スズコ、考える。

ぼちぼち働く4児のははです。

少年スポーツの保護者負担や性的役割分担の話に思うこと。

朝ぼんやりTLを眺めていたらお子さんが少年野球を始められたらしい方のツイートが流れてきていました。

 

(引用はしないので気になる方は検索していただけましたら)


その方が書かれていたのは送迎の負担やお茶当番などの負担だったように思います。

お当番は母親がやるものとされているような、性的役割分担の傾向が強いことにも触れられていました。

 

私も息子が小学校の頃に少年サッカーチームに所属し、その後中学の部活を経験していく中でこのような親の負担問題について直面してきたので色々と思い出したりしたところです。

 

現状、サッカーをやりたい末っ子を長男のいたスポーツ少年団ではなくプロコーチが基礎を教える楽しさ優先のサッカー教室に通わせているあたりで色々お察しいただければ…という感じではありますが、今日はちょっとこのスポーツの保護者負担問題から派生して考えたことを書いてみようと思います。

 

 

 

少年スポーツにつきものの、保護者負担

私の息子が所属していたのはサッカーチームなので野球ほど強固なものではなかったとは思うのですが、それでもお茶当番や送迎、子どもたちのお世話などが保護者会のやるべきこととして存在していました。

 

役員をしていた6年生のころには練習日にはほとんどグラウンドに出向き、毎週土日どちらも遠征や練習試合のお世話…

生活をまるまるサッカーに捧げたような1年間を過ごしました。

 

サッカーでは「母親がやるべき」という性的な役割負担はそう強くなかったような気がしますが、それでもお父さんは指導の手伝い(お父さんコーチという言葉があった時期もありました)でお母さんはお茶やお世話の手伝い、という雰囲気はじわっとあったような気がします。

 

うちの子は野球チームに入ったことはないのですが、参加経験のある親御さんの話を聞くと野球はこの辺の性的役割分担の色がサッカーより濃い印象はありました。

持病があるママさんのご家庭が「お手伝いは父親が行きます」と言うと周りのお母さんにすごく驚かれ拒否され、母親が出ざるを得なくなった話も聞いたことも。

 

少し前、たまたま高校野球の練習試合をやっているところに居合わせたことがあります。

球児のお母さんであろう女性が複数人、同じTシャツを着てお茶を配って回る場面に出会い「あぁ、高校生になってもお母さんがやるんだ…」と衝撃を受けました…

 

廃れつつあるもの…と思っていたのだけれど

このような保護者負担は大昔の名残が一部に根強く残っているもの…と思っていましたが、息子が中学に入り部活を始めたときから、アレ?と思うようになりました。

 

部活には保護者会が存在していて、入部してすぐに新入生保護者が集まり役員を決め、保護者会費の徴収や、試合のお茶当番や先生のお世話係を順番に回す説明がありました。

 

私自身が中学で部活をしていた頃に学校の部活に保護者が関わるということはなかったんですね。

飲み物は自分たちで用意していたし、顧問が電話注文した弁当を部員で連れ立って買いに行った記憶もあります。親が試合を見に来ることすらほとんどなかったように思います。

当時のことを両親に聞いたら「保護者会などなかったし、学校に払う以上の徴収も無かった、試合は見に行きたかったけどみんな行ってもなかったしあなたに来るなと言われたから行かなかった」と返ってきました。

 

昔はなかった中学の部活の保護者会がどこかの段階で発生し、そして子どもたちや顧問のお世話をする仕組みがだんだんとできていったんだなぁと。

私たちの頃は中体連など学校の関わる公式戦しかありませんでしたが、市外県外の大会参加が増えてきて保護者が関わる機会が増えてきたのも背景にあるようです。

 

少年サッカーや少年野球などの子どもをとりまくスポーツでも、保護者負担の傾向や性的役割分担の色は今も一部では加速する形で残っているのかもしれないなぁと感じたりしています。

 

中学の顧問の対応から見えてきたもの

息子が入部したころ、

  • 試合時の部員の飲み物の準備(キーパーを持ち帰り自宅でお茶を作って持って来る)
  • 顧問の飲み物や食事の手配

などが保護者の係として割り当てられていて、さらに試合のときに使った場所を片付けたりするのもお母さんたちがたくさんサポートしている状態でした。

前年度のやり方がそのまま踏襲されていた状態だったのだろうと思いますが、中体連のあとに役員が代替わりしたころから顧問から少しずつ「子どもたちに」という言葉が出るようになりました。

 

親が荷物を運ぼうとしたり、使った場所の掃除のために掃除用具を探そうとしたりしていると先生から「お母さんいいですから、子どもたちにやらせますから」と制されるようになったんです。

 

息子たちが部活の最高学年となり私たちに保護者会の主な仕事が回ってきました。

打ち合わせなどを通して先生の考えをゆっくり伺う時間が少しずつ増えて、見えてきたもの。

それは、先生が部活の指導で意識されている大事なことでした。

 

 

「サッカーだけを指導する場ではない」

 

生活の基礎や人間関係、礼儀などスポーツの技術だけではない成長の場であるわけだから、お母さんたちがそれを奪うのは良くない、と話してくれました。

 

技術だけを伸ばすなら子どもはサッカーだけやればいいかもしれない。でも中学の部活動である以上、スポーツをやる上で付随するたくさんのことを学ぶ場であるはずだ、と。

 

先生の意向を受け、保護者会の活動内容をかなり見直していきました。

 

お茶当番を廃止し、保護者会からペットボトルを箱買いしてキャプテンに預ける。

子どもたちがそれを管理してなくなれば保護者会へ申告する…

 

など、子どもたちの自立を促していくための方向にシフトしていきました。

 

少し前までは食べ終わった弁当の容器を応援にきていた親に「ハイ」と手渡していた子どもたちが、方針を変えてからは自分たちで残飯も含めたゴミの分別をし、どう処分するかまで話し合い、わからなければ先生や保護者に聞きにくるという姿まで成長をしたのには本当に驚きました。

 

あぁ、手を出し過ぎていたんだなぁという反省とそれを見抜いて指導方針を徹底してくれた先生への感謝と。

親としても大切なことを学ばせてもらった中学の部活動になりました。

 

しかしながらこれは、とても珍しい事例のようではあります。

この話を聞いたママ友から「そんな顧問珍しいよ、うちは顧問が『お母さんたちがやってくれて当たり前』って顔でなんでもやってもらってるよ」と驚かれました。

 

中学でもそんな状況ですから、少年スポーツの世界ではいまも「親がやって当たり前」は根強く残っているのだろうなと思います。

 

なんのためのスポーツ指導なのか

中学の部活顧問の言葉は今も頭に残っています。

彼らはなんのためにサッカーをやっているのか、ただ強くなればそれでいいのか。

 

指導者という立場に立つ方の中で、また子を預ける保護者の中で、これを意識している方がどれくらいいらっしゃるだろう、と思ったりするのです。

 

「どこを目指して指導していくのか」

「どんな子どもたちに育って欲しいのか」

 

指導の結果たどり着けるところについて大人としてもっと深く、大切に考える必要があるのかもしれない、と思うのです。

 

今この地点だけを見れば、少しでも強くなるために、少しでも上手くなるために、と誰しも考えがちだし、親もそうなんだろうなぁと思うのです。

 

それそのものが間違っていると言い切れるほど私はものを知っているわけではないのだけれど、息子たちのサッカー部の変容を目の当たりにして「彼らにどこまで手を出してやるべきか」「どんな環境を用意してやるべきか」はよく考えねばならないのだなぁと思ったりもするのです。

 

子どもたちは大人が子どものためと思って与える以上のものを、その場からどんどん学んでいくと思うんですね。

 

お茶を親が当番制で用意することが子どもたちにどんな影響があるのか

「お当番はお母さんが」と促される環境の中で子どもたちが何を学び取るのか

保護者にお世話をしてもらいながら指導する監督に子どもたちは何を思うのか

 

未来に向けて生きている子どもたちに、どんな姿を見せていけばいいのか、学びの場をどんな風に形作ってあげるべきなのか…

 

