という願い

このポスターは、壁に貼って「これを守れ」とだけ要求するために作ったわけではありません。

そのように利用するな、と私が強制することはできませんが、もし使っていただけるならそんな風にならないといいなぁ、という願いを持っています。

 

まず、大前提としてこれらの項目を「絶対守れ」と押し付けて欲しくないのです。

ただでさえ社会的に混乱している中で、大人と同じか、それ以上に子どもたちもストレスを感じて暮らしていると思います。

そんな中で、大人でも全部守るのが難しいこれらの項目を「絶対守れ」と押し付けられるのはどれだけ辛かろうかと思うのです。

 

私がこのポスターを作った一番の目的は、大人がチクチクと言葉で注意するのを極力減らし、子ども自身がちらっと見たときに視覚的に意識する役に立てるためです。

 

大人の注意はもちろん必要なことだけれど、頭でわかっていることを何度も繰り返し言われることは子どもたちにとってもストレスになるし、自尊感情を削ることにもなりかねません。

 

大人が注意する回数をなるべく減らすため、頭ではわかってるだろう子どもたちがちらっと見た時に意識しやすいように、と思って視覚的に見やすいポスターにしています。

 

子どもが複数いるところで使用する場合、これを理由に子ども同士で注意し合う環境にするのも避けてほしいなぁと思っています。

そんなために作ったわけではないのです。

 

言葉で指導してすぐ理解して行動に移せる子ばかりではありません。

このポスターはむしろそんな子たちのためにあります。

行動に移せないこともあるけど、これをちらっと見た時に「あっ!」って思う機会が1日1回でもあったら、それでこのポスターの意義は十分にあったと思っていいと思うのです。

 

逆にこのポスターが、そんな子たちを苦しめたり縛ったりするものになることはとても悲しいことです。どうか、そんな使い方はなさらないよう、お願いします。

 

あと、学童や塾などの大勢の子が集まるところや兄弟間などで「注意し合う」ために使うのもできれば控えてもらえたら幸いです。

みんなでなるべく守れたらとっても素敵なことだけれどみんながみんな守れるわけじゃないからこのポスターの意味があるわけで、できる子には本当は必要のないものです。

無理なくできる(ように見える)子たちはそれだけでとても偉いしすごく頑張っているので、どうぞそこを褒めてあげてください。

そして、ちょっと苦手な子たちのためのポスターなのでそっと見守ってあげてほしいと伝えてあげてください。

 

 

2つめ…まず話し合ってみてね、という願い

発達障害の特性があるうちの子の中には、納得のいかないことに取り組むハードルがとても高い子もいます。

なぜそうする必要があるのか、なぜこれをしろと言われるのか、仕組みや理由を説明されることなくただやれと押し付けられることに強く反発する傾向があります。

そのため、家でも何かを求める時には細かく背景を説明して本人の納得のいくまで話をする時間をとったり、思春期に入ってからはLINEなどを使ってことの経緯を送って本人の気持ちを整理するための時間をとってもらったりするようにしています。

 

このような、子どもに対する説明について必要のないお子さんもいるのかもしれません。(少なくともうちの子は4人ともそれなりに必要なのでなるべく気をつけています)

でも、ただ押し付けられるより内容を理解している方が苦手なことに取り組むモチベーションも少しは上がるんじゃないかな、心理的なハードルは下がるんじゃないかな、と思っています。

 

このポスターも、なんだかわからないけどやれと言われる、守れと言われる、というよりは、ひとつずつの項目について「どうしてこうした方がいいのか」を大人が説明してあげられたらな、話す時間が持てたらより良い使い方をしてもらえるんじゃないかな、と思っています。

 

そして、理解が伴っているからこそ1つめに挙げた、チクチクと言わなくても本人が意識しやすいようなサポート(今回はポスター)を使うことでより効果が上がりやすく、また子どもたちにとっても「守れた!」「できた!」という経験を積みやすくなるんじゃないかな、と思っています。

 

お忙しい中だろうとは思いますが、もしお家や学童、塾などでこのポスターを利用されることがあったら、お子さんたちとひとつずつの項目についてお話をしてみてください。

どれも守った方がいい理由がある、自分たちの安全のために必要なことばかりを挙げています。

 

ひとつずつの項目について【小さい子バージョン】

お子さんとお話をするときの参考にしていただくために、それぞれの項目を選んだ理由を詳しく書いておきますね。

①顔をさわらない

これは、自分の顔に付着したウイルスを手につけないためにとても大事なことです。

小学生は特に、鼻をほじる行為への注意が必要だと思います。

鼻の中には息を吸い込んだ時に空気と一緒にウイルスが入ってきて、鼻毛にたウイルスがついている可能性があります。

それを指につけてしまうことで、食べ物を食べた時に口から自分の体に入ったり、どこかを触ることでウイルスをあちこちにつけてしまうかもしれません。

 

マスクをつけているときはマスクの表面を触らないことも大切です。

 

②咳やくしゃみに気をつける

咳やくしゃみのときに口から出てくる唾液の中にウイルスが含まれている可能性があります。

マスクをしていてもこれは完全には防げません。布マスクだとかなり飛び散ってしまう可能性があるので腕などで飛び散らないようガードする必要があります。

このとき、手のひらを使ってしまったら手のひらにそのウイルスがついてしまうのでなるべく手のひらは使わないようにし、もし手のひらを使ったらすぐ洗うようにしましょう。

 

③ドアノブはなるべくさわらない

ドアノブの形状は様々だと思うのでお子さんの想定できる形を画像などで見せながら話すのも良いと思います。

たくさんの人が特に触る部分なので、手についているウイルスが付着しやすい部分です。

おそらく学校ではここを数時間おきに消毒するなどの配慮はなされているだろうとは思いますが、ドアの持ち手をなるべく素手で触らないよう気をつけるだけでもウイルスを手につける可能性はかなり下がるのではないかと思い、項目の中に入れました。

 

腕で押したり、ハンカチをガードに使ったり、工夫の仕方はお子さんや学校の状況により様々だと思うので、お子さんに合ったガードの仕方を一緒に話してみると良いかもしれませんね。

 

④人の体や持ち物をさわらない

自分の体についているかもしれないウイルスを人につけないように、また人の体についているかもしれないウイルスを自分がもらわないように、という注意です。

肩を抱いたり、ハイタッチをしたり、手を繋いだり。

子ども同士でついやってしまう習慣の中にもウイルスを広げてしまう行為があるということを知っておく必要があると思います。

 

⑤マスクを正しくつける

息苦しくてついアゴまで下げてしまう子も多いんじゃないかと思います(うちの子もよくやります)

良い方法と良くない方法をそれぞれ図にしてわかるようにすることで、視覚的に意識しやすいように作っています。

書いてはいませんが、マスクをさわったときにも手を洗った方が良いとは思うので、なるべく触る回数を減らすためにも一度つけたらマスクを触らない方がいいかもしれない、というのも話してみるといいかもしれません。

 

⑥大声を出さない

これはうちの三男用に絶対必要な注意事項だったんですが、大きい声を出すと唾液が一緒に飛び散ってしまうので、自分の中にあるかもしれないウイルスを飛び散らかすことになってしまいます。とても危険です。

 

⑦荷物を床におかない

大人はあまりやらないかもしれませんが、子どもたちの中にはとても雑に荷物を扱う子もいると思います(ええうちにもいますとも)

共有物にはウイルスが付着しやすいですが、その中でも床は最終的にウイルスが行き着く先とも言われています。

飛び散った唾液が床に付着すること、床全体の消毒はなかなか難しいためウイルスが長時間残りやすいこと、歩き回る足の裏について広範囲からウイルスが集まる可能性も高いと思います。

上履きは学校で脱いで買えると思いますが、は底にウイルスをくっつけたまま家の中に持ち帰ってしまう可能性もあります。

自宅では逆に、持ち帰った荷物を玄関から奥に入れないとか、消毒するなどの対策も効果があるかもしれませんね。

 

⑧帰ったらすぐ手洗い

これは基本中の基本ですよね。

20秒の数え方についてはどんな歌を歌うといいとかネット上にいろんなアイデアがあるので参考にしてもいいと思います。お子さんに考えてもらうのも楽しいかもしれません。

「うがいも入れたほうが」という声もいただきました。うちでも帰宅後は手洗いうがい、と声はかけています。

悩みましたが、うがいは吐き出した水で感染をかえって広げるのでは、という説もいただいたので今回は入れていません。各ご家庭の判断でお子さんと話し合うと良いかなと思います。

 

ひとつずつの項目について【お兄さんお姉さんバージョン】

ここからはちょっと大きいお兄さんお姉さんたち向け。

我が家だと中高生の上3人に向けた注意喚起です。

 

スマホをこまめにふく

手で持ち歩き、指を接触させる機会の多いスマホはばい菌がたくさん付着していると言われています。

トイレにも持ち込んだりすることも多いですし、トイレから出たら手は洗うけどスマホは洗いませんよね…

そんなスマホについているかもしれないウイルスをこまめに除去しておきましょう、という注意です。

 

②飲食物をシェアしない

大人からしたら「そのくらいわかるだろう!」なことかもしれません。

外出自粛が長く続いている彼らならそのくらい、と思うかもしれませんが、やはりここも念を押しておきたかったところです。

友達と会う時間ができれば、その間に何かを飲み食いする可能性も当然想定されます。(なるべくするなと言って素直に聞く年齢ではないですから)

口をつける食べ物をシェアしないのは当然ですが、袋菓子に一緒に手を伸ばすのもウイルスが付着する可能性もあり、ハイリスクだと思います。

 

③帰宅後はなるべく早くおふろに入る

これも親が入浴時間を管理できる小さい子には言わなくていいことかもしれませんが、彼らには必要な情報だと思い、入れました。

我が家ではなるべく、外から帰ってきたらその足でお風呂場に直行してもらって衣類は洗濯機へ入れ、入浴してもらうようお願いする予定です。

 

④よく食べて、夜更かししない

「早く寝なさい!」と言っても聞きやしない年齢の子たちにとって、早寝早起きや栄養ある食事云々は鬱陶しい話かもしれません。

でも、ウイルスの蔓延する環境の中で自分がウイルスに負けない体を保つことの大切さを考えてほしい、という願いを込めて入れています。

 

 

おわりに

ポスター作成に込めたいろいろな思いや願いを詰め込んだらとても長くなってしまいました。

少しでもみなさんのお役に立てたら幸いです。

 

そしてうちの息子たちのように、縛られることやめんどくさいことがが大嫌いで、楽しいことが大好きで、ふざけたりおちゃらけたりすることで不安を紛らわせながら一生懸命生きてる、そんなたくさんの子どもたちのために少しでもお役に立てたら、こんなに嬉しいことはありません。

 

世界中を混乱に陥れたウイルスが一日も早く収束しますように。

子どもたちの暮らしが一日も早く元に戻りますように。

たくさんの子どもたちの笑顔が、今日も続きますように。

そして、そんな子たちを支えるたくさんの同志のみなさんのお役に、少しでも立てますように。

見通しが立たない辛さから見える、次男のこと。

珍しく2日続けてのエントリです。

今日は、お風呂のお湯をバケツでくんでいるときに気付いたことと、今読んでいる本のこと。

 

残り湯を洗濯に使うようになりまして。

少し前にTwitterで呟いたのですが、どんどん増えていく食費と学費の捻出のため、微々たる努力ではあるけれどやらぬよりましだと水道代を節約しようと思い立ち、お風呂の残り湯を洗濯に使い始めました。

その方がいいのはわかってたけどずっと余裕なくて先延ばしにしてたのを、えいっと思い切って始めたのですね。

 

最初に使ったのは家にあったバケツ。

数日後にダイソーで使いやすそうなバケツを見つけたことで作業負担は飛躍的に軽くなりました。

 

我が家の洗濯は今は、夜家族がみんなお風呂に入った後と、朝起きてからの2回です。

お風呂の隣の脱衣場に置いた洗濯機に、ザバーンザバーンと何度もバケツの水を入れる作業をしています。

 

水を汲みながらふと気づいたこと

その日も朝まだ眠さを引きずりながらお風呂に残った冷たい水を何度か汲んだときでした。

バケツが便利になったとはいえ、スイッチを押せば水道水がバーーっと蛇口から出てきてくれるのに節約のためにと朝から重労働。

眠さもあってめっちゃめんどくさいんですね。

ザバンザバンと何度も水を汲みながらふと「これいつ終わるんだろう」と思ったんですね。

 