あぁこれは学校現場や家庭の中でも大事な、大人として責任の重いこと。

我が身を振り返り、そして先生方はどう意識していらっしゃるのだろう…と考えたらちょっと胃が痛くなってきたので今日はこれくらいで。

小学校がしんどくなった三男の、辛さのヒントをくれた宇樹さんの記事のこと。

 

今日は、今朝目に留まったこの記事のこと。

 

抽象理解力と語彙の解離がASDの子どもを苦しめる? - decinormal

 

学校がちょっとしんどい、三男

ツイッターでちょっとだけ呟いたけれど、我が家の小4三男が最近ちょっと学校がしんどい。

少し前から登校を渋ることがちらほらあったんだけど、コロナウイルスの関係で(彼にとってはちょうどよく)長い休校があったおかげでいい感じにインターバルが挟まって気持ちが落ち着いてきたかなぁ…という感じだったのもつかの間。

 

分散登校で少人数の登校が終わり、全体での登校が再開されたところで「やっぱ無理」の白旗が上がったので担任と相談の上、無理せず少しずつ、という感じに切り替えて対応しているところ。

 

目に留まった、宇樹さんの記事

宇樹義子さん@decinormal1 とはツイッターで長く相互の関係にあるライターさんで、彼女の書くものにはいつも法度させられたり、考えるきっかけをもらったり。

 

今回目に留めた記事は彼女が2015年に書いた、少し古いものだけれど、いまの三男のしんどさを紐解くヒントをもらったような気がしたのです。

 

 

白いパンツのエピソードの「子供だからってばかにしてる!」というあの憤慨。

 

別記事になるけれど「お友達」という気持ちの悪い表現への違和感。

 

クラスの男子にうまく説明し切れなかった悔しい気持ち。

 

羊たちを愛でた後に大人が出したジンギスカンが喉を通らなくなるあの感覚。

 

彼女が挙げていたエピソードはどれも私自身が幼少期〜学童期に感じていたものとあまりにもそっくりで、ベッドの中で寝ぼけながら「ここに私がいる」と背筋がぞくっとしたほど。

 

あの頃の私と、うちの子供たち

私も、宇樹さんと同じように「お友達お友達って、いや、友達じゃない人も混じってるやん」とか「なんでたまたま同じクラスになっただけの嫌なやつとも仲良くしろと言われるのか」なんて思っては悶々と考え、不機嫌を隠せない子だったなぁと。

 

大人が書いたものに「ここはおかしい」「こっちで言ってる通りにしたらこっちに書いてあることに矛盾する」と食ってかかっては怪訝な顔をされたことも何度もあった。

 

廊下を走ってはいけません、と言う先生が廊下を走っていたら見過ごせなかった、そんな子供だった。

 

私は今も、そんな大人として生きている。

 

うちの子供たちには「学校などで『お友達』というときは便宜的に言っているだけで必ずしも『お互いに好きあっている中の良い状態』を求められているのではない。周囲の大人が求めているのは表面上うまく付き合っていくことであって、真に仲良くするという意味では言っていない。」と説明をしている。

 

そして、そんな私が育てて、その説明を飲み込んでいる子供たちはやはり私や宇樹さんと同じように程度の差はあれASDらしさを抱えていると考えた方が自然だったのだなぁと今になって改めて思う。

 

うちの子たちは4人とも、小学校中学年くらいで学校がしんどくなった。

しんどさもその内容もそれぞれに違うし、教室の雰囲気も多分に影響していると考えた方が自然だから、一概にしんどさが特性とイコールだとは思わない方がいいと思う。

 

でも、今回の記事と私やうちの子たちの様子を照らしてみると、やはり何かしらの関連はあると考えた方が良さそうだ。

 

抽象理解力と語彙の乖離

記事の中で

中学3年ぐらいになって、徐々に国語で評論文を読むようになった。そこで評論的な表現や学術用語をいろいろ知るようになって、上記のようなことが突然全部言語化できるようになった。目の前にかかっていた靄がパーッと晴れわたって、振り返ると自分の歩いてきた道を初めてはっきりと見ることができた感じだった。

その後、自分が発達障害だと自覚するまでに10年以上かかったが、そうして自覚したあとになって、「ああ、あれが、自分の抽象理解力と語彙が釣り合った瞬間だったのだ」と思い当たった。

と宇樹さんは書かれている。

この、自分の中のモヤモヤとしたものが一気に言語化される経験を私も中学時代にしている。

 

私の場合は父が当時買ってくれたワープロによって手で書くより早く文字として言語化できるようになったことがその要因だと思い込んでいたけれど、もしかしたら彼女が書いているように、私の中でもこの、抽象理解力と語彙がガチッと釣り合う瞬間がそこだったのかもしれない。

 

思えば同じ時期に学校がしんどかった上の子たちも、中学に入るのを境にしたように学校生活がかなりスムーズになり、交友関係のトラブルもぐっと減ってきたように思う。

やはり、何かしらのターニングポイントが彼らの中にもあったのかもしれない。

 

まだまだしんどい三男と、一緒に歩く

三男が、ポツリポツリと学校であったことを話してくれることがある。

 

「(担任の)先生が悪い言葉を使った子に『先生は人権の先生だから、そんな言葉は許しません』って言ってたんだ」

注:うちの地域では各校に1人〜数人程度人権教育担当の教員がいて、全校の指導をしているようです

「でも、それだったら(隣のクラスの)●●先生の前なら言っていいことにならない?でも使ったら悪い言葉だよね?それはおかしいと思ってすごく気になったの」

 

こんな風に、先生の注意する言葉やクラスメイトの発する言葉の中の些細とも思えることに彼はたくさん反応し、心の中にモヤモヤとしたものを溜めている毎日だったんだなぁと胸がぎゅうっとなるのです。

 

三男に

「先生は、自分だからよくて他の先生はいい、って意味じゃなくて『自分は人権の先生だから、自分のクラスの生徒には特に気をつけてほしい』って思ってそう言ってるんだと思うよ」

と伝えると、

「そう言ってくれたらわかるんだけどなぁ」

と困った顔をしながら笑う三男にも、いつか私たちに訪れた日が来ると信じて、ぼちぼち一緒に歩いていこうと思う、そんなよく晴れた初夏の午後。

読書について親になにができるのかを掘り下げて考える

相変わらず適当な更新頻度ですすいません。

 

昨日かな、Twitterで本のある家で育つかどうかみたいな話がいろいろ流れてきてたのでちょっと思うところを描いてみようと思い至りました。

 

話題の発端がどの辺りなのかもう追いかけるのも難しいんですが、今日書こうと思ったのはこれについて。

 

 

 

 

「本のある家庭の子は学力が高い」という説に対する疑問

TLを流れていく中に、海外の統計結果だかで「本が〜冊以上ある家庭で育つと学力等高い子になる」というものもありました。

一見なるほどと思うような話ではありますが、これ、「朝食をとる子は成績が良くなりやすい」というのと似たような話の可能性もあるな、とは思うんですよね。

 

「朝食をとる子」と「成績が良い」の相関関係が直接あるというよりも、「毎日朝食を用意して子供に食べさせるだけの母体がある家庭で育てられる子」と成績の相関関係を考えた方が良いのではないかという、あれです。

 

「本がたくさんある家庭で育つ」という状況についても、

  • その親のそもそもの学力が高い(遺伝的要素)
  • たくさんの本を買い揃えられ、かつ置いておける家に住むことができる(経済力がある)

など本の冊数の話ではない背景が考えられます。

 

つまり「本をたくさん与えれば学力の高い子になる」という直接の関係性で語るのはかなり危ういのではないか、というのがまず大前提。

 

その上での今回の本題。

 

「本に興味を示さない子は親が読み聞かせをしたりしてないから」

このような発言、学校現場や子供に関する場面で見聞きしたことのある方、多いかもしれません。

私自身も読み聞かせで教室に入っていて、図書担当の先生やボランティア仲間が話しているのを聞いたことが何度かあります。

 

小学校に入ると図書の時間、というのがあり、子どもたちはそこで学校図書館の本に出会います。

また、私がやっているような読み聞かせボランティアが定期的に入って教室で絵本を読んだり本を紹介する取り組みがあったりもします。

 