今何杯目かも覚えてません、数えたことなかったんですね。

適当に水を汲んで、洗濯機の中がいっぱいになったらおわり。

そんな風にやってたから、今私が汲んだ水が何杯目で、いつ終わるのかなんてわからずやってた。

 

ヘレン・ケラーのWATER!ばりにそこで気づいたんですね。

 

「あ、これ、見通し立たないからしんどいんだ。」

 

というわけで、次にバケツで水を汲むとき、1杯、2杯…と数えてみました。

我が家の洗濯機に洗濯物を入れて上から水を入れたとき、満タンになるまで6杯でした。

 

今何杯目か、を意識する。

その次の回です。

汲み始めから「今1杯目」「今2杯目」と意識してみます。

するとどうでしょう、意識せずにダラダラ汲んでいたときよりはるかに気が楽です。

3杯目なら「あとこれを3杯」と思える。

5杯目なら「あと1杯で終わり」と思える。

 

めんどくささとしんどさが一気に軽くなりました。

と同時に、色んな過去の記憶が思い出されてきました。

 

思い出すあれこれ。

まず思い出したのは、嫌で嫌で仕方がなかったマラソンのこと。

小・中学生の頃、体育や学校行事でやらされるのが大嫌いだった私は、いつの頃からか「〜時には走り終えている」と考えることを始めていました。

 

1回走るのに何分かかるか大体わかったら、あとはスタートからゴールまで、歩きさえしなければその時間を過ぎれば終わる。

 

校舎の時計を見ながら「〜時〜分には終わる」と思いながら走ったのを覚えています。

 

逆に、部活で顧問から「いいと言うまで走れ」と言われた時のあの苦しさ。

いつ終わるかわからないことを強いられるのは本当に苦しかった。

 

それを思い出した時、あ、次男のしんどさはこれかもしれない、と思ったのですね。

 

見通しを立てるのが苦手な次男のしんどさ

発達障害のある次男は、見通しを立てるのが苦手だなぁと見ていて感じます。

今日は夕方5時から〜があるから何時に家を出ないといけない、だから…という計画を立てて行動するかとか、自分が発した言葉をそこにいる人がどう受け取ってそれがどんな風に巡って自分に返ってくるかを考えるとか、そういう、少し先を見通して自分の行動を考えたり決めたりすることが苦手で、それゆえのトラブルがしょっちゅう起こります。

 

そういう、トラブルとして表面化することについては「あぁ見通しを立てるのが苦手なんだなぁ」と思って対処していたのですが、今日書いてきたような見通しが立たないゆえのしんどさについて考えている中で、もしかしたら日常的な不機嫌やパニックもここに由来するものが多くあるんじゃないか、と思うに至ったのです。

 

例えば、宿題の取り掛かりを極端に嫌がってパニックを起こしてきたのですが、それも「いつどんな風に取り組んだら宿題が終わる」という目処が本人の中で立たないから起こっていたんだろうなと。

 

1日ここまでというスケジュールを立ててあげるとできるようになったものもありましたが、それも目処が立てば安心できるから取り組めていたのかもしれません。

 

体調がちょっと悪いときに「すごくしんどい!!」と大パニックを起こしていたから病院に連れて行ったら大したことないと言われて帰る、というのを何度も繰り返したことがあるのですが、それもこの見通しのことと関係があるのかもしれません。

 

違和感や不調を感じたとき、大抵の人は自分に起こった過去の痛みや不調を思い返したり、家族のそれを思い出したりして「この程度だからこうすればいつには回復の見込みあり」と判断し、その後の見通しを立てて冷静に病院に行ったり薬を飲んだり休んだりすることができるのでパニックには陥りづらい。

 

でも、次男のように見通しを立てるのが難しい子にとって自分の不調が「この先自分の体がどうなってしまうのかわからない」という不安に繋がってしまうのかもしれません。

 

実はこれと全く同じことが、今読んでいる本に書かれていました。

自閉症 もうひとつの見方 「自分自身」になるために

自閉症 もうひとつの見方 「自分自身」になるために

 

 

まだ途中までですが、自分がぼんやり考えていたことがきちんとした言葉になって組み上げられていっているような、そんな本です。

 

この本の中では、周囲が「問題行動」と見なして消去する方向へ促そうとしてしまいがちなものに対して「そこには必ずその人なりの行動原理がある」と見なし、観察を続けていく姿勢が見えます。

見通しを立てることが同年齢の他の子よりも苦手な次男は、きっと、彼なりのやり方で生きていて、そしてこれから先も彼なりの方法を駆使して生きていくことになるんだろうなと読み進めながら感じています。

 

見通しを立てることがそれなりにできる人にとっては、苦手な次男のような子を見ていて「こうすればいいのに」とつい思ってしまうのかもしれません。

私も次男に、つい言葉で伝えてできるようになるよう促してしまうことも多々あります。

 

おわりに

でも、私がバケツの回数を数えただけでその次が楽になったのはもともと見通しを立てられる力を持っていたから。

それが難しい次男にとっては、知ったからといって簡単にできるようになるものではないのかもしれません。

 

そして、私と同じやり方で見通しを立てられない彼にとっては、日常のいろんなことがバケツの水を汲み続ける私の辛さと、顧問に言われて走らされ続けていた時の私の苦しさと同じように、重く苦しくなってしまうのかもしれません。

 

彼のことを、もっと知りたい、そう思えるような経験と、本との出会いのお話でした。

【したたか】という言葉の用法についてのアンケートから考えたあれこれ。

今日はTwitterでとったとあるアンケートのこと。

 

発端はぽろっと出た私の発言

 

女子同士の交友関係に長く悩まされてきた長女ですが、最近は一緒に過ごすお友達が複数できて安定しているようではあります。

それでも女子グループ同士の小競り合いなど教室の中でのトラブルは日常茶飯事らしく、その日も交友関係の愚痴を聞いているところでした。

 

母親の私が言うのもなんですが、彼女は惚れ惚れするほど自己肯定感が高く、強い根っこを持っているように見えます。折れないしなやかなメンタルは時に羨ましく、時に持たざる者の気持ちがわからないのではないかと不安になるくらい。

 

クラスの女子同士の攻防をすり抜けながらしっかりと自分を守っているように見える娘に出た感想が「娘ちゃんはしたたかだからなぁ」でした。

 

娘を思い寄せられた声

ツイートから少しして、マシュマロに私宛の声をいただきました。

私は母親に「したたか」と言われたらとてもショックなので長女さんに寄り添ってその発言を否定してあげたいです。
なぜその発言をスズコさんがしようと思ったのか、それを言って長女さんが何を得られると思ったのかを知りたいです。
自分で何かを調べる能力ですか?

 

拝見して【したたか】を悪い意味で捉えていらっしゃるんだな、と感じました。

 

【したたか】という言葉の意味

意味を共有した上でお話を進める必要がありますので、まず辞書を引きましょう。

 

[形動][文][ナリ]
  1. 粘り強くて、他からの圧力になかなか屈しないさま。しぶといさま。「世の中を―に生きる」「―な相手」

  1. 強く、しっかりしているさま。「―な後見役」「―な造りの家」

  1. 強く勇猛であるさま。

    1. 「力が強く勇気があって―な豪傑である」〈魯庵社会百面相

  1. 程度がはなはだしいさま。

    1. 「いと―なるみづからの祝言どもかな」〈・初音〉

  1. 分量がたいへん多いさま。

    1. 「国の事など―に申し居たるさま見るに」〈夜の寝覚・一〉

      強か/健か(したたか)の意味 - goo国語辞書

 

辞書の内容を平たく読む限り、けして悪い意味の言葉ではありません。

本来は「何にも屈しない強さ」「とても量が多い様子」を示す言葉だったのではと言われています。

上記では源氏物語などの古典が挙げられていますが、その強さや量の多さも良い意味で用いられているのがわかります。

 

ですが、本来の用法から変化してあまり良くない意味で使われ始めていることは私も知らぬわけではありません。

 

「言いなりにならず強情で扱いづらい」「ずる賢い」「計算高いという、本来の意味から派生したマイナスのイメージで使われることも増えているように思います。

 

こと女性に対して使われるときにその傾向が強いような気がします。

(ここら辺は言語学の文献をさらっていないのであまり掘り下げることは避けますが)

 

本来の用法通りの「粘り強く相手に屈しない強さ」と言うのは、同じ立場の人からしたら妬ましいものかもしれないし、目上の者からしたら扱いづらさに繋がりやすい。

社会の変容とともに、扱いづらい人間を表す言葉として使われ始めているのかもしれません。

 

どちらの意味で使ってる?

「したたか」という言葉について、良い意味で使うか否か、ちょっと傾向を調べてみたくなったのでTwitterでアンケートをとりました。

 

 

こんな結果が出ました。

個別にこんなレスをいただきました。

  • 単語の意味としてはマイナスのイメージだけど結構ポジティブに使っている
  • プラスの意味があることは知っているけどマイナスイメージで使うことが多い
  • プラスのイメージで使うことが多いが実際には状況や分脈による
  • 誤解されるリスクのある言葉のような気がする
  • マイナスイメージがあると知ってびっくり、褒め言葉だと思っていた。
  • 生き賢いという、良いイメージ
  • 峰不二子みたいなイメージ
  • 一筋縄ではいかない感じ
  • 抜け目のない放っておいても安心だ、という感じ
  • 語彙としてマイナスの意味で理解しているが「いい意味でしたたかだね」と使うことが多い。自分を守るための生き強さというイメージ
  • GLAYのa Boyで知ったので「生きる力が強い」みたいないいイメージ

 

アンケート結果からは約6割の方がマイナスイメージで使うことが多いようです。

しかし良いイメージを持つ方も少数派と言えるようなボリュームではありません。

 

掘り下げて考えてみる。

さて、ここから我々が汲みとるべきことは一体なんだろう、と考えてみたいと思います。

 

Twitterの私のフォロワーさんが主になっているたった5時間のアンケートですから、正確な統計とはとても言えません。

あくまでもひとつの傾向という捉え方として、細かな数字についてはざっくりとしか取り上げないことにします。

 

アンケートの結果6:3で、悪いイメージの方の方が多くいらっしゃいました。

 

ここで「悪いイメージの方が多いから、そちらが正解」と決められるでしょうか。

私はそれは危険だと思うのです。

なぜなら少なからず「良いイメージ」と感じている人がいるから。

 

では逆に「本来は良いイメージだから、悪いイメージは誤用である」と決められるでしょうか。

 私はそれも、とても危険だと思うのです。

なぜなら半数以上の方が「悪いイメージ」と感じているから。

 

では、我々が汲むべきはなんでしょう。

 それは

「解釈の分かれる言葉である」と理解しておくこと

ではないでしょうか。

 

こうやって言葉にするとそんな当たり前のこと、に見えますよね。

私も書いていてちょっと馬鹿馬鹿しさを感じてしまうほど、当たり前のことです。

 

でも日常生活の中で果たしてそれをどこまで意識して暮らしているか、ちょっと振り返ってみてほしいのです。

 

「あなたはしたたかな人ね」

と言われたとき、反射的に「自分が日常的にイメージしている意味」で受け取りませんか?

 

もちろん、それまでのその人との関係やその人の性格、表情や声色、会話の内容など様々な要素が絡んでくると思うので単純化して話すのは少し難しいのですが。

 

良い意味があることをイメージしていた私は日常会話の中で娘の長所について言及する言葉として使いました。

しかし、その会話を「私が娘を卑下している」と受け取る方もいらっしゃいました。

娘自身は今回は意味を知らなかったのですが、もし意味を知っていてマイナスイメージを持っていたら私の発言を不快に思ったかもしれません。

 

もしそこで意図が違うことが発覚したら、私は娘に

「そんなつもりで言ったのではなかった」

ということを釈明せねばならないでしょう。

 

「そんなつもりではなかった」

長くなってきましたのでそろそろまとめていきましょう。

今回、アンケート結果から書いてみたいなと思ったのはそこなのです。

 

ひとつの単語に対して、捉え方の違う人がこんなにいるということが可視化されました。

同じ日本語という言語を話しているはずでも、必ずしも一つずつの単語の意味が全て共有されているわけではないのです。

 

「したたか」という単語以外にもこのような複数のニュアンスを持ち誤解を招きやすい単語はきっとあるでしょう。

言葉以外にも態度や仕草など人によって捉え方が様々に違っているものも存在するんじゃないかと思います。

 

 

「そんなつもりじゃなかった」

これは、発達障害のある次男が頻繁に発する言葉です。

本人がとった言動が、意図しない形で相手を不快にし、その怒りや不満をぶつけられたときによく言っています。

 

誰かを怒らせようと思って言ったりやったりしたわけではない行動が、マジョリティにとってはその意図がある行動であるがために誤解された、ということが起こってしまうわけです。