そんな授業や活動の中で、本に興味を示す子もいれば、逆に全く興味を示さない子というのも一定数います。スルーするだけならまだ問題にはならないのかもしれませんが、相手はこないだまで園児だったおチビさんたちですから、興味がないけれどそこでおとなしくしてるというわけでもなく。

 

騒がしくしたり、ふざけたり、静かにしてる子の邪魔をしたり、なんてことも日常茶飯事です。

 

問題行動があれば大人はそれを正そうとしますし、なんでそうなのかを自分なりに考えようともしますよね。

 

ここで浮かぶのが、子どもに本を読み聞かせして育てている保護者と本好き&好成績のお子さん、という親子の存在だったりします。

学校関係者や読書ボランティアをやっている方の周りには大抵、これに当てはまる親子が実際にいるんですよね。

 

だから、その逆も想起してしまいやすいんだろうなと思うんです。

 あぁ小さい頃から読み聞かせをして育ててなかったんだろうな、って。

 

我が家の4人と本の関係

ここで我が家の話をしましょう。

私が本好きなのもあって我が家には所狭しと本棚が埋まっており、夫と私がそれぞれ実家から持ってきたり買ったりした本や漫画が詰まっています。

読み聞かせボランティアの活動を始めてからは図書館に通う頻度も増え、子どもたちがついてきてそれぞれ借りたりすることも良くありました。

 

高1から小4まで4人の子たちがいるのですが、どの子に対しても本を読めと求めたことはほぼなく、置いとくし欲しい本があれば買うし、読みたければ読めば、というスタンスです。

 

似たようなスタンスで育ててきた4人ですが、本に対する関わり方は見事に4者4様です。

学校の図書室にこもって本を読み漁る子もいれば、まったく読まない子、気が向いた時だけ没頭して読む子、自分で読むのは嫌いだけど読んでもらうのは大好きな子。

 

そんなバラバラの4人を見ていると

「読み聞かせする」→「本に興味を持つ子になる」「学力が上がる」

という相関関係に関してはう〜〜んと首を傾げたくなったりするのです。

どれだけ読み聞かせをしようと親が本を読んでいようと、我が家には国語の成績がいい子もずば抜けて悪い子もいるんですよねえ…

 

結論、やっぱり個人差

4人の子たちを見てて、読書を好きになるかどうかとか、本を読めるかどうか、文字を追うのが得意かどうか、ってやっぱり個人差が大きいよなぁと思うんですよね。

 

私と同じように息をするように文字を追うことができる子もいれば、逆にそれがとても苦手な子もいます。

うちの4人でもこうなんだから、学校のクラスとなればもっと多様だろうなと思うのです。

 

うちで一番文字を読むのが苦手なのは三男なのですが、彼は小さい頃から絵本を読んでもらうのは大好き。気に入った同じ本を何度も読んでとせがまれました。

 

他の子たちが自分で読み始めていた時期にも読んで欲しいと持ってくるので「甘えたいのかな?」と思っていたんですが、入学と同時に音読の宿題が出てわかりました。文字を追うのにすごく時間がかかって嫌がったんです。

 

あぁ、なるほどと思い軽度のディスレクシアを疑いながら様子を見てきました。

少し前に念のため専門のアセスメントもとってもらいましたが支援を必要とする程度ではないけれど読むのは苦手だろうと言われているので無理をさせず家庭でサポートしている状態です。

 

三男程度の軽い状態で、かつ家庭でものすごく意識して育てていても、音読に難ありで、学年相当の児童書は滅多に読みません。

ディスレクシアや他の傾向が重なって読書を敬遠する子はたくさんいるんじゃないかなぁと思うと、読み聞かせの時に本に興味を持たない子たちに対しても色々と思うところも出てきたりします。

 

三男はどちらかというと文字より絵や耳から入る情報の方がしっくりくるタイプのようです。

読むのは嫌いだけど読んでもらうのが好き、という小さい頃の様子を思い、なるほど納得という感じです。

 

どんなに大人が頑張って環境を整えて働きかけたとしても、子どもが本を好きになるかも、興味を持つかも、そもそも本が読めるかどうかも、その子次第なんですよね。

障害として大きくわかるようなものでなくても、特性として軽度の困難が隠れている子もいるし、興味の矛先も熱量も子どもによって様々に違う。

それぞれ違う子どもたちに、同じように働きかけて同じようになれ、なんて無謀だよなぁ、と諦めにも似たことをよく考えたりします…

 

読書について親にできることと、できないこと

お母さんとして子どもたちと接していて日々痛感するのは、親にできることってそう多くないんじゃないかということ。このブログでもこれまで似たような話の中で何度も書いてきたことがあると思います。

 

読書に関しても、なるべくたくさん読んで欲しいとか、本を好きになって欲しいとか、親として色々と思い入れがつい出てしまうところではあります。

 

でも、実際に子どもと面と向かって見てどこまでできるかと考えたとき

 

  1. きっかけを作ること
  2. 環境を整えておくこと
  3. 嫌いにならないよう無理強いしないこと

 

この3つしかないのかもしれないなぁと思うのです。

 

本に出会うきっかけを作ることと、その結果興味を持った子が本と付き合っていける心地よい環境を整えること。そして、無理に読ませて本を嫌いにならないように自制すること。

それ以上は結局できないんだろうなぁと。

 

こちらが用意したきっかけで本に親しんで、その後整えた環境で読書好きになる子もいると思います。

娘がまさにそれで、国語も得意ですね。

私が図書館や本屋に行くと言えばついてきて、本棚を楽しそうに眺めてあれこれ欲しがっては積み上げて読んでます。

 

私と娘の関係を見ていたら、親がうまくやれば本好きになる、学力も上がる、という相関関係が成り立っているように見えると思います。

 

 読書好きと自認するほど本を読んでいるのは、4人いるうちのたった1人です。

ほかの3人が失敗だったとかじゃないと思うんですよ。

たまたまそこまでハマらなかった、ってだけなんだろうと思います。

 

逆に、どんなにハマる素養を持ってる子でも本に出会うきっかけがなければ娘のような本好きにはならないかもしれませんから、親の影響が全くないとは言えないですよね。

 

私と娘と、たまたまマッチングがうまくいっただけなんですよね。

 

余談ですが、認知特性のこと

相変わらずダラダラと長く書いてしまいましたが、最後に認知特性のことに触れて終わろうと思います。

 

私のブログでも何度か認知特性やそのテストについて書いたことがありました。

 

多読な傾向のある人は言語優位な方が多いんじゃないかなぁ(私もそうです)

文字を読むことに困難を感じず、むしろ置いてある調味料の瓶の原材料欄とかトイレの芳香剤の裏の注意書きとかを読んでしまうような度のすぎた方もいらっしゃるかと思います(私もそうですww)

 

学校の先生には言語の2タイプが高く出るタイプの方が多いのではという話を聞いたことがあります(特に辞書タイプ)。

漢字を覚えるのに何度も書いて覚えるのが得意な種類の脳を持つタイプです。

 (だから学校の宿題は…という話をしたくなりますがそれはおいときましょう)

 

三男は言語の部分がやや弱く、聴覚や視覚の方が高く出ていて、あぁなるほどという感じです(自己採点なのであくまでも目安ですが)。

 

このテストと読書の関係がはっきりしているわけではありませんが、脳のタイプが色々とあることを知るだけでも「働きかければみんなそうなる」とは簡単に言えないことが見えてくるんじゃないかなと思います。

 

おわりに

文字を扱うことを得意とする学校の先生や本好きが集まる読み聞かせボランティアの人たちの輪の中では、文字を苦もなく読み、本に楽しみを見出しやすい方の方が多数派になりやすいんだろうなと思います。

ツイッターでもそうですね。140字で自分の今を綴ることを難なくこなす人たちの集まりですから、文字に対する苦手さがある人の方がマイノリティ。

文字を追うのが苦手ならタイムラインを眺めるだけでも苦痛でしょうから。

 

多数派としてそこにいると、どうしてもそうでない人たちがいることを見逃しがちになるんじゃないかなぁと思うのです。

 

でも、いろんな感じ方をして、いろんな記憶の仕方をして、いろんな趣味趣向を持つ人がいる。

どんな働きかけをしたとしても、結局はその生まれ持った特性やその人そのもののあり方には親であっても教員であっても変えることはできないんだろうなと思います。

 

それを踏まえた上で、じゃあどう接していこうか、ってことを考える必要があるんだろうなというところで、迷走を繰り返して4000字を超えてしまった今日のエントリを閉めようと思います。ではまた〜。

休校が続く中、お子さんの学習で焦りを感じているお母さん、お父さんへ。

相変わらず「書く気持ち」が高まれば書けるしそうじゃなければ書けない、そんな自分を目の当たりにしておりますスズコです。

 

さて、今日は休校延長が決まった学校も多い中で「自宅での学習への取り組み」のお話を。

 

「学び」と向き合う保護者の方へ、という村中先生の記事

Twitterでフォローさせていただいている村中先生がこんな記事を書かれていました。

inthevillege.com

まず一番最初にお伝えしたいことは、教える人つまり「教師役」や「先生役」を引き受ける必要はないということです。必要はないというよりも私個人の感覚としては「してはいけない」というほうが近いです。

教えるという行為がうまくいくためには、教える側のスキルと教わる側のスタンスの両方が揃っている必要があります。その両面から考えて保護者の方がその役割を担うことは不可能ではないですが非常に困難です。

(中略)

簡単にいうとケンカになっちゃうんですよね。

(中略)
つまり保護者の方とお子さんの関係性が悪化する要因にしかなならない場合が多い。

(中略)

だから「学校に行けないのだから私が教えなくちゃ!」と感じておられる場合、まずはそれはしないほうがいいというふうに考えてもらえると幸いです。

 

このあとにも参考になる自宅での学習への取り組み方や保護者が心がけることがたくさん書かれているので、ぜひご一読をお勧めします。

 

さて、私が書きたいのはそれとはまたちょっと違うお話です。

 

お母さんお父さん、焦っていませんか。

休校措置が始まってから1ヶ月と少し、春休みの期間が終わりを迎え、さらなる休校が続くことが決まった地域も多いと思います。

私の住んでいる地域は感染者が少ないということで登校が再開される見通しになっているのですが、状況によりいつどう変わるかわからない状況ではあります。

 

さて、私が今回書こうと思ったのは、親御さん焦りを感じていませんか?ということ。

 

まず、宿題。

たくさん出ましたよね。

うちの子たちもブスブス言いながら大量の課題に埋もれて過ごしていました。

 

第一段階として「宿題がスムーズに進まない」という問題を抱えていらっしゃるご家庭もあろうかと思います。

 

そして、ネット上にたくさん投稿されている「有意義なお休みの過ごし方」。

 

ドリルを何冊も頑張ってるお子さん、新しいことに取り組んで生き生きと過ごしている様子。

Twitterにも流れてくるし、インスタやFacebookになるともっとキラキラしたのが溢れてる。

 

あぁ、うちの子はこんなに何も進んでないのに、何もできてないのに、って焦ってしまっていませんか。

 

このブログでも何度も書いたことがあるエピソードなのですが、実は私は宿題に関して「お母さんの介入禁止」というドクターストップを医者から出された経験があります。

そんな私からの「焦らなくても大丈夫だよ」と言うお話をしたいと思います。

 

ドクターストップをくらったわたしの話

発達障害で児童精神科に通う次男の主治医からドクターストップが出たのは、次男が5年生のときだったと思います。

次男は3年生くらいから宿題が壊滅的にできなくなり、なんとかやらせようとする私と嫌がってパニクる次男との攻防が続いていました。

3年生から通い始めた通級指導教室の先生の手厚いサポートもあってなんとか宿題を少しずつできるようにはなったんですが、それでもとても全部は無理。

3〜4年の先生は出来る範囲でいいと見守ってくれていたのですが、5年から担任になった先生は「自宅学習の習慣がつかないと困るのは次男くんですから!」というスタンスで毎日自宅でやるよう促されるように。

 

主治医に相談したら「宿題は次男くんと担任の契約だから介入したらダメ」と言われ、通級の担任からは「宿題をやれないならやれないなりに担任と交渉をするスキルも身につけないといけないから、それも練習させて」と言われ、在籍級担任からは「とにかく自宅でやる習慣をつけさせて」と言われる。

 

板挟みで私の方が潰れてしまう…というところで主治医から「お母さんは介入禁止、自宅で無理に宿題をさせて二次障害が出たら取り返しがつかない」という判断でドクターストップがかかりました。

 

二次的な障害について説明を捕捉しておきます。

内在化障害
不安や気分の落ち込み、引きこもりなど自分に向けた情緒的問題として表れるのが内在化障害です。具体的には以下のような症状や行動の問題を指します。
 
 
特に抑うつ症状は、発達障害がある成人にもっとも多い二次障害といわれています。
 
外在化障害
精神的な葛藤などが他者に向けた行為として表現されるものです。反抗や暴力、家出、ときには非行などの反社会的な行動として現れることもあります。

発達障害の「二次障害」とは?発達障害のある人がうつや引きこもりになりやすい理由は?二次障害への対処法・予防法、支援機関なども紹介します | LITALICO仕事ナビ

 

これら二次的な障害にいたってしまうとそこからの回復はかなり厳しいものになると言われています。そこに至らないように、心が折れないように、ストレスをかけすぎないように、本人の状態を守っていくことが何より大事だと主治医からも言われています。

 

そこからは中学に入って今に至るまで「先生方には申し訳ないですがドクターストップがかかっていて私は介入できません」と細かく経緯を説明をした上で宿題への配慮をお願いしている状態です。

 

次男の今と、これから

そんな次男、中3になろうとする今に至るまで宿題は本当に家で全然してません。

私以外の外部のサポートを、と探し回って学習支援をしてくれる先生にやっと出会えたので、いまはその先生に個別指導をお願いしています。悪くいえば丸投げをしている状態です。足を向けては寝られません。

先生のおかげもあり、また学校の先生がたのご協力もあり、次男は二次的な障害を拗らせることなくなんとか過ごせています。

もちろん学力はそこまで高い状態ではないのでその心配はありますが「今の状態なら大丈夫」という主治医の言葉を信じて、自宅では穏やかに過ごすことを最優先にしています。

 

「二次的な障害に繋がらなければ大丈夫」

次男と私の極端な例を挙げましたが、主治医から一貫して言われているのは「二次的な障害に繋がらなければ大丈夫だから」という言葉です。

これは、発達障害を持つ子を育てる先輩お母さん達からも何度も言われたことがある言葉でもあります。

 

それは逆に、そこに至りさえしなければどうにでもなるから大丈夫、というメッセージでもあると思うのです。

 

周りと同じペースであることは必ずしも大事なことではないんですね。

宿題の量が同じにできなくても、同じペースで進められなくても、本人なりの頑張りで少しずつでも進んでいっているはずなんです。どんなにできないように見える子でも、その子なりのペースで少しずつ前には必ず進んでいるんですね。

 

うちの長男は小4の1年間、荒れに荒れて学校にあまり通えず、その間の履修すべきところが抜けている部分がかなりあるんですが、それでも彼なりに努力した結果、この春、晴れて希望した高校に進むことができました。

 

次男も小3小4の2年間にかなりの抜けがある中で、学年で中程度の成績を維持している状態です。

少しくらいの抜けがあってもメンタルが折れなければどうにでもなるんだ、とやっと私も思えるようになってきました。

 

エンパワーメント、という視点

なんでうちはうまくいかないんだろう、なんでうちの子はできないんだろう

そう思って苦しいことがありませんか?