 

ここで次男と私達家族が把握しておくべきなのは「次男がマジョリティに合わせられるようになるべき」または逆に「次男のそれは仕方がないから諦めるべき」ではないと思うのです。

 

お互いに意識しておかねばならないのは

「自分とは捉え方が違う人間が共存しているのだ」

ということなんじゃないかと思うのです。

 

どちらが正しくどちらが間違っている、どちらが多数派でどちらが従うべき、ではなく、そもそもの捉え方は人それぞれ多様であって、決して一様ではないのだということ。

何らかの言動から自分がとっさに汲み取った相手の意図は必ずしも相手の本意とは限らないということ。

 

だから引っかかりがあったときにそれを確認したり、誤解させたときには謝罪や釈明をしたりする必要があるのだろうと思うのです。

 

私たちは残念ながら生まれた時から自分の脳みそしか持っていないので、どうしても基準は自分の脳みその中身になりがちです。それは仕方ない。

でも、周囲の人は自分の脳みその延長線上にいるのではなく、別の脳を持ち別の意思を持ち別の認知の仕方をしている他人であるということ。たったひとつの単語の意味すら共有しきれているわけではないということ。

 

それを知っているだけでも、意識しているだけでも、諍いを減らす一助になるのでは、と思ったりした次第です。

 

おわりに

娘はその後、自分で「したたか」の意味を実際にググって「うわ〜まんまやわ〜否定できんわ〜〜」と言っておりました。

娘が今後この言葉をどんな風に捉えて生きていくのかは私にはわかりません。

 

「強さ」とは場合によっては良い方向にも、立場や状況によっては悪い方向にもなり得ます。

娘にとっても、彼女の持つ強さは今は自分を守ってくれていますが、ときに無自覚に人を傷つけたり、妬まれたりする可能性もあるのではと親として心配になることもあります。

 

自分のように強さを備えている人ばかりではない、ということも、折に触れて言葉にはしていますがどこまで理解が進んでいるのかはわかりません。

いずれ、そこも意識できるような大人になってもらえたらなぁとこっそり願っているところです。

小学校入学を控えた親御さんへ、心配しなくても大丈夫だよっていう話。

 

年明けてひとつめの記事を書こうとしてこんなトラブルで消えてしまいました。

書き直そうかどうしよう迷いましたが、「データが全部ぶっ飛んだものをゼロから作り直したら前のよりずっと良くなる」というこれまでの人生で何度も泣きながら培ってきた経験則があるので、ちょっと書き直してみようと思います。

 

書こうと思ったのは小学校での配慮について。

きっかけはTwitterのタイムラインに流れてきた、ツイートでした。

それはこの時期になるとよく見かける内容のもの。

 

小学校の入学説明会の案内に子供を連れてこないでという記載があり、それに戸惑う方の声でした。

 

小学校の保護者なら子供がいるのは当たり前のこと、連れずに行くということは預け先を確保しなければならないのに、その記載は配慮不足に感じられても仕方ないのかもしれません。

 

この時期になると毎年、同じように入学準備段階にある親御さんによると思われる、学校からの案内の不備や対応の至らなさについてのツイートをよく見かけます。

 

私自身も同じように学校からのアナウンスに対して「それはちょっと無理…」と戸惑った経験があるのでその気持ちわかるなぁと思いつつ、批判が強まっていっていたり、それに対して不安を感じているような声を見ると心配になったりもします。

 

今日筆をとったのは、そういう、不安を感じているのかな、という方に向けてメッセージを送りたかったから。

 

長男が入学してから今日まで9年、小学生の保護者をやってきているのですが、その間我が家は私や息子たちの事情に合わせてたくさんの配慮を学校にお願いし、お世話になってきました。

障害に関するものももちろんありますが、そうではないものも多くあります。

 

学校にお願い事をするときのスタンスは、いつも同じです。

こちらの事情を丁寧に説明し、学校側の都合や事情を伺い、その上でお互いに無理のない落としどころを見つける。

 

障害のある人が合理的配慮を受けるための合意形成のプロセスについて以前書いたことがありますが、障害に関すること以外でも基本的な姿勢はそれと同じです。

合理的配慮を事業者などサービス提供側に求めるときには適切なプロセスを経ることが望ましいとされています。

①本人や保護者・介助者から、必要な配慮に関する意思表明をすること
②学校や企業、行政などがどんな配慮ができるか検討し、本人と話し合うこと
③どんな場面でどんな配慮ができるか、お互いに合意したうえで実施すること
④配慮を実施したあとも、定期的にその内容や程度について見直し・改善をすること

(参考:合理的配慮とは?考え方と具体例、障害者・事業者の権利・義務関係、合意形成プロセスについて | LITALICO(りたりこ)発達ナビ

配慮を必要とする側が、必要な配慮に関する意思表明をすることがスタートです。

そして、それについて提供側が検討し、本人やその代弁者と話し合いを重ね、負担により不可能なケースについては本人側の納得のいく説明をし、代替案についても話し合い、お互いに合意した上でサービスが提供され、その後も定期的に内容を見直すためのコミュニケーションをとっていくことで双方にとって、また他の参加者にとっても過ごしやすい環境を模索していくことができるのではないかと考えます。

 

ここで重要なのは

「配慮を必要とする側が、必要な配慮に関する意思表明をすることがスタート」

ということです。

 

小学校という、限られた人員と予算で運営されている組織が多様な家庭環境の子どもたちに対応している場で、出されたアナウンスが自分に適しているとは限りません。

 

むしろ、適さないことも多くあるのではないかと思います。

 

冒頭で挙げた子どもを連れてきてはいけないという事例についても、恐らくは学校側には保護者がぞろぞろとみんな子連れできてもらっては対応に困る事情があると思われます。

しかし、おそらくは全面的に禁止というわけではありません。

 

やむを得ない事情がある場合は事前に丁寧な相談を持ちかければ、学校も対応を考えて何か打開策を見つけられるかもしれません。

 

例えば、特例として座席の配慮をしてもらったり、後日別対応をしてもらえたりする可能性もあります。

 

ここで学校に特別な負担を強いることになるかもしれませんが、それを当たり前と思わずに協力できるところで積極的に手を挙げていくことで信頼関係を保つこともできるのではないかな、と思います。

 