私はこれまで何度もありました、いまも時々それに襲われます。

 

そのときに意識するように気をつけていることがあります。

「エンパワーメント」という視点です。

アレントメンターの講習を受講したときに出会った概念です。

 

能力や権限は訓練や指導によって後から付加されるものではなく本人が本来もっているもので、それが社会的制約によって発揮されていなかった。本人が力を発揮できるようにするためには、あらゆる社会資源を再検討し、条件整備を行なっていく必要があるという見方である。これは、自立生活運動、セルフヘルプ・グループの活動、ストレングスモデル(本人の資源として健康や強さの側面を見るという考え方)等にもつながっている。

エンパワメント/エンパワーメント

 

講師の先生が繰り返し「本人の中に力があるのだ」と仰っていました。

 

無いものを生み出してやるのではなくて、本人の中にそもそも力があると信じること。

そして、その力を本人が出そうという気持ちになるまで見守り寄り添い、そして力を出し始めたことを我がことのように喜び、一緒に歩くこと。

 

講習の中で私はエンパワメントとはそういうものだと学びました。

 

私が受けた講習は主に障害児を持つ保護者の支援のためのものでしたが、この概念は子育てにもとても役立つものだと感じています。

 

つい、子供の事を「できないことがたくさんある無力な存在である」と思い、そして「大人が教えさとし、導かねばならない」と思ってしまいがちだなぁと思うのですね。

 

子どもとの間で衝突があるのはたいてい、大人の側にその意識が見え隠れしている時じゃないかなぁと思うのです。

 

でも、子どもたちの中にはそもそも、力があるんだろうと思うのです。

彼らなりのペースでその力はじわじわと育っていて、そして、いつか殻を破ってそれが出てくる。

 

みんなと同じペースで宿題が進んでいなかったら、ほかの兄弟がどんどん宿題を終わらせているのに1人だけできない子がいたら、宿題をせずに遊んでばかりのように見えたら、焦ると思います。

 

独自の学びを進めている子の話を見たら、実りあるお休みを過ごし充実しているように見えるエピソードを見たら、もっと焦ると思います。

 

でも、目の前のお子さんにはきっと、その子なりのペースがあります。

私もいつも焦ります。次男にもっといろんな事をさせないといけないような気持ちになることもあるし、このままじゃいけないような気がして揺れることもあります。

 

そんなときに、友人に話を聞いてもらうこともあるし、ときに厳しく叱咤されることもあります。

 

あぁ、私が信じてやらなくてどうするんだ、とその度に思うのです。

 

私が信じて、そして見守る、それしかできることはないんだなぁと思うのです。

 

おわりに

長くなりましたが、一番伝えたかったこと、それは

今はとにかく心の安定が最優先だと思ってていいと思うよ

ということです。

 

終わりが見えない休校は、大人もしんどいけど子どもたちだってとても辛い。

ダラダラしているように見えて、ゲームしかしてないように見えて、でもその子なりにストレスを感じていると思います。

いろんな不安が彼らにもきっとある。

 

親として焦るだろうし、もっともっとと思うかもしれない。

 

でも、圧をかけすぎて親子関係が悪くなってしまったらなかなか取り返すのは大変です。

そして、心が折れてしまったらリカバリーするのはもっと大変。

子供が家で勉強が進まないのはあなたのせいじゃないよ、なんか色々あるんだけど、でもどうしようもないことだから。

 

 

焦る気持ちは私も同じ。

溢れて辛くなったらTwitterでいつでも話しかけてね、一緒に話そう。

うちの子むけコロナウイルス予防対策ポスターを作りました。

 

ブログを書こうと思ってサイトを開いたら、前回の記事からもう2ヶ月以上経ってしまっていました。

 

さて、今回久しぶりに書こうと思ったのは昨日突然思い立って作ったポスターのことです。

 

まだ不確定ではありますが、うちの子たちの学校は今月のうちには再開される見通しになっています。

学校から詳しいお話はまだ降りてきていませんが、ここまでの1ヶ月以上外出を自粛して自宅で過ごしてきた子どもたちを親の目の届かないところに毎日出すことになるかもしれない。

そう思った時「改めてどんなことができるだろう」と考え、感染予防対策を視覚的に意識できるようなツールが作りたいな、と思いました。

 

視覚優位の発達障害児を含む我が家の4人の子どもたちに向けて

・あまり詰め込みすぎず

・パッと見て理解しやすく

・押し付けがましくない

そんなポスターが作りたいな、と思って作ったものをTwitterに上げてみたらみなさんが改善のための案をいくつか出してくれて、またイラストレーターとしても活躍されているお友達のまうどん(@maudon)さんが私の無茶ぶりに応えて快くイラストを入れてくれて、今朝、完成版が出来上がりました。

 

あんまり素敵なものができたので、自分たちだけで使うのはもったいない!と思いTwitterにアップしています。

 

ここにも貼っとこう。

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Twitterでも触れていますが、今回はあえてクレジットなど入れずに作っています。

お子さんに対する啓蒙のために使って頂けるのであれば、個人使用の範疇で自由に利用していただいて構いません。

お子さんに合わない部分はご自宅で書き換えたりしていただくのも構いません。

早速Twitterで悪意を感じる改変をされているケースを見かけたので声をかけさせていただきましたが、啓蒙の目的以外で使ったり、お子さんに合わせる以外の目的での改変やその流布などはやめてください。

あくまでもみなさんの善意ある使用を前提として、子供達のために役立てていただければ、と言う気持ちで公開しているものです。

 

ここからは、さらにこのポスターに込めた思いや取り上げた項目について書いてみようと思います。

 

こんな風に使って欲しい、と言う2つのお願いがあります

1つめ…口うるさく言わないでね、という願い

このポスターは、壁に貼って「これを守れ」とだけ要求するために作ったわけではありません。

そのように利用するな、と私が強制することはできませんが、もし使っていただけるならそんな風にならないといいなぁ、という願いを持っています。

 

まず、大前提としてこれらの項目を「絶対守れ」と押し付けて欲しくないのです。

ただでさえ社会的に混乱している中で、大人と同じか、それ以上に子どもたちもストレスを感じて暮らしていると思います。

そんな中で、大人でも全部守るのが難しいこれらの項目を「絶対守れ」と押し付けられるのはどれだけ辛かろうかと思うのです。

 

私がこのポスターを作った一番の目的は、大人がチクチクと言葉で注意するのを極力減らし、子ども自身がちらっと見たときに視覚的に意識する役に立てるためです。

 

大人の注意はもちろん必要なことだけれど、頭でわかっていることを何度も繰り返し言われることは子どもたちにとってもストレスになるし、自尊感情を削ることにもなりかねません。

 

大人が注意する回数をなるべく減らすため、頭ではわかってるだろう子どもたちがちらっと見た時に意識しやすいように、と思って視覚的に見やすいポスターにしています。

 

子どもが複数いるところで使用する場合、これを理由に子ども同士で注意し合う環境にするのも避けてほしいなぁと思っています。

そんなために作ったわけではないのです。

 

言葉で指導してすぐ理解して行動に移せる子ばかりではありません。

このポスターはむしろそんな子たちのためにあります。

行動に移せないこともあるけど、これをちらっと見た時に「あっ!」って思う機会が1日1回でもあったら、それでこのポスターの意義は十分にあったと思っていいと思うのです。

 

逆にこのポスターが、そんな子たちを苦しめたり縛ったりするものになることはとても悲しいことです。どうか、そんな使い方はなさらないよう、お願いします。

 

あと、学童や塾などの大勢の子が集まるところや兄弟間などで「注意し合う」ために使うのもできれば控えてもらえたら幸いです。

みんなでなるべく守れたらとっても素敵なことだけれどみんながみんな守れるわけじゃないからこのポスターの意味があるわけで、できる子には本当は必要のないものです。

無理なくできる(ように見える)子たちはそれだけでとても偉いしすごく頑張っているので、どうぞそこを褒めてあげてください。

そして、ちょっと苦手な子たちのためのポスターなのでそっと見守ってあげてほしいと伝えてあげてください。

 

 

2つめ…まず話し合ってみてね、という願い

発達障害の特性があるうちの子の中には、納得のいかないことに取り組むハードルがとても高い子もいます。

なぜそうする必要があるのか、なぜこれをしろと言われるのか、仕組みや理由を説明されることなくただやれと押し付けられることに強く反発する傾向があります。

そのため、家でも何かを求める時には細かく背景を説明して本人の納得のいくまで話をする時間をとったり、思春期に入ってからはLINEなどを使ってことの経緯を送って本人の気持ちを整理するための時間をとってもらったりするようにしています。

 

このような、子どもに対する説明について必要のないお子さんもいるのかもしれません。(少なくともうちの子は4人ともそれなりに必要なのでなるべく気をつけています)

でも、ただ押し付けられるより内容を理解している方が苦手なことに取り組むモチベーションも少しは上がるんじゃないかな、心理的なハードルは下がるんじゃないかな、と思っています。

 

このポスターも、なんだかわからないけどやれと言われる、守れと言われる、というよりは、ひとつずつの項目について「どうしてこうした方がいいのか」を大人が説明してあげられたらな、話す時間が持てたらより良い使い方をしてもらえるんじゃないかな、と思っています。

 

そして、理解が伴っているからこそ1つめに挙げた、チクチクと言わなくても本人が意識しやすいようなサポート(今回はポスター)を使うことでより効果が上がりやすく、また子どもたちにとっても「守れた!」「できた!」という経験を積みやすくなるんじゃないかな、と思っています。

 

お忙しい中だろうとは思いますが、もしお家や学童、塾などでこのポスターを利用されることがあったら、お子さんたちとひとつずつの項目についてお話をしてみてください。

どれも守った方がいい理由がある、自分たちの安全のために必要なことばかりを挙げています。

 

ひとつずつの項目について【小さい子バージョン】

お子さんとお話をするときの参考にしていただくために、それぞれの項目を選んだ理由を詳しく書いておきますね。

①顔をさわらない

これは、自分の顔に付着したウイルスを手につけないためにとても大事なことです。

小学生は特に、鼻をほじる行為への注意が必要だと思います。

鼻の中には息を吸い込んだ時に空気と一緒にウイルスが入ってきて、鼻毛にたウイルスがついている可能性があります。

それを指につけてしまうことで、食べ物を食べた時に口から自分の体に入ったり、どこかを触ることでウイルスをあちこちにつけてしまうかもしれません。

 

マスクをつけているときはマスクの表面を触らないことも大切です。

 

②咳やくしゃみに気をつける

咳やくしゃみのときに口から出てくる唾液の中にウイルスが含まれている可能性があります。

マスクをしていてもこれは完全には防げません。布マスクだとかなり飛び散ってしまう可能性があるので腕などで飛び散らないようガードする必要があります。

このとき、手のひらを使ってしまったら手のひらにそのウイルスがついてしまうのでなるべく手のひらは使わないようにし、もし手のひらを使ったらすぐ洗うようにしましょう。

 

③ドアノブはなるべくさわらない

ドアノブの形状は様々だと思うのでお子さんの想定できる形を画像などで見せながら話すのも良いと思います。

たくさんの人が特に触る部分なので、手についているウイルスが付着しやすい部分です。

おそらく学校ではここを数時間おきに消毒するなどの配慮はなされているだろうとは思いますが、ドアの持ち手をなるべく素手で触らないよう気をつけるだけでもウイルスを手につける可能性はかなり下がるのではないかと思い、項目の中に入れました。

 

腕で押したり、ハンカチをガードに使ったり、工夫の仕方はお子さんや学校の状況により様々だと思うので、お子さんに合ったガードの仕方を一緒に話してみると良いかもしれませんね。

 

④人の体や持ち物をさわらない

自分の体についているかもしれないウイルスを人につけないように、また人の体についているかもしれないウイルスを自分がもらわないように、という注意です。

肩を抱いたり、ハイタッチをしたり、手を繋いだり。

子ども同士でついやってしまう習慣の中にもウイルスを広げてしまう行為があるということを知っておく必要があると思います。

 

⑤マスクを正しくつける

息苦しくてついアゴまで下げてしまう子も多いんじゃないかと思います(うちの子もよくやります)

良い方法と良くない方法をそれぞれ図にしてわかるようにすることで、視覚的に意識しやすいように作っています。

書いてはいませんが、マスクをさわったときにも手を洗った方が良いとは思うので、なるべく触る回数を減らすためにも一度つけたらマスクを触らない方がいいかもしれない、というのも話してみるといいかもしれません。

 

⑥大声を出さない

これはうちの三男用に絶対必要な注意事項だったんですが、大きい声を出すと唾液が一緒に飛び散ってしまうので、自分の中にあるかもしれないウイルスを飛び散らかすことになってしまいます。とても危険です。

 

⑦荷物を床におかない

大人はあまりやらないかもしれませんが、子どもたちの中にはとても雑に荷物を扱う子もいると思います(ええうちにもいますとも)

共有物にはウイルスが付着しやすいですが、その中でも床は最終的にウイルスが行き着く先とも言われています。

飛び散った唾液が床に付着すること、床全体の消毒はなかなか難しいためウイルスが長時間残りやすいこと、歩き回る足の裏について広範囲からウイルスが集まる可能性も高いと思います。

上履きは学校で脱いで買えると思いますが、は底にウイルスをくっつけたまま家の中に持ち帰ってしまう可能性もあります。

自宅では逆に、持ち帰った荷物を玄関から奥に入れないとか、消毒するなどの対策も効果があるかもしれませんね。

 

⑧帰ったらすぐ手洗い

これは基本中の基本ですよね。

20秒の数え方についてはどんな歌を歌うといいとかネット上にいろんなアイデアがあるので参考にしてもいいと思います。お子さんに考えてもらうのも楽しいかもしれません。

「うがいも入れたほうが」という声もいただきました。うちでも帰宅後は手洗いうがい、と声はかけています。

悩みましたが、うがいは吐き出した水で感染をかえって広げるのでは、という説もいただいたので今回は入れていません。各ご家庭の判断でお子さんと話し合うと良いかなと思います。

 

ひとつずつの項目について【お兄さんお姉さんバージョン】

ここからはちょっと大きいお兄さんお姉さんたち向け。

我が家だと中高生の上3人に向けた注意喚起です。

 

スマホをこまめにふく

手で持ち歩き、指を接触させる機会の多いスマホはばい菌がたくさん付着していると言われています。

トイレにも持ち込んだりすることも多いですし、トイレから出たら手は洗うけどスマホは洗いませんよね…

そんなスマホについているかもしれないウイルスをこまめに除去しておきましょう、という注意です。

 

②飲食物をシェアしない

大人からしたら「そのくらいわかるだろう!」なことかもしれません。

外出自粛が長く続いている彼らならそのくらい、と思うかもしれませんが、やはりここも念を押しておきたかったところです。

友達と会う時間ができれば、その間に何かを飲み食いする可能性も当然想定されます。(なるべくするなと言って素直に聞く年齢ではないですから)

口をつける食べ物をシェアしないのは当然ですが、袋菓子に一緒に手を伸ばすのもウイルスが付着する可能性もあり、ハイリスクだと思います。

 

③帰宅後はなるべく早くおふろに入る

これも親が入浴時間を管理できる小さい子には言わなくていいことかもしれませんが、彼らには必要な情報だと思い、入れました。

我が家ではなるべく、外から帰ってきたらその足でお風呂場に直行してもらって衣類は洗濯機へ入れ、入浴してもらうようお願いする予定です。

 

④よく食べて、夜更かししない

「早く寝なさい!」と言っても聞きやしない年齢の子たちにとって、早寝早起きや栄養ある食事云々は鬱陶しい話かもしれません。

でも、ウイルスの蔓延する環境の中で自分がウイルスに負けない体を保つことの大切さを考えてほしい、という願いを込めて入れています。

 

 

おわりに

ポスター作成に込めたいろいろな思いや願いを詰め込んだらとても長くなってしまいました。

少しでもみなさんのお役に立てたら幸いです。

 

そしてうちの息子たちのように、縛られることやめんどくさいことがが大嫌いで、楽しいことが大好きで、ふざけたりおちゃらけたりすることで不安を紛らわせながら一生懸命生きてる、そんなたくさんの子どもたちのために少しでもお役に立てたら、こんなに嬉しいことはありません。

 

世界中を混乱に陥れたウイルスが一日も早く収束しますように。

子どもたちの暮らしが一日も早く元に戻りますように。

たくさんの子どもたちの笑顔が、今日も続きますように。

そして、そんな子たちを支えるたくさんの同志のみなさんのお役に、少しでも立てますように。

見通しが立たない辛さから見える、次男のこと。

珍しく2日続けてのエントリです。

今日は、お風呂のお湯をバケツでくんでいるときに気付いたことと、今読んでいる本のこと。

 