〜までに〜を用意して、っていうアナウンスが突然あるのに対応しないといけない!というのもTwitterでよく流れてきますが、あれももし用意できなくても事前に相談すればどうにでもなるものが多いです。

持ってこられない子向けに多めに用意するから大丈夫です、とか、複数持ってくる子がいるからもらえます、とか。

持たせられなくても連絡帳にひとこと書いておけば対応してもらえたりもします。

 

 

イメージとしては、学校と自分たちの間に子どもがいる感じです。

子どもを真ん中にした協力体制を築いていく感じ。

 

1年生の担任になる先生はベテランの方も多いので、入学前から気になることや不安なことは早め早めに相談しておけば色々と対応してもらいやすいと思います。

(私は年度当初の家庭訪問で「私自身が忘れっぽくて失敗が多いので持たせ忘れたりすることがあると思います」と担任がかわるたび毎回ぶっちゃけて、配慮をお願いしています)

 

ネット上には、学校やPTAに関するマイナスなイメージがたくさんあります。

この時期から入学後くらいまで、それが特に増えるような気がするのですが、そこで入学前に不安を募らせてしまう方が増えるのではないかなと余計なお世話ですが心配になったりします。

 

でも、自分の経験でもマイナスのことは何度でも発したくなるものだなぁと思うんですね。

長い保護者生活の中でものすごく辛い対応をされてしまったこともあるんですが、そのことはネットでもリアルでもいつまでも恨み節のように繰り返し言葉にしてしまうし、逆にたくさんいるとてもよくしてもらった先生方のことはそう何度も口にはしていません(感謝はしていますが)。

ネットに悪い話が残りやすいのも、そういうことなのかな〜と思ったりしています。

 

この時期からしばらく、対応に配慮が足りない!という情報がたくさん溢れるかもしれません。

それ自体は、つぶやくことが悪いとは思いません。

そこから改善につながることもあるかもしれないし、そうそうって話して気持ちが晴れることもあるだろうし。

 

でももし、そういう流れに触れて小学校に向けて不安が募ってしまうことがあったら、思い出してもらえたらなぁ、と思うので書き残しておきたくなったのです。

 

心配しなくても、大丈夫です。

学校にいる先生の多くは、こちらが丁寧に相談したり配慮を求めればそれに応じてくれるはずです。

(例外があることは存じてます…交通事故のようなものです)

 

困ったら、自分で判断したり不満を募らせる前に、学校に相談してみてください。

こちらから丁寧なプロセスを辿れば、先方が丁寧に対応してくださる可能性も高くなると思います。

 

もううちでは小学校の入学を経験することはここから先ありませんが、来年度は長男が高校生(になる予定)で、私も高校生の保護者デビューが控えています。

初めての高校、ドキドキです。

 

入学に際して発達のことも含めて、不安になることも増えてくるかもしれません。

お話をしたくなったら、いつでもTwitterで話しかけてくださいね。

 

それでは今日はこの辺で。(結局長くなりました)

忘れることのできない、大きな失敗をしました。

昨日、自分の人生の中でも多分これ以上はないんじゃないかと思うほどの失敗をしました。

やらかしたことのあまりの重さ、被害の大きさに眠れない夜を過ごしながら、私の脳裏に浮かんだのは「これを書きのこさねばならない」と言うことでした。

 

ことの詳細は詳しくは書けませんが、少しだけ。

年末の行事で知人や親戚、子供たちそれぞれの友人が多数いる場で次男がパニックを起こして暴れ、そして私がそれを止めきれず、彼の感情を真っ向からぶつけられたことで自分を保てなくなり大きな声を出してしまうにいたりました。

 

子供たちの友人たちはとてもびっくりしていたし、とても怖かったと思います。

 

なぜあの場をすぐに離れられなかったのか、なぜイレギュラーな状況が苦手だとわかっている次男のことをもう少し丁寧にケアしてやれなかったのか、なぜ他の子たちを守ることができなかったのか、自分の判断ミスや対応の不味さに涙が止まらなくなります。

 

次男が落ち着いた後、それぞれの子供たちに謝らせてもらいました。

謝って済むわけではないことも重々わかっています。

寝られず、頭痛が止まらず、体にも不調が出たのでこれは良くないと思いました。

 

次男のかかりつけの児童精神科の先生に初めて会った時に言われた言葉を今も覚えています。

「お母さんがしんどくなったらいつでもお母さんの分のケアもできるからね」

 

それまで次男を抱えて暮らしながらそんなことを言われたことは一度もなかったので、診察室で泣きました。

そこから今日まで、月1回の診察のたびに次男の状況にプラスして家族が今どんな思いを抱えているか、私の状態はどんなかもお話をさせてもらっています。

 

昨日の出来事は、強く記憶が残りやすい私の特性上、おそらくは一生消えないとおもいます。

そして、その場にいた人たちにも同じように消えない怖い記憶を残してしまった。

悔やまれて悔やまれて、時間が巻き戻せるならやり直したい、なかったことにしたい、と今もそんな思いが絶えず押し寄せてきます。

 

なぜこんなことを書いておこうと思ったのか、私にもあまり綺麗に整理はできていません。

ただ、書かないといけない、と思ったので書いています。

 

いつも子供たちの対応についてここに書き記してきている中で、どこか自分がしっかり頑張ってやれている親だという思い込みがどこかにあったようにも思う。

そんな風に褒めてくれるコメントをいただくこともある。

 

でも、そんなことない、こんな風に失敗を繰り返しては悔やんで、泣いて、子供たちに謝って、ちっとも立派でもなければしっかりもしてない、そんな親だということをここに書いておきたくなったのかもしれません。

 

寝られなくて、夫に話を聞いてもらいました。

夫からかけられた言葉は、一生忘れません。

 

「取り返しのつかないことをしてしまったけど、でも一度の判断ミスで全てがなくなったりはしないから、壊れたものはまた少しずつ積み上げていけばいい、またゆっくり始めよう」

 

 

失敗は苦しいです。

でも、失敗を繰り返さないようにするためにできることもきっとあるから、と昨日、次男と話しました。2人で失敗してしまった、やらかしてしまった、だから、お互い何ができるか考えよう、と。

 

自分の感情を捉えることが苦手な次男も、昨日は頑張ってなぜパニックが起きたかを一生懸命言葉にしてくれました。

家族はじっとそれを聞いてくれました。

 