残り湯を洗濯に使うようになりまして。

少し前にTwitterで呟いたのですが、どんどん増えていく食費と学費の捻出のため、微々たる努力ではあるけれどやらぬよりましだと水道代を節約しようと思い立ち、お風呂の残り湯を洗濯に使い始めました。

その方がいいのはわかってたけどずっと余裕なくて先延ばしにしてたのを、えいっと思い切って始めたのですね。

 

最初に使ったのは家にあったバケツ。

数日後にダイソーで使いやすそうなバケツを見つけたことで作業負担は飛躍的に軽くなりました。

 

我が家の洗濯は今は、夜家族がみんなお風呂に入った後と、朝起きてからの2回です。

お風呂の隣の脱衣場に置いた洗濯機に、ザバーンザバーンと何度もバケツの水を入れる作業をしています。

 

水を汲みながらふと気づいたこと

その日も朝まだ眠さを引きずりながらお風呂に残った冷たい水を何度か汲んだときでした。

バケツが便利になったとはいえ、スイッチを押せば水道水がバーーっと蛇口から出てきてくれるのに節約のためにと朝から重労働。

眠さもあってめっちゃめんどくさいんですね。

ザバンザバンと何度も水を汲みながらふと「これいつ終わるんだろう」と思ったんですね。

 

今何杯目かも覚えてません、数えたことなかったんですね。

適当に水を汲んで、洗濯機の中がいっぱいになったらおわり。

そんな風にやってたから、今私が汲んだ水が何杯目で、いつ終わるのかなんてわからずやってた。

 

ヘレン・ケラーのWATER!ばりにそこで気づいたんですね。

 

「あ、これ、見通し立たないからしんどいんだ。」

 

というわけで、次にバケツで水を汲むとき、1杯、2杯…と数えてみました。

我が家の洗濯機に洗濯物を入れて上から水を入れたとき、満タンになるまで6杯でした。

 

今何杯目か、を意識する。

その次の回です。

汲み始めから「今1杯目」「今2杯目」と意識してみます。

するとどうでしょう、意識せずにダラダラ汲んでいたときよりはるかに気が楽です。

3杯目なら「あとこれを3杯」と思える。

5杯目なら「あと1杯で終わり」と思える。

 

めんどくささとしんどさが一気に軽くなりました。

と同時に、色んな過去の記憶が思い出されてきました。

 

思い出すあれこれ。

まず思い出したのは、嫌で嫌で仕方がなかったマラソンのこと。

小・中学生の頃、体育や学校行事でやらされるのが大嫌いだった私は、いつの頃からか「〜時には走り終えている」と考えることを始めていました。

 

1回走るのに何分かかるか大体わかったら、あとはスタートからゴールまで、歩きさえしなければその時間を過ぎれば終わる。

 

校舎の時計を見ながら「〜時〜分には終わる」と思いながら走ったのを覚えています。

 

逆に、部活で顧問から「いいと言うまで走れ」と言われた時のあの苦しさ。

いつ終わるかわからないことを強いられるのは本当に苦しかった。

 

それを思い出した時、あ、次男のしんどさはこれかもしれない、と思ったのですね。

 

見通しを立てるのが苦手な次男のしんどさ

発達障害のある次男は、見通しを立てるのが苦手だなぁと見ていて感じます。

今日は夕方5時から〜があるから何時に家を出ないといけない、だから…という計画を立てて行動するかとか、自分が発した言葉をそこにいる人がどう受け取ってそれがどんな風に巡って自分に返ってくるかを考えるとか、そういう、少し先を見通して自分の行動を考えたり決めたりすることが苦手で、それゆえのトラブルがしょっちゅう起こります。

 

そういう、トラブルとして表面化することについては「あぁ見通しを立てるのが苦手なんだなぁ」と思って対処していたのですが、今日書いてきたような見通しが立たないゆえのしんどさについて考えている中で、もしかしたら日常的な不機嫌やパニックもここに由来するものが多くあるんじゃないか、と思うに至ったのです。

 

例えば、宿題の取り掛かりを極端に嫌がってパニックを起こしてきたのですが、それも「いつどんな風に取り組んだら宿題が終わる」という目処が本人の中で立たないから起こっていたんだろうなと。

 

1日ここまでというスケジュールを立ててあげるとできるようになったものもありましたが、それも目処が立てば安心できるから取り組めていたのかもしれません。

 

体調がちょっと悪いときに「すごくしんどい!!」と大パニックを起こしていたから病院に連れて行ったら大したことないと言われて帰る、というのを何度も繰り返したことがあるのですが、それもこの見通しのことと関係があるのかもしれません。

 

違和感や不調を感じたとき、大抵の人は自分に起こった過去の痛みや不調を思い返したり、家族のそれを思い出したりして「この程度だからこうすればいつには回復の見込みあり」と判断し、その後の見通しを立てて冷静に病院に行ったり薬を飲んだり休んだりすることができるのでパニックには陥りづらい。

 

でも、次男のように見通しを立てるのが難しい子にとって自分の不調が「この先自分の体がどうなってしまうのかわからない」という不安に繋がってしまうのかもしれません。

 

実はこれと全く同じことが、今読んでいる本に書かれていました。

自閉症 もうひとつの見方 「自分自身」になるために

自閉症 もうひとつの見方 「自分自身」になるために

 

 

まだ途中までですが、自分がぼんやり考えていたことがきちんとした言葉になって組み上げられていっているような、そんな本です。

 

この本の中では、周囲が「問題行動」と見なして消去する方向へ促そうとしてしまいがちなものに対して「そこには必ずその人なりの行動原理がある」と見なし、観察を続けていく姿勢が見えます。

見通しを立てることが同年齢の他の子よりも苦手な次男は、きっと、彼なりのやり方で生きていて、そしてこれから先も彼なりの方法を駆使して生きていくことになるんだろうなと読み進めながら感じています。

 

見通しを立てることがそれなりにできる人にとっては、苦手な次男のような子を見ていて「こうすればいいのに」とつい思ってしまうのかもしれません。

私も次男に、つい言葉で伝えてできるようになるよう促してしまうことも多々あります。

 

おわりに

でも、私がバケツの回数を数えただけでその次が楽になったのはもともと見通しを立てられる力を持っていたから。

それが難しい次男にとっては、知ったからといって簡単にできるようになるものではないのかもしれません。

 

そして、私と同じやり方で見通しを立てられない彼にとっては、日常のいろんなことがバケツの水を汲み続ける私の辛さと、顧問に言われて走らされ続けていた時の私の苦しさと同じように、重く苦しくなってしまうのかもしれません。

 

彼のことを、もっと知りたい、そう思えるような経験と、本との出会いのお話でした。

【したたか】という言葉の用法についてのアンケートから考えたあれこれ。

今日はTwitterでとったとあるアンケートのこと。

 

発端はぽろっと出た私の発言

 

女子同士の交友関係に長く悩まされてきた長女ですが、最近は一緒に過ごすお友達が複数できて安定しているようではあります。

それでも女子グループ同士の小競り合いなど教室の中でのトラブルは日常茶飯事らしく、その日も交友関係の愚痴を聞いているところでした。

 

母親の私が言うのもなんですが、彼女は惚れ惚れするほど自己肯定感が高く、強い根っこを持っているように見えます。折れないしなやかなメンタルは時に羨ましく、時に持たざる者の気持ちがわからないのではないかと不安になるくらい。

 

クラスの女子同士の攻防をすり抜けながらしっかりと自分を守っているように見える娘に出た感想が「娘ちゃんはしたたかだからなぁ」でした。

 

娘を思い寄せられた声

ツイートから少しして、マシュマロに私宛の声をいただきました。

私は母親に「したたか」と言われたらとてもショックなので長女さんに寄り添ってその発言を否定してあげたいです。
なぜその発言をスズコさんがしようと思ったのか、それを言って長女さんが何を得られると思ったのかを知りたいです。
自分で何かを調べる能力ですか?