失敗するたびに、いろんな人に迷惑をかけてしまいます。

いろんな人を困らせ、手を焼かせてしまう。

たくさんの人に嫌な思いをさせ、悲しませてしまう。

 

でも、失敗するたびに話を聞いてくれたり、励ましてくれたり、そばにいてくれる人も私の周りにはいます。

助けてくれる人たちが私にはいるから、だから、どんなに大きな失敗をしても少し休んで、またゆっくり始めていくことができるのだろうと思います。

 

 

願わくば、子供たちそれぞれにもそんな風に支えてくれる人ができますように。

願わくば、今私を支えてくれている人たちとこれからもお互いに支えあっていけますように。

 

 

 

今年も私の、不定期すぎる更新頻度の言葉たちにお付き合いくださり、ありがとうございました。

来年もきっと私は、いろんな失敗を繰り返しながら子供たちと暮らしていくのだろうと思います。その度にボロボロになって、そしてまた、それも言葉にしながら、生きていくのだろうと思います。

 

みなさま、よいお年を。

来年が幸多き年となりますように。

 

2019年の年の瀬に寄せて  イシゲスズコ

「アスペルガーに産んで申し訳ない」という母親の言葉とあの事件に寄せて(長いです)

今朝、Twitterを開いてタイムラインを眺めていたら、元農林水産相事務次官の長男殺害についての報道が流れてきていました。

目に留まったのは容疑者の妻であり息子を殺された立場である母親が「アスペルガーに産んで申し訳ない」と法廷で証言したという記事のタイトルでした。

 

この一連の事件に関して、実は私は報道から自分を遠ざけていました。

子としての私と親としての私。

どちらにも思うところがありすぎて、その思いが溢れて生活をおびやかしすらしそうで、怖かったからです。

 

今朝「アスペルガーに産んで申し訳ない」という母親の言葉を見て、PCの前で少し膝が震えました。

あ、これは、言葉にしておかなくてはならない、そう思いました。

 

うちの次男は、ADHDアスペルガーを含むいくつかの診断名を持つ中学生です。

私自身は診断はなく暮らしていますが、発達障害の特性を自覚している身です。

 

私の母親は教育熱心で小さい頃から私に惜しみない教育を与えてくれました。

その熱心さが暴走して私は母の敷いたレールの上でもがきながら高等教育機関に送り込まれ、都会に出て初めて母の呪縛に気づいて大きな挫折を経験したという記憶を持っていますが、母の記憶の中の私は違うようです。

小さい頃は素直に勉強していたのに20歳を前に突然反抗期が来て私のいうことを聞いてくれなくて色々と台無しにしてしまった子、それが、母の私への評価でした。(面と向かって言われました)

 

しかし、当然ながら母は外部にそんなことを漏らしません。

母の周りでは私はいつまでも出来のいい娘であり、そして私もまた、それを演じられるからこそ今も母とそれなりの関係を保って生きていけているわけです。

 

そして、そんな私にまた、神様が試練を与えたような息子が生まれました。

4人いる子供の中で、ずば抜けて育てるのが難しい子、それが次男でした。

小さい頃はほかの子に比べて落ち着きがないかなぁという程度でした。

心配して相談した先でも「元気がいいだけですよ〜」と言われていました。

 

難しくなってきたのは小学校中学年くらいから。

今思い返せばこの頃から自閉傾向がかなり目立ってきたように思います。

反抗的な態度が出たり、癇癪を起こして暴れたり。

あちこちに相談してもなかなか糸口がつかめない日々が続いて疲弊し切った頃、たまたま出会った相談先で病院を教えてもらい受診、そこで初めて発達障害という診断がつきました。

 

くだんの事件の報道の中でも受診して診断が下りたという記事がありました。

専門家につながっていたのになぜ、という声も散見されました。

 

そうなんです、病院に行って診断が下りたとしても、そこですぐに色々な問題が解決するわけではないんですね。

次男の場合も、診断が下りたことで何かが劇的に変わったわけではありませんでした。

そこから先、今日に至るまで、彼の周りにあるサポートは全て私が駆け回って取り付けてきたものです。向こうからやってきてくれたものは一つもありません。

 

サポート以前に、情報そのものも向こうからはやって来てくれません。

どんな制度があるかも、どんな助成金が受けられるかも、どんなことを学校に求めて良いのかも、全部自分で調べるか、親の会や仲間内のコミュニティで教えてもらうしかありません。Twitterにはかなり助けられました。

それら制度にも地域差があり、よそで受けられるサポートがこちらでは全く機能していない、ということもありました。

 

そして支援を掴む過程も、全てうまくいっているわけではありません。

かなり待ったのに思うような回答がなかったり、何度も電話をかけたのに折り返しがなかったり、繋がったのに次男と相性が合わずうまく続けられなかったり、そんなことの連続です。

 

そんなやりとりの中でも、日常は過ぎていきます。

学校で暴れたと連絡を受けたら対応し、家で兄弟喧嘩があったらその仲裁をし、本人やきょうだいのケアをし、そして休む間も無く支援を受けるために奔走する。

 

これが、発達障害を持つ子を育てる家庭の現状です。

 

私の周りにも、同じように奔走する父母の立場の友人が何人もいます。

みんな、自分もそれぞれに困難を抱えながら子供のため家族のために毎日を送っています。

 

そんな日々の中で、自分を保てなくなるくらい疲弊することもあります。

ボロボロで、悪い方悪い方にしか頭が働かなくなってしまう。

 

なんの心配もなく学校に通えている子を育てる親御さんが羨ましくなることもあります。

支援学校や就労の目処がある程度立っているように見える身体など別の障害を持つ子の親御さんを羨ましいと思ったことすらあります。

なんで自分にばかりこんな難しい子育てが課せられるのかと泣いたこともあります。

 

そして、誰よりも一番苦しんでいる息子に対して

「こんな風に産んでしまって申し訳ない」と思い、泣いたこともあるのです。

 

そして、そんなことを考えてしまったと、自己嫌悪に陥るのです。

 

支援がうまく入って次男も落ち着いて過ごすことができ、私の気持ちも落ち着いてくるとそんな落ちる方向への思考は起きづらくなります。

 

あの法廷での証言が付された記事のタイトルを見た時に思いました。

あぁ、あの一番ダークな状態の時の私だ、と。

そして同時に、あの状態が何年も何十年も続いた結果なのかもしれない、と背筋が凍る思いがしました。

 