 

拝見して【したたか】を悪い意味で捉えていらっしゃるんだな、と感じました。

 

【したたか】という言葉の意味

意味を共有した上でお話を進める必要がありますので、まず辞書を引きましょう。

 

[形動][文][ナリ]
  1. 粘り強くて、他からの圧力になかなか屈しないさま。しぶといさま。「世の中を―に生きる」「―な相手」

  1. 強く、しっかりしているさま。「―な後見役」「―な造りの家」

  1. 強く勇猛であるさま。

    1. 「力が強く勇気があって―な豪傑である」〈魯庵社会百面相

  1. 程度がはなはだしいさま。

    1. 「いと―なるみづからの祝言どもかな」〈・初音〉

  1. 分量がたいへん多いさま。

    1. 「国の事など―に申し居たるさま見るに」〈夜の寝覚・一〉

      強か/健か(したたか)の意味 - goo国語辞書

 

辞書の内容を平たく読む限り、けして悪い意味の言葉ではありません。

本来は「何にも屈しない強さ」「とても量が多い様子」を示す言葉だったのではと言われています。

上記では源氏物語などの古典が挙げられていますが、その強さや量の多さも良い意味で用いられているのがわかります。

 

ですが、本来の用法から変化してあまり良くない意味で使われ始めていることは私も知らぬわけではありません。

 

「言いなりにならず強情で扱いづらい」「ずる賢い」「計算高いという、本来の意味から派生したマイナスのイメージで使われることも増えているように思います。

 

こと女性に対して使われるときにその傾向が強いような気がします。

(ここら辺は言語学の文献をさらっていないのであまり掘り下げることは避けますが)

 

本来の用法通りの「粘り強く相手に屈しない強さ」と言うのは、同じ立場の人からしたら妬ましいものかもしれないし、目上の者からしたら扱いづらさに繋がりやすい。

社会の変容とともに、扱いづらい人間を表す言葉として使われ始めているのかもしれません。

 

どちらの意味で使ってる?

「したたか」という言葉について、良い意味で使うか否か、ちょっと傾向を調べてみたくなったのでTwitterでアンケートをとりました。

 

 

こんな結果が出ました。

個別にこんなレスをいただきました。

  • 単語の意味としてはマイナスのイメージだけど結構ポジティブに使っている
  • プラスの意味があることは知っているけどマイナスイメージで使うことが多い
  • プラスのイメージで使うことが多いが実際には状況や分脈による
  • 誤解されるリスクのある言葉のような気がする
  • マイナスイメージがあると知ってびっくり、褒め言葉だと思っていた。
  • 生き賢いという、良いイメージ
  • 峰不二子みたいなイメージ
  • 一筋縄ではいかない感じ
  • 抜け目のない放っておいても安心だ、という感じ
  • 語彙としてマイナスの意味で理解しているが「いい意味でしたたかだね」と使うことが多い。自分を守るための生き強さというイメージ
  • GLAYのa Boyで知ったので「生きる力が強い」みたいないいイメージ

 

アンケート結果からは約6割の方がマイナスイメージで使うことが多いようです。

しかし良いイメージを持つ方も少数派と言えるようなボリュームではありません。

 

掘り下げて考えてみる。

さて、ここから我々が汲みとるべきことは一体なんだろう、と考えてみたいと思います。

 

Twitterの私のフォロワーさんが主になっているたった5時間のアンケートですから、正確な統計とはとても言えません。

あくまでもひとつの傾向という捉え方として、細かな数字についてはざっくりとしか取り上げないことにします。

 

アンケートの結果6:3で、悪いイメージの方の方が多くいらっしゃいました。

 

ここで「悪いイメージの方が多いから、そちらが正解」と決められるでしょうか。

私はそれは危険だと思うのです。

なぜなら少なからず「良いイメージ」と感じている人がいるから。

 

では逆に「本来は良いイメージだから、悪いイメージは誤用である」と決められるでしょうか。

 私はそれも、とても危険だと思うのです。

なぜなら半数以上の方が「悪いイメージ」と感じているから。

 

では、我々が汲むべきはなんでしょう。

 それは

「解釈の分かれる言葉である」と理解しておくこと

ではないでしょうか。

 

こうやって言葉にするとそんな当たり前のこと、に見えますよね。

私も書いていてちょっと馬鹿馬鹿しさを感じてしまうほど、当たり前のことです。

 

でも日常生活の中で果たしてそれをどこまで意識して暮らしているか、ちょっと振り返ってみてほしいのです。

 

「あなたはしたたかな人ね」

と言われたとき、反射的に「自分が日常的にイメージしている意味」で受け取りませんか?

 

もちろん、それまでのその人との関係やその人の性格、表情や声色、会話の内容など様々な要素が絡んでくると思うので単純化して話すのは少し難しいのですが。

 

良い意味があることをイメージしていた私は日常会話の中で娘の長所について言及する言葉として使いました。

しかし、その会話を「私が娘を卑下している」と受け取る方もいらっしゃいました。

娘自身は今回は意味を知らなかったのですが、もし意味を知っていてマイナスイメージを持っていたら私の発言を不快に思ったかもしれません。

 

もしそこで意図が違うことが発覚したら、私は娘に

「そんなつもりで言ったのではなかった」

ということを釈明せねばならないでしょう。

 

「そんなつもりではなかった」

長くなってきましたのでそろそろまとめていきましょう。

今回、アンケート結果から書いてみたいなと思ったのはそこなのです。

 

ひとつの単語に対して、捉え方の違う人がこんなにいるということが可視化されました。

同じ日本語という言語を話しているはずでも、必ずしも一つずつの単語の意味が全て共有されているわけではないのです。

 

「したたか」という単語以外にもこのような複数のニュアンスを持ち誤解を招きやすい単語はきっとあるでしょう。

言葉以外にも態度や仕草など人によって捉え方が様々に違っているものも存在するんじゃないかと思います。

 

 

「そんなつもりじゃなかった」

これは、発達障害のある次男が頻繁に発する言葉です。

本人がとった言動が、意図しない形で相手を不快にし、その怒りや不満をぶつけられたときによく言っています。

 

誰かを怒らせようと思って言ったりやったりしたわけではない行動が、マジョリティにとってはその意図がある行動であるがために誤解された、ということが起こってしまうわけです。

 

ここで次男と私達家族が把握しておくべきなのは「次男がマジョリティに合わせられるようになるべき」または逆に「次男のそれは仕方がないから諦めるべき」ではないと思うのです。

 

お互いに意識しておかねばならないのは

「自分とは捉え方が違う人間が共存しているのだ」

ということなんじゃないかと思うのです。

 

どちらが正しくどちらが間違っている、どちらが多数派でどちらが従うべき、ではなく、そもそもの捉え方は人それぞれ多様であって、決して一様ではないのだということ。

何らかの言動から自分がとっさに汲み取った相手の意図は必ずしも相手の本意とは限らないということ。

 

だから引っかかりがあったときにそれを確認したり、誤解させたときには謝罪や釈明をしたりする必要があるのだろうと思うのです。

 

私たちは残念ながら生まれた時から自分の脳みそしか持っていないので、どうしても基準は自分の脳みその中身になりがちです。それは仕方ない。

でも、周囲の人は自分の脳みその延長線上にいるのではなく、別の脳を持ち別の意思を持ち別の認知の仕方をしている他人であるということ。たったひとつの単語の意味すら共有しきれているわけではないということ。

 

それを知っているだけでも、意識しているだけでも、諍いを減らす一助になるのでは、と思ったりした次第です。

 

おわりに

娘はその後、自分で「したたか」の意味を実際にググって「うわ〜まんまやわ〜否定できんわ〜〜」と言っておりました。

娘が今後この言葉をどんな風に捉えて生きていくのかは私にはわかりません。

 

「強さ」とは場合によっては良い方向にも、立場や状況によっては悪い方向にもなり得ます。

娘にとっても、彼女の持つ強さは今は自分を守ってくれていますが、ときに無自覚に人を傷つけたり、妬まれたりする可能性もあるのではと親として心配になることもあります。

 

自分のように強さを備えている人ばかりではない、ということも、折に触れて言葉にはしていますがどこまで理解が進んでいるのかはわかりません。

いずれ、そこも意識できるような大人になってもらえたらなぁとこっそり願っているところです。

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