私はあの事件に関して、誰のせいだ、という方向で考えることはできません。

Twitterにもニュースサイトのコメントにも、どちらの方向からの意見も並んでいます。

テレビを見ないのでなんとも言えませんが、軒並み父親に同情的な報道がなされている感じでしょうか。それに対してネットでは息子に同情的な意見も散見されます。

でも、やっぱり私にはどちらの方向にも考えることができません。

発達障害を持つ子を育てる親がどれだけの負担を背負わねば暮らせないのかも、発達障害の当事者が極端な思考の偏りを持ちやすいことも、どちらも身を以て知っているからです。

 

教育虐待のことについても触れているツイートがありました。

親による教育面での虐待が引き金になっている可能性もあるかもしれません。

私自身、親から似たような圧力を受けてきた記憶があるので、その苦しさがわからないわけではありません。

 

でも、親の立場になってまた違うものが見えたのも事実です。

知的に高いアスペルガーの子たちは公立の小中学校でその知識の偏りやコミュニケーションの違いによりなかなか周囲に馴染めなかったり、いじめの対象になりやすかったりしてしまいがちです。

それを避けるために、荒れている地元の公立中学校ではなく私立への進学を子供に勧め、受験に臨んでいる家族も私の周りにも複数います。

私自身も地元の中学より、母の強引な勧めで受験した進学先の高校の特進級の中の方がはるかに居心地が良いものでした。(母にそんな意図はなかったようですが)

うちも、もし通える範囲に次男にちょうど良い私立があったら受験を考えただろうと思います。(幸い地元の公立が柔軟に対応してくれているので今はなんとかなってますが)

子供本人と話して決めた受験でも、実際の受験勉強は時に子供にとって苦しいものになる可能性もあります。

その受験の過程が親と子それぞれ、どんな形で記憶に残るかもわからないな、と思うのです。

 

アスペルガーの中には、嫌な記憶は強く残り、良い記憶はあまり残らない特性がある子もいます。(うちの次男がそうです。私も自覚があり日常の中で意識しています。)

親子双方に特性があれば、それぞれの記憶と実際のやり取りに食い違いがあるだろうことは容易に想像ができます。

(これらを鑑み、私の親に対する記憶もおそらくはかなり私なりにディフォルメされている可能性があると考える必要があると思っています)

 

今朝、このブログを書くためにいくつかの記事を読み、そこに記された家族の様子を読みました。

それをそのまま書いてある通りに読み取るわけにはいかないのが発達障害の難しいところだなぁと自分や息子のやりとりを思い浮かべています。

親と子双方に、家族に、記事の中だけでは計れないとてもたくさんの思いや苦悩、挫折や、儚く消えてしまった希望や、いろんなものがきっとあるのだろうと思うのです。

 

ここに書き記してきたような発達障害当事者の特性ゆえの苦しみ、記憶の特徴、親もまた当事者である可能性や、またその親が社会の中で背負う負担の大きさ…

この事件は、今まさに現在進行形である我が家の問題とリンクしすぎているがゆえにここまであえて目をそらしてきました。

 

なるべく情報を自分の中に入れぬようにしてきましたが、今朝、法廷で証言したという母親の言葉を見て、このままにしていてはいけないと改めて思いました。

 

発達障害のある子を持つ親が、彼女のように「自分が産んで申し訳ない」などと口にしていいわけないのです。

もし耐えずその苦しみが襲ってきたとしても、それは決して公の場で口にして良い言葉ではないのです。

我が子に聞こえてはならないし、オープンにしてはいけない。

 

願わくば、そんな気持ちにならないような社会資源を望みます。

 

そして、そう思う日があったとしてもこらえていけるようなサポートを。

 

診断を受けた子がスムーズに入っていける、間口が広く開かれたサポート体制を。

診断を受けた子を持つ親が苦しまずに済むような明るい未来を。

 

逆に言えば、今それが整っていないのが知的障害を伴わない発達障害当事者の現実です。

診断のできる病院はどこも予約でいっぱいです。

知的な遅れがないので診断が遅くなりやすく、療育に通えないケースも多いです。

早期に診断を受けたとしても、療育は園児まで。

公立の小中学校でも支援体制は手薄で、専門的な知識を持つ教員も多くはありません。

相談支援も手いっぱいで、後回しにされがちです。

 

私は、ペアレントメンター として発達障害児を育てる親御さんの話を聞く機会があります。先輩として励ましたくても、こちらにくれば大丈夫だよ、と言い切れない現実がそこにはあります。

我が子でさえ、明日どうなるかわからないのです。

今はかろうじて中学に通えていますが、担任が変われば不登校になることも想定しなくてはなりませんし、そうなった時に彼の学習をサポートしてくれる支援をまた自分で取りに行かねばなりません。

高校に行けるかもわかりません、高校がどんなサポートをしてくれるかも霧の中です。

一般の就職ができるのか、障害者として就労を選ぶべきなのかも、何も見えません。

自分であちこちに足を運び、声をかけ続けなければ、誰も教えてはくれないのです。

そして、教えてもらえたとしても息子がそこに適応できるかは、誰にもわからない。

誰も、そこに進んで並走してくれはしないのです。

それが、知的障害を伴わない発達障害児の現実です。

 

(知的や身体など他の障害でも体制としては似たような状況ではあると思いますが、体験していないので正確なことは書けません)

 

あの事件から社会が何かを得てくれるなら、発達障害に対する理解と社会資源の拡充を、と求めます。

悪者探しをしても誰も救われません、少なくとも私たち当事者親子の救いには全くなりません。

 

私たちは日々もがきながら、なんとか繋がったなんとか助けてくれている人たちの手を手繰り寄せながらかろうじて生きています。

あの事件は決して対岸の火事ではないのです。

我が家の未来かも知れない怖さが私にはあるのです。

 

親が子を殺すような悲しい事件が二度と起こることのないような、支援体制の拡充を。

取りに来る力のある親の子にしか届かない支援ではなく、支援希求力の弱い家庭へも届く支援を。

公教育の中で発達障害の子どもたちが苦しまずに済むインクルーシブ教育・特別支援教育の更なる拡充、教員の資質向上を。

 

それが、私の願いです。

 

そして、それを訴えながら保護者同士横の繋がりを持ってお互いを支えていく。

私に今できることを粛々とやっていくしかないと改めて思っています。

当事者の、その家族の、その周囲の人々の、苦しみが少しでも減ることを願って。

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